SCP-816-Ψ 斉木楠雄   作:きのこの

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前回の謎のSCPのことはさておき、ドドドドシリアス、vs財団編です。



補遺816-Ψ-06-1 財団はSCP-816-Ψを知らない

 

薄灰色の空。どこからともなく凍てつくような風が吹きすさぶが、どれだけ雲が流れ続けようとも、その重たい雨雲は通り過ぎることはない。

鬱々しく寂寞とした空の模様を映したかのように、ビクトリア朝の街並みが広がるその国は、空虚な沈黙に包み込まれていた。

 

道の一面に広がる石畳は、どれもひび割れ、陥没し、まるで嵐が過ぎ去った後のような荒れ果て具合だ。

家屋の方は道よりはましらしい。ひび割れなどの大きな損傷はないが、街外の方に行くとところどころに欠損が見られる家屋が多く見られた。

 

家屋には水に濡れているテラスの洗濯物や、郵便受けに無理やり差し込まれている今朝の朝刊など、先ほどまで人間が住んでいたかのような生活感が確かに残っているが、不思議なことに、人どころか動物の一匹も街の中には見受けられない。

ただ、人の名残の埃と、道端の砂だけが風に乗って街内を駆け巡り、退廃的な雰囲気を街全体にもたらしていた。

 

街の中央には、街の端からでも視認できるほど巨大な時計塔が立っており、そのすぐ隣にはまるで中世ヨーロッパの国王の宮殿のような相貌の国会議事堂が並んでいる。豪華絢爛、というわけではないが、一目見て『この国の中心』であることがはっきりと分かるくらいにはその建物は損傷や欠損もなく、長く厳かな歴史と、そこに息づいてきた伝統からくる、荘厳さが見られた。

 

だが…その厳粛さも、人一人いないこの街では全く意味をなさない。

見る者がいないこの街で、ただ巨大な時計塔だけがカチコチと時を刻み続けている。

 

その時、ギギギと少し錆びついた音とともに、国会議事堂の玄関扉と正門がひとりでに開いた。

開かれた扉の奥。暗闇が広がる空間の奥底から、タッ、タッと微かな音とともに、一つの人影が暗闇から出てくる。

 

薄いこげ茶のニット帽の下から僅かに覗くピンクの髪、赤と白のラグランのTシャツ、そしてこの国では…それどころか世界的に見ても非常に珍しい色合いのピンクの瞳。

その人影は、一般的に『幼児』と呼ばれる、小さな少年だった。

 

少年は、明らかに様子のおかしい街を気にすることもなく、扉から出てきたときと変わらない無表情で正門の前までやってくる。そして、すぐ横に置かれている子ども用の三輪車に乗り、そのまま門の外まで漕ぎ始めた。

 

ギコギコギコ

 

1漕ぎ、2漕ぎ、3漕ぎと回数を重ね、国会議事堂から十分に距離を取った。

 

次の瞬間。

 

ドン!!!!!

 

大きな爆発音とともに、国会議事堂が大量の火の子と粉塵をまき散らしながら爆発した。

衝撃と共に、国会議事堂の外壁が弾け飛び、中から爆煙と共に炎が渦を巻きながら辺りに火の粉を撒き散らした。

たった一度の爆発音だというのに、その威力の凄まじいことたるや、東京ドームおよそ104個分の大きさを誇る土地を、長い時を経て深みのある色合いとなった外壁も、金や宝石のちりばめられた美しい調度品も、そこに積み重ねた歴史ごと何かもを破壊し尽くしてしまった。

 

ギコギコギコ

 

例え目が見えなくとも、耳が聞こえない者でもはっきりと分かるほど大きな爆発が背後で起きたにも関わらず、少年は一切反応しない。振り返ることなく三輪車を漕いでいく。

 

なぜなら...彼は、この街が無人な理由も、この爆発の原因も知っているからだ。

いや、正確に表すならば......()()()が、この国を滅ぼした諸悪の根源なのだから。

 

ゴオオオオオオ

 

破壊し尽くされた瓦礫の山、その上で炎が風に煽られながら、激しく燃え盛っている。

 

『市民の皆さまにお知らせします。現在█████████宮殿で火災が発生しています。付近の市民はすぐに避難を開始してください。消防隊はすぐに消火活動を開始してください。』

 

火災を感知したのか、周辺に立てられていた拡声音声装置から火災時の自動音声が再生され始めた。もう逃がすべき住民も、救うべき人間もいないというのに。

 

空が赤々と輝く。

渦巻く炎は彼らの歴史も名前も存在すらも、灰すら残さずに燃やし尽くして、

 

 

こうして、███████国は、この世界からその痕跡の一切を消し去られた。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

補遺816-Ψ-06-1

1999年12月18日17時26分

 

 

「いらっしゃいませ~、クリスマスケーキのご予約受付中ですよ~。」

 

『洋菓子店ノエル』という看板が掲げられた北欧風の白く自然的な建築様式の店の前で、サンタ帽子を被った女性店員が、大通りを行きかう人々に向かって声を張り上げている。

 

クリスマス商戦の真っただ中。いくつものイルミネーションによって輝かしく彩られた商店街は、休日ということもあり、多くの人で賑わっていた。

クリスマスのプレゼントを買いに来た親、恋人に秘密のプレゼントを用意する青年、クリスマスパーティの為に飾りつけを買いに来た女子高校生、チキンを予約しに来た主婦。

 

斉木楠雄はクリスマスがあまり好きではない。去年、初めてクリスマスツリーを見に行くために、当日の夜中に家族とともに商店街を歩いた時から好きでなくなってしまった。

 

(リア充爆発しろ!あのカップルいますぐ破局しろ!!)

 

通りすがりのカップルの絶望を願うおじさん。

 

(こいつ金の貢ぎ薄くなってきたな、そろそろ別の男に乗り換えるか。)

 

恋人を金ヅルとしか見ていない、愛の欠片もない金に取り付かれた女。

 

(ヤりたいヤりたいヤりたいヤりたいヤりたいヤりたい。)

 

恋人をとっかえひっかえし、性欲の発散口としか見ていない男。

 

聞いているだけで人間不信になって塞ぎ込んでしまいそうになる、醜く、愚かで、他人を平気で蔑ろにする、そんな酷く不快な心の声が巨大な渦となって楠雄を取り巻く。

実際にはその心の声を発している本人たちには楠雄を襲っているという意識はないが、楠雄が超能力者で、既にテレパシー発動範囲が半径100mに達していた所為で、例え口には出さなくても楠雄にとっては害悪であった。

 

結局、去年は楠雄が余りの不快さに耐えかね、極限まで無反応かつ苛立ったような表情をしてしまったことで、それを心配した両親によってツリーを見る前に家族みんなで家に戻ることになった。

両親は楠雄の機嫌が突如悪くなったことに何も言わなかったが(空助は文句を垂れていたが)、楠雄達が寝静まった後に、静かなリビングで心配そうに話し合っていたことを楠雄は超能力を介して知っていた。

みんなでツリーを見れなかったことは確かに悲しかったが、それよりも、本当はツリーを見るのを心から楽しみにしていたにも関わらず、楠雄の体調を思って見るのを取りやめた両親の姿が、何よりも楠雄の心を悲しませた。

 

そして今年。一昨年のように家の中で盛大なクリスマスパーティを開くことになり、楠雄は自分を思う両親の気持ちを嬉しく思う一方、どこか暗く、悲しく、言葉に言い表せない感情によってずっと胸の奥をチクチクと刺されているような、そんな痛みを抱え続けていた。

 

「くーちゃん、今日はお手伝いに来てくれてありがとう。」

 

左手に1mほどのプラスチック製のクリスマスツリーを抱えた母さんが、楠雄の顔を覗き込むようにして心から嬉しそうに微笑みながら言った。

母さんの右手の先には楠雄の左手が優しく、しかしはぐれないようにしっかりと握られている。楠雄は母さんの方に顔を向け、僅かに顔を綻ばせてから、首を横に振った。

 

今日商店街にやってきたのは、クリスマスパーティの為の飾りつけを買いに来たからだった。

正直、楠雄はもうこの時期の商店街にはあまり近づきたいとは思っていないが、父さんが仕事で出かけている今、楠雄が手伝わなければ母さんは一人で重たいクリスマスツリーを抱えて帰ることになってしまう。楠雄さえいればどんなに重たい物でも羽よりも軽くすることなんて朝飯前だ。

…それに比べたら、周囲の人間の醜悪な心の声を聞くことなんて、全然大して問題じゃなかった。

それに、こうして母さんが嬉しそうにしてくれるのが嬉しい。

 

いくつも流れ込んでくる冷ややかな心の声の中、でも母さんと繋いだ手からは暖かなぬくもりが流れ込んでくるようで、楠雄は穏やかな気持ちで商店街の大通りをゆったりと歩いた。

 

 

 

今日買う物のうち、最後の買い物である洋菓子店の近くに寄ったとき、サンタ帽子を被った女性店員が「いらっしゃいませ!」と明るく言った後に、楠雄と目を合わせる為に屈みこんだ。

 

「あら、君、お母さんのお手伝いしてるの!いまおいくつなの?」

 

楠雄は空いていた右手を相応の形に指を曲げると、店員に見えるように前に突き出した。

 

「まあ!4()()なの!4歳さんなのにお母さんのお手伝いしていて偉いね~!!」

 

突き出された4本の指に店員は驚きの声をあげた後、心からの称賛の言葉を楠雄に贈った。家族以外から本心で褒められることは非情に珍しく、楠雄は思わず目を見開いた後、恥ずかしいような誇らしいような気持ちになって、もにゃりと口を動かした後、頬を僅かに染めた。

 

「くーちゃんはもう少しで年中さんになるんだもんね~。」

 

「わあ、そうだったんですね~、それじゃあ立派なお兄ちゃんだ!」

 

口元に手を当てながら、心底嬉しそうに笑い合う母さんと店員の様子を見て、楠雄は再びもにゃりと口を動かし、そしてツンと尖らせた。

 

_べつに、これくらいどうってことない。

 

「それでも、くーちゃんがこんなに優しい子に育ってくれて、ママ嬉しいわ。」

 

母さんはそう言って楠雄の頭を撫でようとして...両手が埋まっていて撫でられないことに気がつくと、その大きな右手の親指で、小さな楠雄の手の甲をソッと撫でた。

 

 

店内で小さなチョコレートケーキを4つ買い、満面の笑みで見送る女性店員に別れを告げた楠雄達は、街路樹の立ち並ぶ帰り道をたわいもない話をしながら歩いた。

先ほどまで母親と繋がれていた楠雄の手は、今は白いケーキボックスを両手で大事に抱えている。

 

今日は本当に、商店街に行ってよかった、と楠雄は浮き足立ちそうになる心中でそう思った。

相変わらず人が密集する場所で他人の思考を聞くのは嫌いだが、母さんは重たい思いをしなくてよくなったし、ケーキ屋で出会ったあの店員のように、お世辞ではない本心から、見るからに子どもの見た目をしている楠雄を褒められる、心の綺麗な人に会うこともできた。

 

楠雄が通う幼稚園の先生ですら「わ~すごーーい!」と笑顔で子どもを褒めながら(くっそ早く仕事終わんねぇかな。)とか(とりあえず褒めとくか。)とか思っているというのに。

職業に関わらず、そうやって子どもを心から認められる人物というのが非常に数少なく珍しいことを、楠雄は若干4歳でありながら理解していた。

 

「くーちゃん。お家に帰ったらお手々を洗って、それから晩御飯食べようね。」

 

_うん。

 

人差し指をピンと真っすぐに立て、笑顔で声をかけてきた母さんに、楠雄は首を縦に降りながら答えた。

 

そしてこけてしまわないように、前を向こうとした、

 

その時だった。

 

 

(対象は、おそらく人型実体。異常性は不明、痕跡もなし、目撃情報が一つあるのみ。詳細は不明だが、間違いなく強力で危険なオブジェクトだ。)

 

 

周囲100mの中でも飛びぬけて目立つ、そして異質な雰囲気を纏った心の声が楠雄のテレパシーに入り込んできた。

 

楠雄は思わずピタリとその場に立ち止まると、両目を閉じて、そのテレパシーに耳を傾けた。

 

(...今のところカント計数機は正常だ。聞き込みで得られた情報もほとんど無いに等しい。

周囲の人間に強い何かしらの強い影響を与えていないのか。

 

…いや、既に異常性の範囲内に入っている可能性もある。慎重に行かなければ...!)

 

一見すると厨二病か、あるいは妄想癖の持ち主かのように見えるが...これはテレパシーを介して聞こえる心の声である。

楠雄は、彼が本心からそれらの言葉を使い、そして真剣に何かを探していることに、先ほどまで平和に漬かりきっていた思考を一気に警戒で染めあげた。

 

普段ならこんな意味不明かつ、明らかに楠雄にその矛先を向けていないテレパシーなんて気にも留めなかっただろう。

たとえ楠雄の力を狙っていたとしても、楠雄と、楠雄の宝物に害を成すわけじゃないなら、楠雄はそれでも構わないとさえ思っていた。いや...そもそも、自分のことをどうにかしようとする悪意を持った人間が、本当にこの世の中にいること知らなかっただけかもしれない。

 

ついこの間までは。

 

その考えが甘かったことは、身をもって痛感させられた。

一か月前、███████国の諜報機関に超能力を狙われた時も、最初は今みたいにテレパシーからその異常を感じ取っていた。

楠雄とは関係ないだろうと放置して、結果、関係どころか自分が標的だったし、国を相手に大立ち回りする羽目になった。

 

その国は諜報機関と国の中枢との結びつきが強く、情報を抹消するには国ごと滅ぼす必要があった。

主要な情報源となる施設は全て叩き、国会議事堂は爆発させ、マインドコントロールで███████国のことを無かったことにした。

 

だが、その国の真実はなかったことになっても、楠雄の心にできた大きな穴は埋めることはできない。

あの日から、楠雄は自身の能力を狙い、自分の家族を傷つける可能性がある存在を許さないことを決めていた。

 

ここ1ヶ月、気を張りつめ周囲をそれとなく警戒していたが故に、楠雄はこの異質な心の声に対してもその目的を徹底的に暴くことに決めた。

 

_ばしょは…かきの木のところか。

 

この近辺は楠雄がいつも散歩したり遊んだりそれなりに歩き回っているので、排水溝の溝の裏側まで千里眼で視透すことができる。

今は母さんがいるから直接出向くことはしないが、どこのどいつかくらいは知っていた方がいいだろう。

 

楠雄は閉じていた目を開くと、そのまま寄り目にし、千里眼を発動させた。

現実から遠ざかるような感覚の後に、かきの木(山根さんの家)の様子が楠雄の視界に広がる。

 

柿の木の下では、警官らしき格好をした中年男性と山根さんが、和やかな雰囲気で話をしているところだった。

 

_けいさつ!?

 

「?警察??くーちゃんどうしたの?」

 

しまった、驚きのあまり無意識にテレパシーを発してしまったらしい。

数歩ほど前にいた母さんが首を傾げながらこちらを振り向こうと、右足を軸に体を回転しようとしている。

その体がこちらに振り返り切る前に、楠雄は急いで千里眼を解除すると、母さんとの間に空いた数歩分の距離を早足で詰めた。

 

両手をぎゅっと握りこみ、あまり動揺している表情を見られないように、楠雄は敷き詰められた石畳の溝を見ながら、今度は意識的に母さんにテレパシーを送った。

 

_いや…ちょっときこえただけ、なんでもない。

 

「…そう。」

 

母さんは一瞬(くーちゃん、また嫌な気持ちになってないといいけど…)と心配気な顔をした後、それでも僕が何か伝えようとしないことから、何も聞かずにいることにしたらしい。こくりと一つ頷き、前を向いた。

 

楠雄はホッと息を吐き出しながら、再びあの警官の目的を探るべくテレパシーに意識を集中させた。

 

母さんとやり取りしている間にも、警官と山根さんは話を終えたらしい。別れを告げるようなテレパシーと同時に、再び警官の異質な独白が聴こえてくる。

 

(やはり、手がかりはなしか...。1度財団に戻って、情報を精査した方がいいのかもしれない...。)

 

__『ざいだん』?

 

あまり聞き慣れない単語が聴こえてきて、楠雄は思わず、母さんに心配されない程度に僅かに目を細めた。

 

4歳の年のころの子どもといえば、世界が自分と母親と幼稚園で構成されていると信じ切っているような、井の中でもとびきり井の中にいるような存在だ。

ようやく遊びのルールを理解でき始めたばかりの幼子であり、そんな彼等が世の中の仕組みや難解な言葉の意味を真に理解するにはまだあまりにも幼すぎる。当然、『財団』などという言葉の意味を知っているわけがない。

 

しかし、楠雄は普通の4歳児ではない。超能力を持ち、常日頃から大人の脳内に広がる難解な言葉の海を四六時中頭の中で垂れ流されている子どもである。

流石に財団という言葉の正確な意味を答えることはできないが、それが一個人や特定の企業を指す言葉ではなく、『なんらかの目的を持った組織』であることは知っていた。

 

警官の口(頭)からそんな言葉が出てきたということは、彼の背後にはそのなんらかの目的を持った組織がいるということなのだろう。

 

そうだとしたら困る、と楠雄は眉を顰めながら思った。

 

楠雄が家族と一緒に過ごすには、楠雄の能力を狙うような悪人はあまりにも邪魔すぎる。その組織があった痕跡すら残さずに抹消したいところだが、国のような文字通り世界に影響を与えすぎる存在が関わってくると、途端にその難易度は跳ねあがるのだ。

まして、今回は明らかに日本の警察官が聞き込みをしている。日本政府が関わっているのは間違いないだろう。

流石の楠雄も、自分の住んでる国を消したいとは思わない。

 

…だが、例え大変だとしてもやらなければならない。

ワダツミ戦隊ウラシマン*1だって言っていた。『悪の心を許してはいけない』『悪人は徹底的にぼこぼこにしよう』と。

 

「…くーちゃん。」

 

そんなことを考えていると、左上から少し寂し気な雰囲気を纏った母さんの声が聞こえてきた。

見上げると、母さんが穏やかな笑顔で、しかし真剣みを帯びた輝きをその目に灯しながら、楠雄の方を真っすぐに見つめていた。

 

「どんなことでもいいの、何かくーちゃんに困ったことや悲しいことがあったらママに教えてね。

 

ママがくーちゃんを守るから。」

 

(何があっても。)

 

強い決意の心の声。

 

楠雄は母さんのその目の輝きをジッと見つめて、それから両手に力を込めた所為でひしゃげてしまったケーキボックスを丁寧に持ち替えながら、僅かに首を縦に振った。

 

心優しく、愛に溢れたこの人を悲しませることだけは、絶対に嫌だった。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

調査記録816-Ψ-01

1999年12月18日20時03分

 

 

雲の隙間から街を照らしていた太陽がすっかり落ちきり、先も見えない夜の暗闇が辺りを覆っている。

今にも雪が降りだしてきそうな寒さの中、住宅街の端の小道に、1人の男が佇んでいた。

制服警察官活動服と呼ばれる、日本警察の制服を身に着けたその男は、ポケットからタバコの箱を取り出すと、そのうちの一本をつまみながら、口から白い息をハッと吐き出した。

 

「…当てが外れたか…。」

 

フィールドエージェント育良啓一郎(いくらけいいちろう)は煙草を咥えると、マッチ箱の燐寸をマッチ棒で勢いよく擦り、ついた火を手で隠しながら、煙草の先端に火を移した。

ジジジという音とともに煙草の先が赤く焦げていく。

 

育良が今日ここにやってきたのは、数週間前、財団に一つの超常現象と思わしき目撃情報が上がってきたからだった。

 

『夜の10時頃だったかな…?南側の空の方から蛍光ピンクの光が勢いよく打ちあがったと思ったら、勢いよく西の方に向かって飛んで行ったんだよ。

…え?花火?いやいや、あれは花火みたいな火種なんかじゃなかったね。なんというか蛍みたいに、自分から光を放っていたよ。

 

何よりその光の中に、間違いなく人影のようなものが見えたんだ。

見間違いなんかじゃないよ、姿までは遠すぎてよく見えなかったけど、随分と小さい人影が光の中心にいて、空を飛んだんだ。』

 

インタビュアーにそう答えた彼に、財団は『それはとある機関で行われている秘密の研究の末の成果である』と説明し、その事象を秘匿する契約を一時的に結んでいる。

本当はすぐにでも記憶処理などで隠蔽を図りたいところだが、彼の証言以外の情報が一つもないことから、その処置は保留されている。

まあ、最終的には調査が終わり次第、秘密保持契約を結んだ事実ごとその記憶を処理する手筈になっているだろうからどの道覚えていられないわけだが。

 

情報提供者への聞き取りの後は、育良を始めとするフィールドエージェントの仕事である。その超常現象あるいは存在がどこで発生するのか、他に影響を受けている無辜の人々がいないか、異常は何か。短くて2週間ほど、長くて年単位の時間をかけながら調査をするのだ。

 

今回の件に関しては一か月、もしくはそれ以上の時間がかかりそうだ、というのが育良の見解であった。

理由はおおまかに2つほどあるが、第一にはあまりにも情報が少なすぎること。

そして第二には…これがただの光の塊とかなら、それほど大きな問題にはならなかっただろうが……財団の推測として、対象が人型実体であることだ。

 

もちろん、情報がそろっているから、人型実体ではないからと言ってそれが問題にならない日は来ないだろう。街中で超常現象が起きたということ自体が由々しき問題ではあるし、それが大量殺戮を引き起こす予兆であったり、これを発端にヴェールが捲られて平穏な日常をめちゃくちゃにされてしまう可能性だってある。

 

しかし、それはどのオブジェクトにだって言えることである。初期調査の段階の時点で既に何人もの民間人が犠牲になっていることもあるし、その点で言えば今回の事例は死傷者の情報がないのでまだましかもしれない。

 

(いや、その『死傷者が出ていない』という事実そのものが作られた現実である可能性だってある。全く、SCiPは予測も推測もほとんど意味をなさない。厄介極まりないな。)

 

誰も聞くことのない独白を心中で独り言ちながら、育良はマッチ棒の先を適当に振って消し、ポイと投げ捨てながらゆっくりと火のついた煙草を吸いこんだ。

肺いっぱいに煙草の煙が広がり、葉巻の燃える独特なにおいが辺りに漂い始める。

 

 

…問題なのは『光の中に人影がいたこと』。つまり、人型実体である可能性が高いということだ。

 

人型実体のような行動を予測しきれない存在の危険性は、財団に入った瞬間から誰しもが聞き、あるいは体験している。

現実改変能力者への対応などその最たる例だろう。彼らの能力に対して財団は、多くの場合収容対象ではなく、その首を意識外から消し飛ばすことで何百もの実体を終了させてきた。

 

オブジェクトクラス決定の基準でも、自律的・知性的なオブジェクトはほぼ全てEuclidに分類される。

意思があるということ、本質的に予測不可能であることはそれだけで危険レベルを高めてしまうのだ。

 

だからこそ…育良の仕事はいつだって気を抜けるような仕事ではなかったが、今回もまた特に、警戒心をもって挑まなければならない。

この地球に生きる人々、今この瞬間も住宅街を照らす明かりの下で生きる人々のためにも、育良にとってかけがえのない人々の為にも…。

 

(絶対に探し出して見せる。)

 

育良は再び、しかし今度はもっとゆっくりと、大きく煙草の煙を吸い込んだ。

肺の奥底に広がる煙の感触や、鼻腔をくすぐる甘やかな香りを数秒ほどかけて楽しみ、それからゆっくりと煙を吐き出すと、何とはなしに空を見上げた。

 

育良が立つ道の先、苔むした20段ほどの階段の直上には、青白く輝く寒月が、()()()()()()()()()の影を黒く縁取りながら輝いている。

 

(…ん?)

 

育良は月に向かっていた視線を巻き戻して、正面の階段の上に立つ人物の影を見上げた。

 

 

 

そして、『それ』はいた。

 

 

 

雲の晴れた、月の輝く美しい蒼い夜空の下。凍てつくような冷たい光を背に一心に浴びて、階下を睥睨する一人の少年がいた。

 

年の頃は5歳ほどだろうか。()()()なピンク色の髪に、ピンク色の瞳、そしてコットン生地の長袖服に、ジーンズ生地のズボンを身に着けている。

極々、普通の少年であった。

 

(子ども?こんな時間に?)

 

音もなく、気配もなく、そこに自然にいたものだから見逃してしまった。

突然遠い場所からワープしてきたと言われてもおかしくないくらいには、その少年はあまりにも唐突にそこに現れたように思えた。

 

そう、何の変哲もない少年なのだ、ただちょっと育良が気づけなかっただけの…。

 

育良は足の先から頭の先まで駆け上がってくる悪寒に一瞬身を震わせ、グッと両手を握りしめることで、その悪寒を嚙み殺した。

少年を視界に収めた瞬間から、育良は情けないことにも全身の筋肉の緊張をほどく事が出来なくなっていた。

 

景色や時間帯のせいだろう。月によって浮かび上がる影は確かに幼い子どもの輪郭を象っているのに、美しい紺碧色の燐光が、まるで少年を影の異形のように浮かび上がらせている。

 

少年がそのように見えてしまう原因は、少年自身が纏う異質な雰囲気にもあった。

嵐の前の海のように違和を覚えるほどの静寂と、なのに少年の奥底に血に飢えた虎が潜んでいるかのような、じりじりとした緊張感。

その年の子どもが纏うにはあまりにも不気味で、おどおどしい気配を漂わせているように見えた。

 

…だが、それでも子どもは子どもである。景色や時間帯のせいでそういったように見えているだけで、実際は、見るからに何の変哲もない子どもなのだ。小学校就学前の幼児に、怖気づく必要がどこにあるというのか。

夜中だからと突如現れた子供に対してびびったと知られれば日野さんや餅月さんに笑われてしまう。

 

育良は両手に染み出してきた冷や汗をさり気なく制服の裾に擦りつけると、(しまった、これは借り物だった)できるだけ少年を怖がらせないような声音を意識して声をかけた。

 

「あ、ああ。きみ、こ、こんなところに一人でどうしたんだ。母親はいないのか…?」

 

…穏やかな声音を作ったつもりだったが、随分切なげな、怯えた声になってしまった気がする。

育良はそれでもなるべく普通の態度に見えるように、咥えていた煙草を右手の人差し指と中指でつまむと、口から外した。

 

…………。

 

少年は身じろぎ一つすることなく、ただジッと、階下を…正確には育良のことを見つめている。その目の奥では剣呑な光が宿っており、育良に対して、強い疑心を持っているようだった。

 

もしかしたら、育良のことを不審者だと思っているのかもしれない。

 

育良は今度こそ怯えた気持ちを押し殺すと、穏やかな声でもう一度話しかけた。

 

「えーと、迷子なのか?家はどこなんだ?君は…君の母親は、どこにいるんだい?」

 

…………。

 

「…あー、こんなに暗くて、一人だと怖いか…お兄さんは警官だからね、一緒に交番に行くかい?」

 

…………。

 

「……そんな格好で寒くないのか?…何か返事をくれると嬉しいんだが…。」

 

…………。

 

「…………。」

 

…………。

 

育良は次にかけるべき言葉を見つける事が出来ず、開きかけた口をそのまま閉じた。

冬の夜特有の、生命が皆死に絶えてしまったような静寂が辺りを支配している。

 

(…僕の外観はそんなに不審か?)

 

これでも警官の格好をしているのに、と育良は眉を顰めた。

子どもと戯れた経験はあまりないが、流石に初対面の少年に言葉の一切を無視されるほど嫌われる風貌じゃないと信じたい。というかそうじゃないと普通に傷つく。

もしそうだったら…次の任務からはアソパソマソの被り物を携帯しながら調査活動をしなきゃいけなくなりそうだ。

 

育良がそんなことを考えている間にも、少年はただただ黙って育良のことを見つめている。

周囲は相変わらず異様な空気感が漂っていて、少年をまるでこの世から浮き上がらせているような、そんな得体のしれない不気味な光景を生み出している。

 

育良は再び足先から這い上がってくる悪寒に、ぶるりと体を震わせた。

少年の体の前面に強く濃い影を作り出す、怜悧な光を放ち続ける月に、身を切り裂くような冷たい風。

反射した月明かりが収束し、まるで輝いているように見える蛍光ピンクの瞳に、育良の頭の中でガンガンと警報が鳴り響き始めた。

 

(なんなんだこの子供は。なぜ何も答えない?そんなに僕の風貌が嫌いなのか??何もしてないだろう。

それに、この子の保護者はどこで何をしているんだ…。こんな夜更けに1人きりなんて、異常だ。

 

いや…そもそもこの子の人外じみた雰囲気はなんなんだ?

この子は…本当に子どもなのか?)

 

育良にとって、今この状況で感じ取れる奇妙で不気味な雰囲気は、非常に憶えのあるものだった。

それは、任務を言い渡されるたびに、ほぼ必ず一度は肌身に感じている感覚と全く同一だったからだ。

 

(まるで、体の中に何か得体のしれない巨大な生物を抱え込んでいるような…途方もなく強大で異常な性質を備えたSCiPに対峙しているような…。)

 

そこまで考えて、育良はハッと短く息を吸い込んだ。

 

(まさか…まさかこの子供がそうだと?この実体こそが僕が探していた、異常存在だと?)

 

育良がそう考えた、その瞬間だった。

 

育良をただ見つめるだけだった少年から、何の超常的第六感を持たない育良が感じ取れるほどに、異常な程の殺気にも似た圧が発せられた。

 

「ッ!!!!」

 

咄嗟に片足を引き、腰を落とし臨戦態勢に移る。

 

どこからか微かに風が吹き始め、少年の周りを取り巻くように駆け抜けていく。

先ほどまで疑心に満ちていた瞳の奥には、いまや育良のことを射殺さんばかりの強い敵疑心が宿っていた。

 

わざわざ確認する必要もないほどに、少年は、明らかに『異常』だった。

 

(まずい、油断した。気づかれた。財団に応援を…!)

 

機動部隊を呼ぶべく、育良が腰の後ろに備えた無線のボタンを押そうとし…その指がピクリとでも動く前に、少年が僅かに首を右斜め下に傾けた。

 

_おまえ、なぜぼくをねらっている。

 

育良の頭の中に、幼くも、確かに敵意に満ちた『何か』が流れ込んできた。

不思議なことに、それは言語の形を伴っているわけでも、鼓膜を揺らして育良の頭の中に入ってきたわけでもないのに、確かに言葉として育良の頭に届いた。

 

(これは、テレパシーか!!)

 

育良の中で、人型実体に対する警戒が一気に跳ね上がる。

 

言葉からして、実体は育良が調査を行っていたことを知っているはず。

それならば育良が実体に関する情報を一つも得られなかったことを知っているはずなのにわざわざ育良に接触してきた。

幼い見た目からして、そんなことにも至らない無邪気で私的な感情によって行動している可能性もあるが、ここまで明確に敵意を示しているならばその線は薄いだろう。

昼間、この地域一帯を探って回った育良の行動が、結果的に実体の警戒心を強く煽ってしまったようだ。

 

いずれにしても、あまりにも危険な状況だ。

 

育良は今度こそ財団と連絡をとるべく、腰に携えた無線機に手を伸ばそうとし…

『かなしばり』

またしても、それは叶わなかった。

 

(!?体が動かないっ...!)

 

育良の指先が数ミリ動いたその瞬間、全身がまるで石にでもなったかのように、筋肉の筋一つさえ動かすことが出来なくなってしまった。

 

(テレパシーに、人間の体を動けなくさせる力…これが奴の異常性なのか!?)

 

焦りと、既に能力の術中にあるという恐怖、いつ『いまの育良』という存在をつき崩され、侵され、殺される分からない絶望。

空回りそうになる思考の中、それでも育良は冷静さを保とうと、心の中で必死に『落ち着け、落ち着け』と唱えながら、脳内で『猛暑の中マイク片手に、熱唱するために口を開けるたびに口からアブラゼミが列をなして飛び出してくる鳴蝉さんの姿』を想像することで、自分自身を宥めた。

 

(とにかく、なるべく敵愾心を煽らないようにしなければ、無力化する為の油断を誘うんだ。一瞬でいい、財団に応援を呼んで、このSCiPを封じ込めるんだ。)

 

育良は身動ぎ一つできず、呼吸さえ苦しくなってくるような心地の中、混乱する思考を瞬時に整えた。

 

臆病だが、慎重かつ咄嗟の判断力に優れる。財団からそう評される、確かな実力を持った優秀なフィールドエージェント育良。

彼の咄嗟の思考は、確かに正しかった。彼の実力なら油断を誘おうとする意図的な行動に気づかせることなく、この状況を乗り越えることができただろう。

 

その超常存在が、他人の思考を読むことが出来る、超能力者でさえなければ。

 

_むりだよ。そんなことさせない。おまえにはここできえてもらう。

 

再び脳内に響いたその言葉を聞いた瞬間、育良の全身からドッと冷や汗が吹き出し、体温が急激に下がった。

 

(他人の心の声を聴くこともできるのか…!)

 

育良が財団に入り、フィールドエージェントとして駆けずり回るうちに身に着けた、咄嗟の判断力が裏目に出た。

この超常存在の前では、思考することこそが悪手だった。

失敗をカバーしようにも、既に最悪はいくつも積みあがっており、もう取り返しのつかない段階まで来ている。

 

発語することを含めたあらゆる行動を阻害され、心を全て覗かれ、その結果『ここできえてもらう』と宣言されるほどの敵対心を抱かれている。

ほとんど詰みだ。

 

(僕は、ここで死ぬのか…?)

 

抑え込んでいた絶望が、背後からひたりひたりと差し迫ってくる心地がする。

 

 

実体はゆっくりと右足を一歩前に踏み出し、次の瞬間、重力や運動エネルギーといったあらゆる正常な物理法則を無視して、ふわりと空中に浮かび上がった。

階段からおよそ1.5mほどの高さまで浮き上がった実体は、まるで階段の上を滑るように、緩やかなカーブを描きながら、育良の目の前に降りてくる。

 

(浮遊…。現実改変能力者、ではないみたいだな。もしそうなら浮かび上がる必要なんてない。)

 

わざわざ『浮く』という過程を経なくとも、『育良の前にいる』と考えるだけで現実をそうであることに書き換えられる。それが育良の知る現実改変能力者だ。

実体がわざわざ自分の体が自由に浮かべられることを想像してから育良の近くにやってきた、という特異な能力の使い方をしていない限り、実体は現実改変能力者ではないだろう。

 

育良は相変わらず一ミクロンも動かない目を必死に凝らし、その動きや能力の予兆を一つも見逃すまいと全身全霊で実体の動きを目で追った。

 

一切の抵抗ができなくなっても、思考を放棄して、諦めることだけはしたくない。

例え無残に死に絶えるとしても、少しでも後続に情報を残す。それが、育良が今できる唯一の抵抗だった。

 

_ざいだんだの、のうりゃくだの、おまえやっぱり警察じゃないだろ。

 

実体は地面に足をつけることはなく、育良の背丈よりも頭一つ分高い位置に留まると、育良を刺殺さんばかりの鋭い目つきで睨みつけてくる。

 

_その『ざいだん』というのがおまえのかいぬしか。もくてきはなんだ。

 

(お前みたいな異常な存在を、この正常な世界から隠すことだ。)

 

育良は実体が他者の心の中を覗くことができると分かった瞬間から、実体に情報を与えないためにもなるべく自身がもつ情報のことについては考えないようにしようと思っていた。

だが、僧侶ですら何十年も修行を積んでようやく習得できるようなことを、今まで一度も訓練を受けたことがないただの人間が、一発で成功させるなんてことは当然無理だった。

 

育良は実体に問われたことを、心までもが屈してなるものかという対抗心と生きたいと願う本能によって強くなった語調で、あまりにも直球な答えを咄嗟に返してしまった。

 

実体は、ほんの僅かにピクリと眉を跳ねさせ、グワリ、と空気を揺るがしながら、身に纏う怒気と威圧を増させた。育良の全身にびりびりとした怖気が走り、育良は咄嗟に歯を食いしばってその感覚をやり過ごさねばならなかった。

 

実体は、その雰囲気に似つかわしくない幼い相貌を敵意によって大きく歪ませながら、育良の方に一歩、空中に足を踏みこみながら近づいた。

 

_異常?ふつうにいきているだけのひとをねらって、はいじょしようとするおまえたちのほうが異常だろう。

 

実体からの問いに、今度は自身の内心を隠そうとはしなかった。

 

(君が普通に生きていることを誰が証明する?君が他人の思考も、尊厳も、生命も、何一つ脅かしていないと何が証明できる?

他人を害していないという証明すらも簡単に書き換えてしまえる君たちのようなSCiPの身の潔白を、何を持って立証すればいい。

 

そんな力を持っていること自体が、我々人間には脅威なんだよ。)

 

育良の秘め事のない、むしろ言い返すために発せられた思考に、実体は冷え切った白い唇から微かに息を漏らし押し黙った。実体の発する強大な圧が一瞬、さざ波のように揺らぎ引いたかと思えば、また押し返す。

実体の口から零れた真っ白な吐息が、彼を人外たらしめる異常な光景の中で、唯一人間味のあるもののように思えた。

 

_おまえと、おまえのそしきが人間のすべてじゃないだろ。それを『われわれじんるい』だなんて、人間のリーダーにでもなったつもりなのか?

 

(我々は決してリーダーにはならない。表舞台に立つことは決してない。

だが、我々は現にデータとして、我々が知りうる真の現実を観測する限りでは、君たち異常存在は人類を脅かし、殺戮し、幾万人もの人々の死の上に成り立つ物さえ簡単に消滅させている。

 

純然たる事実として、君たちは人類の脅威なんだよ。)

 

返された育良の正直な内心に、実体は再びその空気を押しつぶすような圧を大きく波立たせ、その小さな両手をギュッと握りしめた。

 

育良は素直な思考を返しながらも、明らかに様子の変わった実体の様子をジッと眺め、頭の中に浮かび上がったいくつもの仮説をパズルのように組み合わせた。

 

(…動揺した?他者の脅威になると言われたからか?それとも、何か他人に能力を行使したことがあるのか…?

正義感が強い性格か。それとも、他者のことを考えない、この年の子どもらしい倫理観と言えばいいのか…。

 

どちらにせよ、これならテレパシーで受け答えする中で思考を誘導して…)

 

説得することも可能かもしれない。という育良の思考は最後まで続かなかった。

 

その考えが頭に浮かぶ前に、育良を拘束していた謎の力が、突如その出力をあげ、万力のような力で育良の全身を締め上げてきたのだ。

 

「っっっ!!!!!」

(ガッ…!!く、くるしいっ…!!!!)

 

育良の両足が浮き上がり、圧迫された肺から口に向けて空気が逆流する。

 

(…いしき、が…。)

 

一気に失われた酸素によって酸欠に陥り、育良の意識が朦朧とし始めた。

 

 

 

 

と、思ったら、次の瞬間育良を締め上げていた力が弱まった。

 

(っ!!!!)

 

肺を押しつぶしていた要因がなくなり、育良は体を大きく動かせないながらも、反射的に周囲の空気を必死に吸った。

カヒュ、ヒュ、ヒュ…という短く掠れた空気音と同時に少量ずつだが育良の体に空気が送り込まれ始める。

 

か細い呼吸を繰り返す育良を上から見下し、実体は白い吐息を口からこぼしながら、テレパシーを発した。

 

_ちょうしにのるな。おまえなんかに思考誘導なんてされるわけがないだろ。

やっぱり悪いやつのいうことなんてきくもんじゃなかった。もうおまえのはなしはきかない。

 

実体は嫌悪の籠った眼差しで育良を睨みつけると、それから空中に向かってさらに一歩足を踏み出し、右手を掲げると、真っすぐに育良の頭部に向かって伸ばした。

 

「ッッ!!!!」

(なにを、なにをするつもりだ!?)

 

テレパシーか?それとも今なお育良の全身を縛り上げる謎の力か!?

 

胸の内に潜められていた恐怖と絶望が、今度こそ育良に襲い掛かった。

乾き始めていた冷や汗が、再び全身の毛穴という毛穴から吹き出し、育良の体温を急激に奪っていく。

 

_べつにころすわけじゃない。

 

実体の見た目年齢に相応しい、柔らかな、小さな手。

怪我の後も、タコもない、苦労をまだ知らない。無邪気で、もみじのような幼気な手。

ゆるやかな曲線を描く手の輪郭と、生まれたばかりの皺しかないふっくらとした掌が、徐々に育良に迫ってくる。

月の強い輝きを受けたそれが、育良の顔面に大きく、濃く、影を作った。

 

_いっただろう、きえてもらうと。

 

実体はそう言いながら、ソッと育良の頭に手を置いた。

 

育良の緊張と恐怖は、ついに頂点に達し、鼓動は周囲の人間に聞こえるのではないかと思うほどに大きく拍を打ち始めた。

五臓六腑に鳴り渡るこの大きすぎる鼓動が、育良が感じ取れる自身の生命活動が停止していない唯一の証左だった。

 

能力発動の前兆なのか、実体の両目はついに月の光ではなく、自らの力で輝き始めたようで、妖し気なネオンピンクの光彩を発している。

真っ暗な闇のような影の中、二対の輝く瞳だけがその存在を主張し、まさしく人知を超えた化け物の様相だった。

 

_ざいだんのばしょはどこだ。

 

その一言で、化け物が今から何をするつもりなのか、育良は全てを理解した。

 

そして同時に、死よりも深く絶望した。

問われた瞬間に頭の中を駆け抜けた、いくつもある財団のサイトに戻る為の手段や道のり、具体的な場所などの情報と、それを考えてしまった自分自身の脳に絶望した。

 

(ああ、これが死か。)

 

惨めだ。

後続に情報を残そうと意気込んでいたのに、残すどころか、財団を襲う為の情報を与えてしまうとは。

次の休日にサバゲ―に行く約束も、忘年会も、まだ行ってないのに。もうすぐあるクリスマス会用に買ったサバゲ―の銃をまだ誰にもプレゼントしていないのに。

 

もはや育良にできる事は、自己の消滅を以て僅かでも財団に異常を伝えることだけだった。

 

実体はジーンズの右ポケットに手を無造作に突っ込むと、何かを握りしめてポケットから手を出した。

何が握られているのかは手の甲に隠れてしまっていて見ることはできない。少なくとも、育良よりも何倍も小さな手に収まる何かなのは確かだ。

 

実体は握りしめた拳を顔の前まで持っていき、何を思ったのか、数秒ほどジッと見つめ始めた。

それから、ほんの一瞬グッと握りこぶしに力を加え、まるで何か祈るように目を軽く伏せてから、手をパッと開いた。

『アポート』

瞬間。

まるでどこからかワープしてきたかのように、実体の手のひらには先ほどまで明らかに握られていなかったプラスチック製のおもちゃのバットがその手に収まっていた。

 

(…現実改変…いや、物質の生成…?)

 

すごく便利そうな能力だ。サバゲの対戦相手の頭上の空間からサバゲ用手榴弾を生成して相手を爆破させるのに役立ちそう、と、育良は絶望と恐怖で鈍り切った思考で考えた。

 

極限の恐怖に育良の思考回路は随分とち狂い始めていたが、それでも育良は考えることをやめない。

何度もフィールドエージェントとして危機的状況に陥り、その度に思考を回転し続けて危機を紙一重で乗り越えてきた育良にとって、もはや考え続けることは本能だった。

今の育良から、見た目も、思考も、価値観も、未来も、何もかも失われ果てたとしても、一番最後まで残り続ける魂に刻まれた習慣。

財団職員としての誇りだ。

 

_きえろ。

 

実体はその異常な能力によって生み出したバットを、後ろに大きく振りかぶり…

 

そして、育良の頭部に向かって、バット自身が生み出す空気の唸る音よりも早く、バットを振った。

 

(ああ。)

 

死の間際だからだろうか?急に肉体の外に押し出されたような、自分自身を俯瞰してみているような感覚とともに、育良の見る世界は、その思考だけを取り残してスローモーションで流れ始めた。

 

実体の持つバットはゆっくり、しかし確実に、育良の方に向かってくる。

 

40cm

 

30cm

 

20cm

 

10cm

 

バットが育良の頭に叩きつけられ、その脳髄をあたりにまき散らす刹那。

見知った財団の顔が、脳裏を駆け抜けた。

 

(日野さん、餅月さん、西塔さん、差前さん…。みんな、後を頼みます。)

『記憶消去』

叩きつけられたバットは皮膚を切り裂き、頭蓋を砕き、脳漿ごと育良の意識を消し飛ばした。

 

 

 

***

 

 

 

手にしたおもちゃのバットを『アポート』で500円玉に戻しながら、楠雄は目の前に倒れ伏す警官の格好をした男を見下ろした。

倒れるときに道の縁の部分に()を打ち付けてしまったのだろう。男の側頭部にはそこそこの大きさのたんこぶができている。

それ以外には特に外傷もなく、何もかもが楠雄と出会う前の男の状態のまま、男は険しい表情で、微かに空いた口から白い吐息を漏らしながら眠りについている。

 

楠雄は、男の胸ポケットや腰についた観測機器が、一切の反応を示していないことを透視でじっくりと確認すると、そこでやっと男から目を逸らし、空を見上げた。

 

紺碧に輝く月の向こう側、常人の目では決して見えない、小さな小さな星の輝きが宝石のように瞬いて、夜空にいくつもの宝石を詰め込んだかと錯覚するほど、神秘的な光景を生み出している。

 

『そんな力を持っていること自体が、我々人間には脅威なんだよ。』

 

楠雄は、首をぶんぶんと横に激しく振ることで、頭にこびりつくノイズを振り払った。

そして、そのまま東南方向に体ごと顔を向けると、両の足を肩幅まで開き、その小さな体躯に力を込めた。

 

目指すは、男の脳内から読み取った、ここから最も近い財団の施設。

 

__………やっつけてやる。

 

楠雄の両足が辺りの空気を力強く踏みつけるのと同時に、楠雄は大きく跳び上がると、燦然と輝く星々の()を、自身の放つピンク色の閃光で切り裂きながら飛翔した。

 

*1
1998年12月放送開始。浦島海斗はある日、謎の怪物『クトリーナ』と『カメヌシ』と名乗る謎の戦士の戦いに巻き込まれる。戦いに敗れ死に瀕するカメヌシは、自身の国『深海都市リュウグウ』がクトリーナの侵略から地上を守っていた最後の砦だったことを明かした。そして浦島にリュウグウ最後の希望『ワダツミの竿』を託し、命を落とす。ワダツミの竿によってワダツミ戦隊ウラシマンに変身した浦島は、地球を守るためにクトリーナとの長き戦いに身を投じることになる。

なぜリュウグウは滅んだのか、クトリーナの真の目的とは、そしてワダツミの竿に隠された秘密とは…?

毎週日曜日午前9時、BBB5チャンネルで絶賛放送中!





SCP-1678 裏ロンドン
http://scp-jp.wikidot.com/scp-1678

エージェント・育良の人事ファイル
http://scp-jp.wikidot.com/author:ikr-4185

鳴蝉博士の人事ファイル
http://scp-jp.wikidot.com/author:semishigure



育良さんってまじのスタッフさんなんですね…すべて書き終えて予約投稿して活動報告更新してから知ったんですけど…
てゆか、ついったあるんですね。あ、ニコニコも。あ、ようつべも。あっあっあっ…。
キャラ崩壊してたら本当にすいません。私の資料探し不足です...。
次の話も職員出るのでなるべく頑張りますが、キャラクター像をまた補完しまくるかもです。そしたらすいません。
一応投稿はしましたが、場合によっては書き直します。


裏ロンドンについては解説を活動報告に載せています。

本作における小説の1話当たりの文字数はどのくらいが読みやすいですか?

  • 第1話(約8000文字)くらい
  • 第2話(約12000文字)くらい
  • 第3話(約15000文字)くらい
  • 第4話(約17000文字)くらい
  • えっ20000文字書いてもいいのか!!
  • ああ…しっかり書け(作者の判断任せる)
  • おかわりもいいぞ!(もっと書け)
  • ただ今より5000文字訓練を開始する!!
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