無線でのやり取りを終えてから、鬼方カヨコはハルカとゲッコウを連れて、配管室と書かれた部屋までたどり着いていた。薄暗い部屋の中は嫌な冷えと湿気で満たされており、あちこちから空気が配管を通り抜けるシューという音だけが聞こえてきていた。手首ほどに細い管から、三人が身を寄せ合っても通り抜けられそうなほど太い管までが、向き合う壁の下をつなぐ橋のように敷かれた金網のさらに下、壁面に隙間なく敷き詰められており、巨大な基盤に囲まれているようだった。どの配管も手元の高さには、車のハンドルのような持ち手がついたバルブが配置されており、作業の利便性を高めている。配管の足元近くは鉄板が貼られており、誤って靴などが管にぶつかり破損しないよう工夫がされている。電源などの操作盤が隠された箱は、壁から出っ張るように取り付けられて、こちらは配管を守る鉄板の上まで突き出ていた。
見えるのは配管ばかりで警備員が見当たらないことが、カヨコには不可思議だった。自分たち以外の人が立てる音が聞こえないと、空気が立てる様々な音色がかえってやかましく感じた。配管内の微妙な突起に引っかかって絶えず音を立てる空気。カヨコは、カルマン渦やエオルス音といった工学上の専門用語や細かい原理はさっぱりだったが、そういった仕組みで風切り音が発生し、同じことが耳の中でも起こることで風の鳴く声を認識できるといった簡単な知識を思い出した。もう一度、管の中を走り抜ける風の音に意識を向けると、耳障りな騒音ではなくなり楽器がひとりでに思い思いに喋っているように感じる。
「ここは変わってないみたいだね」ゲッコウが後ろから、昔住んでいた場所の近所を見て回るように話した。
ここにくるまでの間にも、ゲッコウは捕らえられる直前まで毎日歩き回っていた基地の構造を思い出しては、電球が変わっただのなんだのと前を行くハルカに話している。それに対してハルカも毎回律儀に返事をしてしまうので、カヨコは自分だけが話に入れていないかのような気まずさをたびたび感じていた。
部屋のちょうど中央を過ぎた辺りで、カヨコはなんとなく誰かに見られているような胸騒ぎがした。この無機質な部屋で感じる視線は後ろの二人以外からのものであり、動物的な直感が蛇に睨まれた蛙に静かに危険が迫っていることを予感させている。少し腰を落として、歩幅を狭めながら進むと、頭上を通っている太い緑の管を流れる空気の音が強くなった。
突然後ろで、ダイナマイトのような爆発が起こった。何かの配管が破裂したのかと、早撃ちのようにその場で振り向くと、入り口の上の壁が黒煙を上げながら崩れており、退路がなくなっていた。記憶に新しい悪夢がよぎり、二人に出口へ走るように叫ぶが、進路を覆った二発目の爆発によってかき消される。十秒にも満たないうちに罠にかかると、カヨコは罠の中のネズミに似た惨めさを感じた。こんなものに二度も引っかかっては、後続の二人に合わせる顔がなかった。
配管室の天井から、退避壕で見た黒い影が降ってくると、鈍い金属音をさせながら着地する。考えうる中でも、最悪の展開だ。やはり進路に立ちはだかったのは天独ソウだった。
黄色い瞳孔だけで光が灯っていない目は、はっきりとこちらを捉えて離さないまま仁王立ちになる。カヨコは万全の射撃体勢を解くと、ため息をついた。思い直せば、彼女の相手をするのは自分の役目ではなかった。ここでゲッコウがソウのことを説得して引き下がらせるか、あわよくばこちらに取り込んでくれれば、どんなに楽になるだろう。
カヨコは希望的観測を区切ると、後ろから出てきたゲッコウに集団の先頭を譲った。今、ゲッコウとソウは三メートルほど距離をおいて向かい合っている。場の雰囲気は一騎打ちの直前のようで、旧知の仲の再開には見えなかった。
「何をしているんだ、ルナ」
先に口を開いたのはソウだった。カヨコは一言目の時点で、自分たちのために敵を説得しようという目の前の人物に不信感を抱いた。ゲッコウは、ソウの名を呼ぶといくらか声の調子を抑えて話す。
「ソウ、私は今のソウが何を抱えているのかは分からないけど、こんなことに手を貸しちゃだめだよ。この人たちは敵じゃなくて味方なの。この人たちの──便利屋68の社長さんはとてもいい人だよ。きちんと話せばきっとソウも助けてくれる」固く握られた両手は腰の横辺りで震えていた。
「何か弱みを握られてるんでしょ?悪いのは、ソウを利用している人だけだよ。ここで戦っても何の意味もないよ」ソウの足元を見ていた顔が、少しずつ上がってきた。
「私はあなたの味方だから」ここでゲッコウの目は、ソウの顔をはっきりと見た。
「だから、一緒にここから出よう」
ソウは、すぐには返事を返さなかった。カヨコは拳銃を下ろしてはいたが警戒は解いておらず、むしろいつソウの攻撃が飛んでくるかを考えていた。物置での話の時はゲッコウに一任するとは言ったが、名前を騙っていたことが判明した時点でゲッコウへの信用は瓦解した。今となってはゲッコウの説得の言葉も、企みを隠すための薄い張りぼてにしか感じなかった。
ソウも、カヨコに倣うようにため息をついた。伸ばした右腕が少しずつ上がっていき、ゲッコウの下半身の辺りまで来る。短く制止の言葉を漏らすゲッコウの声に、恐怖への震えが混じった。重装備の相手がこちらを打とうとしているのに、自分は丸腰だから当然だろう。カヨコはゲッコウをかばうつもりはなかった。出してくれと頼んだのは向こうだし、仮にも護衛を頼んだ仲間に隠し事をしていたのだ。言い出しにくかったのかは知らないが、これでは撃たれても仕方がない。カヨコは、秘密主義だったアックスの姿を思い出した。
ソウの右腕に取り付けられた二つの黒い目は、今はゲッコウの心臓の辺りを見ている。
「訳があるなら話してよ。これじゃ何も分からないよ」ゲッコウは両手を挙げて降伏のしぐさをしていた。ソウは表情を少しも変えていない。
カヨコの位置からはゲッコウの表情は見えなかった。今彼女はどんな顔をしているのだろう?カヨコは、ここまで脅されてもその場を動かないゲッコウに少しの敬意を抱いていた。この状況で説得を続けるには、相当な胆力がいるだろう。カヨコのゲッコウを見る目は、先ほどまでの疑念の目ではなくなっていた。社長なら、きっとかばっちゃうんだろうな。カヨコには、間に割って入って仲裁をするアルの姿が容易に想像できた。そんなことは自分にはできないが、今ではこの場が落ち着いたら、名前を騙っていた訳を聞いてもいいとまでは考えていた。
「ソウ、駄目だよ」
ゲッコウは挙げた右手で目の辺りを拭った。右手の裾には濡れた跡がついている。泣いてるの?カヨコはスペクトルが涙を見て止まるとは思えなかったが、それでもこの場が丸く収まることを願う矛盾した心境となっていた。ソウは右腕をゲッコウの首元まで上げていたが、その位置で腕を止める。表情は変わらなかった。
ゲッコウに向けられていた右腕が少し外へずれると、一発の銃声が配管室に響く。カヨコの視界の左の隅で、ショットガンを抱えていたハルカの態勢が崩れた。ハルカは少し苦悶の声をもらしたが、後ろへやった右足で踏み留まっていた。カヨコは即座に拳銃をソウの頭部へ向けて、一発撃ち込むが予想通り左腕に遮られる。
ゲッコウはソウを見ながら少しの間放心していたようだったが、すぐにやり返そうとするハルカの前に人壁となるように両手を広げて立つ。ゲッコウは必死になってソウを制止するが、もはや彼女に言葉は届いていないようだった。
「うるさい」それだけ言うと、今度は銃口をゲッコウの顔に向ける。
ここまででソウは少しも表情を崩さなかった。カヨコは再び、交渉が成功するとは全く考えなくなっていた。ソウは精鋭集団の一員だ。説得されて自分を折るような甘い世界に生きてはいない。
再びソウは銃声を一発響かせた。ただし今度はゲッコウの首元すれすれを狙い、後ろの壁に着弾させた。おそらくゲッコウには首元を通り過ぎる銃弾が起こす風と音が、はっきりと分かっただろう。
「脱走ほう助をしただろう。これでお前も本物の敵だ。もう殺すしかなくなった」ソウはそれだけ言うと、視線をこちらへ向ける。
ゲッコウは何も言えず、ハルカの前で膝から崩れるように力なく座り込むと、すっかり放心してしまっていた。周りに管が張り巡らされた配管室は、今では逃げ場のない決闘場の雰囲気を帯びている。今度は身を隠せる遮蔽物も何もなく、カヨコは腹をくくった。覚悟はしていたが、もはやどちらかが倒れる未来しかない。
「ハルカ、ゲッコウをなるべく壁際に寄せておいて」
仲間にそれだけ伝えると、カヨコは拳銃を握る手に力を込めて、単身でソウと向き合う。心臓の鼓動につられて呼吸の感覚が短くなり、胃の奥に不快感を覚える。なるべく表情を変えないようにするが、頬を冷汗が伝い落ちる。
ソウは死刑執行人のように無表情のまま、低い威厳のある声で決闘の口火を切った。
「来い」