結果は驚くべきものだった。ポリパイプの壁が破けたらどうなるか、カヨコは想像はできたが実際に見たことはなかった。誤って塩酸に触れてしまった機械人のニュースを見たカヨコが知っていたことは、例え少量でもかかった鉄は表面から溶けて歪に変形したりくっついてしまうということだけだった。破損した管から液体が噴き出したことを確認したカヨコは、ハルカの後ろ襟を掴んで引き寄せると、酸性雨に巻き込まれないように後ろへ倒れこむように跳んだ。効果を確認しようと首を大きく折り曲げたカヨコは、現実に亡霊を目の当たりにした。
塩酸の噴水をまともに被ったソウが少し悲鳴を上げると、首から下の鎧からすぐさま湯気が立ち上り始めた。山火事のような炎の音がすると、さらに勢いを増した湯気がもがくソウの上半身を覆い隠す。鼻にツンとくる刺激臭は普段なら顔を思わずしかめたが、目の前に広がる血の池地獄のような光景は匂いへの関心を少しも移させなかった。黒い鎧は花弁が開くようにあちこちに穴が開くと、そこから湯気がとめどなく溢れ出す。なんとか逃げようとソウが足を動かすと、足裏から踝にかけての鉄が泥になったように地面にへばりついて、中に隠れていた裸足から離れる。銃弾が込められた左右両腕の部位は、銃弾の金色がマーブル状に黒鉄と混ざると、重量を支え切れずに垂れた腕から、肩の近くまでの鎧を巻き込んで崩れ落ちた。ずぶ濡れになったソウは口元がゆがんでおり、塩酸の刺激臭と恐ろしい毒性から逃れるのに必死になっていたが、溶けた鉄の鎧が蜘蛛の糸のように絡みついて、この世にも恐ろしい責苦から離さなかった。
軽くなった両腕を前に伸ばして、鉄と塩酸を被りながらもがくようにこちらへ前進する様子は、まさに亡霊やゾンビといえるものだった。その死の行進も遂に自重を支えきれなくなると、膝から前のめりに崩れ落ちて止まる。横一文字の口は叫びたくなる本能を噛み殺していたが、歯の隙間から動物のような唸り声を絶えず洩らしていた。
ようやく頭が冷えたハルカは、耐えきれずに惨劇から目を逸らす。カヨコはハルカを近くへ抱き寄せるが、目線は動かなかった。キヴォトス人の肉体は、塩酸の雨にどれだけ耐えられるのだろう?カヨコは生命倫理を越えた人体実験をしている感覚になった。このまま助けなければ、彼女は鉄にまみれて死ぬだろう。塩酸の毒が先か?溶けた鉄による呼吸器圧迫が先か?不意にカヨコは、自分が一線を越えようとしていることに気がついた。一定の権利を持つ生き物が侵してはいけない一線だ。彼女は確かに敵だが、こんな責苦を受けねばならないような大犯罪人だったか?彼女も同じキヴォトス人だし、過剰な責苦から逃れる権利があるのではないか?カヨコは今だけ自分が、生命全体への博愛主義者になった気分だった。
ゲッコウが大声でソウの名を繰り返し呼ぶ。ソウは頭まで地面に張り付くように垂れて、身動きをしなくなっていた。ゲッコウは何度か助けようとする素振りを見せたが、降り注ぐ酸性雨の持つ毒性と刺激臭で近寄れなかった。そのうちふと思い出したように、ゲッコウは壁についたアルミの箱のうち一つを開けると、レジャーシートのような起伏のついた銀紙の束を取り出した。
破損した黄色の配管まで束を持っていくと、一メートルほどの大きさに破いて、塩酸の噴水を覆うように横から貼り付ける。すると勢いのある噴水は次第にシャワーの様になり、最後には湧き水のように管を滴るだけになると、ぴったりと貼られた銀紙はカヨコの作った噴水口を完全に塞いでしまった。
雨が止んでもソウは動かなかった。黄色い目は半分ほど開いていたが、光のない目では生きてるか死んでるかも判断できなかった。
「ソウ?」ゲッコウは震えながら、生存の確認をする。水色の瞳からは、大粒の涙が次々に溢れていた。ソウの周りに出来ていた猛毒の湖を躊躇うことなく進むと、未だに固まらない鉄を纏った背中に素手を近づけた。
「触れるな。皮膚病になる」ソウの小さいがはっきりと聞こえる声が、ゲッコウの手を止めた。
うつ伏せの状態から顔が横を向いてゲッコウを見ると、鉄が固まらないうちに最後の力を振り絞って体を持ち上げる。少しの格闘の後、ソウは仰向けになって息を整えた。その間もゲッコウは、ソウに手を貸そうとしては止められて何も出来ずにいた。
カヨコはハルカを起こして自分も立ち上がると、静かにソウに近づいてしゃがんだ。ハルカはカヨコの後ろから、立ったまま無言でソウを見下ろしていた。
ソウは息を落ち着けると、ゆっくりと話した。「悪党には似合いの最期だ。心を痛める必要はない」
無意識のうちに表情に出てしまっていたらしい。カヨコは一度大きく深呼吸すると、いつもの顔を作った。「あなたは強かったよ。今もまだ体中が痛んでる」
最後の一言は余計だったかな?こちらを見たゲッコウが申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんねカヨコ。私がなんとかするって言ったのに⋯⋯」
「ゲッコウはもう少し話術をつけたら良いと思うよ」別に責めるつもりはなかったので、軽い冗談で返すとゲッコウの口元は少しだけ緩んだ。
「ソウ、どうして占拠に手を貸したの?」
あまり時間もないので早めに本題に入ると、ソウは少しずつ思い出すように話した。「ボスの理想に賛同したのは本当だ。だが全てを肯定していた訳ではない。争いのないキヴォトスを作りたいという点で、私とボスは一致していた。だがボスは、キヴォトス征服のために争いをなくそうとしていただけだった。もちろん私も言えた立場ではない。私の場合は、個人的な憂さ晴らしだったんだ。ルナから聞いていただろうが、私は元々は風紀委員会だった。純粋にキヴォトスの平和を作りたくて走り回っていたんだ。だが入会から一月後、彼女がやってきて全てを変えてしまった」
ソウの声が少し険しくなった。同い年のカヨコは思い当たる節のあった人物の名を口にした。「空崎ヒナだね」
「そうだ。彼女は入会後すぐに頭角を現した。あらゆる目標に一人で当たっては一人で全てをこなしてしまった。風紀委員会の同僚も、皆ヒナの実力に依存していった」
カヨコは今の風紀委員会の様子を思い浮かべた。他の構成員も決して実力不足とは言わないが、それでもヒナの顔で風紀委員会の面子が保たれているのは事実だった。
「私はそんな組織に嫌気がさしたんだ。一人で奔走したが、目の前にいた敵はすべてヒナが破壊しつくしてしまった。風紀委員としての私は、ヒナに殺された」
カヨコとハルカだけでなくゲッコウも黙って聞いていた。おそらくスペクトルの仲間にも、誰にも話したことはなかったのだろう。
「そして私は風紀委員会を辞めた。生き方を奪われた私は、まさに亡霊だっただろうな。私に再び生を与えてくれたのは、ボス──天唯オアだった。彼女は本気でキヴォトス征服を成そうとしている。悪魔に魂を売った私は
全く何を言ってるか分からない、とはならない。でも私たちみたいなのがいるうちは風紀委員会の仕事はなくならないだろうね。
「だがボスは争いをなくすどころか、世界を巻き込んだ戦争を始めようとしている。基地を押さえれば各学園と対等以上の関係を築けるとボスは考えているが、決してそうはならないだろう。もしロケットが発射されれば、キヴォトス全土を巻き込んだ壮絶な戦争になる。DAの登場で多くの犠牲が出るだろう。都市は破壊され、学園の区別など意味を為さなくなる。争奪戦だ。あらゆる立場の者たちが、DAを奪い合うことになる。DAを手に入れた勝者が、文字通り世界を統べることになるんだ」ソウはここで話を止めた。固まり始めた鉄は、ソウの体をしっかり握っており逃れられそうにはなかった。
この基地であらゆるものを見聞きしてきたカヨコには、ソウの話はとても的外れには聞こえなかった。おそらく彼女の読み通りになるだろう。結局オアも他の学園の政治的中枢人物も、芯は同じなんだ。常に自分が上に立つことを考えて、相手を出し抜き、翻弄し、力で押さえつける方法を、飽きもせずに黒い腹の中で巡らせているのだ。
「もう一つ、占拠に参加した理由がある」ソウは今では黄色い目を半分ほど開けて話していた。「自分で言うのもなんだが、スペクトルでも穏健派だった私は、最初は占拠に反対していた。だがボスに忠実だったアスは、スペクトルが基地へ近づく口実を作るために、一人で基地に忍び込んで何人もの警備員を離脱させた。そしてまだ私が渋っていた占拠の五日前、ルナは拘束されたんだ。私を脅迫する材料として」
ゲッコウはハッとしたように息を飲んだ。カヨコはただ黙って二人を見守ることしかできなかった。
「そんな!私、私は」ゲッコウは動揺を隠さなかった。
「すまなかった。ルナの命と引き換えに協力を強いられていたんだ。ルナをDAの実験台にさせたくなかった」
ルナ──ゲッコウは泣きそうな声になっていた。「それじゃ牢屋で話し相手をしてくれたのも、カヨコたちを襲ったのも全部私のためだったの?」
ソウが無言で頷くと、ゲッコウは我慢していたものが溢れだしたように嗚咽を漏らす。一度出始めた涙は止まらずに、次々と顔を伝って顎から零れ落ちた。
ソウはこちらを見ると、今度は自嘲するように話した。「今分かった。風紀委員会を辞めた時から、すでに亡霊だった私は、どうかしてしまっていたんだ。個人的な恨みで、世界征服なんかに手を貸して。もう今更、ヒナのことも言えない。風紀を信じた心も、もう何も残ってない」
カヨコは目の前の敵だった人物に、静かに優しく話した。「風紀っていうのは、何も組織で守るものじゃない。一人一人の心持ちが大切なんだと思う。確かに今回、あなたは道を間違ったかもしれない。でも風紀を愛した心は失われていない。私たちを他のスペクトルから守ってくれたんでしょ?それに分断された私たちを、無線機で繋げてくれた」
カヨコは一連の話から、彼女が助けてくれていたのではないかと考えていた。ソウは話を聞くと、口元に控えめで純粋な笑みが浮かんだ。
「ソウさん、その、先ほどはすみません。あと、ありがとうございます」ハルカもカヨコの後に、礼の言葉を口にした。
「ソウ。やっぱり、あなたは私にとって、あの頃と変わらない風紀委員だよ」ゲッコウもなんとか感情を抑えると、鼻を少しすすって言った。
「これを持っていけ」
そう言うと、ソウは胸元の鎧の中から一丁の回転式拳銃を取り出した。真っ先に反応したのは、ゲッコウだった。
「それ、私の。持っていてくれたの?」ゲッコウは受け取りながら尋ねた。
「捨てられずに隠し持っていた。見つかったらルナも私も大変だっただろうけど、やっぱりどうかしてたんだ」ソウは穏やかな顔で話した。
カヨコはずっと疑問に思っていたことを尋ねた。「ところでゲッコウ。名前について聞きたいんだけど」
ゲッコウは振り返ると、泣き腫らした目で答えた。「うん。本当はルナって名前なの。でもカイザーでは、警備員は匿名制だからゲッコウって呼ばれてた。あまり学校にも行かないから、ゲッコウって呼ばれ慣れちゃってて」
ゲッコウはくしゃくしゃな顔で笑って見せた。「それにルナは、できればソウにだけ呼んでほしかったから。皆は、今まで通りゲッコウって呼んで」
ゲッコウは涙の跡こそあったが、今ではすっかり元の元気を取り戻していた。
ソウがつぶやいた。「名前は?」
「……カヨコ。鬼方カヨコ」何気ない問いに、カヨコは素直に答えた。
「カヨコ、良い名前だ。さぁ、もう行け。仲間が待ってる」
「あなたはどうする?」
「ここで休む。私はここで行く末を見守る」ソウの目が虚ろになってきた。もうじき体力が限界だろう。
カヨコは立ち上がると、まだかがんだままのゲッコウに尋ねた。「どうする?ここに残ってもいいけど」
ゲッコウもカヨコの言葉で立ち上がると、何か覚悟めいた表情を浮かべていた。「分かってる、行こう」
いつの間にかサイロ連絡道への入り口を塞いでいた瓦礫はなくなっていた。カヨコは最後にソウに一瞥をすると歩き出した。ハルカもゲッコウも後へ続く。三人を見届けたソウは、満足そうな笑みを作ると穏やかに目を閉じた。