手前に見える山は、葉が付いておらず白い幹の木が薄い幕のように、白い山肌を隠していた。今、その幕越しにちらりと何か光るものが見えると、アルの体は反射的に後ろへ飛びのいた。すぐ後にはアルのいた地点に銃弾が直撃して、破裂音と共に大きなひびを作る。狙撃だ!アルはすぐにコンクリートの遮蔽物へ身を隠す。Tを逆さまにして伸ばしたものをぶつ切りにしたようなコンクリート製の壁に隠れて、アルは着弾地点を窺った。
ひび割れは直径二メートルにもなる大きさで、威力の大きさを物語っている。中心にめり込んだ弾は、アルのライフル弾より倍以上もあり、空気との摩擦で湯気が立ち上っていた。アルは体に直撃した時を想像してぞっとした。あれは本来戦車やヘリコプターに使用される対物ライフルだ。それを生身の相手に使うなんて!反則だ、という感想を押さえて、反撃の機会を窺った。
狙撃戦では自分の位置を知られずに相手の位置を知ることが鉄則である。アルは知らずのうちに身に着いた鉄則に従って、相手の位置を確認しようと少し身を乗り出すと、出し抜けに身を隠していた遮蔽が破裂して破片がアルの脇腹に強く当たった。よろけながら手をついて体勢を直すと、別の遮蔽物へ走る。身を隠す前に攻撃が来ないことを祈りながら、身を隠せる場所へ移動すると深呼吸を済ませてライフルと頭を半分ほど出す。スコープ越しに見えたのは、丸い視界を覆いつくす白い粒の嵐だった。少し探すそぶりをするが、諦めてすぐに武器をひっこめる。オアはこんな吹雪の中で狙撃をしていると考えると、途端に自分が劣勢に立たされた感じがした。
再び巨大な弾丸の立てる破裂音がすぐ後ろから鳴ったことで、向こうはこちらの位置を完璧に把握していることが分かった。狙撃戦の鉄則は、早々に通用しなくなってしまった。アルはせめて向こうの位置だけでも知りたかったが、吹雪が何層にも重なってオアを守るように山肌をぼやけさせている。ちくしょう!オアは自然さえも味方につけているのか!彼女の白い長髪を思い出し、あれが保護色となって余計に姿を隠すために好都合になっていることに気づいた。またしても不利な状況だ。オアは常に先回りをして、二重三重に罠を仕掛けて、常に自分が有利に動けるようにしている。今この時を嘆いても仕方がないのだった。
僅かに空気が押されるのを感じると、それが杞憂か危険信号かを吟味する間もなく、アルは再び姿を現して走り出した。すぐに背後から破裂音。アルは中央のHが丸で囲まれた場所で立ったまま、目を細くして手前の雪山を探った。オアはどこだ?大きな黒いライフルを目印に探したが、白い盛りご飯のような山には胡麻の一粒も付いてはいなかった。時間の限界を感じると、アルは少し後ろの遮蔽物へ退く。すると袖に隠していた無線機から、吹雪に混じって声が聞こえてきた。
「この弾の威力はどうだ?」アルは思わず無線機を見た。「これが当たるとさぞ痛いだろうな。こうして直接命中させなくとも、恐怖心を煽ることでたいていの奴は音を上げるんだ」
はっきりとオアの声が聞こえてきた。アルは無線機を起動すると、端から見れば独り言のように袖に話しかけた。「どうして、この無線はペアの機械としか」
「さぁ、どうしてだろうな?」
無線機は意地悪い笑い声を立てる。おそらく機械の向こうでは、首を傾げる癖も出ているだろうと、アルは考えた。
「幼馴染としてなるべく苦しまないようにしてやろう。ムツキは亡霊よりも死神の方が似合うと言ってたな。死神は英語で
どういうことだろう?今の無線はゲッコウにも聞こえていたのか?アルはこれ以上は考えないことにした。本当に神の仕業か、それともトリックなのか、もはや考える余裕はなかった。
向こうからは常にこちらの動きが見える以上、せまいヘリポートで姿をくらませることはできそうにない。向こうはこちらを見逃さないように同じポイントから狙撃をしているだろう。消耗戦だ。すべての遮蔽が破壊される前に、オアを見つけ出して倒さなければ、自分も地面に散らばったコンクリートのようになるだろう。アルは腹を決めた。腰ほどの高さの遮蔽をライフルの支えにして、すさまじい集中力で吹雪をかき分けて敵を探した。少しでも怪しいものを見つけたら撃って確かめてやるわ。そう考えていると、白い雪化粧の中に黒い靴を発見した。うつぶせの体勢になっており、膝らしき部分より前は、木に隠れて見えなかった。
アルの体に電流が走ると、左肩に触れている銃床が発砲の衝撃で押される。靴があった場所はたちまち爆発して、白い煙が大量に発生した。今の一撃がどれほど効果があったかアルは確認したかったが、しばらく煙が消えるまで待つ必要があった。スコープの倍率を変更して、難を逃れるオアの姿を見逃さないようにしようとしたアルは、背後の壁に取り付けられたカーブミラーが丸まった背中と特徴的なコートを写していることに気づかなかった。
意識の外から思い切り頭を蹴られたような衝撃で、アルの思考を伝える全ての回路が止まった。勢いのまま地面に頭から叩きつけられると、構えていたライフルは手で持っておられずに、すり抜けて地面へ倒れる。接地面が冷たい雪で急激に焼けるような感覚がしたが、体を動かす気になれなかった。手を動かすことさえも億劫になったようで、アルの体は抜け殻のように倒れて動かなかった。雨のように上から流れる吹雪の光景を何も考えずに観察していると、袖口に隠すように取り付けていた無線機から、ゲッコウの声が聞こえてきた。
「アル社長、大丈夫?すごい音がしたよ!」
アルは返事をしようとしたが、口が動かなかった。何とか話そうと、腹から空気を追い出すように唸ると、ゲッコウが聞き返す。「大丈夫?もしかしてオアの狙撃を受けたの?まずいよ、何とかそこから逃げて身を隠して!」
自分を鼓舞する仲間の声を聞くと、アルの体にかかった呪縛が少しずつ解けて動けるようになってきた。腕の力で上半身を起こすと、向こうの山にいるであろうオアのことを気にする余裕もなく、ライフルを右手で拾うとまだ破壊されていない遮蔽にうずくまるように身を隠した。頭が極度の頭痛のようにがんがん痛み、平衡感覚が欠けて波の上で揺らされているような不快感があった。
「大丈夫。まだ、何とか生きてるわ」アルはあまり話す意思もなかったので、口数少なく返す。
「アル社長。オアが使っているのは対戦車ライフルだよ。一発の威力が戦車の強靭な装甲を一撃で貫けるほどに強力だから、絶対に受けないようにして。オアのライフルは特別な弾を使用するから、装填排莢は一発ずつ手動でやらなきゃいけない」
ボルトアクション式ってことね、とアルは心の中で相槌を打った。
「一発撃ったら、次の攻撃まで隙ができるはずだよ。その間が反撃のチャンスになるはず。それにライフルはかなりの重量があるから、雪山で抱えての移動は困難だしかなり目立つ。オアは一か所に留まって狙っているはずだから、頑張って見つけ出して。かなり危険だけど弾をわざと撃たせてマズルフラッシュで位置を確認する方法もある。オアは予知能力も持っているから姿を隠しきるのは無理だよ。急いで決着をつけて!」
話し終えるとヘリコプターのスラップ音が混ざり、通信が切れた。向こうも大変なのに、こちらを気にかけてくれていたことにアルは感謝した。皆の信頼に応えねば!そう思うと体に熱が入り、雪でしもやけができているのも全く気にならなくなった。アルは意思の生み出す力に驚きながら、今もこちらを意地悪く傍観し続ける敵のことを考えた。背中に積もる雪も気にせず、自然の一部のように動かない体。白い息を洩らさぬようよう薄くなった呼吸。こちらを睨む象の鼻のように長い銃身は、先端が金槌のように出張っている。彼女に負けてはいけない。絶対に勝たなきゃいけないのよ!
アルは前転のように低い姿勢で飛び出して、立ち上がると走りながら山を見た。まだ撃ってこない。端の遮蔽に身を隠そうとするそぶりを見せると、反復横跳びのように立ち止まって元来た場所へ走る。オアの見えない銃はまだ火を吹かなかった。こちらの狙いに気づかれたか?アルは心配しながら、また振り返って走ると今度は山へ向けて適当に三発ほど威嚇射撃をする。着弾した木は勢いで揺れて、枝から雪が落ちた。地面に積もり固まった雪は、いくらかの破片が坂を転げ落ちていた。アルは走った先の遮蔽へ身を隠して、どうすればオアの銃が火を吹く瞬間を目撃できるかを考えた。オアは全ての射撃で、こちらが自分を見ていないと判断した時にしか撃っては来なかった。アルはこの戦闘の一部始終を思い出して、消去法で大まかな位置を割り出せないか考えていると、視界の端に地面へ落ちているカーブミラーが見えた。先ほどの痛烈な一撃を思い出しながら見つめていると、鏡が向こうの雪山を写しだしているのが分かる。アルが身をかがめて鏡の世界の雪山をよく見ようとすると、山の中腹辺りで綺羅星が光った。
破裂音はコンクリートの壁を粉々に砕くと、大小さまざまな塊をアルの体へぶつけた。とっさに頭を守ったが、衝撃で体が横に転がってしまう。腕や背中、足に砂埃がかかって再び倒されるが、手が即座にライフルに伸びると、うつぶせのまま雪山を正面に据えて、腕や肘に砂利が食い込むのも気にせずにスコープを覗く。鏡で見た光の位置を急いで念入りに探ると、黒く長い首と角ばった頭が、木の後ろへ隠れる姿がちらりと見えた。
相変わらず吹雪はひどかったし、見えたのもほんの瞬き程度の間だったが、アルは今度こそ確信した。枯れ木は後ろに隠れるオアを守るように枝を大きく広げているが、頭は重力に引っ張られて下を向いている。オアはそこから動く気配はなかった。万事うまくいっていると考えながら、裏で銃に弾を込め直しているのだろう。
アルは伏せたまま考えた。スコープの視界を広げて周りをよく調べる。距離、山の傾き、雪深さ。アルの顔に僅かだが勝利の色が見えた。よし!これなら何とかなるかもしれないわ!ただし、気づかれないように。慎重に、確実にこなすのよ!
アルは立ち上がると、冷えた両手を重ねてほぐした。そして顔につけて上下にこすると、今度はその手を腕から大きく回して肩を動かす。それが終わるとライフルを持って別の遮蔽へ走っていった。体の支度はできた。
アルはまた頭と武器をコンクリートの上に出すと、倍率を低くしたスコープでオアの地点を気づいていないように見た。丸い視界に写る世界は、何も変わらなかった。オアは同じ場所から僅かだが確かにこちらを監視しており、さあやってくれと言っているようだった。吹雪は向こうの山でも同じ様子で、枯れ木の枝の先を揺らしている。
アルは物陰から走り出すと、すでに半分しかなくなっている遮蔽に滑り込んだ。さあここからが肝心だぞ。うまくやるんだ。アルは狙撃で大切な上半身を完全に守るように隠れると、左足を少しだけ伸ばした。今オアの方からは、小さなコンクリートに足が一本生えたようになって見えるだろう。アルは歯を食いしばって静かに時を待った。きっと激痛が走るだろう。最悪折れてしまわないだろうか?アルは無意識に隠れようとする足を無理やり押さえつけて、オアが餌に食いつくのを待った。
その時はついにやってきた。ただしオアが食いついたのはアルの足ではなく、上体を隠していた遮蔽の方だった。爆弾が背後で爆発したような衝撃を、アルは前転で受け身を取るようにすると、うずくまって体へのダメージが大きいように見せかける。アルはこちらを見て笑うオアの顔を想像すると、手に持ったライフルを前にやって伏射の上体になる。
アルの目はちらっと中腹の枯れ木の方を見た。煌々とヘリポートを照らす光は、吹雪の間を潜り抜けて向こうの山も薄く照らしている。オアの影はまだ動いていなかった。手からはライフルらしき細長い影が縦に伸びて、黒い珊瑚のような木の影に吸い込まれている。
アルは渾身の一撃を、山の頂点近くに向けて放った。はっきりと撃ちだした感覚はあったが、飛んで行ったきり何の反応もなかった。まだ炸裂しないのか!普段なら一瞬で敵の懐へ飛び込むはずの弾も、この時ばかりはとてものろく見えた。すぐにオアが振り返ったら手遅れになってしまう。やがて山頂近くに鈍い赤の花がぱっと咲くと、白い山肌は硝子のような破片となって坂道を下り始めた。さあ、白く巨大な手が静かに斜面を流れていく。時々出ている枯れ木は雪に揺らされて、そろそろ根元から折れるものも出てくるだろう。あと、十メートル、八メートル、六メートル、四メートル、二メートル!頼むから、振り返らないでちょうだい!よし、捕まえたわよ!さあ、これでも食らいなさい、天唯オア!
足元に降りかかった雪の最初の感覚で、オアは振り返った。洪水のように襲い掛かる雪崩を、泳ぐような体勢で受けるオアの姿が見えた。抜け出そうとして上体を起こした。波状になった雪崩の第二撃が襲う。口が大きく開いて、吹雪の環境音に混じってアルの名を叫ぶ声が、こちらまで聞こえてきた。やがて雪色の髪が波を描いたのが見えると、あとは白い大雪崩。流れはますます速くなる。
「よし!」アルが思わず叫ぶと、声は向こうの山に木霊して返ってきた。
アルは考えた。オアの頭に浮かんだものは何だろう。冷たい雪によって押しつぶされる体。命の温もりを容赦なく奪う冷気。この極寒の地で自然の一部となる運命を突き付けられて、彼女が最後に思うものは何だろう。幼馴染の顔か?それとも仲間か?輝かしい過去?アルは斜面を下っていく白い棺桶を、神妙な顔つきで見守った。
今では雪の流れは、優に百メートルを超えてなお滑り落ちていた。通った後の木は上の方は生き残っていたが、中腹になるにつれて数は減っていき、やがて見えるのは一本もなくなった。雪崩は轟音を山中に響かせながら、見えないほど暗い谷底へ吸い込まれていった。アルは夜空を見た。そのとき、ヘリポートにサイレンが三度響いた。次いで誰のものとも言えない無感情なアナウンス。
「ロケットが最終の発射体勢に入りました。スタッフは至急退避壕へ避難してください。繰り返します……」
アナウンスは同じことを繰り返すと、再び鳴り出したサイレンは止まらなかった。アルは最後に振り返って激戦の後を見渡すと、扉を開けてサイロへと走っていった。社員たちは無事だろうか。