鬼方カヨコはこれまでの人生の中で、今が一番身体を酷使していた。何度拭っても体中から汗が噴き出しては、開いた天井から吹き込む冷気が急激に体温を奪っていく。心肺はソウからの連戦で疲弊しており、吸い込む空気の量を間違えたら破れてしまいそうだった。手の筋肉は震えてトリガーを引きかけ、足は中心を通る骨が悲鳴を上げていた。ついでにドーム内に響き続けるやかましい騒音が、頭を固く掴んで小刻みに揺らしているようだった。
そんな状態でもお構いなしに、ヘリコプターに装備された機関銃がこちらを急かすように睨みつける。カヨコはあまりその場から動かずに、向こうが仕掛けてくるのを待った。するとヘリコプターの主回転翼がこちらに傾いて、回転のこぎりのような翼が迫ってくる。機体が上空へ向かうと、キャノピーで操縦桿を握るアスの金髪が見えた。後から機関銃の小刻みな発砲音。カヨコは右へ倒れこむように回避すると、ヘリコプターは発砲を止めて機首をこちらへ向ける。
何度このやり取りをしただろうか。これではサーカスのライオンだ。燃え盛る輪の中を何度もくぐれと鞭を打たれては、百獣の王も滅入ってしまう。カヨコは今再び機関銃と目が合うと、火の輪と向き合ったライオンの気持ちになった。
ヘリコプターに乗った二人だけがこの状況を楽しんでいた。ハルカは先の戦闘での負傷が激しく、普段ならなんてことはない機関銃や手榴弾の攻撃にひるんでいる。ムツキは執拗に機関銃でヘリコプターを狙い、タイミングを見計らって爆弾を投げているが、高度のあるヘリコプターには余計に攻撃が通りにくく体力の消耗と残弾数の心配があった。ゲッコウは言うまでもなく拳銃では損傷を与えられず、せいぜい注意を引いてやることしかできていなかった。オルの擲弾や機関銃の攻撃は単調だが威力は侮れず、加えて毒ガス兵器は着実に体を蝕んでじわじわと追い詰められている。カヨコは目の間を指でつまんで眼球の疲労感を誤魔化すと、両手で拳銃を握りしめた。
巨大な昆虫の顔のような機体は、サイロの電灯を下から受けて、より不気味さを増していた。主回転翼は羽音を立てて空を切り、月の光に重なるときらきらと光を反射した。ヘリコプターの腹の中に収まったオルは、操縦席のアスに通じる通話口から話しかける。
「おい、お客さんは大分ばててきてるぞ。燃料はあとどれくらい持つんだ?」
アスは座席の後ろから聞こえてきた仲間の問いに、振り返ることなく返した。「あと一時間が限界だ。そろそろ楽にさせてやった方がいいかもしれないな」まるでパーティーにも飽きてしまったような口ぶりだった。
「ならこれで仕舞いにしようか。最後にどでかい花火を打ち上げてやろう」
ヘリコプターが右へ旋回すると、カヨコとオルの目が合う。さっきまでと同じやり取りだ。だが何かが違う。オルの冷ややかな瞳が、マスクの上からこちらを見ている。背筋がぞくっとした。ゆっくりとヘリコプターはこちらへ近づいてきた。
「体力はどうだ?」さきほどの興奮混じりの声とは打って変わって平坦な声だった。光が鼻筋や髪の影を濃くして、穴蔵から覗く熊のようにも見えた。
「おかげさまで、とっくに限界だよ」カヨコは肩で息をしながら言った。「インターバルでも取ってくれるの?」
「それはないな」オルの濃い茶色の瞳が、カヨコをつまらなそうに見つめた。「もう十分だ。このパーティーを終わらせることにする」
「へえ」
カヨコの汗で湿った手に力がこもった。視線をオルから離さずに、視界の端で仲間の確認をする。特に有効打を与えられそうなムツキとハルカは、何やら二人で話し合っていた。打開策があるのだろうか?
「一人ばっかり狙わないで、オル。私も相手なんだよ!」
カヨコの隣に、拳銃を構えたゲッコウが走り寄ってきた。首筋の汗が照らされて、薄着な分寒そうな印象を持った。オルは横目で姿を確認したが興味はなさそうだった。
「いたのか、ルナ。蚊の一噛みみたいな攻撃しかしないから気づかなかったよ」ゲッコウは今の一言が頭にきたようで、六発の銃弾を全てオルに向けて撃ったが、ジャケットに当たったのは二発だった。残りは穴の周りにはじかれるか、外れて中へ入るだけだった。
ヘリコプターはその場から動かずに空中で留まっていた。オルは座席の奥に上半身を隠すと、擲弾発射機の代わりに背丈以上の大きさで取っ手がついた筒のような武器を取り出した。携帯できる大きさの迫撃砲のようなもので、先端には羽のついた黒いスイカのような爆弾が装填されている。オルは肩で抱えずに、両腕を下げて砲弾をこちらへ向けた。
「とどめにはこいつをくれてやろう。俺も実戦で使うのは初めてでな。DA弾頭を小型化した爆弾だ」
ヘリコプターは徐々に高度を上げていく。「このサイロの蓋は頑強だから、ロケットが暴発する危険はない。安心して実験台になってくれ!」
オルが叫ぶとヘリは機首の方へ傾いて、安全な距離まで離れようとする。最後に地面に向かって垂れる焼き切れたロープが、主回転翼の羽ばたきで地上から離れようとしていた。
カヨコは視界の端で、こちらへ走ってくる紫と黒の重なったものを捉えていた。ヘリコプターの足元でぐんぐん二つの色が大きくなると、機体の足元から垂れたロープと重なる。紫が空中に上がった。黒も付いていく。ヘリコプターは、まっすぐ空に昇って行った。電灯に照らされてヘリコプターへの視線上に重なると、ロープにしがみつく紫色の少女の姿がはっきりと見えた。
ハルカだ!なんて無茶をするんだ!ロープが切れて落ちてしまわないか?吹雪と機体に振り子のように揺られて、投げ出されてしまうのではないか?
隣でゲッコウは叫びそうになっていた。ムツキは空に上がるハルカを見守っている。ロープを両手でつかみ、両足ではさんで、少しずつ腕の力で機体の足へ迫っていく。ムツキの黒いボストンバッグの紐を肩にかけて背負っていた。
オルの姿が小さく見えると、穴蔵から砲身が飛び出てくる。今こちらを見た。ゲッコウはすかざず給弾を済ますと、ヘリコプターに向けた。
ぱんぱんぱん。耳元で鋭い音が聞こえた。弾丸は機体にはじかれて、下へ落ちていく。ハルカが登る手を止めて、揺れに耐えている。
カヨコはゲッコウの手を止めた。カヨコはまだ撃ち返すのを控えていた。狙いが外れたらハルカに危険が及ぶし、いつ撃つべきかカヨコは心得ていた。
よし来たぞ。オルの顔が少し穴から出てきた。まだだ。月を背にして、ヘリコプターとオルの黒い影が映る。迫撃砲が少し持ち上がった。ハルカはあと三メートルで手が届く。オルが穴の中から身を乗り出した。
カヨコの拳銃が二発鳴った。黒い顔がぐいと天を仰ぐのが見えると、後は黒いヘリコプターの影。ハルカはあと一メートルのところまで迫っている。今のでオルをどれだけ足止めできるだろう?今真下を見られたら、ハルカは真っ先に狙われてしまう。あと五十センチメートル。穴の淵に手がかかった。すぐさまもう二発撃つ。音を聞いて手はひっこんだ。
ハルカの手の影がヘリコプターの足にかかった。体が持ち上がって影が重なる。
「ハルカちゃんが降りてきたら、どうやって助けよっか」近くに来たムツキは、手に機関銃を持っていた。
「落ち着いて」カヨコはそわそわしているゲッコウに静かにつぶやいた。
ばーん。
ヘリコプターの穴の輪郭が、赤い火に一瞬照らされた。
機首が少し右を向く。
ばーん。
機体が大きく右に傾いた。
右側の穴からオルの姿が、火に照らされて影絵のように動く。
ばーん。ばーん。ばーん。
赤い火が穴の中で光っては消える。ヘリコプターはここに来て高度を上げ始めた。機体は右回転を続けている。
ばーん。ばーん。
今度は左に傾いた。
右に、左に、機体が揺らされ続ける。
どかーん。
ヘリコプターの両穴から火が噴き出して、機体を包み込む。補助回転翼が赤く光ると、遠くに響く爆発音が聞こえた。
「爆発した!」ムツキが声を上げた。
「ハルカは大丈夫なの?くるくる回って落ちていくよ!」ゲッコウも心配そうに叫んだ。
「ハルカ」カヨコは機体を見上げたままつぶやいた。
ヘリコプターはコントロールを失ったようで、火の消えかかった木炭みたいに黒い体に赤い斑点を光らせながら、酔っぱらったようにひょろひょろと落ちてくるようだった。主回転翼はまるで自分が本体になったように機体を振り回しながら、吹雪によってサイロの外へ流される。
火の手を上げるヘリコプターから、大きな人影がこぼれた。空中で抱き合っているかと思うほどの距離で、ハルカとオルが互いを掴んだまま落ちてくる。上と下がルーレットのように回って入れ替わる。カヨコは落下するであろう地点へ走った。ムツキ、ゲッコウも一緒になって走る。
二人はまっすぐ落ちていた。サイロに入る直前にハルカが体をねじると、オルが下にくる体勢になった。やがて二人の体が激しく打ち付けられると、銃声にも似た痛々しい音が響いた。ハルカはオルの上から退くと、崩れるように地面へ転げ落ちる。すぐに近寄ると、唸っているハルカの体の損傷を確認した。どこも折れてはなさそうだった。ムツキはハルカの頑丈さに賭けたのだろうか、それともハルカが自ら志願したのだろうか。おそらく後者だろうとカヨコは考えた。ハルカの気迫に押されてバッグを託して、無茶をしないよう念を押すやり取りが容易に想像できた。
カヨコはハルカを背中でおぶると、夜空を落ちてくる鉄の昆虫と中に収まる亡霊の姿を見た。操縦桿を力一杯握りしめながら、数字が減っていく高度計を見つけるアス。おそらく歯を目いっぱい食いしばっているだろう。
「あいつもこれで終わりだね」ゲッコウが短くつぶやいた。
激しいきりもみ飛行を全員で見守ると、ヘリコプターの姿はサイロの外へ消えていった。空に残ったのは黒煙だけ。それも吹雪に追いやられて、すぐに見えなくなってしまった。一同はしばらく静かに消えていった方向を見つめた。夜空の端の方がぱっと夕暮れのように赤く染まると、世にも恐ろしい轟音が聞こえた。やがて足元を伝って体の内側まで響くがしゃーんという音がすると、がらがらと大小さまざまな破片が飛び散って転がる音が聞こえた。
騒音の木霊が耳に残っているような感覚が消えると、あとは静寂と吹雪の唸り。
カヨコは長い悪夢からようやく目覚めたように、深いため息をついた。では、これでスペクトルは全員片付いたのだ。残忍で冷酷で、戦場のテンションと血に飢えた亡霊たちだった。ロケット基地に憑りついて危うく世界を壊しかけた漫画の敵のような連中だったが、これが最後のページとなるのだ。
カヨコは額に手をやると、汗を拭った。ムツキはその場に座り込んで、あーあーと言っている。ゲッコウは目にかかった前髪を後ろへかき上げる。ハルカも短くも長い夢から覚めたようで、おぶられていることに気づくと弱弱しい声で謝罪の言葉を口にした。一人で歩けるというので降ろすと、少しふらついていたが五体満足のようだった。
「ここから逃げようよ」ゲッコウは急き立てるように言った。「もう、たくさんだよ」
「いや、まだやることがある」カヨコはそう言うとコンピュータ室の扉を見た。「ロケットを破壊しないといけない。この下の蓋を開けばロケットがある。間違いない?」
カヨコが事務的に問いかけると、ゲッコウは頷いた。「床を開けるには部屋で操作をしなきゃだめだよ。待ってて、今開けてくるから」
そういうとゲッコウは扉へ小走りで向かう。カヨコは走り去る背中を見届けると、目の前に倒れているスペクトルの残党を見下ろした。
おかしな呼吸音を立てながらオルは仰向けに倒れていた。フライトジャケットはハルカの落下の衝撃で大きく凹んでおり、衝撃のすさまじさを物語っていた。顔がこちらを見ると、消えてしまいそうな声で話した。
「まさか、こんな方法で倒されるとはな。なんてことだ」
カヨコは片膝を立ててかがむ。「あなたたちの負けだよ。ゲッコウがコンピュータ室に入ったということは、リモコンでの制御がなくなったってことになる。ボスももう倒されてる頃だろうね」
オルはリモコンの辺りで反応すると、短い笑い声を立てた。「そうか、そういうことか」
「何がおかしいの」カヨコが目を鋭くして聞き返す。
「よく耳をかっぽじっておくんだな。面白いものが聞けるだろうよ」
出し抜けにサイレンがけたたましく鳴り響き、赤いランプが点灯すると回転しながらサイロを照らす。突然の出来事にびくっとすると、嫌なメッセージが聞こえてきた。
「ロケットが最終の発射体勢に入りました。スタッフは至急退避壕へ避難してください。繰り返します……」
カヨコは飛び上がると、コンピュータ室の方を見た。そこには壁の防弾ガラスの向こうで計器を操作するゲッコウの姿があった。