退避壕一階は次から次へと襲い来るガス弾によって、ほとんど様子が分からなくなっていた。鬼方カヨコはハルカを見失わない距離に立って、ガス弾を放り込む元凶に一撃を与えようと上を確認する。しかし煙幕とそれに乱反射する部屋の明かりで階上はかなり視認が難しくなっていた。さらにもう一つ何かが放り込まれる。爆弾かそれともガス弾か!ただの煙幕弾かもしれない!確信が持てない以上カヨコには避ける選択肢しかなかった。コンテナに飛び込むように身を隠すと同時に、弾は破裂して白い煙を大量に吐き出す。興奮を隠さないオルの笑い声が退避壕中に響く。カヨコはほとんど見通せない周りを確認して、頭をいつもより早く回転させた。ハルカはどこだろう。社長とムツキは無事だろうか。煙に巻かれ自分以外のものが分からない中で、カヨコの脳裏には仲間たちの顔が浮かんだ。
カヨコは元来一人には慣れていたし、孤独を楽しむ術も知っているほどには単独行動が多かった。ひそかに可愛がっている野良猫や、長く使っている音楽プレーヤーがあれば退屈することはなかった。それでも便利屋としての活動が長くなると、以前ほど孤独を受け止めることはできなくなっていた。ふと肺をつかまれるような感覚がして息が詰まり嫌な汗が額から滑り落ちる。考えを巡らせすぎた結果、カヨコはほんの数秒だけだが最悪の結末を想像してしまった。
頭を振って想像を頭から押しやると、次に考えを支配したのはこの混乱の中でも銃を乱射して食らいつくハルカだった。銃声がした方を見ると、わずかに彼女の姿が見える。まだ倒れてはいなかった!アルとムツキの声が聞こえなくなったことに気づいたハルカは、オルの固いブーツが通路を歩く時に立てる音に向けて、大して狙いもつけずに銃を打っているようだった。そして今彼女の銃口は、カヨコの頭上を睨んでいた。
すぐ目の前を落下した深緑色の玉で、カヨコの意識は現実に引き戻された。ハルカが私の名前を叫んでいる。足元を見て、それが今までのガス弾と違い明確な殺傷能力を秘めた手榴弾と気づくと、反射的につかんで上に放り投げた。カヨコが投げた手榴弾は手元を離れてから一秒後には、やかましい轟音と熱風をまき散らす。判断があと一秒遅ければどうなっていたことか!カヨコはハルカの元へ飛び出すと、爆発の黒煙に混じるオルの体に狙いをつけた。続けて三発、カヨコの銃が火を吹く。どうやら命中したらしくオルはジャケットの被弾した箇所をつかんで唸った。
爆弾を投下する手が止まって視界が晴れ始めると、ハルカはカヨコの近くへ駆け寄る。その顔は怒りと恐怖と安堵が入り混じり、青ざめていたがカヨコの無事な姿にひとまず安心したようだった。階上通路からオルは二人を見下ろす。その顔は戦場がもたらすテンションと分泌されるアドレナリンによって、表情筋が許す限りの笑みを浮かべていた。飛び出そうなほど大きく開かれた目でカヨコとハルカを凝視すると、興奮冷めやらぬ口調で話し始める。
「やはりこうでなくてはな。元気があるのは良いことだ!」
「病人みたいなマスクしてる奴がそれを言うんだね」これまでの仕返しの意を込めて精一杯の皮肉で返すと、語気を強めて問いかける。「社長とムツキをどこへやったの?」
鋭い目で睨みつけると、オルは芝居がかったように両手を挙げて肩をすくめる。「安心しな。別のところへ配送しただけさ。ボスはあんたらの社長に興味深々でね」言いながら、こちらを見据えると最初の面倒くさそうな様子に戻る。
煙はいつのまにかどこかへ消えており、呼吸がしやすくなっていた。少なくとも二人は外へ放り出されたりしたわけではないことが分かると、普段の冷静さが戻ってきた。
「さて、本当はもう少し遊んでやりたかったしお前たちがガスで苦しむところをじっくり観察してやりたかったんだが、生憎俺はこの後の予定が詰まっててね。有名スイーツ店でデートじゃないぞ。お前たちを待っている間にたまってしまった、スペクトルの仕事を片付けなきゃいけない」最後の方は強調するように話す。
カヨコはなんとなく、オルがスペクトルのメンバーではないかと予想していた。予想は的中した。「仕事?私ならガスボンベを背負った人をロケットに近づけるなんてリスクは犯さないと思うけど、安全管理は大丈夫なの?」
「何も仕事はロケットだけじゃないさ」カヨコへの返答に若干不機嫌な色が見えた。
オルは銃を腰のベルトに固定すると、大きく深呼吸をしてガスボンベから空気を吸い込んだ。カヨコは銃の狙いをゆっくりと、オルの体から背負ったガスボンベに向けた。オルが着用しているフライトジャケットは、おそらく防弾の役割も兼ねたものだろう。先ほどの決死の反撃を受け止めた様子からの結論だった。彼女への攻撃は本体よりも、生命線と見えるガスボンベのほうが効果は見込めそうだった。オルはもう一度二人の顔を見ると、誰かに呼びかけるように言った。「いいぞ」
何もないはずの天井から人ほどの大きさのある黒い塊が落下して、オルの右隣に静かに着地した。それがゆっくりと立ち上がりヘイローのついた人間と分かるのに、二人は時間を要さなかった。仲間か!一体どこから出てきたのか。ふんわりした黒髪を首が見える程度に短く揃えた彼女は、黄色い目を携えた整った顔には全く似合わない黒鉄の鎧を身に纏っていた。もしくはロボットの体に少女の顔がついているのだろうか?二人の間に狙いを定めてカヨコが憶測をすると、鎧を纏った彼女が静かに透き通るような声で喋った。
「ボスの伝言だ、遊びすぎだオル」
「散々待機させていてこれか!人使いの荒いことだな」オルは自分よりも拳一つ背の高い彼女に吐き捨てるように言うと、階下の二人に向き直って話す。
「こいつは天独ソウ。これからはこいつが相手になる。心配しなくとも、お前たちの最期はこの特等席から見守っていてやるよ」そういうとガスボンベを背負い続けて酷使した肩を労わるために壁にもたれかかった。
ソウと呼ばれた鎧の彼女は柵に手をかけることもなく軽々と飛び越すと、カヨコとハルカがいる階下へ着地した。衝撃がコンクリートを伝って足元を震わせる。こちらを見る目は満月のように黄色いが、電灯の光を反射することなく吸い込んでおり白目に絵の具をそのままべた塗りしたようだった。
ソウの右手がぱっと上がると前腕に取り付けられた二つの銃口が一斉に唸った。体を右にやって回避をすると、銃弾はカヨコのすぐ近くをチェーンソーのような音を立てて飛び越し、後ろにあったコンテナの一面を食い破る。ハルカと同じタイミングで反撃。二人の弾は確かにソウの体に命中したが、オルと違って明確に効果がないことが分かるように平然としていた。ハルカと離れて、それぞれのコンテナに身を隠す。銃声が止むと、左半身だけ出してさらに二発打ち込む。ソウの光のない目がこちらと合い、左手がこちらを向くそぶりを見て身を隠す。すると今度はコンテナを隔てて爆発音。その衝撃で床を擦りながら動いたコンテナに小突かれる。左からハルカの発砲音がしたが、耳をつんざくような機関銃の音でかき消されてしまった。
カヨコは自分たちにこんな厄介ごとを持ち込んだCLGの二人を呪い、舌打ちをした。なんて厄日だ!毒ガスの混乱で半分に分断され、次はこちらの攻撃を全く受け付けない相手からの一方的な攻撃に苦しめられる。自分たちの普段の行いを振り返るが、少なくとも直近でこんな仕打ちを受けるような悪事はした覚えがなかった。
ソウの様子を伺うと、視線はハルカに向いており彼女の横顔が見えた。そうだ、顔だ!カヨコは注意深く拳銃をソウの頭に狙いをつける。ソウはまだハルカに気を取られていた。頼むから気づかないでいてくれよ!祈るようにしながら照準が側頭部を捉えると、すかさずトリガーを引いた。
カヨコが打ち出した弾はソウの頭部を捉えて一直線に飛ぶ。しかし弾は、突如進路を阻んだ彼女の鋼鉄の腕にはじかれてしまった。ソウは自分の弱点が良くわかっているようで、冷静な相手の攻撃目標がどこへ行きつくか予想していたようだった。再び攻撃の矢印が自分へ向くと、身を隠した私にハルカが再び叫ぶ。
「カヨコ課長!!」
その声は差し迫る危険を伝えているようだった。とっさにコンテナの陰から飛び出した直後、身を隠していた鉄の箱は爆発と共に完全に破壊され金属音を立てて崩れた。先ほど自分がいた場所はすでに火の手に包まれて火花を散らしている。カヨコはこの短時間で二度も危機を救ってくれた仲間の元にたどり着くと、状況が未だに処理しきれていないハルカを安心させようとなるべくいつもの声で話す。
「ハルカ、いったん撤退しよう」
こちらの提案にハルカは驚いた様子だった。「で、でもアル様とムツキ室長は……」
「あの二人ならきっと大丈夫だよ。こっちの攻撃が効かない以上逃げるしかない」
今の自分に思いつく打開策を提示するが、ハルカはまだ迷っていた。やはりアルが気がかりなのだろう。ハルカにとって彼女の存在が大きなものなのは、こちらも承知していた。少しの間があって、ハルカはあまり表情が変わらないながらも顔をこちらへ向ける。そして恐る恐る口を開いた時、私とハルカの目線の間を機関銃の弾が金属の板と空気を切る音をたてて横切った。
鉄の板を突破した一閃で二人は再び切り離された。カヨコは覚悟を決めて身を乗り出し、すでに身を隠すものがなくなった退避壕を走りながら、拳銃をソウでもオルでもなく天井へ向ける。そしてトリガーを引いた瞬間、銃口からこれまでと違う紫色の火が出ると同時に、体はおろか内臓に響くほどの悪魔の叫び声が退避壕中に響く。ちらりと二階を見ると、オルは突然襲いかかった衝撃に耳を押さえながら悶えていた。ソウも右手で頭部を守りながらも、混乱している様子だった。今しかない!カヨコはハルカの元へ向かいながら脱出路を探そうとして、普段の自分なら絶対に見逃すはずのない問題に気づいた。
最初この部屋へ来る時に使った通路は足元が落ちる仕掛けがあることは分かっていたので使うつもりはなく、カヨコはこの退避壕から基地の内部、つまりサイロの方へつながる通路に逃げ込もうとしていた。ところがどうだろう。この退避壕には自分たちが入ってきた箇所以外、どこにも出口のようなものが見当たらないのだ。つまり外の退避壕出入口から地下に伸びていた蟻の巣のような道は、この退避壕で行き止まりになっていた。目の前の光景が信じられず二階通路も見回したが、退避壕全体を形作っているコンクリートが嘲笑っているだけだった。やってきた方と向かい合う壁をよく見ると、微妙に入り口らしき箇所だけ壁の色が薄く、コンクリートで塗り固められていることに気づく。罠だ!敵はすでに侵入が分かっていて、私たちは罠に嵌められたのか!ハルカのために冷静を装っていた顔が思わず青ざめると、煙に巻かれながら振り払った悪い想像が再び顔を出してこちらを見ていた。
「ようやく気づいたか」
後ろから聞こえた無機質な声に一秒遅れて右足を後ろに思い切り蹴り上げるが、鋼鉄の左手に当たると雑に振り払われる。ソウはすでに回復して目の前まで迫っており、右手でハルカの襟元を掴んで足がぎりぎりつかない高さに持ち上げていた。そのまま左前腕から繰り出された10cmほどの大きさのミサイルは、直撃こそ免れたが爆発の勢いで体が紙のように吹き飛ばされてしまう。火薬の放った熱によって火傷をしたような感覚があった。
自分の体に構わずハルカに呼びかけるが、ハルカは何とか拘束から逃れようともがくのに必死だった。目の前の敵に銃を向けて、効果がないと分かりながらも残弾を打ち尽くすと、やがてトリガーのカチカチという空虚な音だけが鳴る。ハルカが振りかざしたショットガンが簡単に受け止められて引きはがされると、ソウは例の無機質な視線をこちらに向けてハルカの体を軽く放り投げた。
抱きとめる直前、ハルカの背後にこちらを向いた右手の黒い二つ目が見えた。
機関銃だ!カヨコは自動的にハルカを抱いたまま、ソウに背を向けた。できる限りハルカを固く抱きしめて覆うようになると、目を固く閉じて息を止める。
来るなら来い!覚悟はできてる!さっさとやれ畜生!
次にあのチェーンソーのような轟音。鋼鉄の両手にごく短い間隔で全力でぶたれ続けるような衝撃に、首の付け根を殴られてカヨコはハルカに覆いかぶさるように力なく倒れてしまった。