はるかリセットに登場するぽんこつ/干物女の広瀬が自分のためだけにチョコレートを買いに出かけるお話。
野上武志先生『はるかリセット』(秋田書店チャンピオンRED/チャンピオンクロス)から
エッセイ風二次創作
バレンタイン、それは愛という名の誘惑が街を満たす日。
チョコレートの甘い香りは、まるで恋そのもの。熱く熟した舌の上でほどけるたびに、溢れるのは歓喜か、あるいは甘美な罠か。ちょっぴりの苦みが後を追いかける。
誰かのために選ぶひと粒に込められた想い。指先でそっと包むリボンの柔らかさ。いつ、どのようにして手渡そうか。駆け引きでさえも、アクセントだ。
鼓動が高鳴る。期待がふくらむ。焦りに灼かれてちりちりと痛む。
そして最後には、唇に触れる瞬間を夢見る。
ふいごからたっぷりの情熱が注ぎ込まれて、心の炉は燃え上がる。
恋とチョコレートはよく似ている。
どちらも甘く、どこかほろ苦く、ときに溶け合いながら人を狂わせるから。
否!否否否!ちがう!ちがう!ちがう!シャラップ!
もはやバレンタインデーは恋人たちだけのものではない。断じてない。
いいや、恋人たちのためのものではないと高らかに宣言しよう!
それはチョコレート/ショコラを愛する者たちのための祭典だ!
これは僻みでも妬みでもなんでもない、『事実』なのだ。
1月下旬。デパートの特設会場にわたしはいた。
わたしの、わたしによる、わたしのためのショコラを手に入れにきたのだ。
そう、自分のためだけに買いにきた!
会場には大小たくさんのブースが設置され、欧州から日本まで多種多様な個性のショコラが集結している。どれもバイヤーの厳しい目と競争に勝ち抜いてきた、世界でも至極の一品たちだ。
他のクリスマスやら恵方巻やらなんやらの風習と同じように、新しい習慣として始まった本邦のバレンタインデーは長い偽りの時代を経て、ようやく本物の祭典へと進化した。つまるところ、毎年のように舌が肥えてゆくことでホンモノの味を求めるようになったのだ。
聞くところによれば、バレンタインにかける日本人の情熱は並大抵ではなく、この時期だけは世界中のショコラティエが日本のためだけに腕を振るってショコラ作りに勤しむのだという。この日本商戦でどれだけ活躍するかが職人としての格に影響するのだとか。
その話が正確かどうかはさておき、実際、近年は高名なショコラティエ本人が来日して販売に立つことも珍しくない。これは数年前では見られなかった現象だ。わたしたちはこの小さくて甘い宝石を口に運びながらも、どこか遠くのショコラの魔法使いに思いをはせていただけだったのに、今では手ずから売っているのだから驚きだ。
そして会場を見よ。ここに集う猛者たちの面構えをとくとご覧あれ!
彼女たちには愛とか恋とか、熱すぎて制御不能で危なっかしい、浮足立った曖昧な感覚に悩まされている様子は微塵もない。会場はただ騒然と、獲物を求めるハンターたちで溢れている。
自分のためだけに、我が舌と心を満足させるひと粒を得るためだけに集まっている。ここにあるのは貪欲なる執念による饗宴なのだ。
わたしが嫉妬と混乱のあまり錯乱していて、恋人を射止めようとする狩人と見間違えてるのかって?断じて、ちがう。その証明に彼女たちの本心に立ち入って解剖して確認するまでもないのだ。
だって、今日買ったショコラはバレンタインデーまでには賞味期限が過ぎるから。
そう、毎年のように早まる特設会場の開始日が何よりの証拠なのだ。かつてはバレンタインの前週、2月の頭頃から始まっていた準備期間は今では1月中旬、一か月ほど前から始まるようになっている。
匠の手によるショコラは鮮度が命で、足が早いものも多い。これらが何を示すかというと、ショコラを買いに出かけるのは一度や二度で済まないということだ。
熟練のハンターたちは早め早めに会場に足を運び、吟味し、味を確かめ、また足を運ぶ。この時期にしか手に入らないものも多いから、気に入ったものを再度手に入れるためだ。おびただしい出費に備えるために、ショコラフリークの女性たちはバレンタインデーのために一年かけて貯金しているケースだって珍しくない。
恋人に贈るものは最後の最後に買うだけだ。それが吟味に吟味を重ねた、真心のこもった真摯なる選択であるのか、散々楽しんだ後の「ついで」であるのか。
わたしは敢えて口をつぐんでおこう。
とにかく、わたしも一介のハンターとして会場入りしたわけだ。大の苦手で大嫌いな人混みとの闘いが始まる。
事前に手に入れておいた地図を片手に練り歩く。カタログと見比べて欲しいものと気になる店をマークしたお手製の地図だ。
デパートの特設会場は物産展などもそうだけど、たいていカタログとは異なる滅茶苦茶な配置をしているのでこうした準備が必要になる。思っていた通り、天井から吊り下げられたお店の名前が入った看板とカタログに振られた番号は順序が混沌としていて、まったく当てにならない。
やれやれ。
女性たちのショコラにかける狂気はかなり先鋭化していて、場所によっては事前予約制の会場もあるほど。予約できなかったものは午後入場の権利を得るために朝から並ぶ有り様で、流石にわたしも付いていけない。幸運にも欲しかったショコラはそういった会場にはなかったので助かった。
わたしのお目当てはジャンドゥイヤとプラリネだ。
ジャンドゥイヤはイタリア発祥、プラリネはフランス発祥でペースト状にされたナッツを使うところが共通している。わたしは特別ナッツが好きというわけではないのだけれど、香ばしさと甘さのマリアージュに心惹かれるものがあるのだ。
ナッツの種類によって風味が大きく変化するのも面白い。定番のアーモンドは手掛けるお店が多く、ショコラティエによって解釈が分かれていて比べるのが楽しい。ヘーゼルナッツは香ばしさよりも味わいの深さ、リッチ感が強く、ごほうびにはもってこい。最近増えてきたピスタチオは中身が緑で色鮮やかなだけではなく、ベリーなどの酸味と併せられることで味のグラデーション、彩りを与えてくれる。
味だけではなく食感もまた楽しい。プラリネは外側はかりっとしていて、中身はやわらかいものが多く、噛み締めるごとに硬軟が混じり合い、また口溶けによって味も大きく変化する。外側と内側を両立させるのは高度な技術が必要だそうで、ショコラティエの腕の見せ所だ。プラリネの技法でジャンドゥイヤを包むものも最近は増えていて、嬉しい限り。
今年のトレンドはビスケットやクッキーなどの純チョコレート以外を多く含んだショコラだ。カカオの高騰も影響しているのかな。いずれのショコラも値段がかなりつり上がっていて、ますます男になんて贈っていられない。
お目当ての店に着くとあれもこれもと買いあさってしまう。来年まで買えないかもしれないし、うん、これもチェックしてなかったけれど美味しそう!値段は敢えてみない!今はまだその時じゃないから!
ああ、定番のオランジェットも捨てがたいなあ。砂糖漬けのオレンジピールにチョコレートの組み合わせは単純なようでいて奥が深い。オレンジをどの洋酒でどれだけ甘く苦くするか、それに甘いチョコレートを併せるのか、スパイスを利かせるのか。場合によっては一番高価なショコラがオランジェットのお店もある。
後悔先に立たず、なんでも決めるのが遅いのがわたしの本性なのに、気付くと両手いっぱいにショコラの紙袋を抱えていた。だってあれもこれも食べたいし、お高いショコラ以外にも気軽につまめるタイプのショコラも欲しいし。しょうがないじゃない!
そうやって買って回っていると一際騒がしい長蛇の列を見つけた。その先にいるのは、ああ、なんか見たことある外国のおじさん、…ピエール・〇コリーニだ!
あのピエール・〇コリーニがチェキしてる…。
ショコラティエ本人が来日して、お店に立つことは珍しくないとはいえ、そうかチェキか…。国内のショコラティエでもカリスマ的人気を誇る人がいて、わざわざ撮影ブースを設けていたりすることもある。だとしてもおじさんと写真を撮ってもなあ。わからなくもないけれど、世界は広い、またショコラの沼は深いということか。
わたしが買いたいお店では並びができませんようにとごにょごにょ拝んでその場を退散した。
一息ついて会場を見回すと、同じように戦利品を抱えた女性たちがたくさん。
そうそう、美味しいショコラは自分で食べてなんぼのもの!
本当に美味しいショコラはね、女の子のためにあるの。
味のわからないガサツな男になんていいやつはあげなくてもいいの!
ハートやピンクのラッピングぅ~?腑抜けたこと言ってるんじゃない!
ごほうびにそんなものいらない!
実際にショコラの中でも特に高級なラインナップは、自分へのごほうびを想定したものに様変わりしている。ラッピングはシックかつ落ち着いたゴージャス。化粧箱は宝石のケースと見比べても遜色ないほど。
もちろんピンクでハートできゅんとしたラッピングのものも多いけれど、全体の半分くらいじゃないだろうか。
とはいえ、いわゆる男性への贈り物も手が込んだものが増えてきている。お酒の入った昔から定番だのチョコレートも、今は有名な酒造や希少価値の高いお酒を惜しみなく使ったものがどんどん出てきてブラッシュアップは続いている。
そういったショコラだって値段はどんどん上がってきているんだから、女の子から貰えた男はほんっとうに感謝した方がいいんだから!わたしはあげないけどね!
あ!しまった!
誰にもあげないつもりだったけど、数日後に観音さんと会うのを唐突に思い出した。
うーん、もう疲れてちゃんと考えられない。しかし、観音さんか。ビールの趣味は色々あって知っているけどチョコレートの趣味まではわからない。さすがにクラフトビールが入ったショコラはないし。
かといってお酒のチョコレートも安直すぎる感がある。だいたい、先ほどまでこき下ろしていた男性感の強いのを選ぶのは気が重い。お酒そのものは重たくて迷惑だし、冷蔵のまま渡すのが大変なのでパス。困った。
自分のことしか考えていなかったツケがここにきて回ってくるとは。友チョコという言葉がこの世に生を受けて随分経つけれど、友チョコにふさわしいチョコレートというのは意外と難しい。
調べたらすぐにわかってしまう値段に応じて重過ぎる軽過ぎるのきらいがあり、しかし改まって渡すからにはちゃんとしたものでないと。わたしはスマートに渡せないから。
うんうん唸りながら会場をのろのろと歩き回っていると、誰か、いや何かと目が合った。
猫ちゃん。
きれいな毛並みの黒猫が大きくプリントされた缶が置いてある。
「北海道産の素材を使ったチョコレートです!いかがですか~?」
これだ。観音さん、たしか旅先でよく猫の描かれたものをよく買っていたはず。これもまた安直の誹りは免れないけれど仕方ない。こればかりは運命に従おう。この出会いに圧倒的感謝。
「これください!贈答用で!」
こうしてわたしはたくさんの収穫とひとつだけの贈り物を携えて家路についた。
バレンタイン、それはショコラに狂った女子のための祭典。
男子および味のわからぬもの、立ち入るべからず。
(終わり)