ブルーアーカイブ短編集   作:肋骨肋

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戒野ミサキが溶かされる話

 酷く不愉快だった。

 

 低気圧と共にやってきた頭痛と降りしきる雨の中、やり場の無い苛立ちが心の中で反芻される。

 エデン条約の折に私達が犯した罪。追われる身となった現状。全てが自業自得であり、何処にも弁解する余地は無い。たとえそれらがもたらす影響がいかに自分を苦しめようとも、私はそれらをただ受け入れるしかないのだ。

 

 全てはただ虚しいもの。そう教わって生きてきた。別に何ら間違いだとは思っていない。

 私の肉体はただの器であり、死が私にもたらしてくれるのは生からの解放で。人はただ生きて死ぬだけの存在であり、そこに意味を求めるだけ無駄なのだ。

 だから私は少しずつ、少しずつ諦めるという決断をした。それが今の状況を招いたのか、そんな疑問を持つことさえも諦め、死へと引かれたレールの上をただ外れることなく歩いてきた。

 

 きっと俗世で友人と語り合い、日々を意味のあるものと位置付け、生を謳歌せんと奮闘する人々からすれば私は間違っているのだろう。そしてそれこそが王道であり、正義の面をして常識という暴力に成り果てたのだ。

 私は彼女らの正義に対しても諦めようとした。しかし、どうしても諦め切ることができなかったのか、自傷という手段を持ってそれに近づこうとしていた。

 まるで死体が生きながらえているような私の肉体に刃物を突き立て、痛みと共に彼女らと同じ赤黒い血が流れるのを見て、死体では無かったという事実に安堵していた。

 

 欠陥だらけの私の肉体と中途半端な精神が私を苦しめていく。だからこそ全ては虚しいという教義に私は賛同し、死は救いであると思えた。きっと私を否定することは簡単で、だから私は世界を否定できた。

 

 たった今私を苦しめている苛立ちも不完全な私の肉体が起こした現象で、いちいち気に止めるだけ無駄である。そう思えばいいはずなのにどうにも私の出来の悪い精神は思考を蝕んで止まらない。

 無意識の内にカッターナイフを手に取り、そして逡巡する。脳裏に浮かぶのはとある間の抜けた顔。

 

 先生、と名乗る大人。私達の襲撃のせいで生死の境を彷徨った彼。普通なら私達など恨まれて当たり前だが、彼は生徒の為に全てを捧げる博愛の人で、その傘にはどうやら私達も入っているらしい。

 とんだお人好しだ。殺されかけた相手を庇護しようとするなんて本当にどうかしてる。

 生徒の為ならと年中キヴォトスを駆け回り、その手の届く距離なら全てを助けようとする。まるで救世主にでもなったつもりの、私と真逆で、本来相容れない、初めて会った優しい大人。

 

 私の自分勝手な存在証明によって悲しみを浮かべる彼の顔を想像し、カッターナイフから手を離す。

 余程絆されてしまったらしい。彼と関わるようになってから自身の輪郭がぼやけてしまうように感じる。今まで積み重ねた16年と手首に刻まれた無数の傷が、彼との関係を否定させろと息巻いているが、それすら包み込む慈愛に私は溶かされてしまっているのだろう。

 

 宙に浮いてしまった私の気持ちの落とし所を探さなければ。いささか理不尽かもしれないが彼に責任があると断じ、ひび割れたスマートフォンで彼の連絡先を開く。

 モモトークの一番上に登録されている彼の連絡先。他に連絡をするあてなどないから、と誰に言い訳するでもなく固定したそれを開き、理由も告げずただ会いたいと送る。

 数分も経たないうちにお人好しの彼らしい答えが返ってきて、私はシャーレへと歩を進めた。

 

 

 

 日も沈みきり、夜の闇が全てを隠すような時間にも関わらず、彼はパソコンの前で書類と格闘していた。

 

「いらっしゃい、ミサキ。元気にしてた?」

 

「……別に。いつもと変わらない」

 

 作業の手を止め私に向き直った彼へぶっきらぼうに答える。博愛主義を疲労と共にその顔に浮かばせる彼へ、素直になれないのは私の性で、今更変えられる程軟弱なものではない。心の奥底にて彼への好意とやらが私の態度に不満を表しているが、容易く封じ込める。

 

「今日は連絡してくれてありがとうね。差し入れで欲しい物とかあった? スクワッドの皆の分も用意するよ」

 

「別にそういう訳じゃない。用事がなきゃ連絡しちゃ駄目なの?」

 

「そんなことないよ! ミサキから連絡してくれるようになって嬉しいよ」

 

 自分でも意地が悪いと思うが、いつかの意趣返しだと納得させる。彼に浮かべさせてしまった苦笑いとそれを心配する私の心を見ないふりして、平常心を心掛けて次の言葉を紡ぐ。

 

「それにしても……こんな時間まで仕事してるの? あまり人の心配ばかりしてる場合じゃないんじゃない?」

 

「はは……、今日はちょっと立て込んでて。恥ずかしいところ見せちゃったかな」

 

「どうせ生徒達のため、なんでしょ。はぁ……、何か手伝えることはある?」

 

「大丈夫だよ。ミサキはゆっくりしてて」

 

「そんな隈ができた顔で言われても従えない。最後に鏡を見たのはいつ?」

 

「うっ……。じゃあ書類の仕分けとファイリングを手伝ってもらってもいい?」

 

「分かった」

 

 生徒たちのためなら自分の身体の心配などしていられない。そんな彼の信条は理解していたつもりだったが、目の前で見ると流石に心配になる。きっと苦労は極力見せないようにしているのだろう、彼の隣に座り作業を始める。

 

 心地の良い無言とタイピング音、書類を捲る音。作業の合間に気付かれないよう、真剣に画面を睨む彼の顔を覗き見ては、自らの行動に呆れる。

 私に向き直る際の笑顔とは違う、あまり見た事が無い表情を喜んでいる。まるで年頃の乙女の様な思考に嫌気が差す。

 

 彼の事を意識しない様に心掛け、目の前の仕事に集中する。完成した書類には時折彼の手書きの文字が混じっており、意外な程丁寧な字体に少し面食らう。少しだらしないところがある彼のことだから、字もあまり綺麗ではないと思い込んでいた。人は意外な一面を持っているものだなと考えたところで、またしても彼のことを想っていることに気づく。

 

 流石に重症だ。まさか自分の中でここまで彼の姿が大きくなっているとは思わなかった。少し近づけば肩が触れそうな距離にいる彼。こんなにも私は心を乱されているというのに彼は平然としている。

 無性に腹が立つ。それは彼に向けてなのか、それとも彼に絆されて心を許している自分に向けてか。

 

「ミサキは今日、どうして連絡してくれたの?」

 

 不意に彼に問いかけられる。早まる鼓動を感じながら急いで言語野で言葉を探る。

 

「……何でそんなこと聞くの? さっきも言ったけど、用事がなきゃ連絡しちゃ駄目だった?」

 

 私は冷静に振る舞えただろうか。少なくとも表情には出ていないはずだ。この内心を悟られる訳にはいかない。自分の中でも折り合いがついてないのにその原因に知られてしまったとしたら、自分がどうなるか分からない。

 

「私は嬉しいんだ。出会ったばかりのミサキは取り付く島もないっていうか……、私が拒絶されてると思っていたから。今日、ミサキから連絡をくれて、私が断っても仕事を手伝ってくれてる。少しはミサキとの距離を縮められることができたのかなって、そう思えるんだ」

 

「……ただの気まぐれ。それだけだから」

 

 そう言って彼から視線を切る。顔が熱くなるのを必死に抑える。心臓はもう早鐘を打ち倒している。

 態度に出ていた。彼に好意の片鱗を振り撒いていた。彼の口から放たれたその事実に私は酷く動揺していた。

 本人に悟られるほどの好意をぶつける。それは私にとって自己の否定も同然で、今までの人生で初めての経験だった。全てを諦めてきた私が、彼に対しては執着とも言える感情をぶつけている。それを他ならぬ彼自身によって伝えられた。

 

 諦めろ。彼のことを諦めろ。どうせいつか離れていくんだから。期待するだけ無駄なんだ。勝手に期待して勝手に裏切られて。ただ虚しいだけじゃないか。

 思考がそう諭しても本能が抗う。今までのように捨てることを拒否する。ただ辛いだけなのに。きっと苦しむだけなのに。

 ああ、そうか。私はもう戻れない。

 彼に心を奪われて、虜になってしまったんだ。

 

 自覚した私の本性は酷く醜く思えて、初めて私は後悔した。

 

 

 

「よし、こんなところかな。助かったよミサキ、ありがとう」

 

 私の心の中が荒れ狂っているとも露知らず、先生は仕事を順調に進めていたらしい。私の体面も大したもので、その心情とは裏腹に手が勝手に作業を進めていたらしく、綺麗に纏まったファイルが目の前に広がっていた。

 ここで心の内を顔に出して、仕事もままならないくらいの可愛げがあれば彼も心配してくれただろうに。今まで積み上げてきた諦念と見切りが私の心を護るバリアを構成し、今はそれが恨ましく思える。

 私は他人に好意を寄せるような人間では無かった。今まで生きてきた中で全く未知の感情が私を蝕み、腐食させる。

 心の奥底から徐々にどす黒い何かに飲まれていくような感覚に、私は抵抗することもできない。

 

 ふと、頭の上に暖かいなにかが乗っかる。

 

 彼が私の頭を撫でていた。

 

「……何してるの? 子供扱いしないで」

 

 素直になれない私の言動と相反して、さっきまでの憂鬱が消え去るのを感じる。彼の暖かな手のひらが、私の頑強な憂いを溶かしていく。なぜ彼が急に頭を撫でたのか。ご褒美のつもりだろうか。きっと碌な理由では無いだろうが、その行動は私の全てを凌駕してしまった。

 

「何だか寂しそうだったから。嫌だったらごめんね」

 

 きっと私の顔は直視できないほど崩れていただろう。私の心を見透かしたかのような言葉に酷く動揺していた。

 これだから。これだから、私はこの大人を遠ざけ、そして好きになってしまったのだ。きっと最初から理解していたのだろう。この大人は私という人格を殺しうる。揺さぶられて、溶かされて。そこに残る私は私のままでいられるのだろうか。

 

「……別に。嫌じゃ、ない」

 

 今はただ、彼の温度に浸っていたい。そう思ってしまった。

 

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