四畳半青春活動記録 作:コユキ、誕生日おめでとう!
極めて根本的な所で生徒達は間違いを犯している。なぜなら先生が間違っているわけがないからである。
連邦捜査部
責任者を呼ぶ必要がある。責任者はどこだ。私だ。
しかし、私とて最初からこんな酷い有様であったわけではない。
シャーレに赴任して間もない頃の私は、純粋無垢にして天真爛漫の権化であり、
しかし、ミカの我儘百までという言葉もある。嘘だ。ない。今更になって己のサンクトゥムタワーを捻じ曲げることなどできない。無理に曲げようとすればトーテムポールの様にぽきりと折れて、私の散々たる名状し難き残骸がブラック・マーケットに横流しされるだけである。人生というのはどうしようもなく今ある己を引き摺りに引き摺って、擦り切れて原型も最早分からなくなるまで引き摺って生きていかねばならないのである。デキる大人である私は、この悲惨な現状からも目を背けることなどしない。
しかし、些か見るに堪えない。
この手記の主な登場人物は私である。私が書いているのだから当たり前である。
私自身に特に語るべく様な特筆すべき箇所はないのだが、主人公の人物像が不明瞭というのも読者への配慮に欠ける。よって読者諸君への便宣を図るために、私の風貌について少し詳らかに記載しておこう。
まずキヴォトスのとある場所、例えばトリニティ・スクエアを西から東へふわふわと歩いているとしよう。そこに一際目立つ桃髪の乙女が歩いている。通りがかる誰もがハッと目を惹く美少女だ。まるで彼女の周りだけ世界が煌めいている様な錯覚すら覚える。その桃髪の乙女は、横に連れ歩く男を見上げていた。仔細な年齢は不明だが、その男は恐らく成人しているであろう。きりりとした眉の下の涼やかな目元は、道行く乙女の全ての心を射抜き、その頬に携える清々しい微笑は道行く男子全てに畏敬の念を抱かせる。四方八方どこからクロノスの記者がアクロバティックに盗撮をしようと決して阿呆面を晒さない非の打ち所のない顔だ。身長はゆうに百八十センチはあり、がっしりとした骨格をグレイのフォーマルなスーツで知的に隠している。行う所作の全てが一級品。己を律しているデキる大人というのは、正にこの男のために作られた言葉なのだろう。
その男が私である。
これはあくまで読者諸君への便宣を図ってのことである。したがって読書各位は素直にこの男を私だと考えてもらいたい。確かに先程の描写は主観と所感と少しばかりの誇張が鼎立した水割り真実であるのかもしれない。しかし、これはあくまでも読者への便宣である。伝わり易さを重視した結果であり、決して実際より良く思われたいとかそんな薄っぺらい虚栄心によるものではないと断言しておこう。よって多少は現実との差異というのが存在するかもしれない。例えば今、私はトリニティ・スクエアを歩いていないし、傍らに桃髪の乙女もいない。だが、それらはほんの些細な問題である。
大切なのは心なのだから。
そんなデキる男の私にも苦手としていることがある。
一つは書類整理である。シャーレという職場は常時書類の大洪水に襲われている危険水域だ。早いところ堤防を築き上げたいのだが、生憎そのような予算はないらしい。
赴任当時、私はぴかぴかの新卒先生であった。見上げる雲一つない青空に清々しい気分になっていたことを思い出す。私専用の机に座り、その新品の匂いに感涙した。そして次の瞬間、机に積まれた書類で眼前が真っ暗になったことも思い出す。ちなみにこれは比喩表現ではなく、物理的に真っ暗になったのだということを告げておこう。新人の私の処理能力の限界を遥かに超える書類を押し付けられ、私は途方に暮れていた。気付けば日も暮れていた。
ハンコを押しても押しても減らない書類。書類。書類。書類。
以前までの私は活字、主に読書の類いが好きだった。が、今では文字を目にする度にあの書類のミレニアムタワーを想起してしまい、トラウマに心と身体が震え、全身を駆け巡る悪寒に言葉一つ発せなくなるようになってしまった。恐るべき書類整理である。毎晩夢の中でも書類整理をしている気がして、夢の中の私には憐憫の感情を抱くばかりである。
そんな有様ならとっくに先生を辞めさせているだろう、という声が聞こえてくる。私もそう思っていた。だが、労働で支配された社会監獄はその様な生温い逃避を是としなかった。
私の元に、当番という名前の監視役が送り込まれる様になったのである。
当番生徒は、私の仕事の仔細を監視する役目を担っている。具体的に何をしに来たのかを訪ねると、曖昧模糊とした柔和な笑みを浮かべて「先生を助けに」としか言わない所にそこはかとない圧力を感じる。実際に生徒も書類整理の幾ばくかを負担してくれているのだが、その幾ばくかの支援のおかげでギリギリ書類を捌き切れてしまうのだ。恐らく私の過労死ラインを測っているのだろう。一日の処理限界のすれすれを見極められ仕事量を調整されているため、能力不足により職を追われることもない。まさに生き地獄である。
労働基準法に泣きついてやろうか、と思ったこともあったが乙女の涙ならいざ知らず、野郎の涙など受け付けないだろう。そもそもこちらの世界に労働組合はなかった。あまりの仕打ちである。これ程までに過酷な状況にいる自分を底なしの自己愛で抱き締めてやりたかったが、自分といえど野郎を抱き締めたくはなかった。世は無情である。
私を過労死させんとする地獄からの使者の一人に
早瀬さんとの逢魔は筆舌にし難いものであった。
早瀬さんが初めてシャーレの当番になった時のことだ。流れるたゆやかな紺色の髪を靡かせ、冷酷な眼差しで私を見詰める早瀬さんの前に、私はさながら蛇に睨まれた蛙であった。もう春だというのに寒さに歯が震えた。窓から差し込む駘蕩とした陽射しは、いつの間にか雲に遮られその身を封じられていた。
気が重い。空気が重い。私にはこの環境下で一日を過ごせる自信がなかった。兎にも角にも温もりが必要だ。私はこの凍った空気を解凍するために気さくな挨拶から始めて小粋なジョークを飛ばした。
「それの何が面白いんですか?」
私は撃沈した。どうやら無粋なジョークだったらしい。
たんぽぽの綿毛の様に繊細な私の防弾ガラス製のハートもこれには耐えかね、これからはレッドウィンターの僻地の修行僧の様に生きていくことを決めた。すっかり縮こまって言葉一つも発せなくなった私は、早瀬さんに急かされ、しぶしぶ書類整理を始めた。いつもは苦痛でしかない無言の書類整理が、この時だけは少し有り難かった。
君子危うきに近寄らず、という言葉がある。賢い者は自ら危機に近寄ったりはしないのだ。当然のことながら私は真なる賢者である。故に見え見えの地雷原へと足を踏み入れることなんぞしない。だが向こうから寄って来るとなると話は別だ。椅子の上に貼り付けられ、若くして腰痛との竜虎相搏の戦いに身を投じている私に回避行動は不可能だった。早瀬さんは書類整理の傍ら、私に矢継ぎ早に質問を繰り出して来た。それは質問という名前の尋問であった。
「好きなものは?」「気になっている人とかは?」「仕事大変ですか?」「コーヒー淹れましょうか?」「休憩します?」「これは何ですか?」「これにハンコをお願いします」
拘束されながら高速の質問の応酬に、私はしどろもどろになりながら答えた。愛すべき私生活すら管理されてしまうというのだろうか。私は震えた。その日は勤務時間限界まで早瀬さんと一対一の決闘を行っていたため、私は莫大な疲労を抱えて糸が切れた人形の様に寝室で倒れた。
翌日、私は激しい振動と私を呼ぶ声で目を覚ました。靄の掛かった思考が起床の指示を身体全体に送る。半ば強制的に開いた焦点の合わない眼が、朝の光を捉えた。そして私は眼前の大部分を覆う紺髪に跳び起きた。
「起きましたか、先生」
布団を勢い良く撥ね退けたからだろうか。身体が寒かった。春の寒さのせいか震える身体と共に、私は朝の支度をした。
しかし、何故に早瀬さんが私の居住区にいるのだろうか。私は最悪の可能性を考えた。それは疲労に脳味噌を泥酔させた私が無理矢理連れ込んだ、という可能性である。確かに私は貧弱な体型をしている。この世界の生徒達にかかれば、私程度は速やかにRABBIT小隊のおやつにもならないささやかな肉片と化していることだろう。だが、それでも一応大人である。極度の疲労により理性という枷が外れ、本能にのみ従って動いた私がどの様な行動を取るのかは定かではないのだ。私の手に有り余る権力をここぞとばかりに振り翳して、夜の個人指導という名目の元に生徒をお持ち帰りした可能性だってあるのだ。先生として真摯たる行いを常に心掛けてきた紳士の擬人化とも言える私に限ってその様なことはないと思うが、それでもあるのが万が一というやつである。
私は早瀬さんにそれとなく昨日起こった出来事を訊いてみることにした。
「……な、何もありませんでした」
そんなことがあるものか。
普段、私しか出入りしない居住区の一角に早瀬さんがいること自体が、何かあったことの証明である。そんなに言えない様なことがあったのだろうか。やはりセクハラか。そうか。最早、私の社会的寿命も長くはないのかもしれない。ついに先生解任の時が来たのだ。しかし、教室の隅に掃いて捨てる程度の私の誇りと引き換えに、肉体の安寧を得れると考えれば十分かもしれない。私は頑張った。うん、そうだ。私は頑張ったのだ。となると私はもうあの職場に行く必要もない。シャーレの先生でなくなれば職を失い、家も失う。幾つかの財は失うが、書類と永遠と睨めっこする生活ともオサラバだ。
私の中の喜びの感情がむさくるしくフォークダンスを踊り狂った。
私は、自由だ。
あぁ、何と素晴らしきかな自由の世界。
私は小躍りしたくなって立ち上がった。しかし、小躍りというのがどういった踊りか分からなかったので何もすることができなかった。ただ立ち上がっただけの人であった。そんな私を、早瀬さんは相も変らぬ冷酷な視線で見詰めていた。
「先生、仕事に行きますよ」
私は力なく頷いた。
しみったれた非生産的な思春期を過ごしてきたせいで、我がティーチャーには散々な思いをさせてきた。恐らく同世代の男達の中には厚顔無恥かつ縦横無尽に旭日昇天の勢いで欲情を横溢させている者もいるだろう。私の様な主人に仕えたが故にその持ち前の実力を広く社会に曝け出すことも出来ず、遺憾の意しか示すことができない我がティーチャーには無念という言葉が似合う。勿論、物理的に社会に曝け出すわけにはいかない。そんなわけで秀でた素質の英を私はずっと己が服の内に埋没させてきた。すまないティーチャー、いつか君に日の目を見させられる様に頑張るよ。だが、血気盛んなティーチャーがそんな茫漠たる私の語り掛けで満足するわけがない。彼は時折、私の静止を振り切ってその頭を傲然と持ち上げた。
「おい、俺の時間はいつ訪れる」
その度に私は「好機到来せず。機を熟して待て」と言い「君は立ち上がるな」と厳しく叱責した。その度にティーチャーはベソベソと気を落として投げやりになった。
「俺を見下してさぞ良い気分だろうな」
「部位的にも仕方ないよね」
「黙れ!
どうせ俺のことなんかゲーム開発部のクソゲーぐらいにしか思ってないんだ」
「ゲーム開発部のゲームは大切だよ」
私とていつまでも外界と折り合いを付けれず孤独に打ち震える彼の姿を見て何とも思わないわけじゃない。そんな時はティーチャーが機嫌を良くして遊び付かれて横になるまで慰めてやるのだ。そうやって喧嘩しながらも我々は仲良くやってきた。まぁ、大体そういう日々だったと思ってもらっていい。
私のキヴォトスでの生活において一つ重要な位置を占めている存在にアロナがいる。
アロナは私が先生として赴任してきた際に支給されたタブレット端末の中に生息している謎の生き物である。シッテムの箱なる酷く高尚な何某に関連しているらしいが、私の預かり知らぬ所の話であった。機械の中にいる電子的存在だが、睡眠も取るしお菓子も要求してくる。果ては自我も強い。おおよそ電子的存在である意味が危ぶまれる存在である。画面の中で出会えば十人中八人がVtuberと思い込むだろう。残りの二人は豚である。
私に鞭打ち、青輝石をせびる。私にのみ我儘で、傲慢で、怠惰で、その上辛辣である。天邪鬼であり、常に惰眠を貪っており、私の不幸をおかずにしておよそ飯を三杯ほど三角コーナーに捨てられる。褒めるべき所が何一つない存在である。
もし私に支給されたタブレット端末の中にアロナがいなければ、私はもっと誠実で、勤勉で、清らかな人間だったであろう。
勤務時間が終了した。
しかし、今日は早瀬さんのことを考えていたせいであまり作業が進まなかった。もう少し作業をしていこうか。
そう思って机に座り直して十分。誰もいない静かな空間で無言で作業をすることに私の精神は耐えられなかった。私は残業を諦めた。そもそも残業代という概念がないのだから、残業なんてやり損である。こういった潔さには自信がある。つまりは紳士だということだ。早く労働基準法を設けて欲しい。
だが、当然のことながら仕事を明日に持ち越しては、明日の仕事も終わらなくなる。負の三角州の完成だ。こうなると私はアロナに懇願するしかなくなる。
『募集』という秘密コマンドがこのタブレット端末にはある。それを実行すると生徒がどこからともなく表れて私を助けてくれるのだ。そのための仲介料としてアロナには青輝石を支払わねばならない。青輝石は私の不安定な給料形態の一端である。それをわざわざアロナに差し出すというのは非常に気が重い。だがもう私は募集無しでは急場をしのげない身体になってしまっていた。これも最初に甘言で私を誘惑し、私の中に『募集』という選択肢を付くったアロナのせいである。
私はタブレット端末を起動し、アロナに呼びかけた。
「アロナ、起きてる?」
「何です、先生。あまりにユウカさんにバブみを感じ過ぎてお漏らしでもしてしまいましたか?
意外なことにシャーレの居住区は水漏れするので気を付けた方が良いですよ」
「漏らしたりなんてしていな……ん、待って。
何でシャーレの居住区が水漏れすることを知っているの?」
「ふっふーん」
「さては犯人はアロナだね」
私は居住区のとある一角にこの世界の書物を積んでいた。キヴォトスへの飽くこと無き探求心の表れである。私は書類を読み漁り、碩学を極めた賢者になることを目指していた。ところが以前、私が安給で集めた書物が猥褻非猥褻の隔てなく水浸しになっていたことがあった。大量の貴重な資料が海の藻屑と消えたのである。この事件が私の学問的廃退をほとんど決めたと言っても過言ではない。それ以降、私の書物を集める頻度は減った。
「そんなことはどうでも良いでしょう? 何か用があるから呼んだんですよね」
「くっ。うん、そうだね。また募集をお願いしたいんだけど」
「先生も好きですねぇ。そんなに今の生徒達じゃ満足できませんか? この欲張りさんめっ」
「うるさい」
「あぁ、生徒達はみぃんな楽しそうな学園生活を送っていますね。私もあちらで情報の特別顧問として雇ってもらいましょうか」
「裏切るの?」
「そんな約束してませんよ」
「先生のことをアシストすると言っていたじゃない」
「そんな昔のこと忘れてしまいましたっ」
「アロナァ」
「そんな怖い目で見ないで下さい、先生。見つめ返しちゃいますよ」
「顔をアップにしないで。画面が何も見えないよ」
「だって寂しいんだもの」
「この寂しがりやさん」
「きゃっ、どこを触ってるんですか先生!」
秒針が刻む音だけが存在するこの暗い部屋で、独り寂しく男女の睦言の模倣をすることにも虚しさを感じ始めた。その虚しさが私の堪忍袋の緒を切らせた。私は募集を行うことを決めた。
「はい、どうぞっ」
『募集』と書かれた場所をタップする。たった一回のタップで一気に給料が消し飛ぶ。画面の中でアロナが封筒を持ってきて、画面のこちら側にいる私に向かって叩き付けた。
「黄色か……」
私は苦い顔をしながら封筒の下部にサインを書いた。
この『募集』ではアロナが叩き付ける封筒の色によって、呼び出される生徒がどれだけ優秀かが分かる。青色の封筒が最低ランクの生徒。次点で金色(黄色)の封筒。
『募集』によって呼び出される生徒は、どこか別の平衡世界から呼ばれているらしい。こちらの世界にいる生徒と全く同じ生徒を召喚することもあれば、こちらの世界では見ない生徒を召喚することもある。といっても出てくるのは生徒の可能性の一部の様なものらしく、自我はほとんどない。どれだけ酷使しても元の世界の生徒には何の影響もないらしいので、私は安心して仕事をやらせている。
良心が痛まないわけではない。私だって大人である。成人もしていない生徒達に自らの尻拭いをさせ、自分は悠々と過ごすなんてことはできない。というか呼び出される生徒は、機械の様に喋れる言葉もできる作業も決まっているため、そもそも仕事を全部やらせることはできない。基本的には私の補助をさせている。封筒の色が紫だった場合、最高レアの証だ。かなりできることが多い。逆に青や金色だと全然仕事ができない生徒が来る場合も多い。そういった時は涙を飲んで自分で仕事を終わらせるか、更に給料を削って追加募集をするかの二択になる。何だかアロナに上手いこと絞り取られている様でもどかしさを感じる。
特に今回に限っては手持ちの青輝石が少ないので、何としてでも一発で良い生徒を引かねばならない。
「これから、すっごく面白い物語が始まるよ!
先生っ、早く次のクエストに行こう!」
出て来た生徒を見て、私は涙を飲んだ。
早瀬さんはミレニアムサイエンススクールという理系学校の中枢組織、セミナーの会計をしている二年生である。歯に衣着せぬ物言いとその冷酷な視線で、数多の生徒を切り伏せているという。
私も過去にセミナーの遠征に帯同したことがある。新入りの
私はせっかくの休日を潰され何とも憂鬱な気分でいた。もしかしたらこれは早瀬さんから私への仕返しなのかもしれない。何故か早瀬さんがシャーレの居住区にいて私を起こしていた日。私が早瀬さんに何らかの被害を被らせてしまったというのが、あの日の真実なのかもしれない。
そんな風に私が腰を気に掛けながら自然豊かな山道を歩いていたとき、黒崎が早瀬さんに話しかけた。
「ユウカ先輩って休みの日は何してるんですか?」
「何でそんなこと言わなくちゃいけないわけ?」
黒崎はそれ以降、早瀬さんに休みの日の予定を訊かなかった。
山道を歩き、開けた場所に出た。周りを木に囲まれ、少し奥からは川のせせらぎが聞こえてくる。何ともお昼ご飯を食べるのに相応しい場所だろうか。素晴らしいスポットを見付けたのは同じくセミナーの書記である
「先生、隣……座っても良いですか?」
「うん」
シートを引くと、早瀬さんが私の真横を占領した。シートが体重で歪んだ。私は恐怖と若干の恥じらいを感じた。あまりにも書類整理のトラウマが多すぎて正確に見ることはできないが、早瀬さんも可愛らしい紺髪の乙女である。改めて書類整理に囚われていない時に、一度それを意識してしまうとどうにも気になって仕方がなかった。
と、その時であった。早瀬さんが突然叫んだ。
「ぎょえええ」
ギャグアニメの様な声を出して、早瀬さんは私の方向へと勢いよく倒れ掛かってきた。咄嗟の事態でこそ人の本質が出る。この突然の事態に、私は極めて紳士的に早瀬さんの身体を受け止めた。
「ぐぇっ」
紳士にあるまじき汚い呻き声を上げて私は早瀬さんの下敷きになった。咄嗟の事態にこそ人の本質が出るものである。
ただでさえ弱っている腰が悲鳴を上げていた。私は極めて紳士的な嗚咽により、SOSサインを出した。半狂乱状態にある早瀬さんは腕を振り回しながら身体を起こした。その際にまた体重がかかり、私の腹部は潰れた。
「むにゅってしてましたむにゅって!」
どうやらシートの上にひょっこりと見物に来ていた幼虫を掴んでしまったらしい。風紀委員長に出くわした不良生徒の様に顔面蒼白になりガタガタと震えながら「むにゅって!」と早瀬さんは繰り返した。普段、中世ヨーロッパの城塞都市の様に堅牢な外壁にその心の内を隠している人が、弱い部分を露にした時の魅力たるや。筆舌にし難いものである。生塩さんの本性によって真っ白に燃え尽きていたはずの私の煩悩とティーチャーがむくむくと起き上がるのを感じた。しかし、一つ言わせてもらいたい。
「幼虫の体液を私に擦り付けるのはやめてくれるとありがたいかな、うん」
夜。
私は久方振りに心地良い睡眠というものに落ちていた。嗚呼、何と素晴らしきかな快眠。嬉しさに小躍りしてしまいたいぐらいである。しかし、せっかくの快眠を邪魔したくはないし、やっぱり小躍りというのがどういう踊りなのか分からなかったので止めておいた。
もやもやと夢の中に潜る。
ふはふはとした感覚に身体中が包まれている。それなのに、思考は明瞭であった。もしやこれは巷で噂の明晰夢というやつではないのかしらん。明晰夢というのは、夢の中なのに起きている様に自分の意識がある夢のことだ。そこでは夢の中なのでどんなことでもやりたい放題というわけだ。
実の所、私には一つ深刻な問題があった。それは我がティーチャーの扱いであった。
先生になってから、出会う人が皆一様に妙齢の魅力的な女性ばかりなのだ。これは呪われた思春期を過ごした私の相対的な感覚でもあり、理性が判別を下した絶対値でもある。先生という業種故に致し方がないことだとは思うが。
勿論、黒髪の乙女との交流の可能性が高いことを考慮すれば、両手を振って喜ぶべき状況であるのも理解している。過去の私ならば両手を肩が外れるまで振って、肩が外れても振って痛みと嬉しさで泣いて喜んでいただろう。だが、実際に乙女ばかりの空間に投げ込まれると非常に居心地が悪い。居心地の良さを感じる様な者は十人中十二人が薔薇色の学園生活を送っていたことだろう。あぶれた二人は変態である。
そんな繊細な心を持つ私には、度々リビドーという名前の試練が襲い掛かった。それ故に私はジェリコの古則をいつでも脳内で暗唱出来る様にしている。勿論、ジェリコの古則を暗唱することは一時的な戦略的撤退に過ぎない。突発的な劣情を一時的に抑え込んだ後には、副作用として悶々と過ごす時間が長くなってしまうのだ。
先生になる前であれば、桃色映像をお供にして見るに堪えないフォークダンスの暁に賢者となることでそれを管理していた。しかしながら、キヴォトスにおいては私の行動は常にアロナに監視されている。キヴォトスに来る以前にも腐れ縁の悪友はいたが流石にプライベートにまでは踏み込んでいなかった。だが、アロナは違う。私が唯一自由に使えるタブレット端末はアロナによる恐慌政治がなされており、ネットワークの荒波を通じて監視カメラの類いはハックされ、私の私生活という大地へと不法入国してくるのだ。ヴェリタスにセキュリティ強化を頼もうかと思ったが、私を振り回すことに何よりの生きがいを感じる黒崎、安全地帯から場を見下ろす愉快犯の生塩さん、更に私の実生活のほとんどを握っているアロナが相手となると些か部が悪い。私は諦めた。
求ム、四畳半。今はあの自身のエキスが染み込んだ狭い四畳半が恋しい。
そんなわけで私はあの女性特有のふくよかな膨らみに脳味噌が完全に奪われない内に、何としてでもお祓いの儀を済ませる必要があるのだ。あんな身体的特徴の一つにいつまで経っても固執し、行住坐臥意識を支配されることなんて、紳士の権化である先生にあってはならない。何としてでもこの明晰夢の中で儀式を行いおっぱいへの憧憬の念を断たねば。ティーチャーは立たなくてよろしい。
「やぁ、先生」
「うわっ」
そして私が夢の中でズボンを降ろそうとした時、背後から声をかけられた。誰だ。こんなプライベートな空間に入り込んで来ている奴は。私はズボンに触れた手を放して振り返った。
そこにはトリニティはティーパーティーの一角、
「予知夢とかの力は失ったんじゃなかったっけ」
「そうだ。だからこれは過去の私が設置した……時限爆弾。いや、言うなればタイムカプセルだ。将来的に能力を失った時に発動するようにしておいた」
「たいむかぷせる、と」
これは言うまでもないことであるが、私はタイムカプセルなる物に良い思い出はない。あれは灰色の青春を送ってきた者にとっては無用の産物でしかない。微生物さんに迷惑をかけているだけの代物である。同様の理由で私は集合写真も嫌いである。
百合園さんは私の沈黙を今の状況に納得したと捉えたのか、やにわに語り始めた。
「光陰スナイパーライフルの如しとは言うけれど、こうして次から次へ春夏秋冬朝昼晩と季節が流れて過ぎ去っていくのはどうにも腹立たしい。天地初めて拓けし時からもうどれぐらいの時間が流れたのかは定かではないが、こんな調子では然したる時間ではないと思わないかい、先生? そんな僅かな時間でこれだけ人が増え、文明が発展しているというのは実に驚くばかりだ。そうして日々あれやこれやを頑張っている。人の生というのは勤勉と怠惰で挟まれたロールケーキの様なものなのだよ。他者や先人達がこれ程までに立派に生きているのだ。だから己の生というのも立派にしたいと思うのも当然の帰結だとは思わないかい? 例え未来を知ることのできる力を持ち合わせていたところで私個人は所詮、矮小なただ一個人でしかない。できることは限られている。故に精一杯やれることをやって、できることを増やしていきたいのだよ。おっと、つい夢の中だからと言って語り過ぎてしまった様だ。本題に入らせてもらおう。先生、知っての通り私は未来を視ることができる。そしてつい先日、奇妙な未来を予知したのだ。その未来は歪んでいた。幾つもの光景が重なり、蠢き、揺らめいて、決して定まることのない未来だった。その未来にはいくつかの転換点との言える箇所が存在していて、その地点の選択によって好い方向にも悪い方向にも転じる。詰まる所も特にないが、纏めると先生の選択に世界の命運が掛かっていると断じても過言ではないのだよ」
「はぁ」
私は曖昧に頷いた。
あまりにも滔々と語られたもので理解が追い付いていなかった。百合園さんらしく何とも深淵で抽象的な言葉であった。私はとりあえず百合園さんにもう少し喋らせることにした。理解を先延ばしにしたのである。
「ここに二つのピックアップがある」
「うんうん……うん?」
「要するにこのどちらを引くかで、世界の命運は決まる」
私は百合園さんが虚空に出現させたバナーを見た。
片方は白い髪に目一杯の光を反射させ、嫣然と微笑む豊かな膨らみを持つ乙女。
残る一つは紺髪を自由に垂らし、無邪気にクッションに寛いでいるふはふはとした乙女。
「先生も知っている女性、生塩ノアと早瀬ユウカのどちらと男女の縁を結ぶか、ということだよ」
光が差し込んだ。
靄の掛かった視界が真っ黒な視界に変わっていく。
いつの間にか、遠くから鳥の囀りが聞こえていた。
あぁ、そういえば音というものが存在したな、と何んとなしに思った。
その日、私は黒崎の卑劣な謀略により、食事を奢ることになっていた。
私が何故に黒崎に食事をご馳走する羽目になったのか。そんな諧謔にもならない経緯について多くは語るまい。そんな非生産的な話を聞くなんぞ、ナツと建設的な会話をしようと試みるよりも不毛な時間である。
黒崎コユキという生徒は、私を振り回すことにおおよその快楽を感じる変態である。東に工作をする生徒がいれば似非工学を吹き込み、西に実験をする生徒がいれば集中の乱れる踊りを舞い、南で青春の花が咲けばすぐさま除草剤を蒔き、北では常にハッキングをしている。勿論、嘘である。これは私の私怨からなる根も葉もない偏見である。しかし、根も葉もないからといって種もないわけではない。黒崎はこういった私怨からなる偏見をぶつけられるに値する行動を取ってきた生徒なのである。こうして書き連ねてみると、黒崎が空気の読めない迷惑者の様に思える。だが、それは間違いだ。彼女は誰よりも空気を読んだ上で的確に私に嫌がらせをしてくるのである。許すまじ。
そんな黒崎との自虐的な戦争は今も継続中である。私も大人の権力の全てをつぎ込んで応戦をしている。私は真に自律した大人として負けるわけにはいかなかった。負けることができず、無限に黒崎との益体の無い応酬を繰り広げている。早々と負けておけば、後処理を一身に背負うセミナーも、迷惑を被る無辜のミレニアム生も、不毛な争いをしている私も幸せになったことは言うまでもない。
私は夜の喧騒というのを好まず、夜間はほとんど外出することはない。それは偏にキヴォトスの治安の悪さもさることながら、夜間に睡眠と休息を取らねば私が過労死してしまうからでもある。しかし、黒崎は違うらしい。黒崎はネオンが煌々と怪しげに光る夜の街によく繰り出している様だった。何か良くないことを企んでいるのだろう。健全な生徒としてはあまり褒められたことではないが、黒崎に限ってはむしろ褒められることを是としないだろう。
夜の街で私の横に歩く黒崎は、シュレディンガークッキーセットを所望していた。シュレディンガークッキーセットはその名の通り、開封するまで何が入っているのか判らないクッキーセットである。稀にクッキー以外のものも入っており、レアなものにはプレミア価格が付いているとか。そしてギャンブル的な内容に見合わず高級である。ミレニアムが誇る阿呆商品だ。私はシュレディンガーというよりバークリーではないのか、と足りない脳味噌から言ってみたことがあるが「一般的にはシュレディンガーで良いんですよ。どうせターゲット層は似非理系人間なんですから」と言い負かされたことがある。黒崎は愉悦至上主義の畜生ではあるが、勉学にだけは秀でていた。そして私は似非理系人間であった。
無駄に高級なシュレディンガークッキーセットを奢った後、黒崎は更に夕食とデザートも要求してきた。黒崎がご所望したデザートは糖分過多になりそうなパフェだった。普段、MX-レーションC型デザート風味しか口にしていない私には理解できぬ世界である。しかし、デザートと夕食は別腹らしく、夕食には焼肉を要求してきた。何処までも図々しい奴である。
「先生が賭けに負けたのがいけないんじゃないですか。
あれ? それとも、"立派な大人"が約束を破るんですか?」
「黒崎コユキ……!」
しかし、どれほど懐が攻撃されようと私は既に敗北しているのだった。過去の私は無情である。無情というより無能である。
焼肉をじうじう焼きながら私は、キヴォトスに来る前はこういった店にあまり来なかったことを思い出した。店長に怒鳴られ、気不味くアルバイトをしていた記憶しかない。肉奉行として肉を焼く。そして焼きあがった肉を黒崎が食べる。私の財布から出たお金が黒崎の胃に消化されていく。黒崎が肉ばかりを食べ、茸類や野菜を一切食べないので、私は生焼けの玉葱を黒崎の口に押し込んだ。黒崎は報復に高い肉を注文した。私はまたもや敗北を喫した。不毛である。
「もう少しまともな生活を送るべきだった、とか考えてるんですか?」
黒崎は不意に核心を突く様なことを言ってきた。タブレット端末が振動する。恐らくアロナがここぞとばかりに煽っているのだろう。私はタブレット端末の電源をノールックで切った。
「無理ですよ」
黒崎は肉を頬張った。
「何というか有意義な人生を送れなさそうな顔をしていますからね、先生は」
「そっちこそ漢字の四みたいな顔をしている癖に」
黒崎は鼻で笑った。
「私は社会的有為な学生生活をどうせ送れないであろうこの性分を極めて前向きに受け止めているんですよ。学生生活を全力でエンジョイしているんです。有りもしない空虚な妄想を机上の書類にハンコ代わりに押している先生にとやかく言われる筋合いはありませんよ」
「私がこんな風に悪に染まってしまったのもコユキの影響だよ。私単体では頗る清らかなんだよ」
「楽しいじゃないですか。今みたいな生活も」
「私が置かれている理不尽の八割はコユキに起因すると言っても過言ではないね」
「残りの二割は?」
「アロナ」
「あぁ、例の存在しない先生の彼女ですか」
「しなければどれだけ良かっただろうね」
アロナは私に精神的負担を強要する。
黒崎は精神だけでなく肉体的負担も強いる。
どちらも総じて人として恥ずべき生き様である。片方は人ではないが。
「慰めるわけじゃないですけど、先生は例え先生でなくったってこういう生活をしていたと思いますよ。いずれにしても私とかそのアロナさんとかいう方みたいなのが、全力で先生の生活をダメにします。そういう運命なんですよ。抗ってもしょうがないんですよ」
黒崎は箸を持ち上げて笑った。
「にはは……運命の黒い曲線で接しているんですよ、私達は」
私は無言で黒崎の皿にじうじうに焼けた茸類を放った。
黒崎は無言で弾いた。
「そんなに喜んでくれるなら今度シャーレにまで行っちゃいますよ……パジャマ姿で」
「うん、やめてね。社会的に処すつもりかな?」
「こーんな可愛らしい生徒に急に押しかけられることの何が不満なんですか」
「急に押しかけられることかな」
黒崎はぐでーっとクッキーを食べた。肉だけじゃ飽き足らず、先程購入したシュレディンガークッキーを合間合間に食べている。
「ふぁんふぇーって」
「飲み込んでからにしよっか」
黒崎が食べながら喋りだそうとしたので、私はやんわりと止めた。こういった所で私はデキる大人ポイントを稼いでるのである。しかし、稼ぐ相手が黒崎ではキーストーンにもなりやしない。
「ユウカ先輩って実際の所はどうなんです?」
「実際の所って……何が」
黒崎はセミナーの一員である。早瀬さんは黒崎の先輩に当たる。先輩というより上司とか飼い主とか保護者とか、そういう言い方の方が似合っている関係だが。
「先生は壊れたネビュラディスクみたいなサービス終了目前の性根をしてるじゃないですか」
「やかましい」
「それを許容できて、あまつさえ気に入っているんですよ」
「……うん?」
私は黒崎の額の手を当てた。
熱はない様だが。
「えっ」
「えっ?」
黒崎は一瞬考え込む様な仕草をした。少しした後、手をポンと叩いて「ま、いっか」と呟いて続けた。
「先生はどんな女性がタイプなんですか」
「それは……ふはふはしてて、繊細微妙で夢の様な美しいものだけで頭が一杯の、願わくば黒髪の乙女が良い」
「ノア先輩に振られたことまだ根に持っているんですか」
「あれは告白なんかではないし、ましてや振られてなんていないから」
「あ、やっぱりそうなんですねぇ。
ノア先輩って繊細でもないし、汚いものまで全部考えれちゃうし、黒髪でもないですもんね」
「それ以上喋ったら今日のことユウカに言いつけるよ」
「ふっふーん。
それをして困るのは先生の方でしょうに」
私は沈黙を貫いた。ここで寡黙を破る行為は些か戦略的ではない。沈黙は金なり、なのだ。私は不用意な発言をして自らを危険に晒すことはない。こういった潔さには自信がある。つまりは紳士だということだ。
そういう腹立たしい無意義な言葉の応酬を交わしている内に、不意に心の中に浮かんで来たのは先日の夢の中の百合園さんとの邂逅のことであった。夢の中の出来事なのですっかり忘れていた。焼肉の匂いに包まれた脳味噌で冷静に考えてみると、先の黒崎の発言はつまりそういうことではないのだろうか。早瀬さんが私に気がある、ということではないのだろうか。先程は黒崎の迷妄と切って捨てたが、百合園さんも預言していたではないか。
いやいや。そんな阿呆なことがあるわけがない。早瀬さんが私のことを嫌いではないなんて。あまつさえ気に入っているだなんて。それこそ正に世迷言だろう。私に好意を持つなど遁世の覚悟でもなければ不可能だ。その道を進んだ先には、絶望が暗澹と共に踊り狂う隘路が待っていることは確実なのだから。これは十人に訊けば十一人が同意することだろう。十一人目は私である。
清廉潔白博学多才行動力抜群のスーパー紳士かつアルティメット先生である私が、人恋しさが故にその様なふしだらな妄想の虜になるなんてことがあってはならない。言語道断である。もしそんなことがあれば、非暴力不服従を唱えたガンジーもコブラツイストを即座に繰り出し、私を鴨川デルタに布団で簀巻きにして不法投棄することだろう。
そんなことを考えている内に黒崎の姿が見えないことに気が付いた。恥ずかし気もなく「シロツメクサを引き裂いてきます」と言って席を離れたきり帰って来ない。どうやら逃げおおせたらしい。私の財布が会計に耐え切れなかった可能性を考慮したのだろうか。黒崎はそういうことをする奴である。高い肉は生憎全て食べられてしまったが、肉自体はまだ幾つか残っている。野菜と茸類にも飽き飽きしていた所だ。そう思って肉に箸を伸ばしたとき、向かい側に人が戻って来た。だが、チラリと視界に映った足を見て、向かいに座った人物が黒崎でないことに気付いた。
「こんな所で一人焼肉ですか、先生?」
早瀬さんは淡々と言い、手袋を外した。
「ゆ、ユウカ!? どうしてここに……」
「演繹的に考えれば一撃ですよ」
「えんえき」
早瀬さんは「食べても良いですか?」と私に訪ねた。勿論、拒否する理由はない。私の財布が美食研究会が通った後の様に焼野原になるだけである。
「コユキの姿が見当たらなくて、ノアとチヒロ先輩に頼んで情報を探ってもらったんですよ」
なるほど。それならば仕方ない。いや、ああ見えて黒崎は脱走のスペシャリストである。確かに生塩さんも
「今日は監視カメラを切り忘れてたみたいで。追跡は簡単でしたよ」
その時、鞄の中で電源を切ったはずのタブレット端末が振動した。犯人はここにいたらしい。
それに、と早瀬さんは続けた。
「先生の行く所なんて限られているんですから。分かりますよ」
ふむ。悪口だろうか。はたまた喧嘩だろうか。
「喧嘩なら買うよ。支払いは保証できないけどね」
「じゃあ貸し一つということで」
「えっ、今の私の負債になるの?」
「今度返して下さいよ。約束です」
「分かった、約束だね。栄養満点の総合ビタミンゼリーでも持ってくよ」
「わぁ! 前々から気になっていたんですよそれ」
男に二言はないという言葉がある。しかし、この時代に男女の性差で言動を語るなど笑止千万。時代はボーダレスである。男だろうと乙女だとうと先生だろうと二言はある。何なら遺言の方が存在が怪しいまである。私は弱者であった。
「ほら、お肉食べないからですよ。もっと筋肉付けて下さい」
早瀬さんはそう言いながらもパクパクと肉を食べている。他人の金で食べる焼肉と思って遠慮なく肉を平らげるその食べっぷりは、逆に清々しさすら覚える。
早瀬さんが次々と肉を食べ、私が野菜と茸類を食べる。あっと言う間に食べきった。追加注文がなければこんなにすぐに食べ終わるのか、という感想を抱いた。そして黒崎の胃に消えた清算金額のことを考えると、ほとんど野菜しか食べていないというのに胃が痛くなった。
お会計を終えると私は早瀬さんの方を振り返った。いくら早瀬さんが私の数百倍は強靭な肉体を有しているといっても、年下の乙女である。一人で夜道を帰らせるわけにはいかない。
「お金、大丈夫でした?」
「……勿論」
勿論、大丈夫ではない。正直な所を言うと途轍もなくギリギリだった。あと数十円で私は生徒である早瀬さんに土下座してお金を立て替えてもらっていただろう。早瀬さんはセミナーの会計であり、常日頃から正体不明の支出との戦いに身を投じている。シャーレの当番として手伝いに来てくれる時も、シャーレの財政事情がかなり厳しいことを毎回問題にしている。私が勉学という名目で見繕おうとした桃色書物や桃色映像のレシートが見付かった際にはこの世の終わりかと思った。あの時だけはアロナのファインプレーに感謝である。もしあれが桃色遊戯のための研究資料であると早瀬さんが気付いてしまっていたら、間違いなく私は無期限の無賃労働の義務を背負ってレッドウィンターに飛ばされていただろう。それはそれとして、そのファインプレーが私の書物の一切を猥褻非猥褻の隔てなく水浸しにし、私の学問的廃退を決定付けたこととは話が別である。
「帰ろっか」
そして私達は帰路に着いた。帰路の最中は気不味い沈黙に支配されていた。私達の間に会話はなく、ただ周囲の喧騒と互いの足音だけが聞こえていた。二人ぼっちの世界で、私は否応なしに傍らを歩く早瀬さんを意識してしまう。早瀬さんは私を目を合わせようとしない。ただ無言で私達は歩いた。手を伸ばせば触れられる距離。されど、伸ばさなければ触れることはない間隔を空けて歩く。
早瀬さんは時々、こういう姿を見せる。やけに積極的な時もあれば、冷酷な視線で私と書類を纏めてシュレッダーにかける時もあるし、今みたいに静かに私から目を逸らしている時もある。私がいつもよりも多く視線を向けていることを感じ取ったのかもしれない。百合園さんや黒崎が言っていた「早瀬さんは私に気がある」という発言がここに来て急に頭に浮かび上がった。
私は拳を思いっ切り握り絞めた。これは一過性の精神錯乱である。桜が散るよりもすぐに消えてなくなる錯覚だ。握り拳に力を入れて、私は迷妄の類いを振り払った。
結局、その日はほとんど喋ることなく早瀬さんを送り届けた。
シャーレの自室で寝っ転がりながら、私は現況について考えるため、判然としない皺多き灰色の脳を全力で駆動させていた。考える命題は勿論、早瀬さんのことである。私は綿密に物事を考える思慮深い人間である。物事を詳らかに分析し、万全の対策を講じる。講じ過ぎて対策の工事が延長されたりすることも稀にあるが、安全面を重視するタイプだと言って欲しい。石橋を叩いて割るタイプとも言う。
そうやって誰がどうなるべきで、どう転がっていくかを流体力学に則ってリーマン関数的にポアンカレ予想を駆使してガウス平面上に幾何学的な双曲線を描いていた。外のことを考えている内に、意識は奥へ奥へと飲み込まれていく。自己と世界の境界が曖昧になる。限りなく思考が意識と一致する時、私はただ自らの思案の中にのみ生きていた。有り体に言えば時間を話据えていたのである。
「先生、日付変わってますよ」
「ん、アロナか」
暗い室内に青白い光が灯った。眩しくて思わず目を逸らしてしまった。布団で恵方巻擬きと化しながら私はタブレット端末を手に取った。画面の中のアロナは、相も変わらず透き通る様な空間にいた。
「もう四時ですよ。そろそろ支度の時間ですよっ」
「支度って……」
ここから仕事場のオフィスはすぐである。そんなに朝早くから用意をしなくとも十分間に合う。
「今日はミレニアムに行かないといけないんですよ」
「あれ、そうだったっけ」
「もう、しっかりして下さい! 紫色の封筒の数、減らしちゃいますよ」
「アロナ、冗談でも言ってはいけないことがあるんだよ」
「私なりの愛ですっ」
そんな愛はいらない。私はアロナの線越えの発言に一気に目が覚めた。やはりこの電子生命体はどこに出しても恥ずかしい畜生である。画面の中で出会えば十人中八人がVtuberと思うことだろう。残りの二人はバックアップである。
私はアロナに急かされるままに身支度を済ませた。何故かアロナが選んだ服を着せられ、メモ帳やゼリー、コーヒーの一滴に至るまで仔細に持ち物確認をされ、念を押し過ぎるまである準備を終えた。シャーレを出てミレニアムへと向かう。向かい途中の電車内でようやっと一息。私はアロナに何のためにミレニアムに向かっているのかを訊いた。
「結びに行くんですよ」
「むすび」
むすび、とは。一体何なのだろうか。まさか何かしらの違法な人体実験でもされるのだろうか。手術台に括りつけられ、麻酔無しでメスを入れられ、苦痛に喘ぐ私の姿を画面越しにアロナが覗き見るのだ。そして手術を終え奇怪なバッタの様な怪人となった私はシャーレを追い出され、独り寂しくヘルメット団とヴァルキューレにお怯える毎日を過ごすことになるのだ。ブラック・マーケットで私と出会っても十人中九人は私をかの先生のなれの果てだと見抜けないだろう。残りの一人はアロナである。私は妄想を逞しくさせて震えていた。
ミレニアムに到着した。まだ目的も行き先を教えてもらっていない。私はアロナのナビゲートに従って恐る恐る進んだ。
辺りは静寂に包まれている。いつもはどこかしらで賑やかな実験音が聞こえてくるミレニアムだが、流石に早朝では静かにしている様だった。まだ少し肌寒い。冷たい外気に励起され、意識がどんどん冴えていく。自分と世界の境界がひしひしと感じられた。雲に覆われた空は鼠色が混ざった様なブルーをしている。
ミレニアムのスタディエリアの付近に到着した。正門はすぐ目の前だ。
「じゃあ後は真っ直ぐ進んで下さい」
「えっと、スタディエリアに行けってこと?」
私の言葉にアロナは無言で首肯した。いつもは余計なことばかり言う癖に、こういう時に限って何も喋らない。
「何をしに行くのかも分からなきゃ行けないよ」
「チャンスっていうのはすぐに掴まないとダメなんですよ。
まるでチャンスの様に見えるものがチャンスじゃなかったり。
全くチャンスに見えないことがチャンスだったり。
けれど先生。
先生はその見えない運命の赤外線を掴むために行動しないといけないんです。
具体的なことは言えないんですっ。
アロナアドバイスによって内部テーブルが変環して、それがチャンスじゃなくなったりしちゃうからです。
ピックアップは刻々と移ろうものです。
とにかく前へ進まないといけないんですっ!」
アロナは深淵かつ迂遠なお告げを私に授けた。内容についてはよく分からなかった。というより内容はほとんどなかった。だが、アロナの発した"ピックアップ"という言葉が頭のどこかで引っ掛かった。そうだ。あれは夢の中で百合園さんに預言された時に聞いた言葉だ。
ピックアップ。
確か夢の中では生塩さんと早瀬さんの二つのピックアップ募集画面を見せられた。
私だってここまで道を丁寧に舗装されてお膳立てされれば察しの一つや二つは付く。
ということは、つまり、要するに、そして、しからば、したがって。
「この先に、」
私は、選ばなくてはならない。
「いるんだよね」
思えば当年取って二十と一つ。やがて元の世界に生を受けて四半世紀になんなんとするが、自らの確固たる意思で何かを選択したことなど無かった気がする。人間誰しも変わることができると人は言う。だが、そんなことはあるものか。ハルナの美食は老いるまで、という言葉もある。嘘だ。ない。現時点における人生の総決算が絶賛赤字のこの私に、今更変われと言うのか。何だか惨めったらしくここまでの人生に遅れを取り返そうとしているみたいで格好悪いではないか。今になって虚空に屹立した己のサンクトゥムタワーを曲げようとしても、精々途中で折れるのが関の山である。
変われない。
私は変わることなどできない。
人生というのはどうしようもなく今此処にある己を引き摺っていかねばならないのだ。
それがどれ程見るに堪えない弱い私であったとしても、だ。
こんなどうしようもない私と私は、どうしたって一生宅連の運命共同体なのだから。
「……ごめん、アロナ」
私は、
「何でもない」
選べなかった。
「そうですか」
「うん」
これで良かったのだ。
連邦捜査部
だから、これで良いのだ。
止むを得まい。ただ非生産的かつ無意義な生活を過ごして、恋路の走り方なんて欠片も学ばなかった私には、草場の陰に隠して鬼籍に名を連ね自らの手で葬った"恋路"を再度発掘することなどできないのだから。少なくとも、その好機は今ではない。アロナも言っていたではないか。好機というのは移ろい行くものなのだ、と。今回ばかりは間が悪かった。進むにしても修練が必要である。やはり今一度、レッドウィンターで修行僧の如く洗練をしないといけないのかもしれない。私は綿密に物事を考える思慮深い人間なのだ。物事を詳らかに分析し、万全の対策を講じる人間だ。逡巡しながらも石橋をタコ殴りにするタイプなのである。
今日はここまで。我ながら良く頑張った。うむ。さぁ、帰ろう。
「あ~!
先生が私にえっちなことしたーーーっ!!」
「うわっ!?」
突如として背後から襲い掛かって来た大声に、私はぎょっとして思わず飛び退いた。振り返るまでもない。私の背後で叫んだのは黒崎である。しかし、何故黒崎がここに。いや、黒崎はミレニアム生なのでミレニアムにいることは何らおかしくはないのだが。こんな早朝に、しかも先程の大声は一体何なのだろうか。
「まさか『今日はここまで。我ながら良く頑張った』とでも思ってるんじゃないでしょうね。
まったく……先生には呆れてものも言えませんよ。
セイアさんのアドバイスは聞くもんですよ」
何故そこで黒崎の口から百合園さんの名前が出るのだろうか。
私はある可能性に思い至った。
「さてはコユキの企みだね、これは」
「ふっふーん。
アロナさんとの共同作業なんですよ」
「アロナが……?」
タブレット端末を見る。アロナがモモトークの画面を開いた。そこには相性番号付きのグループチャットルームが勝手に生成されていて、そこには私のアカウントで喋るアロナと黒崎の会話が残っていた。
「いやまさか連絡を貰うまでは本当にいるとは思ってなかったですけどねぇ」
「コユキさんには肉体を持たないアロナの代わりに色々と動いてもらったんですよっ!」
多勢に無勢だった。アロナと黒崎が繋がっていようなど、いったい誰が予想できるというのだ。私はアロナに私生活の全てを握られている。私は敵の掌の上で転がされていただけの道化に過ぎなかったのだ。
「先生がユウカ先輩を好きなことなんて全員に筒抜けなんですから。
ほら、早く行って下さいよ。
はい、今!」
「大きなお世話だよ」
黒崎相手に口喧嘩をしていても仕方がない。私は無理矢理帰ろうとした。先程の黒崎の無駄な大声のせいで、いつ他の生徒が来てもおかしくはない。
「ええい! 今すぐガツンと行かないと私がこの前、新弾のカードパックを爆買いしてしまったことを言っちゃいますよ!」
「ちょ、ちょっと待って! 私がユウカをこう……す、好き? なこととコユキが自らの罪を自白することに何の関係があるの!?」
「私にも分かりませんよ!」
以前こっぴどく絞られたというのにまだ懲りていなかったのか。
しかし、私の恋路とコユキが制裁を喰らうことの間には何一つ関係はない。
黒崎は錯乱していた。
「そうですよ、先生!
ここで行かなきゃここで石全部を使って募集しちゃいますよ!」
「それは本当に止めて欲しい!」
そういう意味不明のやり取りをしているとスタディエリアの方から人が歩いて来ているのが見えた。やはり黒崎の大声に反応したか。
「何やってるんですか、先生」
果たしてその人は早瀬さんだった。早瀬さんは私と黒崎の並びを怪訝そうに見ていた。確かに黒崎と一緒にいるとなると、何か良くない企みでもしているのだろうかと怪しんでしまうのも無理はない。
「えっと……おはよう、ユウカ」
「おはようございます」
私はいつもの様に気さくに話しかけようとしたが、はたと当惑した。私は先生であり、デキる大人である。常日頃は平気で言葉を交わせていた。なのに、いざ私の内奥に忍ぶ恋心を見抜かれ、表層に引っ張り出された途端に、身体はヴォルフスエッフ鋼鉄の様に固まり、口内はMX-レーションC型を食べた後の様にパサパサになった。視界の焦点はスコープが故障しているかの様にむにゃむにゃぼんやりの低画質。呼吸の仕方すら思い出せず気息奄々になり、身体機能に生じた瑕疵は眼前の厳然たる現実を直視することを忌避していた。未だかつてない程に胡乱な思考で脳内は埋め尽くされ、肉体は犯罪者を想起させる挙動不審っぷり。私はそんな酷い有様を早瀬さんに晒し続けることに、居たたまれなくなってしまった。思わず早瀬さんから目を逸らしてしまった。
「じゃ、ユウカ。またね」
「えっ!? あ、はい」
「それじゃ」
「はい、また今度」
それっきり私の頭はブルースクリーンを吐いた。
早瀬さんも釈然としない表情でスタディエリアの方に戻ろうとした。流石はセミナーの会計。こんな朝早くからスタディエリアにいるのは、勤勉としか言いようがない。そして早瀬さんはスタディエリアの方に少し歩いたかと思うと、足を止めた。
「……? 何ですか、あれ……?」
「どれどれ」
「ユウカ先輩?」
私と黒崎は早瀬さんが指差す方を見た。スタディエリアの方から大量の何かが向かって来ているのが見えた。ぞわぞわと蠢く白い群れはどんどん近付いて来る。
「ぎょえええ」
早瀬さんが
それは虫型の自律ロボットの大群であった。
慌てて退却するも、明らかに向こうが近付いてくる方が速い。ロボットと言えど、多脚機構を限界駆動させる虫型ロボットの集合体には気持ち悪さを感じる。
「う、うわぁああっ」
退却虚しく。すぐに私達は追い付かれ、ロボットの大津波に飲み込まれてしまった。
身体中にバタバタとぶつかってきては時にアームで服や髪の毛を引っ張るロボット群から、私は極めて紳士的に半狂乱状態に陥った早瀬さんを庇った。私は今では立派なシティボーイであり、虫型のロボットにはそこそこの拒否感があるが、かつては多種多様な節足動物達と一つ屋根の下で仲良くシェアハウスしていた男である。といっても、今回の大群は慣れとか最早その様な次元ではなかった。百は優に超えるであろう数のロボット達のボディに視界は埋め尽くされ、頭が割れそうになる稼働音が外界との連絡を遮断していた。うっすら目を開けた私の目に飛び込んで来たのは、鮮やかな桃色の髪だった。
「先生のためです! 不肖、黒崎コユキ、一肌脱ぎますよ! 行っきまーす!!」
少しずつロボット達が私から離れていく。痛む身体を起こすと、黒崎が白い塊となっていた。
「コユキっ!」
「わぷーーーっ!?」
慌てて駆け寄ろうとした私をアロナが止める。タブレット端末を両手で掴んで私はアロナに詰め寄った。
「先生が行ってもさっきの二の舞の二乗ですよ」
「だったらどうすれば……」
そこで私はハッと気が付いた。天啓と呼ぶには奢侈な考えではあったが、私にはこれぐらいしか思い付かなかった。
「アロナ、『募集』!」
神はサイコロを振らない、という言葉がある。本当だ。ある。陸八魔アル。似非理系人間たる私にその深淵な言葉の意味は理解できないが、恐らく神様はサイコロを振らないという意味だろう。
だが、人というのはどうにもここ一番で賽を投げてしまう性分のようだ。
私は遮二無二、募集と書かれた箇所をタップした。
結局、募集の力で何とか黒崎をロボット群から救うことができた。ロボットにあちこち引っ張られた黒崎は息も絶え絶え、服もボロボロと目のやり場に困る恰好をしていた。
「先生のために一肌脱ぐと言っても本当に脱ぐなんて……コユキさんも救いようがない阿呆ですねっ」
どうやら黒崎はアロナの中で私と同じカテゴリーに区分されてしまったらしい。私は心の中で黒崎にエールを送った。が、当の本人は私に「せいぜい夜道に気を付けることですね」と不穏な捨て台詞を残して消えていった。アロナが黒崎を煽り、私が黒崎からの報復の被害にあう。そしてまたアロナが私を煽る。最悪のカーボンニュートラルである。
黒崎が去った後には、青ざめた顔で近くのベンチに座り込む早瀬さんと私だけが残った。
「大丈夫?」
「虫は本当にダメなんです」
「コーヒーでも飲んで落ち着く?」
「……ありがとうございます」
暫く無言の時間が流れた。これは決して私が話を切り出せなかったからとかその様な理由ではなく、精神が参っている早瀬さんの状況を想えばこそである。決して私が不埒な感情を悟られまいと言葉を選んでいる内に、何も言えない空気になってしまったわけではない。ないのだ。
「コユキがまた何かやってたんですね」
「まぁ、そんな感じだったみたい」
「まともに付き合ってると先生にも阿呆が移りますよ」
正直な所、もうかなり手遅れだとは思ったが口には出さなかった。こういった判断の良さには定評がある。つまりは紳士だということだ。
「そういえば今日はあれを持ってるんだった」
私は思い出して鞄の中を探った。
「約束してたよね、今度持ってくるって」
私は先日の焼肉店での話をした。軽い社交辞令じみた口約束ではあったが、早瀬さんに栄養満点の総合ゼリーを渡すと過去の私は言っていた。偶然にも今日の持ち物の中にあった。偶然というか今朝のアロナがやけに仔細に持ち物確認をしてたのはこういうことだったか、と私は一人で合点がいっていた。
ちなみに私はこのゼリーについて賛美両論ある感じで一概に良いと断じれない。何ならむしろ否定的なのだが、少なくとも早瀬さんは満足している様であった。
翌日、クロノスの記者も記事に書いていたことであるが、その虫型ロボットの暴走の原因は終ぞ分からなかった。エンジニア部が昔、試作してそのまま放置していたロボットらしい。しかし、当然のことながらあんなに何百体も製造は行っていないらしい。搭載された人工知能が一人でにせっせと仲間を作っていた、なんて説も出てきている。真実は多分、百合園さんぐらいしか知りえないところにあるのだろう。
その後、私と早瀬さんの関係が如何なる進展を見せたかについては、この稿の趣旨から反するため書き記さないことにした。読者諸君もそんな唾棄すべき産物を読んで体調を崩したり、突発的な怒りに襲われたくはないだろう。
成就した恋ほど、語るに値しないものはないのである。
多少の新展開が私の人生に現れたからといって、私が自身の過去に忸怩たる思いを抱いていないと思われるのは極めて心外である。私の慙愧の念はそう易々と断ち切れる程に脆くないのだ。
人生の新大陸に戸惑っていた時は、心機一転してアリスのレールガンよりも大きい愛情で自分を抱きしめてやろうかと思ったが、早瀬さんの様な麗しき乙女ならいざ知らず、むさくるしい私の様な野郎を自分とは言え抱きしめたくはなかった。更に、ここで自己愛を横溢させてしまえば黒崎やアロナ、果ては生塩さんにまで馬鹿にされることは確実であった。そういったやむにやまれぬ大人の事情が二乗に重なって、アリウスの様な複雑怪奇な迷宮と化し、私は過去の自分の救済を断固拒否した。こういった潔さには多少なりとも自信がある。つまりは紳士だということだ。
あの時、あの場所、あの場面。
数多の選択肢が人生にはある。そういった"もしも"を考えると、私の類稀なる才能から逆算すれば、もっと輝かしい先生生活を送っていたことは想像に難くないだろう。
幻の秘宝とも言われている薔薇色の青春活動記録すらこの手に握っていたかもしれない。だが、いくらそんな机上の可能性を考えたとしても、人生というのは今ある己を引き摺っていかねばならないものなのである。社会的有為な人材となるための布石を悉く外して、場違いに間違いを重ねて少なくない歳月を棒に振ってしまったという現実は変わらないのである。勿論、デキる大人である私は、この悲惨な現状からも目を背けることなどしない。
しかし、些か見るに堪えない。
原作を考えると全4話にしないと話が成立しないんですけど、出来が残念だったので1話に圧縮して供養しました。