二学期の中間テストが終わった。
僕は世界史以外の科目には目もくれず、答案用紙を受け取る。
『89点』
思わず息をのんだ。
悪くない点数だ。むしろ、僕の今までの成績を考えれば十分に健闘したと言える。
でも――無性に悔しい。
90点に届かなかったという事実が、なんとも言えないもどかしさを残す。たった1点。されど1点。あの問題をもう少し丁寧に解いていれば、あと一歩で大台に乗せられたかもしれない。
その時、不意に伊藤から聞いた曽米さんの言葉を思い出した。
『満点だと満足して勉強を疎かにしちゃうから、わざと一問間違えれば悔しさが残るし、もっと勉強しよって気になるでしょ?』
その意味が、今ならわかる気がする。
曽米さんは意図的に満点を取らないようにしていると言っていた。僕と比べるのは烏滸がましいが、彼女の言葉の意味を理解できたことで、少しだけ距離が縮まったような気がした。
……とはいえ、やっぱり悔しい。
次こそは90点を超えてみせる。いや、それどころか、満点を狙ってやる。
―――
体育祭の時期が近づき、体育の授業では体力作りと称して、僕たちはひたすら走らされていた。
冬の到来を予感させるグラウンドは肌寒く、ランニングで体を暖める理由としては申し分ない。……とはいえ、僕にとっては苦行でしかない。運動が苦手な僕は、当然ながら最後方のグループに入ることになる。
前方では、那智君や伊藤が先頭集団に混ざり、軽々とペースを握っていた。僕は息を切らしながら、なんとか食らいつこうと足を動かす。肺が苦しく、足も重い。すぐにでも止まりたい――そんなことを考えていると、不意に横に影が並んだ。
「マラソンの語源って知ってる?」
隣を見ると、曽米さんが並走していた。呼吸するだけで精一杯の僕にとって、返事をする余裕なんてない。授業でやった内容だと頭の片隅で思い出しながらも、言葉が出せない。
「はーい、時間切れ」
曽米さんは一人で勝手に答えを言い始める。
「ペルシア軍に勝利したギリシア軍の一人の兵士が、約40キロ走ってアテナイに勝利の報告をしたのが由来なんだって。プルタルコスっていう――」
息一つ乱さずにそんな話をする彼女だが、僕はただ腕を振り続けることしかできなかった。
先を走っていた日向さんが、僕の様子に気づいたのかペースを落として隣に並んだ。
「獅子御君、自分のペースでいいの。妃美華のペースに合わせたら体力が持たないわ」
僕は小さく頷きながらも、なんとか二人に食らいつこうと足を動かす。しかし、そんな僕の苦労など意に介さず、曽米さんは隣で楽しそうに三国時代の話を始めた。
「魏と蜀と呉の三つ巴の戦いがね、実は孔明の策略によって――」
曽米さんの声が耳に入る。けれど、もう僕の頭はそれを処理できなかった。視界がぼやけ、意識が遠のく。次の瞬間、足がもつれ――
ドサッ!
地面に倒れ込んだ。
「おのれ孔明の罠か!?」
曽米さんの叫びが響く。
「リチャード君の仇は私が取ってくる!」
わけのわからないことを言い残し、曽米さんは猛然と前方へ駆け出していった。
日向さんが僕を介抱してくれる横で、先頭のほうから那智君と伊藤の悲鳴が聞こえる。どうやら、曽米さんが先頭集団をかき乱しているらしい。
……体育祭前の体力作りで、ここまで波乱が起きるなんて、さすがに予想外だった。
―――
目を覚ますと、僕は保健室のベッドの上にいた。白い天井がぼんやりと揺れるように見える。意識を失う間際、曽米さんが叫んだ言葉が頭の中で反響し、鈍い頭痛を引き起こしていた。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
窓の外を見ると、他のクラスの生徒たちが同じようにグラウンドを走らされている。僕もあの中にいたはずなのに、今はここで横になっていることが、なんだか現実感がなかった。
すると、保健室の扉が静かに開いた。入ってきたのは伊藤だった。冬服の制服を着た伊藤は、どう見ても男にしか見えない。保健室の先生も「伊藤君」と呼んでいたから、そう認識しているのだろう。
「体調はどう?」
伊藤の問いかけに、僕はまだ少しぼやけた頭で答える。
「まだ頭痛はするけど、午後の授業には出られるかな」
「曽米に合わせて無理をするな。君のことなんか微塵も心配してないんだ。それに、保健室に一度も顔を出さなかっただろう?」
僕は言葉に詰まる。
「それは僕が寝てたから気づかなかっただけで……」
「そんなに曽米のことが気になるのか?」
「それは……」
うまく言葉が出てこない。伊藤はじっと僕を見つめると、急に思い出したように言った。
「今日は曽米と図書室で勉強する日だったな。曽米に伝えておくよ、獅子御は早退したって」
「ちょっと待って!」
慌てて言葉を返すと、伊藤は突然、僕の手を強く握った。
「獅子御にとって、伊藤枢ってどういう存在なの?」
僕は思わず目を泳がせる。伊藤の真剣な眼差しが、妙にまっすぐで、逃げ場がなかった。
「……伊藤、手を離した方がいいよ。先生に誤解されちゃうから」
伊藤はハッとして手を離した。ちらりと保健室の先生を見ると、確かに頬を赤らめて視線を逸らしている。
伊藤は逃げるように扉に手をかけ、最後に振り返ると、ふわりとした笑顔で言った。
「体育祭の騎馬戦、君だけを応援してるから」
その表情は、どこか乙女のようだった。
①マラトンの戦い(ペルシア戦争)
ギリシア軍がペルシア軍に勝利した戦い。
ギリシア軍の兵士が勝利の報をアテナイに届けたことが「マラソン」の由来になった。
②三国時代
中国の歴史の中で、魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)の三つの国が争った時代のこと。
蜀・呉の連合軍は「赤壁の戦い」で魏を壊滅させ、勢力争いで優位に立っていたが内部抗争や権力闘争により衰退。勢いを増す魏が中華を統一すると思われた矢先、司馬家が魏を乗っ取り、蜀と呉を滅亡させた。
③諸葛亮(諸葛孔明)
中国の三国時代に活躍した蜀(しょく)の軍師。天才的な知略を持ち、劉備(りゅうび)に仕えた。
「三顧の礼」「天下三分の計」「死せる孔明生ける仲達を走らす」などの多くの逸話を残す。
④司馬懿(司馬仲達)
中国の三国時代に魏(ぎ)に仕えた軍師・政治家。
諸葛亮亡き後、曹一族を抑えて実権を握る。最終的には魏の実権を司馬家が握る流れを作り、孫の司馬炎(しばえん)が魏を滅ぼして晋(しん)を建国した。