合図の笛が鳴ろうとしたその瞬間、伊藤が急に指示を出し始めた。
「陣形をつくる。獅子御は他二騎を加え、三角形になるように配置してくれ。伊藤とその他二騎は単騎横陣で敵左翼を引きつける」
まるで軍師のような振る舞いに、クラスメートたちは一気に活気づいた。騎馬戦という単純な競技が、まるで戦争のように感じられて興奮しているんだろう。
でも、僕はどうしても気になってしまった。
「ちょっと待って。そんな配置にしたら僕の方より伊藤の方が狙われることになるよ。それに、相手のことなんて僕たちは何も知らないんだ。そんな即興で考えた戦術が通用するかな?」
伊藤は一瞬たじろいだように見えたが、すぐに目を鋭くさせた。
「即興だから意味があることもある。それに、曽米が書いたメモに相手の情報も書かれているんだ」
「……え?」
まさか、そんなところまで考えていたなんて。
伊藤が広げたメモには、
『相手の中央に構える馬役を務める長身の大堤(おおづつみ)君(あだ名はピョートル1世)は眼鏡をかけているが防塵ではなく、更にド近眼でプライドが高いから前に出てくる……はず』
と書かれていた。
那智君はすぐに大堤君に狙いを定めたらしく、すでに勝負のイメージを膨らませている。クラスメートたちも、伊藤の言葉と曽米さんのメモを完全に信じ切っていた。
でも、本当にこれでうまくいくのか?
……いや、やるしかないか。
那智君がふと思い出したように言った。
「確か大堤ってリチャードの知り合いだったよな?」
「うん、大堤君は僕のゲーム仲間だよ。クラスは違うけど、日曜日によくオンラインゲームをしてるんだ」
「まあ、『昨日の友は今日の敵』って言葉もあるし、敵になっちまってもリチャードには覚悟を決めてもらわなきゃな」
……それ、間違ってるよ。でも、意図的にやってるんだろうな。そういうノリの時の那智君は、だいたい勢いに乗ってる。実際、馬役の二人は力強く頷き、すでに気合十分だ。
そして、ついに騎馬戦開始の笛が鳴り響いた。
僕たちは一斉に展開する。伊藤の指揮のもと、三角形の陣形が整い、単騎横陣のグループも敵左翼へと揺さぶりをかけた。全員が統率の取れた動きを見せるこの瞬間、僕たちの軍団は相手にとって、得体の知れない何かに映ったはずだ。
案の定、大堤君たちの騎馬は混乱し、動揺が広がっている。おそらく、伊藤の指揮があまりにも「それっぽく」見えたせいだろう。でも、思ったより慎重な相手はなかなか前に出てこない。
しかし、痺れを切らしたのか、大堤君がついに動いた。その瞬間――。
ゴオォォッ!!
強烈な風が吹き荒れ、砂埃が舞い上がる。視界が一気に悪くなり、グラウンド全体がぼやける。まるで戦場に巻き上がる砂嵐のようだ。
「くっ……!」
僕は目を細めながら周囲を見渡す。すると、砂塵の中にぼんやりと特徴的な眼鏡の形が浮かび上がった。
あれは……!
「那智君、あそこ!真ん中に人影が見える!」
那智君は手で顔を覆いながら必死に視界を確保し、グラウンドを見渡した。
そして、砂嵐の向こうに標的を定めた瞬間、彼は低く息を吐き――。
「お前ら、いくぞ!!」
まるで狼煙を上げるかのように、僕たちは一気に駆け出した。
大堤君の騎馬は、視界不良の中でも伊藤の左翼へ向かっていた。しかし、伊藤の単騎組は焦る様子を見せず、ただじりじりと前へ進むだけ。敵が遅れをとっても、こちらから仕掛けることはせず、まるで静観しているようだった。
そんな中、那智君が勢いよく大堤君へ突撃する。
「おおおおっ!!」
大堤君と騎手が驚いたように振り向いた。僕はその一瞬の隙を見逃さなかった。思いっきり手を伸ばし、騎手の鉢巻きに指をかける。そして――。
「と……取ったぁッ!!」
気づけば、僕の手には確かに鉢巻きが握られていた。
勝った。取ったんだ、僕が!
嬉しさのあまり、はしゃいでしまう。大堤君は悔しそうな表情を浮かべながら、味方の陣地へと戻っていった。
だが、僕の声を聞いた相手チームは動揺したのか、バラバラに動き始める。そして、その標的は――。
「……伊藤の方に集中してる!?」
敵の騎馬たちが一斉に伊藤へと向かっていた。だが、伊藤はまったく動じない。むしろ、堂々とした口調で指示を出した。
「動ずるな!数ではこちらが有利だ!相手の動きを見て、この伊藤が側面をつく!残り二騎は背後に回って、隙を伺いつつ鉢巻きを奪い取れ!」
伊藤の冷静な指揮に、不安そうだった二騎も意を決したように頷き、すぐさま背後へ回る。
相手は那智君と、脚力に自信のある二人の機動力に完全に翻弄されていた。そして、僕は――。
「これで、二つ目!」
「三つ目も……いける!」
次々と鉢巻きを奪い取っていく。気づけば、僕たちのクラスが圧倒的な勝利を収めていた。
勝った。こんなにうまくいくなんて。
「これなら優勝まで簡単にいけちゃうかもな?」
那智君が自信満々に言い放つ。
――それはまるで、フラグのようだった。
そして迎えた二回戦。さっきの圧勝ぶりが嘘のように、僕たちは徹底的に狙われた。伊藤と曽米さんの作戦は、あまりにもあっさりと崩れ去っていく――。
惨敗だった。
僕たちの騎馬は、敵の猛攻の前にあっけなく崩れ去り、最後には伊藤の策も通用しなかった。勝てると思っていただけに、悔しさが滲む。でも――。
「……まあ、楽しかったな」
ふと、そんな感情が湧いてきた。周りを見れば、みんな同じように悔しそうな表情をしているけれど、それ以上に晴れやかな笑顔を浮かべていた。
特に伊藤への評価がガラッと変わっていた。
「伊藤って静かなタイプかと思ってたけど、結構熱い性格してるんだな」
「伊藤と曽米って険悪そうに見えたよな。でも相性最高なんじゃね?」
「曽米と獅子御が付き合ってるって本当?」
……ちょっと待って、最後のは何!?
思いもよらない話題に伊藤が困惑した様子で僕に目配せしてくる。いや、僕に助けを求められても――。
すると、そこに割って入ったのが那智君だった。
「おいおい、オメェらオレたちのことを忘れんじゃえねぇ!そもそもリチャードとヒミコがいなかったら、一回戦も突破できなかっただろうが!」
その言葉に、クラスメートたちが笑顔で頷く。体育祭を通して、一体感が生まれたのがよく分かった。
僕は伊藤の方を見て、そっと声をかける。
「お疲れ。
すると、周囲の男子たちがザワついた。
「えっ?伊藤って女の子なの?」
「マジかよー!俺たちと同じ制服着てるから気づかなかったぜ」
「ていうか騎馬戦に女の子ってルール違反じゃね?」
あからさまに驚くクラスメートたちをよそに、伊藤は何食わぬ顔で曽米さんと日向さんの間へと移動していく。その堂々とした態度に、なぜか少し笑えてしまった。
こうして、僕たちの体育祭は幕を閉じたのだった。
①三十年戦争
宗教改革により誕生したプロテスタント(新教)はカトリック(旧教)の弾圧に耐えかね、武力闘争を展開した。神聖ローマ帝国・デンマーク・スウェーデン・イギリス・スペイン・オランダ・フランスなどの介入を受けたドイツは荒廃し、史上最悪にして最後の宗教戦争となる。
プロテスタントの指揮官であったスウェーデン王グスタフ・アドルフは極度の近眼と戦場の視界不良(濃霧)のため、飛び出してしまいカトリック軍に囲まれ戦死した。
②ピョートル1世
ロシア帝国を後進国から欧州の大国へと変えた皇帝。西洋化・近代化を強引に推し進め、軍事・経済・文化を変貌させた。
三十年戦争の勝者となったスウェーデンを「大北方戦争」で打ち破り、「ピョートル大帝」と呼ばれる。
③斜線陣
テーバイの将軍エパメイノンダスがファランクスに改良を加えた陣形。「レウクトラの戦い」で屈強な兵士集団であるスパルタを壊滅させた。
アレクサンドロス大王、ハンニバル、グスタフ・アドルフ、フリードリヒ大王、ナポレオンなどが参考にしたとされ、騎兵や砲兵を加えた新戦術が次々と誕生する。