十一月も終わりが近づき、寒さが厳しさを増す中、期末テストの答案が返却される日がやってきた。
僕は今回の世界史に、ちょっとした手応えを感じていた。範囲が十世紀前後のヨーロッパとアジア――範囲が僕の想定よりも狭く、日本と関係の深い中国史がメインだったからだ。
(……いけるかも)
配られた答案用紙をめくる。
91点!
「やった……!」
思わず声が出そうになったけど、慌てて口元を押さえた。内心では大きくガッツポーズ。ついに大台に乗ったんだ。
さらに驚いたのはクラス順位だ。8位。那智君を抜かしていた。
「……オレは部活で忙しいしな。大会も近いからこんなもんだろ」
那智くんはそう言いながらも、唇を噛んでいた。悔しさを隠そうとしているのがバレバレだ。
「強がり言ってないで、これからはリチャード君に世界史を教えてもらわなきゃね」
日向さんにからかわれて顔を真っ赤にしている。
ふと視線を前の席に向けると、相変わらず伊藤と曽米さんの存在感が際立っていた。相変わらずの1位2位争いだ。
(まあ、今回も伊藤がトップなんだろう)
……そんな軽い気持ちで答案を覗いた僕は、思わず目を疑った。
1位:曽米妃美華 99点
2位:伊藤枢 98点
教室がざわめき始める。
「……マジかよ」
誰かが呟いた。
伊藤が負けるなんて、今まで一度もなかったのに。
「フフッ……」
曽米さんが小さく笑った。勝ち誇ったような、挑発するようなその笑い方は、いつもの講義モードの彼女とは違っていた。
「どれどれ、ふむふむ」
曽米さんが伊藤の答案を少年名探偵の如く疑問を指摘した。
「あれれ?おかしいぞ〜、世界三大美女でも有名な楊貴妃の名前が出てこなくて、小野小町を書いちゃうなんて伊藤らしくないぞ〜?男の格好してるから、美女の名前は覚えられないのかなぁ?」
「……うるさい」
伊藤は声を荒げ、答案をぐしゃぐしゃに握りつぶした。そのまま無理やりカバンに突っ込む。
「優等生でなければ、理性的でなく、男ですらない」
曽米さんの皮肉が効いた一撃に、伊藤はぐったりと席に座り込んだ。
二人の仲はますます険悪になっているような気がした。文化祭が終わった頃から、曽米さんが伊藤に話しかけることはあっても、伊藤が曽米さんに話しかけることがなくなった。恐らく僕が見てないだけかもしれないが、普段の伊藤は僕と曽米さんに対する態度があからさまに違う。当然、那智君は鈍感だからわかってないかもしれないけど、日向さんは知っているはず。いつも四人でお昼を食べているからだ。
―――
テストの返却が終わり、午後になると、朝の澄んだ空は一変していた。青空に薄暗い雲が広がり、遠くで雷が鳴り始める。
「天気、崩れるのかな……」
誰かのつぶやきが聞こえた。まるでその声に応じるかのように、窓の外でゴロゴロと音が響く。
放課後、僕はいつものように図書室に向かった。
今日は曽米さんの日だ。
テストの結果が良かったからだろうか。自然と足取りが軽くなる。90点台に乗ったんだ。曽米さんもきっと褒めてくれる。そう思うと胸が高鳴った。
図書室に入ると、曽米さんはもう席に着いていた。参考書を広げているけど、視線はずっと窓の外に向いている。
「曽米さん?」
声をかけても、曽米さんは返事をしなかった。いつもなら「リチャード君!」と明るく呼んでくれるのに。
気づけば雷の音がだいぶ近くなっていた。
(……もしかして、雷が怖いのかな?)
子どもみたいだと笑うのは簡単だけど、曽米さんが外ばかり気にしている様子を見ると、なんだか放っておけなくて――
「曽米さん、大丈夫?」
そっと声をかけると、曽米さんはピクリと肩を揺らした。
僕が隣に座ると、曽米さんの表情が少し和らいだ気がした。
外はすっかり薄暗くなっていて、雷の音が少しずつ近づいてくる。けれど、曽米さんはそんなことを気にする素振りも見せず、いつもの調子で話し始めた。
「十字軍は全部で四回行われたって参考書には書いてあるんだよね。でも細かく分けるともっとあって……」
そう言いながら、曽米さんは手元の資料を指でなぞる。内容は三学期の範囲である十字軍だった。僕は曽米さんの話を聞きながら、今日のために予習したことを思い出していた。
そのとき、空が一瞬光った。
「イヴァン!」
突然の叫び声に、僕は思わず肩を震わせる。
「えっ?」
「それでね、イヴァン四世は――」
「ちょっと待ってよ、イヴァン四世って十字軍に関係あるの?」
思わず口を挟んでしまった。
「……あはは、ごめんごめん。新キャラだったね」
曽米さんは照れ笑いしながら、さっきの話の続きを始めた。
「それじゃあ、十字軍に話を戻すと……」
けれどその瞬間、今度は雷鳴がすぐ近くで轟いた。
「バヤジット!」
「へっ?」
まただ。しかも今度は名前が違う。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている僕をよそに、曽米さんはすぐに説明を再開した。
「それでバヤジット一世は――」
何事もなかったかのように、まるで自然な流れで語り続ける曽米さん。さっきまで怯えていたように見えたのに、話し始めるといつもの調子に戻る。
「曽米さん、もしかして雷が怖い?」
そう尋ねると、曽米さんはバツが悪そうに舌を出した。
「ちょっとね……」
その返事が終わるか終わらないかのうちに、今度はさっきよりもはるかに大きな稲光が走った。
「ハンニバルッ!」
その声と同時に、僕の腕に曽米さんの手がしがみつく。彼女の指がギュッと力強く僕の袖を掴んでいて、震えているのがわかった。やっぱり怖がってるんだ。
(曽米さんにも、こんな女の子らしい一面があるんだな……)
妙に意外な気持ちだった。いつも歴史の話になると、どんなに悪天候でもお構いなしに話し続ける曽米さん。そんな彼女が、雷にはこんなに怯えるなんて。
でも、同時に疑問も湧いてきた。
「ねぇ、もしかして曽米さんが発した三人の名前って、雷に関係してる?」
そう聞くと、曽米さんは「えへへ」と笑いながら、得意げに胸を張った。
「リチャード君の目は欺けないか……私、雷が嫌いで、音と光を打ち消すために三人の偉人をぶつけてるんだ。そうすれば気持ちが少し落ち着くから」
どういう理屈なんだかよくわからないけど、曽米さんらしいやり方だ。雷の音に負けないように、彼女なりの方法で戦っていたってことか。
「リチャード君はこの三人の共通点、わかる?」
曽米さんはウキウキした様子で僕の顔を覗き込んでくる。
イヴァン、バヤジット、ハンニバルの共通点……?さっきの話を思い返すと、雷に関係するってことは確かだ。
「イヴァン四世は……ああ、雷帝だ」
「うんうん!」
「バヤジット一世は……たしか、異名が雷光?」
「正解!」
ここまでは順調だ。でも……
「ハンニバルは……なんだ?」
授業で習った記憶がない。腕を組んで考え込む僕を、曽米さんは嬉しそうにじっと見つめていた。まるで「正解してみろ」と言わんばかりの笑顔で。
「はい、時間切れ」
唐突に曽米さんがそう言った。
「ハンニバルはね、ハンニバル・バルカって名前で、『バルカ』は雷光って意味だよ」
「へぇ……」
思わず感嘆の声が漏れた。授業じゃ出てこないような知識まで覚えてるなんて、相変わらずすごい。
「だからね、雷が鳴る日はこの三人を召喚すれば、雷なんて怖くないでしょ?」
そう言いながらも、曽米さんの手はしっかりと僕の腕を掴んだままだった。その指先には、さっきよりもさらに強い力がこもっている。
「……平気そうにしてるけど、やっぱり怖いんじゃん」
からかうつもりで言ったのに、曽米さんはそれに応える余裕もないみたいだった。
ドォン!!
すぐ近くに雷が落ちた。窓の外が一瞬、真っ白に染まる。
「イヴァン!バヤジット!ハンニバルッゥゥゥ!」
曽米さんが、さっきまでの説明とは打って変わって、ほとんど呪文のように三人の名前を叫んだ。その声には、どこか必死さが滲んでいる。
「イヴァン!バヤジット!ハンニバルッゥゥゥ!!」
再び雷鳴。曽米さんの声はどんどん大きくなっていく。
(……きっと、この三人の名前が曽米さんにとってのおまじないなんだな)
そう思うと、何も言えなくなった。曽米さんの声が止まるまで、僕はただその声に耳を傾けるしかなかった。
「……ハンニバル……バルカ!」
最後の名前は、かすれた声だった。さながら某ジブリ映画の呪文のような響きに似ていて、頭の中に刷り込まれてしまった。
曽米さんの手は、ようやく僕の腕から離れていく。
「……少しは落ち着いた?」
そう声をかけると、曽米さんはバツが悪そうに頷いた。
「……ありがとね、リチャード君」
その声は、雷の音にかき消されるほど小さかった。
雷の音がまだ遠くで響いていたけど、曽米さんの年頃の女の子らしい表情を見ていると、なんだかそれもどうでも良くなってしまうような気がした。
①安史の乱
安禄山と史思明が起こした、中国(唐)で起きた反乱。大規模な戦乱により国力が大きく衰退する。皇帝の「玄宗」は優秀な人物であったが、「楊貴妃」を寵愛したことで政治に関心を持たなくなり乱の原因を作った。
②神聖でなければ、ローマ的でもなく、帝国ですらない
三十年戦争の敗北により「神聖ローマ帝国」は事実上の分裂状態に陥った。思想家ヴォルテールの言葉であり、神聖ローマ帝国という国の現状を的確に表現したもの。
③イヴァン4世
モスクワ大公国で「ツァーリ(皇帝)」を自称し、「雷帝」と呼ばれた。専制政治を強化し、貴族層を弾圧。ロシアの領土拡大に成功するが、晩年は暴君として恐れられた。
④バヤジット1世
オスマン帝国皇帝。勢力を拡大し「雷光」と称された。「アンカラの戦い」でティムールに敗れ、捕虜となり病死した。一説には服毒自殺をしたともいわれている。
⑤ハンニバル
カルタゴの将軍。「第二次ポエニ戦争」でイタリアに侵攻し、ローマ軍を生涯にわたって苦しめる。戦術の名手として名高い。
「カンナエ(カンネー)の戦い」でのカルタゴの勝利は現在でも高く評価されており、多くの軍人や君主の手本とされている。