二月に入っても寒さはなかなか和らがない。今日は家庭科の調理実習。僕たちは海鮮サラダとベーコン入りスクランブルエッグを作ることになった。
海鮮サラダを担当する曽米さんは日向さん、伊藤と同じ班で、三人で作業を進めている。
伊藤がゴム手袋をはめた手でレタスを大胆に引き千切っていた。ビリビリと破れる音が響く。
「引き千切られた
曽米さんがぽつりと呟く。何の脈絡もなく、しかも真顔だった。
「は?」
伊藤が不快そうな顔で曽米さんを睨みつける。そのまま無言で、引き千切ったレタスを無造作にボウルの上へドサリと放り投げた。レタスがふわりと舞い、ボウルからこぼれ落ちる。
そのやり取りを横目に、日向さんは黙々とキュウリを輪切りにしていた。
「タレス?」
日向さんが手を止め、首をかしげる。
「知らないの?
曽米さんは得意げに言った。
「あのって、どのレタスのことを言ってるの?」
二人の会話は噛み合っていない。日向さんは、すぐにキュウリの輪切り作業に戻る。
「輪切りにされたミセス・キュリー……」
まただ。曽米さんは懲りもせず、ふざけた一言を放つ。
「妃美華、口ばっか動かしてないで手も動かしなさいよ。ほら、そこのニンジンの皮をピーラーで剥いて」
呆れた様子の日向さんが、まるで先生みたいな口調で指示を出した。
「高麗ニンジン?」
曽米さんが愛想を振りまくようにニッと笑う。
伊藤が笑いをこらえながら、曽米さんに向き直った。
「いいか、曽米?高麗人参と一般的に認識してる人参は別物だ――」
どうやら真面目に説明するつもりらしい。
「高麗人参はウコギ科で、薬用として使われることが多い。乾燥させたものを煎じて飲むんだ。精力剤として重宝されている。それに対して普通の人参はセリ科で、根菜として食べるのが一般的だ。見た目も全然違うし、混同することはないと思うが……」
伊藤は妙に真剣な顔で語る。
「へぇ~、勉強になるねぇ」
曽米さんはわざとらしく頷きながら、ニンジンの皮をピーラーで剥き始めた。
「ま、どうせリチャード君に教えてもらった知識なんでしょ?」
ニヤリと笑う曽米さん。
「いや、これはちゃんと自分で調べたんだ」
伊藤は少し得意げに答えた。その瞬間、ピーラーの刃がニンジンの表面を滑る音がやけに大きく感じた。
「ふぅん……」
曽米さんは興味があるのかないのか、曖昧な表情のまま作業を続ける。
日向さんはというと、まるで「また始まった」とでも言いたげに軽くため息をつき、キュウリをさらに輪切りにしていた。
結局、伊藤の説明がどこまで伝わったのかは、僕にはわからなかった。
調理実習も終盤に差し掛かり、僕は那智君と一緒にスクランブルエッグを作っていた。
「もうちょい火を弱めたほうがいいかな……」
フライパンに広がった溶き卵の様子を見ながら、僕はベーコンを焼くタイミングを見計らっていた。
その時、曽米さんがこっちに近づいてきた。
「海藻といえば?」
突然の問いかけに、那智君がすかさず反応する。
「いきなりなんだ!?フライパンに集中してる時に話しかけんな!」
怒り気味の那智君に、曽米さんはまったく意に介さず、今度は僕に向かって、
「海藻といえば?」
と再び問いかけてきた。
「……ラスプーチン」
僕はベーコンをフライパンに並べながら、そう答えた。
「フフ、正解~」
曽米さんは満足げに微笑み、そのまま自分のグループへ戻っていった。
「……何が正解なんだ?」
那智君は困惑しつつスクランブルエッグをかき混ぜていたが、僕はそれに答える気にはなれなかった。
だって、曽米さんのことだから、また世界史絡みのネタに決まっているのだから。
そんな中、曽米さんが得意げにゴマドレッシングのボトルを取り出し、
「クレオパトラがこよなく愛したゴマドレッシングをかけて出来上がり!」
と、満面の笑みで宣言した。
「なに?」
当然、伊藤が食い気味にツッコむ。
「クレオパトラが美容のために胡麻油を愛用していたことは知っているが、ドレッシングは存在しないだろう」
伊藤は腕を組み、呆れた様子で曽米さんを見ていた。
「え~、そうかなぁ?」
曽米さんはしれっとゴマドレッシングをかけはじめ、僕は「まあ、どうでもいいか」と思いながらベーコンをひっくり返した。
ふと横を見ると、日向さんが真剣な顔で何やらメモを取っていた。
(……美容のため、か?)
そう思った瞬間、那智君が「おい、何メモしてんだ?」と余計なことを言った。
「別に!何でもないわよ!」
日向さんは顔を赤くしてノートを閉じた。那智君は「なんだよ……」と苦笑していたが、日向さんの表情はどこかムキになっていて、なんとなくおかしかった。
(……にしても、クレオパトラのドレッシングってどういうこと?)
思い出すたびにじわじわ笑いがこみ上げてきて、僕はベーコンを焦がしそうになるのを必死に堪えた。
曽米さんたちの作った海鮮サラダは、レタス、キュウリ、ニンジン、そしてワカメが綺麗に盛り付けられていた。カラフルな野菜と深い緑のワカメがいい感じに映えていて、思わず「美味しそう……」と心の中で呟いた。
那智君が作ったスクランブルエッグは、卵の塊が大きくて、ところどころ焦げていた。僕が焼いたベーコンをその上にのせてみたけど、正直なところ、見た目はかなり微妙だった。
「……まぁ、食えなくはないか」
恐る恐る口に運んでみると、意外にも味は悪くなかった。見た目のボロボロ加減とは裏腹に、程よい塩気とベーコンの旨味がうまく合わさっていて、思ったよりもイケる。
そんな中、隣で曽米さんが、口いっぱいに海鮮サラダを頬張りながら、もぐもぐしたまま話し始めた。
「……ってわけでさ、『コロンブスの卵』っていうのは、簡単なことでも最初に思いつくのが難しいって意味なんだよ」
「食べながら話しかけんじゃねぇ!」
那智君がイラついた声を上げる。その拍子に、手元のケチャップボトルを思いっきり傾けてしまい、スクランブルエッグにドバドバと真っ赤なケチャップが流れ込んだ。
「うわっ、やりすぎた……」
那智君が苦笑いするのを横目に、僕は飛び散ったケチャップをダスターで拭き始めた。テーブルの上には点々と赤いシミが散らばっていて、後始末が思ったより面倒そうだ。
その間も曽米さんはケチャップまみれのスクランブルエッグを見てクスクス笑いながら、「まるで血まみれのコロンブスの卵だね~」なんて言い出す。
「何が面白いんだよ……」
那智君がボソッと文句を言いながら、日向さんの海鮮サラダを指でつまんで口に放り込んだ。
「おい!」
「やめなさい!」
伊藤と日向さんが同時に声を上げ、那智君は「ちょっと味見しただけだって。これ、めっちゃ美味いじゃん」と弁解していた。
こうして、僕たちの調理実習はにぎやかなまま終わった。テーブルの上には、ケチャップまみれのスクランブルエッグと、クレオパトラのゴマドレッシングがかかった海鮮サラダが並んでいて、なんともカオスな光景だった。
①タレス
古代ギリシアの哲学者。
数学、物理学、天文学にも精通しており現代に至るまで多大な影響を与え続けている。「万物の根源は水である」という主張が有名。
②キュリー夫人
ポーランドの物理学者。
放射性元素のラジウムを発見。ノーベル賞を2度受賞した唯一の女性であり、がん治療に多大な貢献を果たした。
③高麗(こうらい)
朝鮮半島に王建が建国。中国の宋(そう)の政治を規範として官僚制度を確立。独自の伝統と文化を発展させるも、宋がモンゴルの元(げん)に倒されると異民族の侵入と相まって、対処することができず国家の衰退を目の当たりにした李成桂(りせいけい)に乗っ取られた。
韓国を英語で「コリア」と呼ぶのは高麗からきている。
④クレオパトラ
プトレマイオス朝エジプトの女王(ファラオ)。
ユリウス・カエサル、マルクス・アントニウスと関係を持ちローマの混乱に介入した。カエサルの養子であるオクタウィアヌス(アウグストゥス)が「アクティウムの海戦」でアントニウスとクレオパトラの連合軍を破る。ローマ軍に攻め込まれたクレオパトラは毒蛇に体を噛ませ命を絶った。
⑤ラスプーチン
ロシア帝国の僧侶。
皇帝ニコライ2世の皇后と皇太子の病を治療したことで信任を得る。皇帝の権力を笠に着て政治的影響力を持った。「怪僧」の異名を取った男も時代の流れには逆らえず、暗殺された。
⑥コロンブス
イタリアの探検家。
大航海時代を代表する人物。スペインの経済援助を受け、初めてアメリカ大陸を発見した。先住民を「インディアン」と名付け、新大陸開拓のパイオニアとしてヨーロッパ中に名を轟かせる。先住民を虐殺するなど負の側面もあり、賛否を呼ぶ偉人の一人でもある。
⑦フランシス・ベーコン
イギリスの哲学者。「近代科学の父」と呼ばれる。
科学革命に影響を与え、その功績はニュートンやデカルトといった科学者たちに引き継がれた。