昼休み、僕は曽米さん、日向さん、伊藤と一緒に机を囲んでお弁当を広げていた。最近、那智君はサッカー部の仲間と昼食をとることが増えていて、五人全員が顔を揃える機会が減ってしまった。
別に那智君が悪いわけじゃないし、サッカー部の友達と仲がいいのはいいことなんだけど……日向さんが少し寂しそうにしているのが、僕はなんとなく気掛かりだった。日向さんは気丈に振る舞っていたけれど、何か話題を振るたびに目が泳ぐような気がする。
そんな空気を破るように、曽米さんがいつもの調子で言い出した。
「今日はあのビッグイベントの日だね〜」
口元にはニヤニヤとした笑み。まるで何かのネタを仕込んでいるような顔だった。
「……ビッグイベント?」
僕がそう返すと、曽米さんは「ほら、例のアレだよ、アーレ!」と意味ありげに言葉を濁す。恐らく、バレンタインデーのことだろう。
クラスの男子がソワソワし始めるこの季節。もしかしたら僕も、どこか落ち着かない気持ちになっていたのかもしれない。もちろん、特に期待なんてしていない。いや、していないつもりなんだけど……。
それでも、曽米さんの言葉に反応してしまうあたり、自分が全然「例外」じゃないことは、なんとなく自覚していた。
日向さんのバッグの隙間から、犬や猫のイラストが描かれた紙袋のようなものがチラリと見えていた。おそらくプレゼント用の袋だろう。バレンタインデーが近いし、手作りのお菓子でも入っているのかもしれない。
「乙女たちの、乙女たちによる、乙女たちのための
曽米さんが突然、謎の演説を始めた。声が大きい。教室のざわめきに紛れているとはいえ、隣の教室にまで声が届いている気がする。
「ちょっと、声が大きいわよ!」
日向さんが慌てて声を潜めるように注意したが、曽米さんは意に介さず続けた。
「せっかく一緒に手作りで作ったんだから、渡さなきゃ損損!スティーブンソンなんだからね!」
「スティーブンソン」が何のことかはわからないが、曽米さんが誰かと一緒に作った、という言葉が妙に引っかかった。
一緒に作った?まさか、那智君に?いつの間に曽米さんが那智君とそんなに仲良くなったんだろう。
「そ、そんなこと言っても那智君に嫌がられたら私……」
日向さんが、紙袋を抱きしめるように小さくつぶやいた。
――なるほど。日向さんが那智君のために作ったのか。曽米さんが一緒に作ったっていうのは、きっと手伝っただけだろう。
でも、日向さんの心配はもっともだ。那智君は鈍いところがあるし、妙に照れくさがる性格でもある。せっかくの気持ちが空回りしなければいいけど……
僕はそんなことを考えながら、箸を止めていた。
ちょうどその時、那智君が教室に戻ってきた。
「おっ、リチャード。女の子たちに囲まれて相変わらず楽しそうだな」
まただ。空気を読まない那智君が、何の気なしにそう言ってくる。冗談だとわかってはいるけど、こんなタイミングで言われると、なぜか僕はしどろもどろになってしまう。
「あ、いや、あはは……」
焦る僕をよそに、日向さんが急に立ち上がった。顔が真っ赤だ。
「こ、これ!那智君に渡そうと思ってた……チョコなの。で、でも義理とかそんなつもりじゃ――」
日向さんが言い終わる前に、那智君が勢いよく手を伸ばした。
「おお!日向、気が利くじゃん!ちょうど甘いものが食べたかったんだよなぁ!」
え?ええっ!?
日向さんの表情がみるみる固まる。僕ですら「それはないだろ」と思うほどの無神経さだった。しかも那智君は、もらったチョコをその場で開けようとする始末。
「はぁ?これだからアゴヒゲヒトラーは。やれやれ、これじゃあ『我が闘争』じゃなくて『我が迷走』だよ、まったく」
曽米さんが肩をすくめながら皮肉っぽく言った。相変わらず歴史ネタをぶっこんでくるが、今はタイミングが妙にハマっていた。
「ぶっ……!」
伊藤が思わずむせる。その様子に釣られて、僕もつい頬が緩んだ。
「おい、リチャード。今オレのこと、馬鹿にしただろ!」
那智君がチョコの箱を片手に、ジロッと僕を睨む。
「ち、違うよ!」
僕は慌てて手を振りながら弁解したが、那智君の目は「絶対笑っただろ」と言わんばかりの鋭さだった。
――やれやれ、今日の昼休みはやけに慌ただしい。
―――
放課後、特にこれといったイベントもなく、僕は図書室へ向かっていた。今日は伊藤に勉強を教えてもらう約束をしていた日だ。
図書室の机に座り、数学の教科書を開く。ノートをすぐに取り出せるように準備はしてみたものの、伊藤はなかなか来ない。
「遅いなぁ、伊藤。もしかして忘れられてる?」
独り言が漏れる。とはいえ、忘れてるってことはないだろう。伊藤はそういういい加減なやつじゃない。でも……もしかして。
――チョコでももらってるのか?いや、渡してるのか?
気づけばそんなことを考え始めていて、勉強に集中できなくなっていた。
「遅くなってごめん。ちょっと立て込んでて――」
突然、声がして驚いて顔を上げると、伊藤が僕の隣に立っていた。いつの間に来たんだ?声をかけられるまで気づかなかった。
――いや、それより……
もっと驚いたのは、伊藤の両腕、そして両脇にまで抱えきれないほどの紙袋が詰まっていたことだ。
「さすがに全部のプレゼントはさばき切れないから、獅子御にも手伝ってもらいたいんだ」
伊藤は苦笑いを浮かべながら、手荷物をずるりと机の上に降ろした。
……これは、さすがにすごい。
「うん」
思わず承諾したものの、僕は内心、複雑な気分だった。
日が暮れ、伊藤との勉強会を終えた僕は、帰り支度をしていた。数学の教科書やノートを鞄に詰め込んでいると、教室のドアが開いた。
「お疲れ、リチャード君!」
声の主は曽米さんだった。なぜか、紙袋を抱えている。その袋からは、堂々とフランスパンが顔を出していた。
「曽米さん、部活はもう終わったの?」
僕が尋ねると、彼女は肩をすくめながらこう言った。
「この学校のチア部って結構緩いから、抜け出すのも難しくないんだよね」
あまりに軽い言葉に、伊藤の表情が歪む。
「何しに来たんだ?まさか今から世界史の講義でも始めるつもりか?」
「えへへ、そのまさかだよ。はい、リチャード君、お土産」
曽米さんはそう言って、僕に紙袋を差し出した。半分に切られたフランスパンが、袋の中から異様な存在感を放っている。
「あ、ありがとう。曽米さん……?」
困惑しながら受け取ると、横で伊藤がぼそっと言った。
「なぜパンなんだ?しかもあえて皮の硬いフランスパンを選ぶ必要がある?」
「それはリチャード君が一番よくわかってるはずだよ」
意味深な言葉に、僕はさらに混乱する。
「まあ
曽米さんは、にやりと意地悪く笑いながら続けた。
「女が男にチョコを贈るのは、コモンセンス(常識)だし!」
嫌味たっぷりの一撃に、さすがの伊藤も返す言葉がなかった。
「じゃあね!」
曽米さんは僕に手を振り、そのまま颯爽と帰っていった。
残された僕は、フランスパンを見つめながら、頭を抱えた。
……何が「リチャード君が一番わかってる」だよ。さっぱりわからないんだけど。
―――
夜、自室に戻った僕は、フランスパンを齧りながらベッドの上に広げたチョコやクッキーの入った箱を見つめていた。
「これ、全部食べたら虫歯になるかも……」
苦笑しながらチョコの包みを手に取る。伊藤から分けてもらったとはいえ、量が多すぎる。食べ切る前に気持ちが悪くなりそうだ。
箱の中身を全部取り出したと思い、紙袋を畳もうとしたとき、まだ何かが入っているのに気づいた。
「ん?」
袋の奥から出てきたのは、テニスボールそっくりの丸いチョコレートの塊。驚くほど真ん丸で、まるで工芸品みたいに完璧な球体だ。もったいなくて、今すぐには食べられそうにない。
「誰が……」
首をかしげると、袋の底にもう一枚、紙切れが入っていた。
『男とて大路を走らば即ち男なり』
なんだ、これ?
文字の筆跡はどこか達筆で、妙に力強かった。これ、伊藤が書いたのか? でも、こんな言葉をわざわざ添えるような人間だったっけ……?
考えを巡らせても、答えは出ない。
ふと、かじりかけのフランスパンに目をやる。しっかり噛み締めたはずなのに、まだ少し硬さが残っていた。
「……重い?」
曽米さんからもらった紙袋を持ち上げると、何かの重さを感じた。まさか、と思いながら袋の底に手を突っ込むと、そこには確かに何かがある。
「箱……?」
指先が触れたそれは、小さな箱のようだった。胸が高鳴る。何か、特別なものが入っている気がしてならなかった。
箱を持ち上げた瞬間、何かがひらひらと舞い落ちた。
「ん?」
床に落ちたのは、小さなメモだった。拾い上げてみると、そこには見覚えのある字でこう書かれていた。
『パンがなければチョコを食べればいいじゃない』
「……曽米さんらしい」
思わず苦笑が漏れる。どこまでも彼女の個性が詰まった一言だ。
箱のリボンを解き、ふたを開けると、中からこぼれ出したのは、星の形をした無数のチョコレート。
「これって……」
あのとき、曽米さんが言っていた「せっかく一緒に手作りしたんだから」って、もしかしてこのことだったのか?
「ってことは……日向さんと一緒に作ってた理由も……」
思わず口元が緩む。あれだけ口の悪い曽米さんが、わざわざ手作りしてくれたなんて――。
でも、どうして星の形なんだろう?
しばらく考えたが、答えは出ない。まあ、曽米さんのことだ。何か深い意味があるのか、単に勢いで作ったのかはわからない。でも、何となくその不思議さが心地よかった。
ひとつ、口に入れてみる。
「……うん、悪くない」
素朴な甘さが口いっぱいに広がった。もうひとつ、もうひとつと手を伸ばし、気づけば三つほど食べ終えていた。
「……もったいないな」
残りは大事にしよう。そう思って、星型のチョコを冷蔵庫の奥にしまった。
今日という日が、これまでで一番長く感じた。僕は念入りに歯磨きをしながら、スマホに曽米さんたちに向けた感謝のメッセージを送る。
『今日はありがとう。チョコも美味しかったよ。曽米さん、パンもありがとう』
少し気恥ずかしくて、文章は短めにした。それでも送信ボタンを押した直後、チャットグループはすぐに反応し、画面がにぎやかに埋まっていく。
「気分はまさにマリー・アントワネット!……ギロチンは嫌だけど」
「妃美華、フランスパンの使い方間違ってるから」
「獅子御、紙切れのことなんだが深い意味はない」
それぞれの言葉に自然と笑みがこぼれる。
――その時だった。
「リチャードも貰ったんだな。お互い義理だけど、やっぱり女の子からのプレゼントは最高だよな」
那智君の無神経なメッセージが表示された。
「……あちゃー」
瞬間、歯磨き粉のミントの清涼感が一気に薄れ、妙な寒気が背中を這い上がった。次の瞬間、画面には女性陣の怒涛のバッシングが流れ込んでくる。
「頑張って寝る間を惜しんで作ったのに……」
「アゴヒゲヒトラーの鈍感さが、柚乃とアンシュルス(併合)するのを拒んだだと!?」
「那智、君には失望した」
那智君の名前が怒りの合唱のように飛び交う中、僕は思わず歯ブラシを口に突っ込んだまま苦笑した。
(ま、まあ……自業自得だよな)
那智君の未読メッセージが増えていくのを横目に、僕は静かにスマホの画面を伏せた。
①人民の、人民による、人民のための政治
アメリカ大統領リンカーンがゲティスバーグでの演説で述べた言葉。
南北戦争のさなかであり、民主主義の理想を強く訴える。国民全体が力を合わせ、平等な社会を築くことの大切さを説いた。
②ジハード
イスラム教における努力や奮闘を指す。日本では「聖戦」と訳されることが多いが、本来の意味はもっと広く、必ずしも「戦争」や「暴力行為」を意味するわけではない。
個人の成長や社会貢献など、平和的な努力を含む幅広い概念のことを指す。
③スティーブンソン
イギリスの発明家。
「鉄道の父」と呼ばれる。蒸気機関車の実用化に成功し、産業革命の一翼を担った。
④我が闘争
アドルフ・ヒトラーの著者。
過激な反ユダヤ主義、軍国主義、人種差別的世界観などの侵略的な外交政策を記した。ナチスの基本姿勢を示すものであり、ドイツという国の在り方を根こそぎ変えてしまう内容であった。
⑤コモンセンス
アメリカの政治家、トマス・ペインが発行したパンフレット。意味は「常識」。
アメリカ独立戦争の必要性を説き、愛国心を掻き立てた内容に世論は独立へと突き進んでいくことになった。
⑥マリー・アントワネット
フランス国王ルイ16世の王妃。
フランス革命時、オーストリアへ逃亡を図るも捕縛され(ヴァレンヌ逃亡事件)、反革命の象徴として処刑された。
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という発言が有名だが、彼女が発したという事実はない。
⑦アンシュルス
ドイツ語で「併合」を意味する。
オーストリアはドイツと同じドイツ語圏で、文化や歴史的なつながりが深かった。ヒトラーは「オーストリアもドイツの一部」と主張し、併合を強行する。
国際社会はこれに対してほとんど行動を起こさず、ヒトラーの侵略的な行動がエスカレートするきっかけになった。