梅雨の季節になると、学校の昼休みは憂鬱になる。
外で食べることができないから、教室の隅っこで一人ぽつんと弁当を広げるしかない。
僕の席は窓際だけど、窓の外は灰色の空と降りしきる雨しか見えない。
今日もまた、一人だ。
ふと、教室の中心を見る。
そこには、曽米さんがいた。
曽米さんは、日向柚乃(ひなたゆずの)さん、那智独志(なちひとし)君、僕と同じ中学だった伊藤枢(いとうかなめ)と一緒に弁当を囲んでいる。
通称「四人組」と呼ばれる彼らは、いつも一緒にいて、とても仲が良い。
…羨ましい。
曽米さんは、僕にとって遠い存在だ。
世界史の勉強を一緒にしているけれど、あくまでそれは勉強の時間だけの話。
日常では、こうして僕は一人。
あの輪の中に入るなんて、考えられない。
「世はまさに大洪水時代!」
曽米さんが、窓の外を見て大きな声で言った。
雨が降りしきるグラウンドを見ながら、どこか楽しそうだ。
「演技でもないことを言うな!」
日向さんがすかさず突っ込む。
曽米さんは「ごめんごめん!」と笑いながら謝っているけれど、まったく反省している様子はない。
自然なやり取りだ。
僕には、あんな風に誰かと気軽に会話する相手がいない。
…羨ましいな。
「じゃあ、ここでクイズ!」
曽米さんが急に声を張った。
「『大◯◯時代』って呼ばれる歴史用語、教科書に載ってるんだけど、いくつ言える?」
那智君が自信満々に手を挙げる。
「大海賊時代!」
「それは人気漫画のことでしょ!」
日向さんの素早い突っ込みに、那智君は頭をかきながら苦笑いしていた。
その様子を見て、僕は思わず笑ってしまった。
あのグループの中にいると、どんな話題でも楽しそうに見える。
「リチャード君!」
急に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
気づけば、曽米さんが僕の方を見ている。
「あ、えっと…」
「リチャード君、何か知ってそうな顔してるよ?」
目を輝かせて期待するように言う曽米さんに、僕は言葉を失った。
…僕が、あの輪の中に入ってもいいのか?
けれど、曽米さんの視線はまっすぐで、逃げられない。
僕は視線を彷徨わせながら、那智君の答えから連想してみた。
「…大航海時代…とか?」
自分でも驚くほど小さな声だったが、それでも曽米さんの耳には届いたらしい。
「正解!」
曽米さんが両手を叩いて喜んでいる。
「やっぱりリチャード君はすごい!」
まっすぐな笑顔に、僕は一瞬、目を逸らした。
「もう一つある」
今度は、伊藤が口を開いた。
彼女は、ズボンタイプの制服を着ているため、遠目には男子に見える。
…いや、実際、クラスのほとんどの奴がそう思っている。
伊藤が女性であることを知っているのは僕だけだ。
中学の頃、偶然知ってしまった。
それ以来、僕は黙っている。
伊藤自身がそれを望んでいるから。
「大空位時代、だよ」
飄々とした口調で答える伊藤。
その様子に、曽米さんは悔しそうに腕を組む。
「うっ……さすがは学年トップ」
「いや、大したことないよ」
涼しげな顔で答える伊藤を見て、僕は密かに感心していた。
…何でだろう。
伊藤のことを知っているのに、僕はあいつに敵わない気がしてならない。
僕よりもずっと賢くて、ずっと強い。
…伊藤枢は、僕が絶対に勝てない相手だ。
それでも、今は少しだけ誇らしかった。
あのグループの中で、僕の答えが認められたから。
曽米さんの笑顔が、胸に焼き付いて離れない。
こんな風に、また名前を呼ばれたら…僕は、もっと勉強してみようと思った。
―――
昼休み。
雨が窓を叩く音が耳に響く。
僕は一人、教室の隅で弁当を食べ終えると、すぐに席を立った。
…このままここにいても、居場所がないだけだ。
廊下を歩きながら、僕は曽米さんたちの輪を遠目に見た。
今日もあのグループは楽しそうに笑い合っている。
僕とは、違う世界の人たち。
同じクラスでも、あの輪の中に入れるわけがない。
僕は自然と足を速め、図書室へと向かった。
…本なんて、普段は読まないけれど。
なんとなく、あそこなら落ち着ける気がした。
―――
図書室は静かで、雨音が遠くに聞こえるだけだった。
本棚を何気なく眺めていると、ある一冊が目に留まった。
『不滅の書』――どこか重厚な雰囲気を持つタイトルだ。
手に取ってみると、歴史小説だとわかった。
…普段なら、絶対に読まないジャンルだ。
けれど、曽米さんの顔が頭に浮かんだ。
曽米さんは世界史が好きだ。
この本を読めば、少しは彼女と話せることが増えるかもしれない。
それに、曽米さんに認められたいという気持ちもあった。
僕は席に座り、その本を開いた。
―――
『不滅の書』は、不思議な物語だった。
日本人のサラリーマンがある家族の死をキッカケに、一冊の哲学書に出会う。
その哲学書は、ムガル帝国の王子によって翻訳され、フランス帝国へと渡り、
フランス革命後には、一人のアメリカ人少年へと渡っていく。
まるで、本を中心に時代を超えたタイムトラベルをしているような感覚だ。
でも、難しい。
出てくる国や人物が、カタカナばかりで頭に入ってこない。
「ムガル帝国…? フランス革命…?」
聞き慣れない名前に、何度もページを行き来する。
曽米さんなら、すらすら理解できるんだろうか。
僕はため息をついて、もう一度読み返した。
「リチャード君?」
突然、後ろから声をかけられて、僕は椅子ごと跳ね上がった。
「うわっ!? そ、曽米さん!?」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
曽米さんはクスクスと笑っている。
その笑顔に、心臓がドキドキと騒ぎ出した。
「何の本、読んでるの?」
曽米さんが、僕の手元の本に目を向ける。
「あ、えっと…『不滅の書』っていう歴史小説、かな」
僕は声が裏返らないように、必死で平静を装った。
「『不滅の書』?」
曽米さんは興味深そうにタイトルを呟くと、本を手に取った。
数ページを流し読みしただけで、目を輝かせる。
「へぇ、ムガル帝国からフランス、アメリカに渡るってことは、時代背景は…」
曽米さんの言葉がスラスラと出てくる。
…やっぱり、僕とは違う。
「曽米さんが好きそうな本を探してたら、たまたま見つけたんだ」
思わず本音が口を突いて出た。
すると、曽米さんは驚いたように目を見開いた後、少し困ったように微笑んだ。
「私、歴史小説はあまり好きじゃないんだよね」
「え…?」
「作者の主観が入ってると、色々疑問が湧いちゃうんだ。『その偉人はそんなこと思ってない』とか、『そんな都合の良い話あるかな?』とか…」
曽米さんの歴史に対する考え方に、僕はハッとさせられた。
事実にこだわる姿勢が、曽米さんの歴史愛の本質なのかもしれない。
「でも、リチャード君が面白いって言うなら、その本、借りてもいい?」
曽米さんが、微笑みながら聞いてきた。
僕は慌てて頷いた。
「うん、もちろん!」
曽米さんが『不滅の書』を手に取り、ページをめくっていたとき、ふと顔を上げた。
「リチャード君、ムガル帝国って知ってる?」
「ムガル…?」
聞き慣れない単語に、僕は戸惑った。
戦国時代や幕末なら少しはわかるけど、それ以外の歴史には疎い。
ムガル帝国なんて、名前すら聞いたことがなかった。
僕が黙っていると、曽米さんはクスッと笑った。
「やっぱり知らないよね。でも、これを聞いたらびっくりするかも」
曽米さんは本を閉じて、僕に向き直った。
「ムガル帝国って、実はモンゴルに由来してるんだよ」
「モンゴル…?」
モンゴルなら知っている。
でも、インドにあった帝国とどう繋がるのか、全く見当がつかない。
曽米さんは、僕の困惑した顔を見て嬉しそうに笑った。
「モンゴル帝国が崩壊した後、その子孫たちが中央アジアに散らばったんだ。その中の一人が、ティムールっていう征服者で…」
「ティムール…?」
僕は首をかしげた。
戦国時代の武将でも幕末の志士でもない。
名前を聞いても、何のイメージも浮かばない。
曽米さんは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに納得したように頷いた。
「まぁ、日本史にはあまり出てこないからね。ティムールの子孫がインドに移って、そこでムガル帝国を作ったんだ。その初代皇帝が、バーブルって人」
「バーブル…」
聞いたことのない名前ばかりで、頭がこんがらがってきた。
だけど、曽米さんの話す調子が楽しそうで、つい聞き入ってしまう。
「でもね、そのバーブルが自分の先祖として誇りに思っていたのが…チンギス・ハンなんだよ」
「…チンギス・ハン?」
今までピンとこなかった名前の中で、初めて聞き覚えのある名前が出てきた。
「あの、モンゴル帝国を作った…?」
曽米さんは満足げに頷いた。
「そう! あのチンギス・ハン。だから、バーブルは自分の帝国を『ムガル(=モンゴル)』って呼んだの」
僕はようやく、断片的だった情報が繋がっていくのを感じた。
「あ…そういうことか」
チンギス・ハンといえば、日本史でも元寇の話で出てくる。
日本に攻めてきたモンゴルの大将だ。
その子孫が、インドに帝国を築いたなんて、考えもしなかった。
曽米さんは僕の驚いた顔を見て、さらに楽しそうに続けた。
「歴史って、国ごとに別々の話みたいに思えるけど、実は色んなところで繋がってるんだよね」
「うん…なんか、すごい」
僕は素直にそう呟いた。
日本史の知識が、世界史に繋がった瞬間だった。
曽米さんは、本を僕に返して言った。
「もし興味が湧いたなら、また感想を聞かせてね」
僕は曽米さんの期待に応えたくて、力強く頷いた。
「うん、ちゃんと読んでみる」
曽米さんは満足げに微笑むと、図書室を後にした。
その背中を見送った僕は、本を見つめ直した。
…歴史って、繋がってるんだな。
①大洪水時代
17世紀に存在したポーランド・リトアニア共和国における一連の動乱。内外からの干渉を受け続け、国家は衰退の一途を辿る。
②大航海時代
西洋国家におけるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。
③大空位時代
神聖ローマ帝国の皇帝が約20年、不在の期間があった。
④四人組
中国で起きた文化大革命を主導した四人の政治家のこと。