期末テストが近づき、放課後の廊下はどことなく焦りの空気が漂っていた。そんな中、日向さんが僕に声をかけてきた。
「獅子御君、ちょっと相談があるの」
聞けば、那智君が最近成績を落としていて元気がないらしい。
「でね……もしよかったら、常任理事会で勉強会を開いてほしいって妃美華に提案してもらえない?」
「えっ、僕が?」
思わず聞き返してしまった。だって曽米さんに頼むなら、むしろ大の親友である日向さんが直接伝えれば、話が早い気がする。でも日向さんは困ったように苦笑して、
「私が言っても『他のことを議論したい』って流されちゃうかもしれないから……」
そう言われると断れなかった。
―――
その夜、常任理事会のチャットグループに通知が鳴った。
「さて、期末テストも近くなり、五人が顔を合わせられる日は残り少なくなってまいりました。ここで提案なのですが、勉強会を開いて高校一年生最後のテストで最高の結果を出せるよう切磋琢磨したいと考えます。どうでしょう?」
議長の曽米さんの提案に口裏を合わせていた僕と日向さんは、すぐに「賛成」と送信した。
「獅子御が賛成なら賛成」
伊藤の思わぬ返答に、僕はスマホを見つめたまま固まった。いや、僕の意見を基準にしないでほしいんだけど……。
しばらくして、那智君からもメッセージが届いた。
「賛成」
どこか力のない短い返事。やっぱり本調子じゃないのかもしれない。
「……うまくいくといいな」
スマホの画面を見つめながら、僕はそっとつぶやいた。
―――
一週間後、勉強会は伊藤の家で行うことになった。僕は曽米さん、日向さんと駅前で合流し、しばらく待っていると那智君が少し遅れてやってきた。
「悪い、ちょっと寝坊してさ」
那智君が後頭部をかきながら言う。遅れてきたわりにあまり申し訳なさそうじゃないのは、彼らしいというかなんというか。
四人で並んで歩き始め、静かな住宅街に入る。しばらくして目の前に現れたのは、広い庭に囲まれた三階建ての立派な邸宅だった。
「えっ……これ、伊藤の家?」
思わず声が漏れた。
「リチャード君、来たことなかったの?」
曽米さんが意外そうに聞く。僕は小さく頷いた。
「そうか……道理で頭がいいと思ったら、やっぱり金持ちのお坊ちゃんだったのか」
那智君が感心したように言ったかと思うと、すかさず日向さんが肩を小突いて、
「そこは『お嬢様』でしょ」
「おっと、そうだった」
なんだかんだで和やかなやり取りが続いていたけれど、僕は妙な緊張を感じていた。伊藤の家って、こんなに立派だったんだ……。
「……じゃあ、押すね?」
日向さんがインターフォンのボタンに指をかけた。僕たちは自然と背筋が伸び、微妙な緊張感が漂う中、インターフォンの電子音が静かな住宅街に響いた。
伊藤の家に足を踏み入れた瞬間、僕たちは息を呑んだ。
広々としたリビングに、洗練されたキッチンとダイニング。どこもかしこも整然としていて、無駄がない。それなのに温かみのある空間だった。
「こっちだ」
伊藤に案内され、僕たちは彼女の自室へと向かう。
部屋に入ると、やはり広い。僕の部屋の倍はありそうなスペースに、整然と並べられた本棚やデスク、ふかふかのベッドまである。一人で使うにはもったいないくらいだ。
「飲み物を用意するから、くつろいでいてくれ」
そう言って伊藤は部屋を出て行った。でも、正直なところ、くつろぐのは難しい。
「……すごい家」
曽米さんがぽつりと呟くと、日向さんも「ねぇ」と頷く。那智君に至っては「庶民とは住む世界が違うな」と感心していた。
特に目を引いたのは、部屋の隅に置かれたグランドピアノだった。
「……伊藤らしいな」
音楽が好きなことは知っていたけれど、ここまで本格的だとは思っていなかった。
僕たちはソワソワしながら、それぞれの勉強道具を取り出す。時計を見ると、ちょうど十時。
窓が開いていて、心地よい風が部屋に吹き込んでくる。少しだけ緊張がほぐれた気がした。
「それじゃあ、始めるとすっか!」
伊藤が飲み物を持って戻ってくるタイミングを見計らって、那智君が勢いよく声を上げる。
こうして、僕たちの勉強会が幕を開けた。
勉強会が始まると、自然と役割が決まった。
伊藤は科学、数学、英語を担当し、日向さんは現代文、古文、漢文を見てくれる。そして、世界史は曽米さんの領分だ。
僕は普段から伊藤に勉強を教えてもらう機会が多いせいか、彼女の解説には特に抵抗なくついていけた。どこか機械的で冷静な教え方ではあるけど、理屈が通っているから理解しやすい。
けれど――曽米さんはそうはいかなかった。
「伊藤ちゃん、もうちょっとわかりやすく教えてくれないと、頭の中がアインシュタインになっちゃう!」
曽米さんが悲鳴を上げるように言う。いつも自信満々な彼女にしては珍しく、かなり苦戦している様子だ。
伊藤はそんな曽米さんに、表情一つ変えずに淡々と返す。
「教科書レベルの国語力があれば、理解するのは容易いはず。ましてや曽米の頭脳が本物のアインシュタインなら、そもそも理解する必要もないだろう」
冷静かつ容赦のない皮肉。
「むぅ……!」
曽米さんは頬を膨らませてむくれてしまった。いつもの余裕は完全に消え失せている。
そんな様子を見て、那智君がニヤニヤしながら指を差し、楽しそうに茶化した。
「ヒミコ、お前いつもは偉そうにしてるのに、今日は随分と大人しいじゃねぇか?世界史じゃないと本気が出せないってか」
「うるさい!」
曽米さんが即座にツッコミを入れ、教科書を振り上げる。那智君は慌てて身を引くけど、口元の笑みは消えない。
僕はそんな二人のやり取りを横目で見ながら、自然と口元を緩めていた。
――勉強会、なんだかんだで楽しそうだな。
昼になり、勉強もひと段落ついた。
「……腹減った」
静まりかえった部屋に、那智君のお腹の虫が情け容赦なく鳴り響く。
日向さんがくすっと笑いながら、「那智君、音量調整できないの?」と小突く。
そんな和やかな空気の中、突然インターフォンが鳴った。伊藤が立ち上がり、応答する。
「……ピザ屋?」
モニターを覗き込んだ伊藤の表情が微かに曇る。
「はいはーい、私が受け取りまーす!」
突然、曽米さんが勢いよく名乗り出て、モニター越しの配達員さんに元気よく手を振った。そして、そのまま階段を駆け下りていく。
僕たちは何が起こったのか理解できずに顔を見合わせるしかなかった。
やがて、ピザの香ばしい匂いが部屋中に漂ってくる。
テーブルの上には、六枚切りのバジル入りピザが堂々と鎮座していた。
日向さんが困惑した顔で曽米さんに尋ねる。
「妃美華、ピザなんか注文したの?」
その問いに、曽米さんは不気味な笑みを浮かべる。
「フフフ……」
「マジかよ……」
那智君が呆れた声を上げた。
「人の気分も考えずに勝手に注文するなんて、狂ってるっていうレベルじゃねぇぞ!」
「安心してよ」
曽米さんは胸を張って答えた。
「ピザ以外にもナゲット、ハッシュドポテト、パスタ、それから飲み物も用意したから!」
「重いものばかりだ……午後の勉強に支障が出るかもしれない」
伊藤がため息交じりに呟く。
僕はみんなの言い分に同調しつつも、結局はテーブルに並んだ料理を前にして皿を取り、各々に振り分けていった。
――まあ、午後のことはあとで考えればいいか。
渋々ながらも昼食をとる僕たちは、いつの間にか和気藹々と会話を楽しんでいた。ピザの香ばしい香りに包まれながら、思いのほか食欲が進む。
そんな中、伊藤が手渡されたコーラを見て、小さくため息をついた。
僕はすぐに気づき、手元のオレンジジュースを差し出す。
「炭酸ダメなんだよね?僕のと交換しよう」
伊藤は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふっと微笑み、手渡されたオレンジジュースを受け取った。
「ありがとう」
その言葉とともに、伊藤の顔がなぜか少し赤くなった気がした。
そんなやりとりの後、五人は勢いよく食べ進め、気づけば料理はほぼ消えていた。……ほぼ、というのは、一枚のピザだけがぽつんと皿の上に取り残されていたからだ。
五人に対してピザは六枚。当然、最後の一枚をどうするかという問題が浮上する。
――なんとなく、嫌な予感がする。
ふと曽米さんの方を見れば、彼女は口元を押さえながらソワソワと落ち着かない様子だった。
「残ったピザ……つまり回収できなかった一枚のピザ……これはもしや……み?」
曽米さんが言いかけると、日向さんが怪訝な顔をする。
「み?『み』がどうしたのよ?」
すると曽米さんが、じわじわと口を開く。
「み、未回収……リチャード君……」
――ああ、やっぱり。
四人の視線が一斉に僕へと集まる。
この状況を収めるには、僕が答えるしかないらしい。
「未回収の……イタリア」
「正解者にご褒美〜」
曽米さんは上機嫌にそう言うと、残ったピザを僕の口元へと持ってきた。
……まさかの「あーん」。
仕方なく、そのまま曽米さんに食べさせてもらう。
「んぐ……」
そんな僕を見て、なぜか伊藤の顔がピクピクと引きつっていた。彼女の握った拳がわずかに震えているのを、僕は見逃さなかった。
午後に入り、勉強会もいよいよ終盤に差し掛かった。気づけば窓から差し込む陽射しも柔らかくなり、時間の流れを感じさせる。
そしてようやく、曽米さんの世界史講義が始まることになった。
彼女は重い腰を上げ、四人の前で仁王立ちする。妙な貫禄があり、まるで歴史の伝道師にでもなったかのようだ。
「さて、世界史の時間だ!」
どこからともなく取り出したホワイトボードに、勢いよく用語を書き連ねていく曽米さん。その様子を見て、那智君がぼそりとつぶやいた。
「もしかして、そのホワイトボードも伊藤の所有物なのか?」
伊藤は当然のように頷く。
「ああ。曽米が貸してほしいって言うから、地下から持ってきたよ」
――地下?
僕は「ホワイトボード」よりも「地下」という単語に引っかかってしまった。伊藤の家に地下があることに驚き、どんな空間なのか気になってしまう。だが、今は勉強の時間だ。興味は湧くが、堪えることにする。
そんな僕の心中をよそに、伊藤はふいに立ち上がった。
「世界史を勉強する気分じゃないから、ピアノでも弾いて勉強会に華を添えるとしよう」
そう言いながら、グランドピアノの前に腰を下ろす。
次の瞬間、優雅な音色が部屋に響いた
ふと、日向さんが立ち上がり、ゆっくりと伊藤に近づいていった。どうやらピアノの譜面に興味があるようだ。
「このクラシックって、バッハの『G線上のアリア』よね?」
伊藤が微かに微笑む。指先は流れるように鍵盤の上を滑り、優雅な旋律が部屋に広がる。
そんな中、那智君が思い出したように口を開いた。
「バッハって、確か『3B』の一人だっけ?」
クラシック音楽界の『3B』といえば、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス。この三人は音楽史上でも特に有名な作曲家だ。しかし――
「音楽界の3Bと言えばその三人が重要であーる。だがしかーし、世界史にとって重要な3Bといえばコイツらだぁ!」
突然、曽米さんが黒色の水性ペンを手に取り、ホワイトボードに勢いよく文字を書き始めた。
『3Bとは「ベルリン」「バグダード」「ビザンティウム」である』
どうやら彼女の中では、クラシックよりも世界史の「3B政策」のほうが重要らしい。
「つまり、十九世紀のドイツがオスマン帝国や中東へ影響を及ぼすために――」
と、熱弁をふるい始めた曽米さん。しかし、その内容を聞いているのは、僕だけだった。
日向さんと那智君は完全に伊藤のピアノに聞き入っている。いや、待て。
――那智君、寝てない?
すでに軽く舟を漕いでいる。これは絶対寝てる。
一方、曽米さんの熱視線を受けている僕は、寝るどころかノートを取るしかなかった。いや、そもそも「3B政策」って世界史のテスト範囲じゃなくない?
「……3Bってどっちも今回のテスト範囲に入ってないよね?」
思わずそう尋ねてみたが、曽米さんはお構いなしに講義を続ける。もはや止まる気配すらない。
結局、僕は曽米さんの情熱に圧倒されながら、黙々とノートを取り続けるしかなかった。
①会議は踊る、されど進まず
ナポレオン戦争後のヨーロッパを再編するために開かれたウィーン会議は、各国の利害がぶつかり合い、議論は平行線を辿る。ところが、会議の参加者たちは毎晩のように舞踏会を開き、華やかに社交を楽しんでいたという。
会議ではタレーランやメッテルニヒがフランス革命前の状態に戻す「正統主義」を主張し、戦後のヨーロッパの国際秩序が形作られることになった。
②アインシュタイン
ドイツ生まれの物理学者。
「相対性理論」を発表し、時間や空間が絶対的なものではなく、光の速さに近づくと変化するという考え方を示した。原子爆弾に繋がる理論を生み出したことでも知られる。
③未回収のイタリア
イタリアは19世紀に統一されたが、イタリア系住民が多く住む地域の一部(南チロル、ダルマチアなど)がオーストリア帝国の支配下にあった。ドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、後に離反し第1次世界大戦では協商国側に立って戦勝国となる。しかし、取り戻せた地域は一部に過ぎず、国民は政府に不信感を募らせファシズムの台頭を許してしまう。
④3B政策
ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の政策。
ベルリン、バグダード、ビザンティウムを結び国家戦略と位置づける。イギリスの3C(カイロ、カルカッタ、ケープタウン)政策に対抗した。