期末テストが終わり、答案が返却された。
一年生最後のテスト。僕は大きく深呼吸して、恐る恐る世界史の答案を開く。
………98点!
目を疑った。何度も瞬きをして、答案を見返す。これは夢じゃないか? いや、そんなはずはない。手元にあるのは紛れもなく僕の答案用紙だ。
「クラス順位は……三位か」
曽米さんに次ぐ順位だった。つまり、僕の上にはあと一人いるということだ。
どこを間違えたのか、答案を見返してみる。
契丹に関する説明……ああ、やってしまった。
民族名と立てた国の名前を逆にしてしまっている。
契丹が建てた国は「遼」なのに、僕は「契丹」と書いてしまった。
たったそれだけのミス。もし合っていれば……満点だった。
悔しさがじわりとこみ上げる。でも、これも僕の実力だ。
「曽米さん、僕の顔つねってよ」
震える声で頼むと、曽米さんは「仕方ないなぁ」という顔をしながら――
自分の頬をつねった。
「これでいい?」
「いや、なんで自分の頬を……?」
自分の顔をつねるのって、普通、夢かどうか確かめるときじゃなかったっけ? そう考えた瞬間、逆に現実味が増した。曽米さんのこういうズレた反応こそ、一番リアルだからだ。
「で、曽米さんの点数は?」
曽米さんは得意げに答案をひらひらと見せつけた。
――99点。
やっぱり。ほぼ満点なのに、悔しそうな顔をしているのが彼女らしい。
「伊藤の点数は?」
なんとなく聞いてみると、伊藤は無言で答案をバッグの中にしまっていた。
……あれ? いつもなら冷静に採点間違いがないかチェックするぐらい用紙を眺めているのに。
僕はふと不安になった。伊藤がバッグを閉じるまでのわずかな間、答案の端に見えた数字――
……100点?
曽米さんが、満面の笑みを浮かべながら伊藤に向かって言った。
「伊藤ちゃん、最後のテスト満点取れてよかったね。私が教えた甲斐があったのかな?」
わざとらしい口調だった。案の定、伊藤は冷たい視線を向ける。
「白々しい。君の力がなくとも己の力でどうにでもなったよ」
「まさに百日天下だね!」
「ぐっ……」
伊藤の顔がぴくりと引きつり、歯を軋ませながらそっぽを向いた。
なるほど、そういうことか。前回の期末テストで伊藤は曽米さんに次いで2位だった。それが今回、見事にクラス1位を奪還したわけだ。つまり、曽米さんは「一時的に奪われた王座を取り戻した」と言いたいのだろう。
それを世界史ネタに絡めてくるとは……恐るべし、曽米さん。
伊藤は悔しそうにしていたが、どこか誇らしげな雰囲気もあった。やっぱり、この二人のやり取りは面白い。
放課後、僕はいつものように図書室にいた。気がつけば、もうすぐ二年生になる。そうなればクラスも変わるだろう。曽米さんや伊藤と同じクラスになれるかどうか、それはわからない。もしかすると、今日が曽米さんに世界史を教えてもらえる最後の機会かもしれない。
窓の外に目をやると、桜の枝が小さな芽をつけていた。まだ肌寒さは残るが、確実に春は近づいている。僕はぼんやりと枝の先を眺めながら、いろんなことを考えていた。
「リチャード君、二年生になっても世界史の話、一緒にしてくれる?」
不意に声をかけられ、振り向くと、そこには曽米さんがいた。
「うん……でも二年になったら世界史の授業がなくなるよ。それに三年生になったら選択教科になっちゃうから」
「二年は日本史と地理しかないんだよね。リチャード君はもう決めたの?」
「僕は戦国時代や幕末が好きだから、日本史にするつもりだよ。曽米さんは、日本史には興味ない?」
「日本史はそこまでかな……でも、日本史を選べばクラスが変わっても、日本史の授業の時だけは同じ教室で勉強できるよね?」
「そ、それって……」
曽米さんの頬がほんのり赤くなった。その意味を考える間もなく、不運なことに、ちょうどそのタイミングで伊藤がやってきた。
「獅子御、もういいだろう」
伊藤がゆったりとした口調で僕を見つめる。
「二年になったら世界史を勉強する意味はなくなる。それに、日本史も悪くはないが、地理の方が将来性に優れている。数学的知識や科学的見地を培うのに役立つからだ。進路を考える際に役立てたいなら、地理をオススメする」
確かに、地理は幅広い分野に通じているし、実用的な知識も多い。でも、僕は単に勉強のためだけに日本史を選ぼうとしているわけじゃない。
そんな僕の迷いを察したのか、曽米さんがくすっと笑って口を開いた。
「リチャード君がどっちを選んでも、私は気にしないけど……伊藤がこの上なく気になってるのって、リチャード君と同じクラスになれるかじゃない?」
「な、なに……?」
先ほどまで長々と語っていた伊藤が、突然言葉を失った。動揺が隠せない様子だ。
「選択教科って、日本史や地理だけじゃないよね?物理や生物もどちらかしか選べない。ってことは、伊藤ちゃんの考えをリチャード君に押し付けるってことだよね?」
「そ、それは……」
伊藤が口ごもる。
「獅子御が日本史や地理に悩んでいても、この伊藤なら力になれるというだけだ。それは物理や生物であっても例外ではない」
伊藤は何とか取り繕おうとしているけど、焦っているのがよくわかる。
「それなら、リチャード君の意見を尊重すればいいじゃん。伊藤ちゃんならどんな教科でも完全無欠なんだから、リチャード君の力になれる。あとは神の見えざる手に任せればいいんだよ」
曽米さんがさらっと言ったその言葉に、伊藤はハッとした顔をした。
曽米さんの言う「神の見えざる手」。
それが意味するのは、たぶん「クラス替え」だ。
僕たちの力ではどうにもならない領域。
曽米さんや伊藤、そして日向さんや那智君。
またみんなと同じクラスになれるかもしれないし、バラバラになってしまうかもしれない。
そう考えると、いてもたってもいられなかった。
「僕は……ずっと曽米さんや伊藤に勉強を教えてもらいたい。だからクラスが変わったとしても、また一緒にいたいんだ」
正直な気持ちだった。
曽米さんの世界史の話はいつも面白かったし、伊藤は厳しいけど、分からないことを的確に教えてくれる。
だから、どんな形であれ、この関係を続けたい。
「もし一緒のクラスになれなくても……伊藤は図書室に来て勉強を教えてくれるよね?」
僕がそう尋ねると、伊藤は少し目を伏せ、
「日向や那智は地理を選ぶと聞いた。獅子御も自分の立場をよく考えることだ。でないと後々後悔することになる」
そう答えると、伊藤はどこか複雑な表情を浮かべながら、静かに図書室を後にした。
その背中を見送っていると、曽米さんがぽつりと呟く。
「これは諸国民の春ならぬ、伊藤の春だね。でももう少し素直になればいいのに」
その言葉に、僕はなんとなく気まずくなって、作り笑いを浮かべるしかなかった。
―――
一カ月後、廊下にクラス替えの掲示物が張り出された。
僕は緊張しながら、一つ一つ自分の名前を確認していく。
「あった! 二年一組……!」
安堵の息をつく。
さて、曽米さんは――
「リチャード君、また同じクラスだね。ヨロシクゥ!」
突然、明るい声が飛んできた。
振り向くと、曽米さんが満面の笑みを浮かべて立っていた。
驚きよりも、嬉しさが込み上げる。
こんなにも素直に喜べるとは思わなかった。
思わず、顔が緩んでしまう。
――と、その時。
「……伊藤も同じクラス?」
ふと、掲示物の前に立つ伊藤の姿が目に入った。
「見れば分かるだろう」
不貞腐れたような口調。
でも、その表情には、どこか照れくささも滲んでいるように見えた。
僕はもう一度、掲示を確認する。
確かに「伊藤 枢」の名前は、二年一組に載っていた。
日向さんと那智君は、どうやら二年三組のようだ。
「また伊藤と一緒のクラスになれて良かった」
率直な思いを口にすると、伊藤は少し驚いたような顔をして、それから視線をそらしながら小さく頷いた。
「……うん」
その反応がなんだか少し可笑しくて、僕は思わず笑ってしまった。
「リチャード君、今の心境をどうぞ!」
突如、曽米さんが目を輝かせながら、マイクを持つフリをして僕の前に差し出してきた。
いきなり始まるインタビューに、思わずぎょっとする。
けれど、こんなことは今に始まったことじゃない。
一年間一緒に過ごしてきて、曽米さんのこういうノリにはもう慣れた。
僕は息を整え、一年間の思い出を振り返りながら、曽米さんの目をまっすぐに見つめてキッパリと答えた。
「ここから、そしてこの日から、僕たちの新しい学校生活が始まる!」
言い終わると、曽米さんは満足そうに両手を打ち鳴らしながら叫ぶ。
「うひゃあ!ゲーテだぁ!」
世界史の偉人っぽく振る舞う僕を、曽米さんはいたく気に入ってくれたようだ。
その様子を見ていた伊藤が、呆れたようにため息をつきながら僕の腕を引っ張る。
「もういいから行くぞ」
「あ、待ってよー!」
慌ててついてくる曽米さん。
こうして、僕たちの新たな高校生活が、またここから始まるのだった。
①契丹(きったん)
中国北方の遊牧民族。
10世紀に耶律阿保機(やりつ・あぼき)が契丹を統一し、「遼(りょう)」 を建国。独自の文字(契丹文字)を発明するなど文化だけでなく、経済にも力を入れ国力を強大化させることに成功。
北宋を下し「澶淵(せんえん)の盟」 を結ぶ。支配下にあった女真族の完顔阿骨打(わんやん・あぐだ)が「金」を建国し反乱を起こす。秘密裏に同盟を結んでいた北宋と共に攻め込まれ滅亡した。
②百日天下
フランス第1帝政の皇帝ナポレオンは「ライプツィヒの戦い」で対仏同盟軍に敗れると退位し、エルバ島へ流される。エルバ島を脱出し復位するも、「ワーテルローの戦い」で敗れた。結果的に百日あまりしか天下を治めることができなかった。
③見えざる手
イギリスの経済学者、アダム・スミスの著者「国富論」の中で提唱された概念。
政府は市場経済への介入を最小限にとどめ、個人が自分の利益を最大限追求すれば、「見えざる手」に導かれたかのように経済全体が発展するという考え方。
④諸国民の春
ナポレオン戦争終結後に成立した「ウィーン体制」下では、王政の復活により国民の自由な政治活動が制限されていた。
ナショナリズム(民族主義)の高まりと共に引き起こされた反乱はドイツ、オーストリア、イタリアなどに広まる。フランスやオーストリアでは成果が見られたが、その多くは鎮圧された。
由来は「春」が訪れたかのように社会が変革を求めた時期であったことから。
⑤ゲーテ
ドイツの詩人。
孤立無援に陥ったフランス革命軍は、革命の波及を阻止しようとするプロイセン軍相手に歴史的勝利を収めた。この「ヴァルミーの戦い」を知ったゲーテは「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記した。