日本史の授業が始まる時間になって、僕は曽米さん、伊藤、大堤君と並んで席に座った。扉がガラッと開いて、入ってきたのは噂の末長先生――細い目に、いつも眉間に皺を寄せた厳つい顔。教え方は丁寧だけど、喋り方と性格にかなりクセがあることで有名な人だ。
「曽米、そのスカート丈短すぎやろ。適正な長さに戻すようにな」
開口一番、いきなり曽米さんを指摘した。教室が静まり返る中、曽米さんが軽い口調で返す。
「先生、私をそんなイヤらしい目で見てたんですか?堪忍しいや」
……やめてくれ。僕は隣で心の中で叫んだ。しかも不自然に「しいや」の部分を強調する曽米さん。
「アホなことぬかすな。風紀が乱れる言うてるやろが」
先生の声が少し低くなった。教室の空気がピリッと引き締まる。
「そうカリカリすんなや、顔の皺が増えるで」
……言うた……。曽米さん、言うた……。しかも今度は「すんな」の部分だけ妙なアクセントをつけて。
「オマエなぁ、ええ加減にせぇ言うてるやろ!けったいな喋り方しよってからに……しばき倒すぞ、ホンマ!」
末長先生の声が響いた瞬間、教室は完全に凍りついた。誰も笑わん。誰も喋らん。曽米さんもさすがに、すこし口をつぐんだ。
僕はノートを開いたまま、一ミリも手を動かせずに、ただ目の前の重苦しい空気をやり過ごすことしかできなかった。
授業はとっくに始まってる時間だったけど、曽米さんはまったく臆する様子もなく、末長先生を正面から見据えて言い放った。
「先生、私イスラム教の話をしたくて末長先生をからかいました。ごめんなさい、もうしませんから。ジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)ならちゃんと支払います。だからこの通り――」
そう言うなり、曽米さんはすっと立ち上がり、なんと床に額をつけてブツブツと何かを唱え始めた。
「どういうこっちゃ? イスラム教は世界史やろ? 今は日本史の時間やで。それにワシを借金取りみたいに言わんといてくれるか。もうええから、授業始め……って謝るふりして額床につけて拝むなや! オマエは
末長先生が声を張り上げると、曽米さんは何事もなかったかのように顔を上げて――
「いいえ、違います」
「いや急にトーン落とすなや!めっちゃ怖いねんけど、情緒ジェットコースターか?」
「はい、元気です!」
「そ、そうか……ほな、さっさと授業始めるで」
先生の声には、もういつもの勢いはなかった。完全にペースを狂わされたらしく、曽米さんのちょっとした動きにも肩をビクつかせていた。
(……すごいな、曽米さんって)
心の中でそうつぶやいた僕は、ただ圧倒されるしかなかった。あの末長先生をここまで手玉に取れるなんて、やっぱり曽米さんは、ただ者じゃない。
授業が始まってからというもの、曽米さんとのやり取りで時間を大幅に浪費した末長先生は、さすがに焦った様子で黒板にびっしりと文字を並べ、駆け足で解説を始めた。
「ええか、ここ試験に出るとこやからな。ちゃんとノート取っとけよ、書く時間はあんまないからな」
黒板にチョークが滑る音を聞きながら、僕は必死でノートに手を走らせた。次々と書き込まれる文字が怖いくらいのスピードで消されていく。タイムアタックのような授業。ペン先が追いつかない。
横を見ると、大堤君はというと、まるで別世界にいるかのように悠々と眼鏡を拭いていた。ノートはほとんど白紙。日本史が得意な彼にとっては、この程度の授業は復習にもならないのかもしれない。それとも――チラ、と曽米さんの方を見ている?……うん、明らかに見てるな。
伊藤はというと、教科書と参考書を机に並べて、何やら自分用のまとめノートを作っていた。書き写すのではなく、情報を取捨選択している感じ。相変わらずすごい集中力だ。後で見せてもらおう。僕があのペースで授業を全部メモるのは無理だ。
そして問題の曽米さんはというと、ノートを取るでもなく、末長先生を鋭い目つきで睨みつけていた。まるで、先生が今にも敵軍を率いて襲いかかってくる将軍のように見えているんじゃないかってくらいに。いや、違うな……あれはきっと、第二ラウンドの機会を窺ってる目だ。
一体、何と戦ってるんだろう?
僕は思わずペンを止めてしまったが、次の瞬間黒板の文字が容赦なく消されていき、慌ててまた手を動かした。曽米さんの隣に座ってるだけで、授業の体感難易度が跳ね上がる気がする。
授業の終わりを告げるチャイムと同時に、末長先生が黒板のチョークを置き、独特の口調で言った。
「ほな、次回小テストやるさかい。復習ちゃんとしとけよー」
僕はノートに「小テスト」と大きく書き込んだ瞬間、曽米さんがすっと立ち上がり、末長先生に歩み寄っていくのが視界に入った。何か嫌な予感がした。まさかまた何か――と思った矢先、彼女は真っ直ぐな目でこう言った。
「先生、私決めました」
「なんや、決めたて……?」
末長先生は明らかに警戒していた。そりゃそうだ、ついさっきまで授業の妨害者だったんだから。
曽米さんは一歩踏み出し、まるで歴史的大演説でも始めるように続ける。
「末長先生みたいな人材が常任理事会には必要なんです。どうか聖海高校常任理事会に協力して頂けませんか?」
教室が凍りついた。大げさでもなんでもなく、本当に全員が動きを止めた気がした。中でも一番止まったのは末長先生本人だった。
「はぁ?常任理事会てなんやねん?現実と理想の区別もつかんような学生風情が、世界の平和でも守るつもりか?アホかいな。悪いけど、先生ヒマちゃうねん。他、当たってくれや」
苦笑しながらそっけなく断る先生に、曽米さんはさらに突っ込んでいった。まるで交渉の切り札を切るように。
「それならもしリチャード君、伊藤ちゃん、ピョートル君が中間テストで九十点以上を取ったら常任理事会に加盟してくれますか?」
……時が止まった、と思った。少なくとも、僕の中では。
えっ?今、僕の名前が出た?それ、僕にかかってる条件ってことだよね?
その「九十点」という数字が、僕の鼓動を嫌なテンポで速めてくる。
「……人任せにもほどがあるやろ……オマエは独裁者か?しかもなんやねん、リチャードにピョートルて……キラキラネーム通り越してもうてるやん」
先生の声が遠くで響いた。対する曽米さんはというと、返答も待たずにポケットから何かを取り出し、スッと紙を差し出した。
「これ、常任理事会のグループチャットのアカウントです」
相変わらずの押しの強さだ。というか、まだ承諾もらってないのにアカウントを渡すってどういうことだよ。
「図々しいにもほどがあるわ……あかん、こんなとこでグダグダしとる場合ちゃう。まだ仕事残っとるんや。ほな、さいなら」
先生は呆れと困惑と諦めが混ざった表情で、背筋を伸ばし、まるで逃げるように教室を後にした。風すら巻き起こしそうな勢いだった。
僕は座ったまま放心しながら、ポカンと口を開けていた。ちらりと隣を見ると、伊藤は呆れ顔で「またか」と言いたげに小さくため息をつき、大堤君は……めちゃくちゃ嬉しそうだった。なんでだよ。
曽米さんは何食わぬ顔で筆記用具をまとめていたが、僕には確信があった。
――あの先生が、まさか本当に常任理事会のグループチャットに参加するなんて……いや、いくらなんでも、そんなことあるわけが――
と、思いたかった。けど、相手は曽米妃美華だ。
そんな僕の平穏は、今日もまた薄氷の上を歩いているようだった。
①シーア派
イスラム教の創始者ムハンマドの死により生まれた宗派の一つ。
少数派であり、ムハンマドの血縁者でなければ正統な後継者とは認めないとする一派。
②スンナ(スンニ)派
イスラム教の中でも多数を占める宗派。
ムハンマドの血縁にこだわらず、イスラム教徒の合意があれば正統な後継者であるとする一派。
③ジズヤ(人頭税)
イスラム国家に住むキリスト教徒、ユダヤ教徒などに課された税金。
非イスラム教徒の信仰を保証する目的もあった。イスラム教に改宗すれば税金は免除された。
④ハラージュ(地租)
宗教に関係なく、イスラム国家に土地を有する国民に課された。
外国を侵略し征服地を増やせば必然的に収入が増えるため、国家財政の根幹を成していた。