日曜日の朝、僕と曽米さんは、日向さんに誘われて学校のグラウンドへ向かっていた。今日はサッカー部の那智君の練習試合があるらしく、大会のメンバーを決める重要な試合になるらしい。練習とはいえ、部員たちの表情はどこか張り詰めていて、真剣そのものだった。
僕たちは、グラウンドの端にある観覧席に腰を下ろした。どうやら周りに座っているのは、那智君の親御さんや他の部員の家族らしい。
「いきなり誘っちゃって、ごめんね、獅子御君。サッカーなんて、本当はあんまり興味なかったでしょ?」
隣に座った日向さんが、僕の顔を覗き込むようにして言った。気を遣わせてしまったのかと思うと、胸が少しだけ痛くなった。
「ううん、そんなことないよ。日向さんと那智君は、僕にとって大切な友だちだから。僕なんかで良ければ、いつでも力になりたいんだ」
素直な気持ちをそのまま言葉にした。
曽米さんが笑いながら口を挟む。
「ま、応援に来ただけじゃちょっと物足りないかもね。アゴヒゲとすえっち眺めながら、世界史談義でもしよっか」
彼女の“すえっち”は、もちろん末長先生のことだ。グラウンドの反対側で、腕を組んで仁王立ちしている姿が目に入る。あの距離からでも、やたら威圧感があるのが不思議だ。
僕はふと、日向さんがもともと曽米さんだけを誘っていたことを思い出した。曽米さんから聞いた話では、日向さんは一人で観に行くのが心細かったかららしい。
だけど……なぜ、伊藤や大堤君を誘わなかったんだろう。伊藤は習い事が多いから、タイミングが合わなかったのかもしれない。でも、僕と同じ帰宅部の大堤君なら来れたかもしれないのに。
話しかけようともしなかった僕自身にも、少しだけ罪悪感がこみ上げてきた。
でも今は、那智君のための時間だ。そんな考えを胸の奥に押し込みながら、僕はグラウンドを見つめた。
試合が始まった。那智君は真っ白なユニフォームを着ていて、背中には「8」の番号がはっきりと見える。対する相手チームは青のユニフォーム。陽に照らされたグラウンドで、那智君はまるで獲物を狙う獣のような鋭い視線で相手選手の動きを見つめ、着実にポジションを取りながら動いていた。
曽米さんが、前のめりになって僕に小声で言った。
「アゴヒゲのやつ、ゴールからだいぶ離れたとこで突っ立ってるけど、点取る気あるの?」
言葉だけ聞けば失礼極まりない。でもその無邪気さに、近くに座っていた親御さんらしき人たちからクスッと笑い声が漏れた。僕は思わず顔が熱くなって、苦笑いを浮かべた。
そのとき、日向さんがそっとノートのようなものを胸元に抱えながら、穏やかに説明してくれた。
「サッカーにはね、選手の適性に合わせていろんな役割があるの。那智君はミッドフィルダーってポジションで……確か“ボランチ”って言ってたわ」
その言葉で、僕ははっとした。普段あんなに自分を犠牲にしてまで他人の世話を焼きたがる日向さんが、サッカーという未知の分野まで一生懸命に勉強してたんだ。それも那智君のために。そんな努力を見せないところが、彼女らしい。
僕も何か言いたくなって、ネットで予習しておいた知識を引っ張り出す。
「うん、ミッドフィルダーって攻守の両方をこなさなきゃいけなくて、試合の流れを作るポジションなんだ。だからゴールから離れた場所で味方に指示したり、前線にボールを送ったりするのが大事で……チームの心臓って呼ばれたりするらしいよ」
日向さんが、目を見開いて何度も頷いてくれた。言ってよかったと思えた瞬間だった。
曽米さんはというと、口をへの字にして腕を組み、いかにも「考える人」みたいなポーズを取りながら、何やら納得したように唸っていた。次にどんなツッコミが飛んでくるのか、ちょっとだけ怖くて、でも楽しみでもあった。
試合は一進一退の攻防が続いていた。スコアは一対一。均衡が崩れる気配はなく、まるで互いに譲らない意地のぶつかり合いを見ているかのようだった。
中盤では激しいボールの奪い合いが繰り返され、ゴツン、ドサッといった音に思わず目を覆いたくなってしまう場面もある。那智君の白いユニフォームは、すでに泥だらけだった。それでも彼はひるまず、どこか覚悟を決めたような顔で走り続けている。怪我を恐れず、仲間のために戦うその姿に、さすがの曽米さんも静かに見入っている――そう思ったのに。
「一人一人に役割があるってことは、誰かが囮になって敵を引きつけるみたいな役割もあるってことだよね?」
いきなりそんなことを言い出すもんだから、僕は目をぱちくりさせた。曽米さんの吸収力の早さには毎度驚かされる。世界史の深い理解力が、こういうところでも生きてるんだろうか。
日向さんが横で微笑みながら説明を補足してくれた。
「サッカー用語で“デコイラン”って言うらしいわ。妃美華の言う通り、デコイっていうのは囮って意味なの」
……ああ、やばい。ここで来る。僕は胸の奥で叫んだ。「来るぞ、これはもう止まらないやつだ」と。
曽米さんは、まさにスイッチが入ったかのように語り出した。
「つまり……これはトロイア戦争における“トロイの木馬”戦術と通じるところがあるかも。あのとき、ギリシア軍は木馬を使って敵の気を引いた。その中に兵を潜ませ、都市の内部から一気に制圧したんだよね」
親御さんたちの何人かが、僕たちの方をちらっと見た。最初は微笑ましい目だったけれど、次第に「何か始まったぞ?」という空気に変わっていくのを肌で感じた。僕は小さくため息をつきながらも、彼女の話に耳を傾ける。
僕は思った。やっぱり、曽米さんってすごい。けれど、その“すごさ”の方向性がちょっとズレてるところも、彼女らしい魅力なんだ。
―――
試合は後半に入った。メンバー交代が行われ、フォーメーションにも変化があったのだろう。グラウンド上の空気が、目に見えて変わっていくのが分かる。
那智君たちのチームは次第に押し込まれる展開になった。守備の時間が長くなり、白いユニフォームの背中が重そうに揺れている。泥と汗で顔まで汚れていて、どこか歯を食いしばるような表情が印象的だった。
「なんか……雰囲気、重くなってきたわね」
観覧席の空気を感じ取ったのか、日向さんが小さな声で呟いた。そう言いながら、彼女は鞄の中からラップに包まれたサンドイッチを取り出して、僕たちに差し出してくれた。
「朝から作ってきたの。ちょっとでも元気出たら嬉しいなって」
受け取ったサンドイッチはハムとレタス、それからほんのり粒マスタードの風味が効いていて優しい味がした。
「今の展開、たぶん“リトリート”っていう状態なんだと思う」
日向さんがそう言いながら、膝に置いたノートの一部を指差してくれた。丁寧な字で“リトリート=守備時に自陣に引いてブロックを作ること”と書いてある。
「攻撃より守備に力を入れる戦術で、相手にスペースを与えないようにするんだけど、疲れてると判断も遅れがちになるから……今はちょっと耐えどきって感じかな」
丁寧な説明を聞きながら、僕は思った。
――もしこの場に末長先生がいたら、「オマエはサッカー部のマネージャーか!」ってツッコんでたかもしれないな……って。
曽米さんが、ひと口サンドイッチをかじったあと、ぽつりと呟いた。
「守備をするために自陣に下がる。つまり“退却”だよね。これは、ダンケルクの戦いに通ずる部分があるのかもしれない」
僕は思わずスマホを取り出して検索を始めていた。“ダンケルク”――どうやら第二次世界大戦の出来事らしい。連合軍がドイツ軍に包囲されながらも奇跡的な撤退を成功させた戦い。サッカーと通ずる……のか? よくわからないけど、たしかに“守るための退却”という考えは似ているのかもしれない。
ふと曽米さんの横顔を見る。目を細めながら遠くのグラウンドを眺める彼女の視線は、まるで歴史の中にある真理をそこに重ねているかのようで、なんだか格好良かった。
……なんて思ってる僕は、次に彼女がどんな歴史をサッカーに重ねるのか、それを楽しみにしてるんだと気づいて、ちょっと照れくさくなった。
試合は終盤を迎えていた。スコアは依然として1対1。どちらに転んでもおかしくない緊張感が、グラウンド全体を包んでいた。
そんな中、那智君たちに絶好のチャンスが訪れた。コーナーキック。白いユニフォームの選手たちが敵陣に集まり、ゴール前に陣取っている。その中に、泥だらけの背番号8――那智君の姿があった。
ボールが蹴られた瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
――いけっ!
けれど、ボールは那智君の頭上をわずかに通り越してしまい、そのまま後方へ。相手チームが素早く反応し、あっという間にカウンターが始まる。
まずい。
気づけば、白いユニフォームの選手たちは数的不利な状況で必死に自陣に戻っていた。後半の疲労がたまった身体に鞭打つように走り続ける姿が、遠目にも苦しそうに見える。
そんな中――那智君が、全速力で相手選手に迫っていった。
スライディング。あまりにも鋭い、鋭すぎるタックル。
そして――悪夢が起きた。
ペナルティエリア内で、相手選手がパスを出した瞬間。那智君の足が、ほんの僅かに相手の足を引っかけてしまった。
主審の笛が、グラウンドに甲高く響く。
その手が迷いなく胸ポケットへ伸びるのが、スローモーションのように見えた。カードが掲げられる。
――赤。
観覧席から、いくつものため息が漏れた。
「レッドカードか……」
誰かの呟きが、妙に現実味をもって耳に届いた。
僕は一瞬、何が起きたのか分からなかった。ただ、日向さんの表情を見てすべてを理解した。今にも泣き出しそうな顔。彼女は全部分かってるんだ。那智君のやったこと、その意味、それがこの試合にとってどういう結末を呼ぶのか――。
そんな重苦しい空気の中、ただ一人、気圧されることなく声を上げたのは曽米さんだった。
「なるほど。これが噂に聞く“レッドパージ”ってやつね。共産主義者と認定されると、グラウンドから追放される奥深いスポーツ、それがサッカー。だよね、リチャード君?」
……その時、僕の口元が引きつるのを自覚していた。愛想笑いすら痛々しく感じるほどの空気。でも彼女は真面目な顔だった。冗談なんだか本気なんだか、もう分からない。
「妃美華のばかぁ!」
日向さんの声が、やけにクリアに響いた。続いて、乾いた音。曽米さんの肩に、日向さんの平手が思いきり入った。
僕はその場でどう反応すればいいか分からず、ただ曽米さんの肩が小さく揺れるのを見ていた。悲しいやら、おかしいやら――複雑な気持ちが渦巻いていた。
結局、那智君の退場が響いてしまった。ファウルで与えたペナルティキックは、相手のエースによってきっちり決められた。
試合終了のホイッスルが鳴ったとき、僕たちは何も言えずに立ち尽くしていた。
那智君はうつむきながらグラウンドを後にしたけれど、その背中にはチームメイトたちの励ましの手がそっと添えられていた。観覧席からは、ため息混じりながらも温かい拍手が送られていた。僕たちもその中にいた。
夕方、空は橙色に染まり始めていた。僕たちは那智くんを励ますために、校門の近くで集まっていた。すると、少し離れたところからジャージ姿の末長先生が現れた。
「なんや、オマエらも来てたんか?」
相変わらずのんびりした口調。でも、その目はどこか優しさを含んでいた。
日向さんが、不安げに先生に尋ねる。
「試合は終わったんですよね?でも、誰もグラウンドから出てこないようなんですが……」
その言葉に、末長先生はふっと笑って、日向さんの様子を気遣うように穏やかな声で答えた。
「アイツらな、もうちょっと練習していくって言うて聞かんのや。試合に負けたのが、よっぽど悔しかったんやろなぁ。負けず嫌いなのはええけど、無理してケガでもされたら、ワシの責任になってまうしな。まぁ、高校生活は一度きりやし、ワシから強く言えへんねんけどな。ほなな」
そう言って、末長先生は優しい笑顔を浮かべて去っていった。
僕はその背中を見送りながら、「高校生活は一度きりか……」と心の中で何度も繰り返した。
ふとグラウンドの方を見やると、まだ明かりが残るフィールドの中で、白いユニフォームたちが走り続けていた。
悔しさをエネルギーに変えて、前を向こうとしている姿がそこにあった。
①トロイア戦争
考古学者シュリーマンがトロイアの遺跡を発掘し、空想上の都市だと思われていたトロイア王国が実際に存在していた可能性を示した。
ホメロスの叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」によれば、ギリシアに攻め込まれトロイア王国は滅亡したとされる。
②ダンケルクの戦い
第2次世界大戦勃発によりドイツ軍の侵攻によって包囲された英仏連合軍が、ダンケルク港から撤退を強いられた戦い。兵士たちは民間船を含むあらゆる船に乗り込み、生き残るために退却した。「ダンケルクの奇跡」とも呼ばれる。
余談だが、イギリスがつけた作戦名は「ダイナモ(発電機)」である。
③共産主義
哲学者のマルクスとエンゲルスが提唱した思想。
私有財産の否定し、全国民が労働者となれは貧富の差は是正されるという考え方。国家権力による経済統制の必要がなくなり、政府という存在そのものも不要となる。
公平な分配と平等を実現する社会を目指したが、現実には一部に権力が偏り過ぎるなど多くの課題を残した。
④レッドパージ(赤狩り)
冷戦期の日本やアメリカで起こった共産主義者に対する排斥運動。
敗戦後の日本では共産主義運動は公然と認められたが、米ソ対立が鮮明になると共産主義者に対する取り締まりを強め、レッテルを貼られた者は職業に関わらず解雇されたり、訴訟を起こされるなど不利益を被った。
「レッド(赤)」は共産主義のシンボルカラー。
「パージ」は英語で「追放」を意味する。