日本史の中間テスト返却日。
末長先生が教室に入ってきた瞬間、ふわっと何かの匂いが鼻をくすぐった。
「なんか、臭くない?」
「ソースの匂い?」
そんな声があちこちから上がる中で、僕もそっと鼻をひくつかせていた。どうやら気のせいじゃなかったらしい。僕だけじゃなかったって、それだけでちょっと安心した。
先生は両手にビニール袋を持って、いつになく上機嫌だった。
末長先生がプリントを配り始めたときから、ずっと心臓がうるさかった。一人一人名前を呼ばれ手渡される。恐る恐る目を落としたその瞬間——
「……90!」
思わず小さく声が漏れた。ギリギリだったけど、目標の90点には届いていた。肩の力が抜けて、体から緊張がゆっくり溶けていくのがわかった。やった、これで何とか面目は保てた……!
後ろの席の伊藤は、98点。さすがとしか言いようがない。でも彼女は嬉しそうどころか、答案用紙に穴が空くんじゃないかってくらい目を凝らして見つめている。眉間に皺を寄せて、何か納得いかない部分でもあったのだろうか。
一方で、大堤くんの答案用紙には堂々と「99」の数字が見えた。伊藤に勝ってさぞ誇らしい顔をしているかと思いきや、彼は静かに席を立つと、迷いなく曽米さんの元へ向かって行った。
僕が視線を送ると、曽米さんはちらりとも彼に構わず、僕の答案用紙を覗き込んでにこっと笑った。
「えへへ、私と一緒だね」
その瞬間、なぜか背中にビリビリと刺すような視線を感じた。恐る恐る振り返ると、伊藤が目を細めて、明らかにこちらをにらんでいた。
でも、何だろう。曽米さんと並んだ90点の答案用紙が、少しだけ誇らしく見えたんだ。
「ほなな、みんながテスト頑張ってくれたご褒美に、たこ焼き買うてきたから食べよか」
歓声が上がる。そうか、この匂いの正体はたこ焼きだったんだ。妙にソースっぽいというか、粉もんっぽいというか……とにかく、これで合点がいった。
みんながたこ焼きをもらって、「うまっ!」とか「熱っ!」とか言いながら頬張る中、僕はそっと2つのたこ焼きをタッパーに移していた。家に持ち帰って、誰かにあげるつもりだった。だって……僕、タコがちょっと苦手なんだ。家に持ち帰れば、妹が食べるかもしれないし。
それを見ていた伊藤が、眉をひそめながら尋ねてきた。
「獅子御、タコが嫌いなのか?」
僕は小さく頷いた。それが間違いだった。
すぐに末長先生の鋭い視線が飛んできた。
「なんや、リチャード!タコ嫌いなんか?大阪に足を踏み入れられへんやん。前世でタコに足すくわれて溺れ死んだんちゃうやろな?」
末長先生が眉をつり上げながら、そんな無茶苦茶なことを言ってきた。
教室中がどっと笑いに包まれたけど、曽米さんだったら「溺れ死んだのはフリードリヒ一世や!」って切り替えせたはず。だけど僕は小心者すぎて苦笑いすらできなかった。
……いや、笑えないよ。ちょっと本気で落ち込んだ。たかがタコで、そこまで言わなくても……。
そんな僕の様子を見て、曽米さんがタコの入ったたこ焼きを手にして言った。
「それならリチャード君の分、私がもらってあげるね」
そう言いながら、彼女は大きく口を開けて僕の方を見つめた。
……これは、まさか“食べさせろ”ってことなのか?
どうしようかと戸惑っていると、伊藤が眉を吊り上げて言い放った。
「はしたない女だ。自分で取って食べればいいだろう」
すると曽米さんは、勝ち誇ったような笑みで言い返す。
「伊藤ちゃんだって、本当はリチャード君に食べさせてもらいたいくせに~?」
「なっ、そんなことあるわけ……」
伊藤は顔を真っ赤にして反論しながらも、目の焦点が少し泳いでいた。
そんな伊藤の様子に、曽米さんはお腹を抱えて大笑いしていた。
たこ焼きの匂いと、みんなの笑い声と、僕の小さな困惑と。
騒がしくて、でもちょっと温かい時間が、こうして過ぎていった。
―――
放課後。教室を出ても、まだ鼻の奥にソースの匂いが残っていた。たこ焼きの名残というか、記憶というか──なんとなく甘いものが欲しくなるような、そんな感じだった。
僕は静かな図書室の隅にいた。今日は曽米さんと一緒に勉強する日。外の窓に目を向けると、ほんの数日前まで咲き誇っていた桜の花はすっかり散って、枝だけが少し肌寒そうに揺れていた。春の終わりって、どうしてこうも物寂しいんだろう。
そんな気持ちの中で、足音が近づいてきた。顔を上げると、曽米さんがいた。
彼女は胸に教科書を抱えていて──それも、世界史の教科書だった。二年生になって授業で使わなくなったはずなのに、それでも肌身離さず持ち歩いている。まるで宝物でも扱うような手つきが微笑ましくて、僕の口元も自然と緩んだ。
「ソースの匂い、取れないね」
椅子に座るなり、曽米さんがそう言った。髪をふわっと揺らして、ちょっとだけ鼻をしかめる。
「なんか、甘いものが食べたくなっちゃう。リチャード君は、大判焼きって好き?」
……突然だった。あまりに唐突すぎて、僕は数秒ほど固まった。
たこ焼き → ソース → 甘いもの → 大判焼き。きっと、そういう連想なんだろう。けど、それがどう世界史に繋がるのかはまったく分からなかった。
「うん。僕、あんこが好きだから。昔はおばあちゃんがよく、どら焼きとか大福とか買ってきてくれたんだ」
懐かしい記憶がふと口をついて出た。思い出すと、少し胸が熱くなった。
「でも……中学生のときに、死んじゃって。それからは、あまり食べてないかな」
曽米さんは、僕の話に耳を傾けて、少しの沈黙のあとで、優しい声を出した。
「そっか……リチャード君は、おばあちゃんっ子なんだね」
その言葉に、僕は頷いた。
「大判焼きって、地方によって呼び方が変わるって知ってる?回転焼きとか二重焼きとか太鼓焼きとか」
図書室の静けさの中、曽米さんの声が小さく弾んだ。
窓の外を見れば、桜はもう全て散ってしまっていて、少し寂しい気持ちになっていた僕の心に、ふわりと灯がともるようだった。
「うん、おばあちゃんが今川焼きのことを『おやき』って呼んで時に、初めて知ったよ」
自然と口が動いた。そういえば、小学生の頃によく一緒に買いに行った駄菓子屋で、おばあちゃんがそう呼んでたっけ。懐かしい思い出が、ソースの匂いと一緒に蘇る。
「でね、世界史にもあるの」
曽米さんは教科書を抱えたまま、机に肘をついて身を乗り出した。
「場所によって呼び方が変わったり、特殊な事情で名前を変えざるを得なくなったりね」
その瞳は、まるで宝石のように輝いていて、僕は自然と引き込まれるように見つめてしまった。
「最後の騎士と呼ばれたマクシミリアン一世の息子に、カール五世って人がいるんだけどね、この人、スペイン王国の王様でもあったからカルロス一世とも呼ばれたんだよ!しかもイタリアでは更に呼び方が変わってカルロ五世って呼ばれてたんだよね」
「……そうか。ドイツ語圏とスペイン語圏では、『カール』と『カルロス』は同じ人物を表す名前で、イタリアだとカルロになるのか!」
思わず声が弾んだ。世界史の知識が、こうやって日常の話と繋がるのって、すごく新鮮だ。
「そう!大判焼きと、おやきは名前は違くても中身は全く同じってことなんだよ!面白いよね!」
曽米さんはそう言って、満足そうに笑った。
「オレンジにも呼び方が変わる場所があるんだけど、リチャード君はわかる?」
唐突な曽米さんの問いかけに、僕は一瞬固まった。オレンジ? 果物の?いや、そんなわけない。今の流れは完全に世界史だ。
きっと、何かしら歴史上の人物か国に繋がるはずだ。
「名誉革命でイングランドの王位についた人物といえば?」
曽米さんがヒントを出すように、にこりと笑う。
「ウィリアム三世……だよね?」
自信はなかったけど、曽米さんに教えてもらったはず。
「正解!」
曽米さんは嬉しそうに机をポンと軽く叩いた。
「ウィリアム三世はオランダの総督だったんだ。でね、その時の呼び名は“オラニエ公ウィレム”なんだよ」
「そっか……! オラニエ公ウィレムがイングランドに来たから、“オレンジ公ウィリアム”って呼ばれるようになったんだ!」
僕の頭の中で、点と点が繋がっていく感覚があった。あの“オレンジ”って、オラニエ家のことだったんだ。
「えへへ、そういうこと!」
曽米さんの笑顔は、教科書の行間よりずっと鮮やかだった。
いつの間にか、彼女との距離が近くなっていた。身体の距離も、心の距離も。
僕は教科書よりも、彼女の声と笑顔の方に夢中になっていた。
「じゃあ最後は、現在のイギリスの王朝に関する問題」
曽米さんがそう言って、少しイタズラっぽく笑った。
うっ……やばい。僕は現代のイギリス事情に関してはまったく自信がなかった。
中世とか、名誉革命までは何となく流れで覚えてるけど、今の王室って言われると、頭が真っ白になる。
「ごめん、曽米さん。勉強不足だった。今のイギリスの王朝なんて僕には分からないよ」
そう正直に言った僕に、曽米さんは、むしろそれを期待していたかのような顔を見せた。
「それじゃあ、ジョージ一世を調べてみて」
そう言って、彼女は教科書を僕の方に差し出してくる。ページをめくって確認すると――
「あっ!ジョージ一世はドイツのハノーヴァーから来たんだ。それなら、今のイギリスの王朝は……ハノーヴァー朝?」
僕がそう言うと、曽米さんは肩を揺らして笑いながら、両手を高く掲げて天井を指差した。
「だと思うよね。でも違うんだな〜」
えっ……? 僕はつられるように視線を上げる。天井には大きな世界地図が貼ってあって、その中でヨーロッパが目に入った。
曽米さんの視線と、彼女の言葉と、地図――。いくつかの点が、脳内で急に繋がった。
「もしかして……第一次世界大戦と関係する?」
「すごい!すごーい!こんなヒントでよくわかったね!」
驚いていたのは僕自身だった。まさかここで戦争の知識が繋がるとは思っていなかった。
曽米さんが嬉しそうに説明を続ける。
「イギリスは第一次世界大戦でドイツと戦うことになっちゃったんだけど、敵国の王朝と同じドイツ系の名前を使ってるのはどうなの?って国内で議論が起こったんだよね。で、最終的に現在の王朝名を“ウィンザー朝”に改めることになったの」
そうか……。曽米さんが最初に言っていた「特殊な事情」って、こういうことだったんだ。
名前はただのラベルじゃない。国の事情や空気が、それに色をつけていく。
それに気づいた瞬間、僕は世界史がまた少し、好きになっていた。
曽米さんの笑顔が、図書室の午後を少しだけ春に戻した気がした。
①カール5世(カルロス1世)
神聖ローマ帝国皇帝、スペイン王国国王。
即位して間もなくルターが主導した宗教改革に対策を迫られることになった。シュマルカルデン戦争でプロテスタント派に勝利するものの、財政難などから妥協を迫られ「アウクスブルクの和議」を結ぶ。ハプスブルク家の帝国支配の野望は潰えることになった。
②名誉革命
プロテスタント国家に変貌していたイングランドでは清教徒(ピューリタン)革命によって王政ではなく、議会を中心とした国家運営が成立する。ところがジェームズ2世はカトリック優遇策を推進し、議会と対立を深めプロテスタント派を排除したことで国民の怒りが頂点に達した。議会はオランダの「オラニエ公ウィレム」をイングランド王として即位させる。
処刑を恐れたジェームズ2世は亡命し、国民は血を流すことなく革命を成就させた。
③ハノーヴァー朝
名誉革命によって即位したウィリアム3世は世継ぎを残すことなくこの世を去ってしまう。議会はプロテスタントの王を擁立すべく、ドイツのジョージ王に白羽の矢を立て即位させる。ジョージ1世は英語を話せず、政治に参加することはなかったため、議会の発言力強化に繋がった。
ヴィクトリア女王の治世でザクセン王家を迎え入れ名称を改めるも、第1次世界大戦でドイツと敵対したことにより現在の「ウィンザー朝」に改称した。