雨音がやけに耳につく午後だった。
僕は、伊藤と並んで体育館へ向かっていた。グラウンドが使えない日は決まって館内になる。湿った空気が廊下にまで入り込んでいて、床が少し滑るのが不快だった。
「フフ、獅子御は雨男だな。中学の時からそうだった、こうやって歩いているだけで空が真っ暗になる」
伊藤が天井を見上げながらぼやく。僕も同意する。午後に体育がある時に限って雨が降るからだ。それも伊藤と二人っきりになっている時に限って――そのときだった。
理科室の前に、妙な人だかりができているのが目に入った。廊下を塞ぐように集まっているその塊を、伊藤は一瞬で見抜く。
「……二年三組だな」
「え、なんで分かるの?」
「聞き慣れた声が聞こえた」
短くそう言った直後、はっきりと聞こえてきた。
「ちょっと、いい加減にしてよ!」
鋭い叱責。間違いなく日向さんだ。
僕たちは顔を見合わせ、自然と足を止めた。体育よりも、目の前の騒ぎのほうが気になったのは言うまでもない。人の隙間から理科室の中を覗き込む。
――そして、原因はすぐに分かった。
床に倒れた人体模型。
不自然な角度で転がっていて、首元から何かがずれている。よく見ると、片方の目玉が外れて転がっていた。
その周りを囲むように三人の男子生徒。そして、その中心にいたのが――那智君だった。
彼は明らかに気まずそうな顔で、倒れた人体模型を見下ろしている。普段の軽い調子は影を潜め、口元が引きつっていた。
僕は人垣をかき分け、日向さんの近くまで出る。
「何があったの?」
僕の問いに、日向さんは困ったように眉をひそめた。
「那智君がね、授業終わったあとに友だちとふざけてて……それで倒しちゃったみたい。今から先生に伝えようと思ってるんだけど……」
その言葉を遮るように、那智君が慌てて声を上げた。
「ま、待てよ!目玉一個取れたくらいで大袈裟だろ!こんなもん、接着剤でくっつければ――」
言いながら、彼は床に転がっていた目玉を拾い上げる。そして、ぎこちない手つきで人体模型の顔に押し当てた。
嫌な予感しかしなかった。
案の定だった。
「うわ、ちょ、待っ――」
誰かの制止も虚しく、ぐにゃりと妙な方向に力がかかる。
次の瞬間、ぱき、という軽い音がした。
「……あ」
耳だった。
人体模型の耳が、あっけなく欠けて床に落ちる。
一瞬、理科室の空気が凍りついた。
那智君は固まったまま、自分の手元と模型を交互に見ている。さっきまでの強気な態度はどこへやら、顔色がみるみるうちに青ざめていった。
「……終わった……」
小さく、絞り出すような声。
その表情には、もはや誤魔化しようのない絶望が浮かんでいた。
数秒の沈黙のあと、彼はぎこちなく立ち上がる。
「……先生に言ってくるわ」
観念したようにそう呟いた、そのときだった。
「何この騒ぎ?」
廊下の向こうから、はっきりとした声が飛んできた。
振り向くと、体操着姿の曽米さんが立っていた。その後ろには大堤君の姿もある。どうやら、騒ぎを聞きつけてやってきたらしい。
曽米さんは人だかりをかき分けながら中へ入り、床の人体模型を見た瞬間、ぴたりと足を止めた。
その目が、すっと細くなる。
――嫌な予感がした。
この状況、さらに面倒な方向に転がるかもしれない。
那智君は、曽米さんと大堤君の姿を視界に捉えた瞬間、何かを決めたように顔を引き締めた。
「……やっぱり先生に報告してくる。俺一人でやったことにするから、みんなは次の授業に向かってくれ」
さっきまでの狼狽が嘘みたいに消えていた。背筋を伸ばし、逃げも隠れもせず責任を背負おうとするその姿は、どこか芝居がかっていながらも――正直、格好良く見えてしまった。
……いや、待ってくれ。
本当にそれでいいのか?
ふざけていたのは那智君一人じゃないはずだ。ここで彼だけに責任を押し付ける形になるのは、どう考えても筋が通らない。そう頭では分かっているのに、口がうまく動かなかった。
そんな僕の逡巡を断ち切るように、不意に曽米さんがぽつりと呟いた。
「……これは正夢かもしれない」
あまりにも唐突な一言だった。
僕たちは一斉に曽米さんの方を振り向く。
彼女はいつもの調子で、どこか確信めいた表情をしていた。その背後では、大堤君がすっと眼鏡を押し上げる。レンズが廊下の光を反射して、不自然にきらりと光った。
「ヒミコ様……もしや、この光景を予知していたと?」
妙に芝居がかった口調で言う大堤君。親衛隊を自称しているだけあって、相変わらずの徹底ぶりだ。
曽米さんはそれに頷きながら、続ける。
「うん。昨日見た夢にそっくりなんだよね。アゴヒゲが人体模型倒すところも、潔く先生に報告しようとするところも」
アゴヒゲ――那智君のことだ。
他の生徒がいる前でよくもまあ、と思わなくもないが、曽米さんはまるで気にしていない。むしろ、自分の中で話が繋がっていることに満足しているように見えた。
僕は思わず小さく息を吐く。
この状況でさえ動じないどころか、自分の世界観を優先してくるあたり、ある意味で大したものだ。いや、もう感心を通り越して、半ば諦めに近い感情が湧いてくる。
……そして、その空気をさらに濃くしているのが、後ろで「おお……!」だの「さすがヒミコ様……!」だのと仰々しく感嘆の声を上げている大堤君の存在だった。
場が妙な方向に傾いていく。
そんな中で、那智君だけが、まるで最後の希望に縋るみたいな顔をしていた。
「ヒミコ……さっきの話、ホントなのか?」
一歩、曽米さんに近づく。
その目は真剣そのものだった。さっきまでの虚勢も、強がりも、もう残っていない。
「それなら、この後どうすればいいか教えてくれ!」
冗談で言っている声じゃない。
本気で――助けを求めている声だった。
曽米さんは、まるで場の空気そのものを支配するみたいに、ゆっくりと理科室の中を歩き出した。
その足取りには迷いがない。
やがて彼女は、教卓の脇――片隅に無造作に置かれていたカッターに手を伸ばし、それを静かに拾い上げる。
そして振り返る。
その表情は、どこか現実離れしていた。
「――古来から伝わるハンムラビ王の取り決めに従い、夜な夜な潜めていたと思しき長い、長〜いこの
淡々と、しかし妙な重みを伴った声。しかもやたら「長い」を協調する。
「さすれば、全ては良い方向へと向かうであろう」
一瞬、本当に“何か”が降りてきているんじゃないかと錯覚するくらいの雰囲気だった。
……いや、でも。
(それ、カッターじゃん)
僕は心の中で冷静に突っ込んだ。
ナイフでも何でもない、どう見ても文房具だ。しかも学校備品。神託にしてはあまりにも現実的すぎる。
けれど、そんな当たり前のツッコミを口に出せる空気じゃなかった。
周りのクラスメートたちも同じらしい。誰もが困惑した顔をしているのに、誰一人として言葉を発しない。妙な緊張感だけがその場を覆っていた。
――その沈黙を破ったのは、那智君だった。
彼はふらりと一歩前に出ると、まるで導かれるように曽米さんへ手を伸ばす。
「ヒミコ……」
そして、そのままカッターを受け取ってしまった。
「本当にこれで……全部上手く……」
呟きながら、震える手で刃を起こす。
嫌な汗が背中を伝った。
さすがに――まずい。
那智君は、ゆっくりとカッターの刃を自分の目に近づけていく。
誰も止められない。
いや、違う。止めなきゃいけないのに、体が動かない。
次の瞬間だった。
「ちょっと、何してんのよ!」
鋭い声と同時に、日向さんが一歩踏み込む。
ぱしっと乾いた音がして、那智君の手からカッターが奪い取られた。
「馬鹿なことしてないで、早く先生に報告に行きなさいよ!」
有無を言わせない口調だった。
さらに、その勢いのまま曽米さんへ視線を向ける。
「それと妃美華、急がなくていいの?次の授業、遅れるわよ」
その言葉で、僕ははっとする。
――体育。
完全に頭から抜け落ちていた。
慌てて周囲を見渡すと、さっきまで隣にいたはずの伊藤の姿がない。
……いつの間に。
どうやら、とっくに見切りをつけて体育館へ向かったらしい。
正しい判断だ。
ものすごく、正しい。
一方で曽米さんは、日向さんの言葉を聞いてもまったく焦る様子を見せなかった。それどころか、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「それも最初から知ってたんだよねぇ」
ゆっくりと、廊下の方へ指を向ける。
「だって――そこに先生がいるんだもん」
その一言で、全員の視線が一斉に廊下へ向いた。
そこに立っていたのは――末長先生だった。
腕を組み、明らかに機嫌の悪そうな、渋い表情。
那智君は我に返り、顔がみるみる青ざめていくのが分かる。
そして次の瞬間、低く腹に響くような声が飛んだ。
「お前らぁ……何しとんねんッ!」
廊下にその怒声が響き渡る。
「那智!曽米!リチャード!ピョートル!――全員、職員室来いや!」
完全に、終わった。
逃げ道はどこにもない。
結局、僕たちは揃って職員室に連行され、事情を洗いざらい説明させられたうえで、こっぴどく叱られた。
……いや、ほんとに。
(なんで僕までなんだよ……)
心の中で何度もそう思った。
伊藤みたいに、さっさと理科室を離れていれば巻き込まれなかったはずだ。
あのとき、好奇心なんかに負けずに歩き続けていれば――。
そんな後悔だけが、やけに鮮明に残っていた。
①ハンムラビ法典
古バビロニア王国のハンムラビ王が制定した世界最古の法典の1つ。「目には目を、歯には歯を」の同害復讐法などの法律は国家秩序の維持という重要な役割を担っていた。
②王の目、王の耳
広大な領土を有していたアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は地方を州に分け総督(サトラップ)を置く。「王の目」はサトラップの動向を監視する役目を、「王の耳」は属州の離反を防ぐ役割を果たしていた。
③長いナイフの夜
ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)による突撃隊(SA)粛清事件。権力基盤の強化を目的とした反乱分子の一掃によって、ヒトラーは独裁の道を突き進むことになる。