曽米さんの『世界史』愛が強すぎる!   作:公私混同侍

29 / 38
善と悪

 

期末テストの答案が返却された。

教室には、紙をめくる音と小さなざわめきが広がっている。僕は自分の日本史の用紙を手に取り、ゆっくりと裏返した。

 

――95点。

 

悪くはない。むしろ、かなり良い部類だと思う。

けれど、どこか引っかかる。見直しのときに迷った問題があったのを思い出す。あそこを落としたのかもしれない。

完全に納得、とはいかなかった。

それでも、他の教科ではなかなか取れない点数だ。自然と肩の力が抜ける。

 

(まあ……こんなもんか)

 

少しだけ、気持ちが軽くなった。

ふと横を見ると、曽米さんが自分の答案を見ながらニヤニヤしていた。

あの顔は分かりやすい。

間違いなく、満足できる点数を取ったときの表情だ。

 

「リチャード君より私の方が上だね。案外、私の方が日本史得意かも」

 

案の定だった。

上機嫌そのものの声で、さらっと言い放つ。

僕は特に反発する気もなく、素直に返す。

 

「世界史だけじゃなくて日本史もできちゃうなんて、やっぱり曽米さんは凄いよ。今度は日本史も教えてもらおうかな」

 

本心だった。

単純にすごいと思ったし、教えてもらえるならありがたい。

――けれど。

そのやり取りを、黙って聞いている彼女じゃない。

 

「獅子御、言いたいことがあるならハッキリ言っておいた方がいい」

 

伊藤だった。

声はいつも通り落ち着いているのに、どこか鋭さを帯びている。

 

「この女は大堤と共謀して不正を働いていてもおかしくはないんだ。もし指摘できないというのなら、獅子御に濡れ衣を着せられる恐れがある」

 

空気が、一瞬で変わった。

さっきまでの軽い雰囲気が、すっと冷えていく。

僕は思わず言葉を失う。

 

……否定したい。

 

そう思うのに、口が動かない。

理由は、はっきりしていた。

 

(……見た)

 

試験中のことを思い出す。

曽米さんが、さりげない動きで大堤君から小さなメモのようなものを受け取っていた。

あれが何だったのか。

考えなくても分かる。

 

視線をずらすと、大堤君が自分の答案をじっと見つめていた。

いや――見つめている“ふり”だ。

やけに長い。明らかに、不自然なほどだ。

間違いがないか確認しているように見せかけて、ただ黙っているだけ。いつもなら解答用紙をヒラヒラさせながら自慢してくるのに。

伊藤が、さらに追い打ちをかける。

 

「大堤、黙っているということは不正を認めるということだな?」

 

ぴくり、と大堤君の肩が揺れた。

反応はした。

でも――何も言わない。

沈黙を、貫いている。

 

(……もういいだろ)

 

僕は心の中でそう呟いた。

観念すればいいのに。

 

曽米さんはさっきまでの余裕を崩さないまま、ふっと肩をすくめた。

 

「酷いよ、伊藤ちゃん。まるでピョートル君がカンニングしたみたいに言うなんて」

 

――ん?

 

一瞬、耳を疑った。

いや、待て。今の流れでその発言になるか?

僕の頭が追いつくより先に、現実はさらに一歩踏み込んでくる。

完全に梯子を外された形になった大堤君が、ぎこちなく顔を上げた。

 

「ヒ、ヒミコ様……今、なんと仰ったのですか?ワタクシに全責任を押し付けるおつもりで……?」

 

声が震えている。

そりゃそうだ。さっきまで同じ側にいたはずの相手に、いきなり切り捨てられたんだから。

僕は思わず、大堤君に少しだけ同情してしまう。

……いや、そもそも不正した人間に同情する方がおかしいんだけど、それでもこの切り替えの速さはさすがにきつい。

伊藤は、そんな空気をまるで気にしていない様子で口を開いた。

 

「大堤もわかっただろう?曽米という女は簡単に味方を裏切り、手柄を一人占めする女狐だ。手を切るなら早い方がいい」

 

容赦がなかった。

言葉の一つ一つが、的確に急所を突いてくる。

大堤君は完全に打ちのめされたように、がっくりと項垂れた。

その姿を見て、さすがに放っておけないと思った僕が口を開きかけた、そのときだった。

 

「カンニングをした証拠もないのに、ピョートル君をドレフュスに仕立て上げるなんて」

 

曽米さんが、さらりと言う。

 

「さすがは伊藤ちゃんだね」

 

……火に油どころじゃない。

伊藤の眉がぴくりと動いた。

 

「なんだと?」

 

低い声。

完全にスイッチが入っている。

それでも曽米さんは止まらない。

 

「それにさ、人って欲深いから簡単に罪を犯しちゃう生き物でしょ?だから、不正を許す環境や雰囲気にも問題があるんだよ」

 

指先でくるくるとペンを回しながら、どこか楽しそうに続ける。

 

「性悪説。伊藤ちゃんなら知ってるでしょ?」

 

挑発だった。

どう考えても、意図的に煽っている。

けれど伊藤は、感情的に返すのではなく、むしろ一段階冷えた声で言い返した。

 

「その物言いは看過できないな。試験監督は当然、末長先生だ」

 

一拍置く。

 

「つまり曽米は、不正を見抜けなかった末長先生にも落ち度があると言いたいんだな?」

 

空気が完全に張り詰めた。

教室のざわめきが、逆に遠く感じる。

 

……まずい。

 

これはもう、ただの口論じゃ済まない。

僕は二人の間に視線を行き来させながら、なんとか言葉を絞り出す。

 

「もうやめようよ、二人とも」

 

自分でも少し弱いと思う声だった。

それでも続ける。

 

「次の授業もあるし、これ以上続けたら変な噂が広まっちゃうから」

 

実際、もう周りはかなり注目している。

ここから先は、誰も得をしない。

 

――そう思った。

 

空気が張り詰めたまま、次に口を開いたのは曽米さんだった。

 

「逆に伊藤ちゃんに聞きたいんだけど」

 

嫌な予感しかしない前振りだ。

 

「もしリチャード君が『次のテストで満点を取ったら、僕の彼女になって』って提案したら、なんて答える?」

 

――!?

 

思考が一瞬止まった。

いや、今その話題になるか?

伊藤だけじゃない。巻き込まれた僕の方がダメージが大きい。顔が一気に熱くなるのが分かる。

対する伊藤は、露骨に動揺していた。

普段の彼女からは想像できないくらい分かりやすく。

 

「そ、それは……そ、その質問と曽米が犯した不正は別問題だ。答える義務は――」

 

必死に話を戻そうとする。

けれど、それを曽米さんがあっさり遮った。

 

「いや、あるね」

 

即答だった。

 

「伊藤ちゃんなら、リチャード君に満点を取ってもらうために手段を選ばない。どんな汚い手を使っても、リチャード君を自分のものにしようとする」

 

教室の空気が、また一段階おかしな方向にねじれる。

何を言ってるんだ、この人は。

 

でも――伊藤の反応が、それを否定しきれていないように見えてしまうのが厄介だった。

 

「ふ、ふざけたことばかり言うな!」

 

伊藤が一歩踏み出す。

明らかに怒っている。

 

「そもそも、危険を犯してまで獅子御の手助けをしても、獅子御のためにならない!」

 

言葉は正論だ。

正論なんだけど――声の端に、さっきまでとは違う感情が混じっている気がした。

曽米さんは、その反応を楽しむみたいに、くすりと笑う。

そして、ゆっくりと僕の方に顔を向けた。

 

「ねぇ、リチャード君?」

 

嫌な予感が、確信に変わる。

 

「私の性悪説と、伊藤ちゃんの性善説――どっちを選ぶの?」

 

……来た。

 

完全に、“あの質問”だ。

 

「私とあの子、どっちを選ぶの?」

 

それと同じ種類の、逃げ場のないやつ。

僕は言葉を失った。

視線の先では、曽米さんが面白そうにこちらを見ている。伊藤は伊藤で、固唾を呑むみたいに黙っている。

周りの空気まで巻き込んで、答えを待っている。

 

(いや……無理だろ、これ)

 

どっちを選んでも角が立つ未来しか見えない。

かといって、黙ってやり過ごせる雰囲気でもない。

心臓の鼓動がやけに大きく響く中で、僕はどう答えるべきか、必死に思考を巡らせていた。

 

僕は、逃げるのをやめた。

どっちかを選べなんて、そんな単純な話じゃない。だから――そのまま、思ったことを口にすることにした。

 

「僕にどちらかを選ぶなんてできない」

 

教室の空気が少しだけ動く。

 

「僕は勉強も運動も得意じゃない。それにズルをしたいとか、楽をしたいって思うことはよくあるから」

 

自分でも情けないと思う部分を、あえて隠さずに続ける。

 

「伊藤みたいにみんなが優等生なら、悪いことをしようなんて思わないのかもしれない。でも、ほとんどの生徒は得意なものと苦手なものがある」

 

視線を落とさずに、言葉を重ねる。

 

「だからといって、カンニングをするのは良くないけど……大堤君だって、曽米さんの役に立ちたいって思ってやったことだから」

 

一瞬、言葉が詰まる。

それでも、最後まで言い切る。

 

「……僕も悪いんだよ。悪いって分かってて、見逃しちゃったから」

 

言い終えたあと、妙に静かになった。

曽米さんも、伊藤も、何も言わずに僕を見ている。

その沈黙が少し怖かった。

 

なぜか、その横で大堤君だけが、じっと僕の顔を見ていた。

しかも、妙に感動したような表情で。

 

(なんでだよ……)

 

内心で突っ込みつつも、何も言えない。

やがて、曽米さんがふっと笑った。

 

「リチャード君らしいね」

 

短い一言だった。

からかうでもなく、否定するでもない、妙にそのまま受け止めたような声音。

続けて、伊藤が口を開く。

 

「……完璧な人間なんていないことくらい、わかる」

 

落ち着いた声だった。

 

「誰だって間違いはする。だが獅子御、これだけは忘れないでほしい」

 

僕の方をまっすぐ見てくる。

 

「同じミスを何度も繰り返す人間だけにはなるな」

 

その言葉は、静かだけど重かった。

僕は小さく頷く。

 

――ようやく、終わった。

 

そんな安堵が、胸に広がる。

 

……はずだった。

 

「それじゃあピョートル君」

 

ぽん、と軽い音。

曽米さんが、大堤君の肩を叩く。

嫌な予感しかしない。

 

「自首しに行こうか!」

 

満面の笑み。

 

「私が隣で弁護してあげるから!」

 

「えぇぇ!?」

 

大堤君の悲鳴が、教室に響いた。

さっきまでの感動はどこへやら、一気に現実に引き戻された顔をしている。

僕と伊藤は、同時に曽米さんの方を見る。

 

――冷たい目で。

 

さっきまでのやり取り、何一つ理解していないんじゃないか。

そんな疑念が頭をよぎる。

でも、それを確かめる術はない。

曽米さんは相変わらず楽しそうに笑っているだけだった。




①ドレフュス事件
フランス第三共和政下で起きた冤罪事件。
軍人でありユダヤ人でもあったドレフュスはスパイ容疑をかけられ、ドイツのスパイという濡れ衣を着せられ有罪判決を受ける。
「普仏戦争」に敗れ、誕生したドイツ帝国に対する復讐心と反ユダヤ感情が重なったことが背景にあった。

②性善説
中国の思想家「孟子」が唱えた説。
人は本来善であるから、たとえ不正しても良心が働いて自発的に行動するとする考え方。

③性悪説
中国戦国時代の思想家「荀子」が唱えた説。
人は欲望に任せると責任回避や隠蔽などをする生き物であり、その不正を防ぐために善い行いをさせる仕組みの必要性を説いた。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。