朝のホームルームが終わると、担任の先生が教室に入ってきた。
「これから整容指導を行う。一年生全員、体育館に集合だ」
整容指導――要するに、服装や身だしなみのチェックだ。
この学校は、結構こういうのが厳しい。
「めんどくさいなぁ…」
僕は内心ぼやきながら、鞄を持って立ち上がった。
隣を見ると、曽米さんがニヤニヤしながら僕を見ている。
嫌な予感がする。
「リチャードくん、髪の毛、襟足伸びてない?」
…バレたか。
実は最近、髪が肩に当たるくらいに伸びてきてたんだよな。
「うっ…まあ、ちょっとね」
曽米さんは悪戯っぽく笑った。
「いっそのこと、辮髪(べんぱつ)にしちゃう?」
俺が呆れた顔をしてると、後ろから呆れた声が聞こえた。
「君は獅子御を退学させる気か?」
伊藤だ。
目を細めて、ため息をついている。
…べんぱつ?
なにそれ。
聞いたことないぞ。
「え、辮髪って何?」
僕が首を傾げると、曽米さんは「ほら」と言って、鞄から世界史の参考書を取り出した。
カバーの端が擦り切れていて、いかにも使い込まれている感じだ。
…相変わらずだな、曽米さん。
ペラペラと手慣れた様子でページをめくり、ある箇所で止めると、俺に見せてきた。
「これが、辮髪だよ」
載っていたのは、古い絵画の一部らしい。そこには、頭の前半分を剃り上げて、後ろ髪を長く編んだ髪型の男が描かれていた。
「…な、なんだこれ!?」
思わず声が出た。変な髪型だ。というか、めちゃくちゃダサい。
曽米さんは得意げに頷いた。
「これは清朝時代の髪型で、満州族が支配してた頃、漢民族に強制してたんだよ。反抗すると処刑されたりしてね」
…そんな歴史があったのか。髪型一つで命を落とすなんて、恐ろしい時代だな。
でも――
「…いや、でも僕、そんな髪型したくないから」
思わず即答した。
だって、こんなの絶対に似合わないし、何より、学校で笑い者にされるに決まってる。
すると、曽米さんは腕を組んで、真剣な顔で頷いた。
「うん、私もそう思う。辮髪のリチャードくんなんて、想像しただけで吹き出しそうだもん」
言いながら、口元がニヤついてる。
…絶対、面白がってるだろ。
僕は曽米さんを睨みつけたが、彼女はまったく動じる様子もなく、参考書を鞄にしまいながら言った。
「まあ、普通に髪を切ってきなよ。辮髪にする勇気があるなら、それはそれで面白いけどね?」
ニヤリと笑う曽米さん。
僕は無言で、襟足に触れた。
…絶対、辮髪にはしないからな。
---
体育館に着くと、一列に並ばされて、一人ずつ服装チェックが始まった。
「襟足、長いぞ。後で切ってこい」
案の定、僕は指摘された。
まあ、想定内だ。
帰りに散髪屋にでも行くか…。
曽米さんは…案外、あっさり通過した。
髪型はおとなしいし、制服もきっちりしてる。
こういうところは、意外ときちんとしてるんだよな。
伊藤も、日向さんも問題なし。
日向さんは髪をツインテールにしてて、ちょっと幼い感じがするけど、先生は特に何も言わなかった。
順調に進んでいる…ように見えたけど、次の瞬間、空気が一変した。
「那智、髭が生えてるぞ」
那智君だ。
スポーツ刈りで背が高くて、見るからに運動部って感じの奴。
その顎に、薄っすらと髭が見えた。
「ん?ああ、これですか」
那智君は、顎を撫でながら言った。
「オレは海外でサッカーすることを見越して、今のうちに髭に慣れておこうと思いまして…」
…は?
僕は耳を疑った。
なんだ、その理屈。
体育館内がザワザワし始めた。
でも、本人はいたって真剣だ。
本気で言ってる。
…いや、絶対通じないだろ、それ。
先生は呆れた顔をしている。
「言い訳はいい。ちゃんと剃ってこい」
そう言って注意しようとした、その時――
「ザンギリ頭を叩いて見れば、文明開化の音がする〜!」
珍妙な歌声と共に、タコ踊りを始めた人がいた。
…曽米さんだ。
あろうことか、曽米さんが両腕をクネクネさせて、足をバタバタ動かしている。
…な、なんだ、このダンス。
周りはポカンとしている。
僕も言葉を失った。
タコ踊りを続けながら、曽米さんはニヤリと笑って言った。
「オレの風貌を文明開化後の武士に例えるんじゃねぇ!」
…まさか、那智君をバカにしてるのか!?
那智君の顔が赤くなった。
怒っている。
「おい、ヒミコ!ふざけんな!」
那智君が一歩前に出た。
先生が止めに入る。
「やめろ、那智。落ち着け」
でも、騒動は終わらなかった。
先生が、ふと那智君の足元を見た。
「…おい、靴下に穴が空いてるぞ」
クラス中が爆笑した。
那智君は顔を真っ赤にして、慌ててズボンの裾を下げた。
そして、曽米さんが呟いた。
「…もはやアナーキー…」
どういう意味だろう?ファッション用語かな?
オシャレな言い回しっぽいけど。
さらに伊藤が、冷静な声で追い討ちをかけた。
「穴あき靴下をファッションとして履きこなすとは…那智はクラス1のアナーキスト(無政府主義者)だね」
那智君は、プルプルと震えていた。
怒っているのか、恥ずかしいのか、それとも、両方なのか。
そして――
突然、那智君は倒れた。
…え!?
見た目に反して、那智君はかなり繊細だったらしい。
教室は騒然となり、僕は慌てて那智君に駆け寄った。
「大丈夫?那智君!」
曽米さんは、腕を組んで頷いていた。
「まさに憤死…男の中の鑑だッ!」
…何言ってんだ!?
日向さんが、曽米さんの頭をペシッと叩いた。
「勝手に殺すな!」
僕は日向さんと一緒に、那智君を抱えて、教室へと戻った。
背後では、曽米さんが「歴史って、本当に面白いね!」と楽しそうに笑っていた。
僕は、心の中で呟いた。
「面白いのはいいけど…いつか大問題を起こしそうで怖い…」
―――
昼休み。外は土砂降りの雨。
お弁当を食べ終わって、ほっと一息ついたところで、教室のドアが勢いよく開いた。
「持ち物検査を行う!」
担任の先生の声が響き渡る。
持ち物検査。
この学校じゃ珍しいことじゃない。スマホ持ち込み禁止が厳しいから、時々こうして抜き打ちで行われる場合がある。
もちろん、僕は問題ない。
持ち物検査がある日はスマホを家に置いてきてるし、他に怪しいものもない。
でも――隣の席の曽米さんは、明らかに様子がおかしかった。
顔が青ざめて、目を泳がせている。
机の中を何度も確認して、バッグの中を覗き込んで――そして、
ピタリと動きを止めた。
…まさか、持ってきちゃってるのか?スマホ。
僕は思わず声をかけそうになったが、その瞬間、先生が曽米さんの前に立った。
「曽米、バッグの中、見せてもらうぞ」
曽米さんは無言でバッグを差し出した。
手が震えているのが見える。
先生がバッグの中を探り、そして――黒い長方形を取り出した。
「…スマホ、持ってきてるじゃないか」
教室中がざわついた。
みんな、曽米さんを見ている。
僕も固唾を飲んで見守った。
曽米さんは、スマホを見つめたまま、口をパクパクさせている。
何か言いたそうだけど、言葉が出ない。
先生の顔が険しくなる。
「持ち込み禁止だと知ってたはずだよな?」
曽米さんは顔を伏せた。
これはもう、没収確定だ。
下手すりゃ、親呼び出しとか、最悪、停学になるかもしれない。
その時だった。
曽米さんが顔を上げた。
目が――怖かった。
何かを決意したような、狂気じみた目をしていた。
そして、口を開いた。
「先生、それには触らないでください…」
曽米さんの声は震えていた。
でも、ただ怯えてるんじゃない。
何か――企んでいる声だ。
「そのスマホには、自分以外の指紋がつくと、自動的に警察に通報が行くアプリが入っているんです…」
…は?
教室が静まり返った。
誰も何も言えない。
僕も、一瞬、何を言ってるのかわからなかった。
先生は、スマホを持ったまま、間の抜けた声を出した。
「…は?」
曽米さんは、さらに目を見開いて続けた。
「すごく、すごく高性能なアプリなんです!指紋を検出した瞬間、不正アクセスとして通報されるんです!先生が触ると、大変なことに…」
先生の顔がみるみる青ざめていく。
いや、待て待て、そんなアプリ、あるわけ――
「ま、まさか…そんなアプリが…」
本気で信じてる!?
僕は思わず頭を抱えたくなった。
でも、曽米さんの異様な迫力に、誰もツッコめない。
「先生、危険ですから返してください!」
曽米さんはそう言いながら、素早くスマホを奪い取った。
その動きが、あまりに自然で、先生は抵抗する暇すらなかった。
そして――曽米さんは、教室の窓際に立ち、スマホを高く掲げた。
「このスマホ、土砂降りの雨の中に放り投げます!退学処分なんて怖くありません!私が全部悪いんですから!!」
…は!?
クラスメートたちは、一斉に後ずさった。
一部の生徒は机の陰に隠れている。
僕は心臓がバクバクして、何も言えなかった。
曽米さんの目は、完全にイッていた。
狂気の目。
「落ち着けるわけがない!私の人生はここで終わるんです!!」
先生は完全に怯えていた。
声が震えている。
「わ、わかった!今回は見なかったことにするから!とにかく、そのスマホをしまえ!それと…もう持ってくるなよ!」
曽米さんは、急に笑顔になった。
「わかりました。ありがとうございます、先生」
まるで別人みたいに礼儀正しく頭を下げて、スマホをバッグにしまった。
そして、何事もなかったかのように、席に戻ってきた。
僕は恐る恐る声をかけた。
「さっきのあれ、一体何だったの…?」
曽米さんは、満足げに微笑みながら言った。
「
…完璧?
何が?
どうして?
あの狂気の行動が、どうして完璧なんだ?
頭が混乱して、何も理解できなかった。
そして、曽米さんは言った。
「やっぱり歴史は最高だね!」
クラスメートたちは、全員、曽米さんを避けていた。
誰も近づかない。
僕は心の中で嘆いた。
「これが…歴史の知識を応用した結果…?完璧どころか、失ったものが多すぎるような…」
曽米さんは、クラス内での評価を完全に失ったことに、全く気づいていない様子だった。
①アナーキズム
政府や権威を否定して、個人の自由や自主性を最も重視する思想。平等な協力関係に基づいた社会を目指す考え方。
②藺相如(りんしょうじょ)
中国、春秋戦国時代末期の趙の人物。
③完璧
趙の国にあった非常に美しい宝玉「和氏の璧(かしのへき)」を巡る話が由来になっている。秦の王が宝玉を要求し、趙は藺相如を派遣して玉を送るふりをして策を巡らせ、無傷のまま宝玉を取り戻した。このことから、「欠けることなく完全な状態」を意味するようになった。