曽米さんの『世界史』愛が強すぎる!   作:公私混同侍

30 / 38
保険室のナイチンゲール

 

期末テストをなんとか乗り越え、夏休みが目前まで迫っていた。

とはいえ、まだ授業は終わっていない。

教室の空気はどこか緩みきっていて、集中力なんてとっくに底をついている。そんな中、日本史の授業だけはいつも通り進んでいた。

末長先生は黒板に向かい、淡々と板書を続けている。

チョークの音だけが、妙に規則正しく響いていた。

 

――そのときだった。

 

ふと先生の手が止まる。

視線の先には、曽米さんのノート。

 

「曽米、落書きしとる場合ちゃうやろ。夏休みも近うなって退屈なんは分かるけど、もうちょいシャキッとしてもらわな困るわ」

 

教室の視線が一斉に曽米さんへ向く。

けれど本人はまったく動じる様子がない。

むしろ、すぐに言い返した。

 

「私はちゃんと黒板を見て写してます。戦場の地図なんて書いてません。先生の目は節穴ですか?」

 

強い。

 

普通なら少しは怯む場面なのに、完全に正面からいっている。

末長先生は一瞬、眉をひそめた。

 

「戦場の地図なんて言うてへんやろ……お前、そんな字汚かったか?どう見ても落書きにしか見えへんねんけど」

 

冷静なツッコミだった。

教室のあちこちから小さな笑いが漏れる。

けれど曽米さんは止まらない。

 

「ナポレオンは字が汚かったことで有名です。部下が戦場の地図と間違えた逸話もあります。きっとナポレオン法典の片隅にもパラパラ漫画みたいな落書きはあります」

 

どこまで本気で言っているのか分からない理屈だった。

僕は思わずノートを覗き込みたくなる。

本当に授業内容を書いているのか、それとも――。

末長先生は一瞬黙り込んだあと、ため息まじりに口を開く。

 

「法典をパラパラ漫画にしたらあかんやろ。弁護士も弁護に集中できへんやろが……」

 

一拍置いて、軽く頭を振る。

 

「……って、そんなことどうでもええわ。曽米に構っとったら授業進まへん」

 

完全に諦めたような口調だった。

そう言うと先生はくるりと教壇に戻り、何事もなかったかのように板書を再開する。

教室には、再びチョークの音だけが響き始めた。

 

―――

 

授業が終わった瞬間だった。

張り詰めていた集中が切れた途端、体の奥に溜まっていた違和感が一気に表に出てくる。

朝から、なんとなく気だるさはあった。

でも、今はそれどころじゃない。

喉がひりつくように痛い。頭もじわじわと締め付けられるみたいにズキズキしてくる。

 

(……これ、まずいな)

 

夏風邪、という言葉が頭をよぎる。

とりあえず立ち上がろうとした、その瞬間――視界がぐらりと揺れた。

 

「っ……」

 

足元がふらつく。

次の瞬間、腕を強く掴まれた。

 

「獅子御、顔色が悪い。体調は大丈夫なのか?」

 

伊藤だった。

いつもの冷静な声だけど、わずかに緊張が混じっている。

僕はなんとか姿勢を立て直しながら、軽く笑ってみせる。

 

「だ、大丈夫……ちょっと疲れてるだけ――」

 

言い終わる前に、視線がぶつかる。

伊藤の目は、完全に見抜いていた。

誤魔化しが通じる相手じゃない。

 

「……ちょっとこっちに来い」

 

短く言うと、伊藤は僕の腕を引いた。

そして――そのまま、ぐっと距離を詰めてくる。

 

「え、ちょ――」

 

言葉が出る前に、額が触れた。

一瞬、何が起きたのか理解が追いつかない。

体温が近すぎる。

 

「……熱、あるな」

 

冷静な診断。

でもこっちはそれどころじゃない。

その光景を見ていた曽米さんが、すぐに反応した。

 

「ちょっと伊藤ちゃん!大胆不敵!扶清滅洋(ふしんめつよう)滅満興漢(めつまんこうかん)!」

 

完全に方向性がおかしい叫びだった。

嫉妬なのか何なのか、もう分からない。

……なのに。

曽米さんに訓練された僕の口は滑らかに動く。

 

「滅満興漢は清朝を倒して漢民族の国家を復興しようっていうスローガンで、扶清滅洋は逆に清を助けて外国勢力を排除しようって意味で――」

 

(何やってるんだ、僕は)

 

自分で自分に突っ込みたくなる。

熱で判断力がおかしくなっているのかもしれない。

伊藤はそんなやり取りを気にする様子もなく、少しだけ距離を取ると、はっきりと言った。

 

「先生には報告しておく。保健室に行け」

 

有無を言わせない口調だった。

 

「しっかり休め」

 

その一言に、逆らう気力はもう残っていなかった。

 

「……うん」

 

かすれた声で返事をする。

足元はまだ不安定なままだけど、なんとか歩き出す。

教室を出て、廊下に出る。

一歩一歩がやけに重い。

ぼやけた視界の中で、僕は覚束ない足取りのまま、保健室へ向かっていった。

 

―――

 

どれくらい眠っていたんだろう。

意識が浮かび上がってきたとき、最初に目に入ったのは、保健室の白い天井だった。

ぼんやりとした視界のまま、しばらくそれを見つめる。頭の重さはだいぶ引いている気がした。

 

「……起きた?」

 

横から、落ち着いた声が聞こえる。

視線を向けると、保健室の先生が立っていた。ブロンドの長い髪を揺らしながら、こちらを覗き込んでいる。

 

「熱は下がったみたいね」

 

そう言って、僕の手から体温計を受け取ると、目を通して小さく頷いた。ほっとしたような表情だった。

それを見て、僕も少しだけ安心する。

 

「もしかして……もう夕方ですか?」

 

自分でも驚くくらい、声が弱々しかった。

先生はカーテンの隙間から外をちらりと見て、肩をすくめる。

 

「外はだいぶ明るいけど、授業はとっくに終わってるわ」

 

――終わってる。

 

その一言で、現実に引き戻された。

 

(あ……)

 

胸の奥が、じわっと重くなる。

今日は、曽米さんと図書室で勉強する約束をしていた。

それなのに、結局こうして寝込んで終わりだ。

何もできなかった。

楽しみにしていたはずなのに、全部台無しだ。

そんな後悔と空虚感が、じわじわと広がっていく。

 

――そのときだった。

 

ガラッ、と勢いよく扉が開く音。

 

「リチャード君!破傷風に罹ったって聞いて心配してたんだよ!」

 

聞き慣れた声。

曽米さんだった。

息を弾ませながら、まっすぐこちらに向かってくる。

 

……いや、ちょっと待て。

 

(破傷風?)

 

どこからどう情報が歪んだらそうなるんだ。

戦場で怪我した覚えもないし、そもそもここは学校だ。

僕が困惑していると、すぐ横で先生が呆れたように口を開いた。

 

「破傷風に罹患していたら、呑気にベッドの上に寝かせてるわけないでしょ」

 

至極まっとうなツッコミだった。

その一言で、保健室の空気が少しだけ現実に引き戻される。

 

曽米さんは「そっか」とでも言いたげに軽く頷いているけど、納得の仕方が雑すぎる。だが先生の姿を見た瞬間、我に返りぴしっと背筋を伸ばして敬礼した。

 

「聖海の天使ならぬ、保健室のナイチンゲールの名は伊達ではなかったようですな。破傷風まで完治させるなんてご苦労さまであります!」

 

いや、だから破傷風じゃない。

 

僕が心の中で突っ込むより先に、先生が小さくため息をついた。

 

「私を軍医みたいに言わないで。私はしがない養護教諭よ。医者とは違うわ。それに、私のことをナイチンゲールなんて言うの曽米さんだけよ」

 

もっともな返しだ。

けれど曽米さんは引かない。

 

「天使は否定しないんだぁ?」

 

間髪入れずにそう返す。

先生は一瞬だけ目を細めて、くすっと笑った。

 

「ふふふ、天使なら悪い気はしないわ。生徒たちの天使が私なら、獅子御君の天使は曽米さんかしら?」

 

……うまい。

 

完全に返された。

曽米さんは一瞬ぽかんとしたあと、みるみるうちに顔を赤くしていく。

あの曽米さんが、だ。

 

(この人、強いな……)

 

僕は内心で感心するしかなかった。

先生が苦笑混じりに曽米さんをたしなめたことで、その場の空気は少し和らいだ……ように見えた。

けれど、曽米さんはまだ納得していないらしい。

さっきまでの穏やかな笑みをすっと消し、じっと先生を見据える。その瞳には、世界史クイズで難問を出す時と同じ、妙な対抗心が宿っていた。

そして負けじとばかりに、曽米さんは少し顎を上げて言った。

 

「ナイチンゲール先生の肌が雪のように白くて、見惚れるほど綺麗だって評判だよ。もしかして不老不死に憧れがあったりして。美容の秘訣って水銀を飲むことでしょ?」

 

思わず僕は目を見開いた。

 

……何を言い出すんだ、この人は。

 

確かに歴史上では、不老不死を求めた権力者が水銀を含む薬を口にしていたなんて話を聞いたことがある。けれど、それを現代の、それも保健室の先生相手にぶつけるなんて発想は普通出てこない。

先生も一瞬ぽかんとした顔を見せたあと、呆れたように肩をすくめた。

 

「そんな有毒なもの飲むわけないでしょ?不老不死になる前に早死にしちゃうわ」

 

ぴしゃりと言い返され、僕は内心「そりゃそうだ」と頷く。

だが先生はそこで終わらず、少し身を乗り出して曽米さんをじっと見つめた。

 

「というかあなた、どこからそんな知識仕入れてくるの?」

 

その問いに、曽米さんは露骨にむっとした顔になった。

唇を尖らせ、ぷいっとそっぽを向く。

 

「ナイチンゲール先生みたいな美魔女には教えませーん」

 

子どもみたいな返し方だった。

そんなやり取りを横目に、僕はゆっくりとベッドから体を起こす。さっきよりはだいぶ楽になっている。

制服を着直しながら、帰る準備を始めようとした、そのときだった。

 

「リチャード君」

 

呼ばれて顔を上げる。

曽米さんが、なぜか少しムッとした表情でこちらを見ていた。

 

「今から図書室行くよ。医学の歴史について話すからついてきて」

 

――嫌な予感しかしない。

 

「えーと……僕、病み上がりなんだけど……」

 

できるだけ穏やかに抵抗してみる。

けれど、まったく通じなかった。

 

「もうピンピンしてるじゃん。それに体が痛くなったらレントゲン取ればいいんだからさ」

 

いや、その理屈はおかしい。

 

「えっ!?ちょ、ちょっと待って、曽米さん!?」

 

僕の制止も虚しく、彼女は僕の腕を掴むと、そのまま引きずるように保健室を飛び出した。

ドアの向こうへ連行される直前、後ろから先生の呟きが聞こえる。

 

「曽米さんは頭のレントゲンを取る必要がありそうね」

 

……全面的に同意だった。

 

結局、そのまま図書室へ直行。

曽米さんはなぜかいつも以上に気合が入っていて、医学の歴史と称して延々と世界史ネタを繰り出してきた。

古代から近代まで、休む間もなく。

僕の体力は、みるみる削られていく。

そして――案の定。

その日の夜、再び体調を崩した僕は、翌日学校を休むことになった。




①ナポレオン法典
フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトが制定した近代的民法典。法の下の平等、私有財産の不可侵、契約の自由などが盛り込まれヨーロッパ各国の法律のモデルとなった。

②扶清滅洋
排外主義運動の先頭に立っていた「義和団」のスローガン。
「清を助けて外国を打ち倒す」という意味だが、義和団の乱は八カ国の連合軍に鎮圧され、反乱を利用し事態の打開を図るも好転せず。反乱の失敗から教訓を得た役人たちは国家の立て直しを図るも、「孫文」の登場と「辛亥革命」により清は滅亡した。

③滅満興漢
清朝末期、欧米列強の侵略を前に清は衰退の一途を辿っていた。
「満洲人(清)を滅ぼし漢民族の国家を復興させる」という運動が広がり、中国史上最大の反乱である「太平天国の乱」を引き起こした。

④破傷風
ドイツの細菌学者「コッホ」の研究に携わっていた北里柴三郎が破傷風菌の純粋培養に成功。19世紀まで不治の病と恐れられたが、治療法確立への道を拓いた。

⑤ナイチンゲール
オスマン帝国、イギリス、フランスの連合国とロシアとの間で行われた「クリミア戦争」は連合国側の勝利に終わる。戦時中、兵士たちは戦死よりも病死が多く、衛生環境の悪化が死亡率を高めることをナイチンゲールが科学的に証明。
敵味方問わず兵士を治療したことから「クリミアの天使」と呼ばれる。

⑥始皇帝
秦の皇帝。
春秋戦国時代の燕、斉、楚、韓、趙、魏を平定し国家統一を成し遂げる。封建制から郡県制への移行、万里の長城の造営などの政策を積極的に行う。対して国家を批判する思想や主張を徹底的に弾圧する(焚書坑儒)など冷酷な一面も併せ持った。
不老長生に傾倒し、水銀を飲んでいたことが原因で死期を早めたとされる。

⑦レントゲン
ドイツの物理学者。
放射線の一種であるX線を発見した。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。