終業式が終わり、教室の空気は一気に緩んでいた。
明日から夏休み。
それだけで、みんなの気分はもう半分くらい自由になっている。
放課後、僕は大堤君と机を寄せて話し込んでいた。話題は、サービス開始当初からやっているスマホゲーム――『戦国クエスト』だ。
「アニバーサリーは如何ほどのイベントが催されるのでしょうなぁ。こうしてはおれません。急いで出立の準備に取り掛からねば」
相変わらず大仰な言い回しだけど、言いたいことは分かる。
イベントが来るとなれば、時間の使い方は重要だ。
……とはいえ。
僕はふと、去年の夏を思い出した。
あのときは、宿題を後回しにし続けた結果、最後の数日で地獄を見ることになった。ほとんど寝ずに片付けた記憶が、やけに鮮明に残っている。
(あれは……もう二度とやりたくない)
僕は軽く首を振って、その記憶を振り払う。
「大堤君、ゲームも大切なんだけどさ」
現実的な話を切り出す。
「夏休みの宿題、今年も多いってみんな口を揃えてるね。だから今度一緒に勉強会やろうよ」
提案してみると、大堤君は腕を組んで考え込んだ。
「勉強会、う~む……」
視線が、ちらちらと横へ動く。
その先には――曽米さん。
なるほど、そういうことか。
僕は内心で納得しつつ、大堤君に代わって声をかける。
「一緒に勉強会やろうよ。曽米さんはチア部の活動もあるから大変だと思うけど……大堤君もいるし、どうかな?」
曽米さんは一瞬、神妙な顔になった。
あまりにも真面目な表情だったから、正直「これは断られるか」と思った。
――けど。
「ねぇ、リチャード君の干支って何?」
唐突だった。
「えっ?」
一瞬、意味が分からない。
「干支って、あの干支?」
確認するように言うと、曽米さんはこくりと頷く。
「干支は寅年だよ」
そう答えると、彼女はぱっと表情を明るくした。
「ムフフ、奇遇だね、私もだよ」
……いや。
(遅生まれじゃないなら一緒のはず。確か曽米さんは6月生まれ。僕の記憶が正しければ)
思わず喉まで出かかったツッコミを、ぎりぎりで飲み込む。
同じ学年なんだから、干支をわざわざ確認する必要なんてない。誕生月を聞けばわかるんだから。
でも――。
曽米さんのその、妙に嬉しそうな、キラキラした笑顔を見ていると、そんな当たり前のことを指摘する気にはなれなかった。
すると曽米さんは、ふと思い出したように日本史のノートを取り出した。
「ずっと聞こうと思ってて、今まで忘れてたんだよねぇ」
そう言いながら、ノートのある部分を指でトントンと叩く。
(……質問?)
一瞬、僕の中で期待が膨らむ。
もしかして、僕に何か聞きたいことがあるのかもしれない――そんな風に、少しだけ浮き足立った。
けれど。
「ヒ、ヒミコ様がワタクシにご相談!?なんなりとお申し付けくだされ!」
その期待は、一瞬で打ち砕かれた。
大堤君が目を輝かせて前のめりになる。
……ああ、そっちか。
僕は一歩引いた位置から、その様子を眺めるしかなかった。
大堤君は鼻息荒く、曽米さんのノートを食い入るように見つめている。というか、ほとんど舐めるように見ている。ちょっと怖い。
曽米さんはそんな様子を気にするでもなく、さらりと問いを投げた。
「この『壬申の乱』ってあるじゃん?『壬申』って
その瞬間、大堤君のスイッチが入った。
「なるほど、その点に着目なさるとはさすがヒミコ様……!」
眼鏡をクイッと押し上げると、そのまま淀みなく説明を始める。
十干と十二支の組み合わせがどうこう、古代中国がどうこう――専門的な内容がスラスラと出てくる。
僕にはついていけない部分もあるけど、理解している曽米さんはうんうんと頷いている。
そのやり取りを、僕は少し離れたところから眺めていた。
(いいな……)
思わず、そんな感情が浮かぶ。
同じ話題で、同じ熱量で盛り上がれる二人。
歴史が好きっていう一点で、自然に会話が噛み合っている。
僕には、ああいうやり取りはまだ難しい。
曽米さんが、ふと顔を上げた。
「実はさぁ〜世界史にもあるんだよ〜六十干支を使った言葉がね」
その言葉に、大堤君がぴくりと反応する。
「そうなのですか?世界史は不勉強ゆえ、まったく存じ上げませんでした」
少し悔しそうな、それでいて興味を隠しきれない声だった。
また新しい話題が始まる。
僕はその流れを追いながら、やっぱりどこか羨ましさを感じていた。
曽米さんは、なぜか急に指で机を叩き始めた。
トン、トン、トトン――妙に耳に残る、不思議なリズム。
(……また始まった)
僕は半ば諦めたような気持ちでその様子を見ていた。
そして案の定、曽米さんはそのリズムに乗せるように声を張る。
「大院君を推して閔氏をやっつけろ!」
……来た。
完全に“あれ”だ。
しかも、なぜか視線はまっすぐ僕に向けられている。
(僕が答えろってことだよな……)
心の中で小さくため息をつく。
期待に満ちた目。
ここで外すと、面倒なことになるのは目に見えていた。
だから僕は、ほとんど反射的に答える。
「
自分でも驚くくらい、無機質な声だった。
感情も抑揚もない、ただの正解の提示。
それでも曽米さんは満足そうに頷いている。
大堤君は「おお……!」と感嘆の声を漏らしていた。
(なんでだよ……)
曽米さんは、さっきのリズムをそのまま引き継ぐように、さらに机を叩き始めた。
トン、トン、トトン――さっきよりも少し速い。
明らかにテンポが上がっている。
(……悪い気はしない)
僕が身構える間もなく、曽米さんは楽しそうに口を開いた。
「金玉均のクーデターは袁世凱の前に敗れたり〜?」
語尾までしっかりリズムに乗せてくる。
完全にクイズ形式だ。
しかも、視線はまたしても僕に固定されている。
(答えるしかないじゃないか……)
逃げ場はない。
さっきと同じように、僕はほとんど反射で答える。
「
短く、無駄なく。
自分でも驚くくらいスムーズに出てきた。
曽米さんは一瞬、目を見開いたあと――ぱっと表情を輝かせた。
「正解!」
と言わんばかりの顔だ。
声に出さなくても分かるくらい、テンションが上がっている。
さっきよりも明らかに楽しそうだ。
その横で、大堤君は感動したように何度も頷いている。
「素晴らしい……!」
いや、そんな大層なものじゃないから。
僕は内心でそう思いながらも、曽米さんのテンションがさらに加速していくのを感じていた。
曽米さんのリズムは、もう完全に加速していた。
トン、トン、トトン――さっきよりも軽快で、どこか楽しげだ。
机を叩く音に合わせて、体までわずかに揺れている。
(……まだまだ続きそうだな、これ)
僕が半ば諦めたように見ていると、曽米さんは満面の笑みで次のフレーズを繰り出した。
「東学党と〜日清は〜混ぜるな危険?」
語尾までしっかりメロディに乗せてくる。
完全に“歌”だ。
しかも、期待するような目でまた僕を見ている。
(……もういいか)
ここまで来たら、乗るしかない。
僕はほんの少しだけ調子を合わせる。
「
語尾を軽く伸ばして、リズムに乗せる。
自分でも、ちょっとだけ“合わせにいった”のが分かった。
その瞬間、曽米さんの目がさらに輝いた。
「いいねいいね!」
と言いたげな表情で、机を叩くテンポが一段と弾む。
大堤君も横で「おお……!」と感嘆の声を漏らしている。
……なんだろう、この一体感。
曽米さんのリズムは、いよいよ最高潮に達していた。
トン、トン、トトン――軽快で、もう完全に“完成された何か”になっている。
そして満を持して、最後のフレーズが放たれる。
「孫文、清朝倒して中華民国作っちゃる〜?」
少しだけ誇らしげな、締めにふさわしい調子だった。
僕はそれに対して、あえて力を抜いたまま答える。
「
適当に抑揚をつけ、ただ正解だけを置く。
それで十分だった。
曽米さんは一瞬だけ僕を見て、それから大きく息を吐く。
「あっはー!楽しかった!」
満たされたような、やり切った顔。
その様子を見て、僕も少しだけ肩の力が抜けた。
(……歌は苦手なんだよな)
心の中でそう思いながらも、不思議と悪い気はしなかった。
――そのときだった。
「ではここで!丁酉倭乱と戊辰戦争について――」
唐突に、大堤君が声を張り上げた。
しかも、さっきの流れを引き継ぐように、独特のリズムを刻みながら語り始める。
トン、トン、トトン――妙に本格的だ。
完全に波に乗り遅れているタイミングだった。
僕が反応に困っていると、曽米さんはくるりと背を向ける。
「夏休み、勉強会しようね!それじゃあ帰ろうか!」
軽い調子でそう言うと、そのまま教室の外へ出ていった。
……切り替えが早すぎる。
僕は慌てて大堤君の方を見る。
「大堤君、あの――」
声をかけてみる。
けれど、届いていない。
彼は誰もいない空間に向かって、真剣な顔で解説を続けていた。
完全に自分の世界に入っている。
(……ごめん)
心の中で小さく謝る。
止めるべきか一瞬迷ったけど――曽米さんの背中は、もう廊下の向こうに消えかけている。
結局、僕はその場を離れた。
少しだけ後ろめたさを感じながら、それでも足は自然と曽米さんの後を追っていた。
①壬午軍乱
李氏朝鮮の国王である高宗(こうそう)の王妃閔妃(びんひ)は、日本の支援を得ながら西洋化を進めていた。ところが軍隊内に格差が生まれ給料未払いが発生したことをきっかけに反乱が起きる。高宗の父である大院君が政権を握るが、反乱は袁世凱に鎮圧され実権も奪われる。済物浦(さいもっぽ)条約を日本に結ばせ親日勢力を後退させた。
②甲申政変
壬午軍乱により朝鮮における清の影響力は強化された。親日派で改革派の金玉均(きんぎょくきん)がクーデターを敢行。駐留していた清軍に3日で鎮圧され、金玉均は日本に亡命した。
③甲午農民戦争(東学党の乱)
甲申政変により日清対立は顕在化する中、役人の汚職や重税、排外主義の高まりにより東学の指導者全琫準(ぜんほうじゅん)が蜂起する。朝鮮の争乱は、朝鮮政府のみでは対応し切れず清に援軍を要請。朝鮮の権益を狙っていた日本も武力介入し、農民反乱は「日清戦争」へと発展する。
④辛亥革命
欧米列強の侵略と日清戦争の敗北により、清朝は近代化を迫られる。孫文の考えのもとに革命軍が組織され、清は軍閥の裏切りなどにより滅亡。始皇帝から2000年以上続いていた皇帝政治に終止符が打たれた。しかし、軍事的指導者である袁世凱が革命の精神的支柱である孫文を排除する。自らを皇帝と称するも支持を得られず失敗に終わった。