夏休みも、気づけば終盤に差しかかっていた。
八月の終わりが近づくにつれて、朝の空気にもほんの少しだけ秋の気配が混じり始めている気がする。
学生にとって、この時期は焦りと諦めが入り混じる季節だ。
まだ真っ白な宿題用のノートを前に現実逃避する人もいれば、最初の一週間で全部片付けて悠々自適に過ごす人もいる。
そして僕は、その中間くらいだった。
宿題はあらかた終わっている。
読書感想文も書いたし、数学の問題集も残り数ページ。自由研究なんてものはない学校だから、その点はかなり助かる。
やろうと思えば今日中に全部終わらせられるくらいの量だ。
おかげでここ数日はかなりのんびりしていた。
発売されたばかりの新刊漫画を一気読みして、クリア寸前で放置していたゲームをようやくエンディングまで進めて、だらだら動画を見て過ごす。
これだけ聞くと怠惰な夏休みに思えるかもしれないけれど、僕としてはかなり充実していた。
それに今年の夏は、例年とは少し違った。
曽米さんや日向さんと過ごす時間があったからだ。
みんなそれぞれ予定があるから頻繁に会えたわけじゃない。
でも、お祭りに行ったり、やたら濃い歴史トークに巻き込まれたり、意味深なクラシック曲を投げつけられたり――。
思い返すだけで妙に濃密だった。
そんな夏休みも、もう終わりが見えている。
少しだけ寂しいような気もした。
そんなある日のことだった。
朝食の席で、母さんが何気なく言った。
「今日、動物園行くわよ」
僕はトーストをかじりかけたまま固まった。
「……今から?」
向かいに座っていた妹が、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせる。
「パンダ!パンダ!」
どうやら発端はそれらしい。
妹は毎年のように「パンダが見たい」と騒ぐ。
そしてなぜかそのたびに家族総出で動物園へ行く流れになる。
もう中学生にもなった僕としては、正直かなり複雑だ。
この年になって家族で動物園って。
もちろん動物が嫌いなわけじゃない。
でも、万が一クラスメイトに見られたらちょっと気まずい。
「僕は別に留守番でも――」
そう言いかけたところで、父さんが新聞から顔も上げずに言った。
「夏休みの一日ぐらい、いいじゃないか。たまには家族で出かけるのも気分転換になるぞ」
拒否権はなかった。
結局そのまま車に乗せられ、僕たちは動物園へ向かった。
最初は乗り気じゃなかった。
どうせ妹に付き合ってパンダを見るだけだと思っていた。
ところが、いざ着いてみると不思議なもので、案外悪くなかった。
入口近くでのんびり昼寝をしているレッサーパンダ。
妙に貫禄のあるカピバラ。
想像以上に大きくて少し圧倒されたゾウ。
そして、笹をむしゃむしゃ食べながら微動だにしない本命のパンダ。
妹がはしゃいで写真を撮りまくる横で、僕もついスマホを構えてしまった。
気づけば普通に楽しんでいた。
動物って、なんだかんだ見ていて飽きない。
帰る頃にはすっかり満足していた。
その夜。
部屋でベッドに寝転びながら、ふとスマホを手に取る。
何となく曽米さんに連絡してみたくなった。
特に深い意味はない。
ただ今日のことを話したら、どんな反応をするのか少し気になっただけだ。
僕はSNSのトーク画面を開いて、短く打ち込む。
『今日、家族で動物園に行ってきたよ』
送信。
しばらくして、すぐに既読がついた。
そして返ってきたメッセージは予想外だった。
『もし写真撮ってたら見せて』
思わず僕は目を瞬かせた。
そんなに食いつくんだ。
しかも、どこか必死さすら感じる文面だった。
僕は少し嬉しくなった。
やっぱり曽米さんにも、そういう可愛いところがあるんだなと思う。
お祭りの時もクマのぬいぐるみを本気で狙っていたし、歴史オタクな言動ばかりが目立つけれど、根っこの部分ではちゃんと普通の女の子なんだ。
動物園の写真を見て「かわいい!」とか言うのかもしれない。
そう考えると、なんだか微笑ましい。
僕はスマホのアルバムを開きながら、小さく笑った。
さて、どの写真を送ろうか。
とりあえず僕は、フォルダの中から一枚選んで送ってみた。
パンダ舎の前で妹が満面の笑みを浮かべてピースしている、その後ろで当のパンダは笹を食べながら完全に無表情――という、なんとも温度差のある写真だ。
我ながら無難なチョイスだと思う。
動物の写真だけだと味気ないし、かといって家族全員が写っているのを送るのもなんとなく気恥ずかしい。
これくらいがちょうどいい。
送信ボタンを押して数秒。
既読。
そして。
ぶるるるるっ。
突然スマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、僕は硬直する。
曽米さん 着信中
「……えっ」
思わず声が漏れた。
一瞬、状況が理解できなかった。
写真を送っただけだ。
まさか電話がかかってくるなんて思ってもいない。
僕はベッドの上で飛び起きた。
心臓が一気に早鐘を打ち始める。
なぜか誰もいない自分の部屋をきょろきょろ見回す。
当然、誰もいない。
なのに何かを確認しなきゃいけない気がした。
机。
本棚。
閉まったドア。
意味もなく視線を走らせてから、大きく深呼吸する。
落ち着け。
ただの電話だ。
曽米さんだって、別に珍しいことをしているわけじゃない。
……いや、かなり珍しいけど。
スマホの振動が妙に焦燥感を煽る。
僕は意を決して、受話器マークをタップした。
「も、もしもし? 曽米さん?」
声が少し裏返った。
自分でも情けないと思う。
すると受話口の向こうから、いつもの曽米さんとは少し違う、柔らかい声が聞こえてきた。
「えへへ、あと一週間で学校で会えるんだけど、リチャード君の声が聞きたくて電話しちゃった」
その一言で、僕の心臓が爆発しそうになった。
どくん、と大きく脈打つ。
顔が一気に熱くなるのが分かった。
声が聞きたくて。
今、確かにそう言った。
それってつまり――。
いや、落ち着け。
でもこれはさすがに。
僕の頭の中ではいろんな解釈が高速で駆け巡っていた。
嬉しい。
恥ずかしい。
どう返せばいい。
何を言えばいい。
「そ、そうなんだ……」
とか何とか返した気がする。
正直、その辺りの記憶がかなり曖昧だ。
緊張しすぎて、自分が何を口走ったのかほとんど覚えていない。
ただ、耳元で聞こえる曽米さんの声だけが妙にはっきりしていた。
電話越しだと少し近く感じる。
教室で話す時とは違う、不思議な距離感。
その余韻に浸る間もなく、曽米さんが続けた。
「野生のパンダって日本にいないんだよね」
「う、うん」
僕はまだふわふわした気分のまま相槌を打つ。
そして次の瞬間。
「中国から友好の証しとして――」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭はすっと冷えた。
ああ。
そうだった。
忘れてた。
この人はこういう人間だった。
曽米さんの声はそこで一気に熱を帯びていく。
「そもそもパンダ外交ってかなり古い時代から行われてたんじゃないかって――」
始まった。
完全に始まった。
さっきまでの甘酸っぱい空気はどこへやら。
受話口の向こうでは、すでに曽米さんによる歴史講義が開講している。
僕はスマホを耳に当てたまま、天井を見上げた。
さっきまで恋愛ドラマみたいな展開を期待していた自分が少し恥ずかしい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、これでこそ曽米さんだと思う。
僕は苦笑しながらベッドに寝転がった。
曽米さんのパンダ外交講義は、いつものように熱を帯びていた。
受話口の向こうで次々と飛び出す中国王朝の名前や外交史の逸話を、僕は「へえ」とか「なるほど」とか相槌を打ちながら聞いていた。
でも正直に言うと、半分くらいしか頭に入っていなかった。
理由は単純だ。
さっきの、
「声が聞きたくて電話しちゃった」
という言葉が、まだ頭の中で何度も反芻されていたからだ。
どういう意味だったんだろう。
深い意味はないのか。
それとも少しは期待してもいいのか。
そんなことばかり考えてしまって、曽米さんの「唐代における贈答外交の象徴性」がどうとかいう話が右から左へ抜けていく。
まずい。
ちゃんと聞かないと。
そう思った矢先だった。
ふいに、曽米さんの解説がぴたりと止まった。
「……」
受話口の向こうが静かになる。
僕の背筋にひやりとしたものが走った。
しまった。
もしかして、気づかれた?
僕がちゃんと聞いていないって思われたんじゃ――。
曽米さんって、好きな歴史の話になるとかなり真剣だ。
適当に流してると機嫌を損ねてもおかしくない。
いや、絶対そうだ。
僕は慌てて身体を起こした。
「リチャード君……」
低く、静かな声。
完全に怒ってる時のやつじゃないか。
「ど、どうかした?」
反射的に背筋を伸ばし、スマホに意識を全集中させる。
次は絶対聞き逃さない。
そう身構えていると、曽米さんは思いがけないことを言った。
「このパンダの近くに水溜まりあるよね?」
「え?」
予想外すぎて間の抜けた声が出た。
僕は慌ててトーク画面を開き、さっき送った写真を拡大する。
パンダ舎の隅。
たしかに、地面に小さな水溜まりができていた。
「……うん、あるね」
でも、それがどうしたんだろう。
僕が首を傾げていると、曽米さんがさらに続ける。
「亀がいる」
「えっ」
僕はもう一度ズームした。
画質が少し荒くなる。
目を凝らしてじっと見る。
すると、水溜まりのそばに黒っぽい丸い影があった。
言われてみれば、小さな甲羅みたいなフォルムに見える。
「あっ……ほんとだ」
まったく気づかなかった。
というか普通そこまで見る?
写真の主役はどう考えてもパンダと妹だ。
その隅っこに写り込んだ謎の影に注目するなんて発想、僕にはなかった。
「よく気づいたね。指摘されなかったら気づけなかったよ」
素直にそう言うと、受話口の向こうで曽米さんが少し満足げに息を漏らした。
そして、さっきより少し落ち着いたトーンで言う。
「アイスキュロスっていう詩人がいたんだけど」
聞いたことがある名前だった。
たしか古代ギリシャの悲劇作家。
「頭に亀が落ちてきて死んじゃったんだって」
「……え?」
思わず聞き返しそうになった。
亀が。
頭に落ちてきて。
死ぬ?
僕の脳内で、その状況を理解しようと映像化が試みられる。
でもどうしてもシュールすぎて処理しきれない。
僕はベッドの上で固まったまま、
「そうなんだ……」
としか返せなかった。
なんとも言えない気持ちになる。
いや、たしかに歴史トリビアとしては面白いのかもしれない。
でも、パンダの写真からそこに繋がる?
しかも夜に電話で話す内容として、それをチョイスする?
沈黙のあと、曽米さんがぽつりと付け加える。
「ワシが亀を高いところから落として甲羅を割ろうとしたら、たまたま下にいたらしいよ」
「本人もまさか空から亀が降ってくるなんて、思いもしなかっただろうね……」
納得しかけて、いや納得していいのか分からなくなる。
スマホ越しに曽米さんの小さな笑い声が聞こえた。
「だからリチャード君も気をつけてね」
「……何に?」
「空から降ってくる亀」
僕はしばらく返事ができなかった。
心配してくれているのか。
からかわれているのか。
それとも本気で注意喚起しているのか。
判断がつかない。
……やっぱり、この人はどこまでも予測不能だ。
僕が曽米さんの「空から降ってくる亀」発言にどう反応すればいいのか迷っていると、受話口の向こうで彼女が急に声のトーンを上げた。
「ワシに関連してリチャード君にクイズ!」
その一言を聞いた瞬間、僕の背筋がぴんと伸びた。
完全に条件反射だった。
これまで何度も曽米さんに世界史クイズを出されてきたせいで、脳が勝手に「試験モード」に切り替わる。
ベッドに寝転がっていたはずなのに、いつの間にか起き上がって正座みたいな体勢になっていた。
「ワシのデザインが描かれた国旗があるんだけど、どこの国でしょうか?」
僕は固まった。
ワシ。
国旗。
そんなの知るわけがない。
いや、どこかで見たことはある気がする。
でも曽米さんのクイズって、絶妙にうろ覚えの知識を突いてくるんだよな。
僕はスマホをスピーカーモードに切り替え、そっともう片方の手で検索アプリを開こうとした。
電話越しならバレないはず。
これはズルじゃない。
現代社会における情報活用能力だ。
そう自分に言い訳しながら検索バーに指を伸ばした、その時。
「リチャード君?」
ぎくっ、と身体が跳ねた。
まるで見透かされたみたいなタイミングだった。
受話口の向こうから、やけに落ち着いた声が響く。
「調べたらもう電話してあげないから」
僕は反射的にアプリを閉じた。
ばたん、と勢いよく。
なんで分かったんだろう。
怖い。
エスパーなの?
それとも僕が分かりやすすぎるのか。
どちらにせよ、これでカンニングの道は断たれた。
僕は頭を抱える。
ワシの描かれた国旗。
国旗に動物が描かれてる国って、エジプトとかメキシコとか……いや、でもワシだったか?
曽米さんの出題傾向から考えると、絶対ヨーロッパ史絡みだ。
必死に記憶を掘り返す。
そして、長い沈黙の末。
「……フランス?」
言ってから、違う気がした。
慌てて修正する。
「あっ、スペイン?」
もう自分でも何を根拠に答えているのか分からない。
完全に迷走していた。
すると曽米さんは、少し得意げに言った。
「残念でした。プロイセン王国です」
「うっ……」
思わず情けない声が漏れる。
プロイセン。
たしかに言われれば、双頭の鷲の紋章とかそんなイメージがある。
でも国旗まではさすがに。
「さすがに国旗までは把握できないよ」
素直にそう言うと、曽米さんはくすくす笑った。
「うーん、真面目だねぇ。別に調べても良かったのに」
「え?」
僕は間抜けな声を出す。
さっきの脅しは何だったんだ。
すると曽米さんは、からかうような声音で続けた。
「近くの国ばかり答えるから、わざと間違えてると思っちゃった」
その言い方が妙に楽しそうで、完全に遊ばれていたことを悟る。
やられた。
僕はスマホを握りしめながら天井を仰いだ。
電話越しなのに、曽米さんが得意げににやにやしている顔が目に浮かぶ。
悔しい。
でも、ちょっとだけ嬉しい。
こんなふうに軽口を叩き合えるのが、なんだか心地よかった。
その時だった。
「あっ、もうこんな時間!」
急に曽米さんが慌てた声を上げる。
「お風呂に入ってくる!」
「え、あっ――」
言い終わる前に、どたどたどた、と激しい足音が受話口越しに響いた。
どうやらスマホを持ったまま走っているらしい。
何やってるんだこの人。
僕は苦笑する。
でも、そのまま通話終了の電子音が鳴ることはなかった。
足音はまだ続いている。
どうやら電話を切っていない。
「あれ……?」
僕はスマホを耳から少し離して画面を見る。
通話は継続中。
……切り忘れてる。
このまま切るべきだろうか。
普通ならそうだ。
でも。
さっきまでずっと話していた余韻が、胸の奥にじんわり残っている。
通話が終わると思うと、少しだけ名残惜しい。
もう学校が始まれば毎日会える。
それなのに、不思議とこの時間を終わらせたくなかった。
僕は親指をそっと終話ボタンの上に置いた。
①日中国交正常化
日本の田中角栄と中華人民共和国の周恩来は「日中共同声明」を発表。日本は台湾と国交を断絶し、中国を唯一の合法政府と認め、国交を回復した。
日中友好の証しとして中国からパンダが贈られる。
②アイスキュロス
古代ギリシャの詩人。
3代悲劇詩人の一人。
③プロイセン王国
辺境の小国であったプロイセン公国を、ブランデンブルク辺境伯領を治めていたホーエンツォレルン家が相続(ブランデンブルク=プロイセン)。
フリードリヒ1世の時代に神聖ローマ帝国から承認を得てプロイセン王国となる。悲願であるドイツ統一はビスマルクの登場を待たねばならなかった。