曽米さんの『世界史』愛が強すぎる!   作:公私混同侍

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隣のヴィーナス 前編

 

長かった夏休みも、とうとう終わりを迎えた。

始まる前は「四十日もあるのか」と思っていたのに、終わってみると驚くほどあっという間だ。

 

お祭りに行ったり。

動物園に行ったり。

家でゲームをしたり。

新刊の漫画を読み漁ったり。

 

そして何より――曽米さんとの、あの妙に濃密だった電話。

思い返すだけで顔が熱くなりそうで、僕は慌ててその記憶を頭の隅へ追いやった。

 

新学期初日。

教室には久しぶりのざわめきが満ちていた。

クラスメイトたちがそれぞれの夏休みの思い出を語り合い、あちこちで笑い声が上がっている。

僕も自分の席に座るなり、大堤君と伊藤、それから曽米さんと顔を合わせた。

 

「いやはや、夏休みというものは一陣の風の如く過ぎ去ってしまうものですなぁ。まさに光陰矢の如し」

 

大堤君が机に突っ伏しながら、大げさに嘆く。

 

「何してたの?」

 

僕が訊ねると、大堤君は顔を上げてにやりと笑った。

 

「それはもうゲーム三昧の日々。昼夜問わず勤しみ、新作RPGを三本も踏破してしまいましたぞ」

 

いつも通りすぎて逆に安心する。

大堤君らしい。

 

一方で伊藤は、いつもより少しだけ肌が焼けていた。

健康的な褐色というか、かなりしっかり日焼けしている。

机の上には綺麗な包み紙に包まれた小袋が置かれていた。

 

「口に合うかはわからないが、受け取ってくれ」

 

僕は彼女がくれたセイロンティーの茶葉の包みを眺めながら尋ねた。ほのかに上品な香りが漂っていて、いかにも高級そうだ。

 

「ありがとう、伊藤。それにしても結構日焼けしたんだね。痛くないの?」

 

僕がそう言うと、伊藤は少し照れくさそうに頭をかいた。

 

「日本の日差しより厳しかったよ。それより向こうの湿気が酷くてね」

 

「外国に行ってたんだよね?」

 

「ああ、スリランカ、ベトナム、フィリピン、インドネシア、ジャカルタ、シンガポールに滞在してたんだ。カンボジアにも行く予定だったんだけど、台風で飛行機が飛ばなくて、二日も立ち往生を余儀なくされたよ」

 

さらっと言うけど、スケールが違う。

僕が家でゲームと漫画に明け暮れていた頃、伊藤は海外にいたのか。

なんだか急に世界の広さを感じてしまう。

感心していると、伊藤がふっと視線を曽米さんへ向けた。

そして意味深に口元を緩める。

 

「それより曽米は、お祭りで一騒動起こしたと日向から聞いたが?」

 

その言葉に、僕の脳裏にあの夜の光景が蘇る。

 

射的。

リンゴ飴。

そしてコルク弾。

 

思い出しただけで胃がきゅっと痛くなる。

曽米さんはまったく悪びれた様子もなく、胸を張った。

 

「そんなに褒めても、私が出せるのは口紅ぐらいしかないよ?」

 

そう言って、なぜか制服のポケットから真紅のルージュを取り出し、誇らしげに掲げた。

 

……なんで持ち歩いてるんだ。

 

しかも「褒めても」という言葉の意味がまるでわからない。

伊藤は一瞬言葉を失い、それから小さく咳払いをして押し黙った。あれは困惑を通り越して、思考を放棄した顔だ。

だが曽米さんはそんな反応など意に介さない。

 

「……」

 

一瞬だけ何か言いかけたものの、結局咳払いひとつで押し黙る。

賢明な判断だと思う。

下手に乗るとろくなことにならない。

しかし曽米さんはそこで止まらない。

伊藤をじっと見つめながら、首をかしげる。

 

「伊藤ちゃんは女子力を磨くために、カンボジアへ行くつもりだったんでしょ?」

 

「なに?」

 

伊藤の眉間に深い皺が寄った。

 

「獅子御」

 

低い声で、僕に助けを求めるように振り返る。

 

「この女は頭に致命的な病気を抱えているとは思わないか?」

 

なんて答えればいいんだ。

肯定しても否定しても危険な気がする。

僕が固まっていると、曽米さんがするりと顔を寄せてきた。

耳元で小さく囁く。

 

「リチャード君、こう言って」

 

その距離の近さにどきっとする。

僕は反射的に従ってしまった。

曽米さんは僕の腕を持ち上げ、敬礼ポーズをする。

 

()()戦線異常なし」

 

言ってから後悔した。

西部戦線の反対だから頭(東)部戦線……。

何を言わされてるんだ僕は。

でも曽米さんは満足げに頷く。

 

「だってさ」

 

そして伊藤に向かって、にやりと笑った。

その笑みには、どう見てもろくでもない企みが含まれている。

 

「なんなら私の病気、移してあげようか?」

 

そこでわざと間を置き。

 

「口移しで」

 

教室の空気が一瞬止まった気がした。

伊藤の顔がみるみる赤くなる。

怒りなのか羞恥なのか、その両方なのか。

 

「き、貴様という女は……!?」

 

机をばんっと叩いて立ち上がる。

完全に激昂していた。

曽米さんはそれを見て楽しそうに肩を揺らしている。

僕はというと、ただただその場で頭を抱えた。

夏休みが終わったというのに。

いや、終わったからこそなのか。

僕の日常は、やっぱり騒がしいままだった。

 

―――

 

今日は美術の授業がある。

うちの学校では芸術系科目が選択制になっていて、入学前に美術、音楽、書道の三つから一つを選ぶ仕組みだ。そのため授業はクラスごとではなく、選択した生徒たちが合同でそれぞれの教室に集まる。

 

僕が選んだのは美術だった。

特別絵が得意というわけじゃない。ただ、楽譜を読むのは苦手だし、書道も小学生の頃に何度書いても「止め」「はね」が直らなくて先生を困らせた記憶がある。消去法で残ったのが美術だった。

 

美術室へ向かう廊下を歩きながら、僕は少しだけ憂鬱な気分になっていた。

理由は単純だ。

曽米さんがいないからだ。

いや、別に四六時中あの人に振り回されたいわけじゃない。むしろ静かな時間が欲しいと願うこともある。なのに、いざ本当にいないかもしれないとなると妙に落ち着かなくなる。

自分でもよくわからない感覚だった。

 

美術室の扉を開けると、絵の具と木材が混じった独特の匂いが鼻をくすぐった。広い教室にはすでに何人か生徒が集まっていて、思い思いに席に着いている。

その中に見慣れた顔を見つける。

 

伊藤だ。

窓際の席で、すでに画材をきっちり整えている。相変わらず無駄のない動きだ。

さらに視線を巡らせると、別クラスの那智君と日向さんの姿もあった。

 

「おーい、リチャード!」

 

先に気づいた那智君が軽く手を挙げる。

僕は二人に近づきながら、教室の中をもう一度見回した。

 

……やっぱりいない。

 

曽米さんの姿も、大堤君の姿も見当たらない。

それもそうだ。二人とも書道を選択していたからだ。

その事実に少しだけ肩の力が抜ける。

正直に言えば、大堤君が羨ましかった。

きっと今ごろ、曽米さんの世界史雑学を半ば強制的に聞かされながらも、なんだかんだで騒がしい授業を受けているんだろう。

いや、羨ましいというより……巻き込まれなくて済んでほっとしている、が正しいかもしれない。

そんなことを考えていると、那智君がぽん、と軽く僕の背中を叩いた。

 

「やっぱあの世界史中毒の女がいないと静かで平和だわ。なっ、リチャード!」

 

その呼び方にもだいぶ慣れてしまった自分に少し驚く。

僕は曖昧に笑いながら答える。

 

「そんなことないと思うけど……」

 

するとすぐ横から、やや呆れたような声が飛んできた。

 

「そんな意地悪な質問、獅子御君が可哀想よ」

 

日向さんだった。

彼女は那智君をたしなめるように細い眉をひそめる。

 

「それより那智君も授業中、私語を慎むようにってよく注意を受けてるじゃない」

 

図星だったらしい。

 

「うっ……」

 

那智君が露骨に言葉を詰まらせる。

 

「それはほら、芸術ってのは自由な発想が大事だって先生も言ってたろ?」

 

「自由と騒がしいは違うでしょ?」

 

ぴしゃりと言い切られて、那智君は肩をすくめた。

二人のやり取りに少しだけ笑いそうになったけれど、その横で伊藤はまったく話の輪に入ろうとしなかった。

黙々とスケッチブックを机に置き、鉛筆を何本か並べ、消しゴムの位置まできっちり整えている。

その横顔は真剣そのもので、まるでこれから重要な実験にでも臨む研究者みたいだった。

 

僕も自分の席に着きながら、美術室の静かな空気を改めて感じる。

曽米さんの甲高い声も、大堤君のプライド高い言動もない。

いつもよりずっと落ち着いていて、穏やかだ。

……なのに、なぜだろう。

どこか物足りない気がした。

 

授業開始のチャイムが鳴り終わってから、しばらく経っていた。

いつもなら担当の先生がとっくに教壇に立ち、今日の課題を説明している時間だ。

けれど、美術室の前方は空っぽのままだった。

最初のうちは誰もが「少し遅れているだけだろう」と思っていたらしく、静かに待っていた。けれど五分、十分と時間が過ぎるにつれて、教室の空気は少しずつ緩み始める。

あちこちでひそひそ話が聞こえ、やがてそれは普通の雑談へと変わっていった。

 

「先生、忘れてんじゃねぇか?」

 

那智君が机に頬杖をつきながらぼやく。

 

「そんなわけないでしょ」

 

日向さんが即座に否定する。

僕も時計をちらりと見ながら呟いた。

伊藤はというと、相変わらず静かに座ったままだった。ただ、きっちり整えた画材にはまだ一切手をつけていない。さすがに状況を訝しんでいるのか、普段より少しだけ眉間に皺が寄っていた。

教室全体が「どうなってるんだろう」というざわつきに包まれた、その時だった。

 

ガラガラッ。

 

勢いよく扉が開く。

反射的に、教室中の視線が一斉に入口へ向かった。

やっと先生が来た――そう思った僕たちの予想は、見事に裏切られる。

そこに立っていたのは、美術教師ではなかった。

日本史担当の末長先生だ。

 

「はぁ……はぁ……美術の教室、ここで合うてるか?」

 

肩で息をしながら、額の汗を拭う先生の姿に、教室中がぽかんとする。

末長先生はいつも歴史上の合戦を再現するみたいに身振り手振りを交えて授業をする人だ。大阪弁混じりの軽快な話し方が特徴で、日本史の授業ではかなり人気がある。

でも、だからこそ美術室にいることがあまりにも場違いだった。

誰も反応できずにいると、先生は息を整えながら続けた。

 

「お前らに言うとかなあかんことあるで」

 

教室がしんと静まる。

 

「美術の先生な、産休でしばらく学校来られへんねん。せやから今日は自習や。ただ課題は出とる。デッサンやっといてや」

 

先生はポケットから折りたたまれた紙を取り出し、それを確認するようにちらりと見る。

 

「次の授業までにちゃんと完成させとけよ。わかったな?ほな解散」

 

言うだけ言うと、末長先生はくるりと踵を返した。

 

「え、ちょっ――」

 

誰かが呼び止めようとしたけれど、その時にはもう遅い。

先生は廊下をばたばたと走り去っていった。

たぶん次の授業に遅れそうなんだろう。

扉が閉まったあと、数秒の沈黙が流れる。

 

そして次の瞬間――

 

「マジかよ、自習じゃん!」

「ラッキー!」

 

教室のあちこちで歓声が上がった。

一気に空気が弾ける。

張りつめていた静けさは消え去り、活気が戻ってきた。

那智君なんて早速椅子を後ろに向けて、

 

「最高。これ昼寝タイムだろ」

 

と満面の笑みを浮かべている。

 

「課題あるって言ってたでしょ」

 

日向さんが呆れたように突っ込む。

伊藤は静かに立ち上がり、教壇に置かれていた課題用紙を取りに向かった。こういう時の行動が早い。

僕もそれに続きながら、胸の内に少しだけ高揚感を覚えていた。

予想外の自習。

しかも美術のデッサン。

何を描くことになるのかまだわからないけれど、少なくとも退屈な授業にはならなさそうだった。

 




①クメール・ルージュ
カンプチア共産党のポル・ポトが率いた極左集団。
原始共産主義に基づいた極端な国家管理政策は、知識人の粛清と国民の飢餓を引き起こした。徹底した情報統制により国民の窮乏を国外の人間が知ることはできず、隣国ベトナムの軍事侵攻により白日の下に晒された。
「クメール」はカンボジア民族を指し、「ルージュ」はフランス語で「赤」の意。

②西部戦線異状なし
ドイツの小説家レマルクが執筆した戦争小説。
第一次世界大戦のドイツ兵の視点から描いた。
兵士たちは華々しい英雄譚を期待して戦地に向かうが、戦場の悲惨さと終わりの見えない戦いに精神をすり減らしく。
どんなに絶望的な状況にあっても、上官には「異常なし」と伝えねばならなかった。
反戦文学を代表する作品の1つ。
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