曽米さんの『世界史』愛が強すぎる!   作:公私混同侍

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隣のヴィーナス 後編

 

自習になったことで、教室中は一気に浮き足立っていた。

けれど、その高揚感とは裏腹に、僕の胸の中には別の意味で重たいものがのしかかっていた。

 

……どうしよう。

 

デッサン。

つまり、何かを描かなければならない。

しかも次の授業までに完成させるとなれば、それなりに形になるものを選ばないといけない。

美術が得意なわけでもない僕にとって、それはかなり厄介な課題だった。

描くものさえ決まればなんとかなるかもしれない。いや、たぶんならない。でも少なくともスタートラインには立てる。

問題は、その題材がまったく思いつかないことだった。

どうやらそれは僕だけではないらしい。

教室のあちこちで椅子を引く音が響き、生徒たちが立ち上がる。棚や机の上、教室の隅に置かれた石膏像や古びた静物セットを物色しながら、デッサンの題材になりそうなものを手当たり次第に探し始めていた。

 

「これとかどう?」

「いや地味すぎるだろ」

「リンゴあったぞ!」

 

そんな声が飛び交う。

僕も立ち上がり、美術室の中を見回した。

棚には絵の具、筆、パレット。隅には木製の椅子。窓際には観葉植物。さらにその奥には、どこか鼻が欠けた石膏像。

どれも題材にはなりそうだけど、どれを選んでも難しそうだった。

観葉植物は葉っぱが細かくて面倒そうだし、石膏像なんて陰影を描き分けられる気がしない。椅子は地味すぎるし、絵の具セットはごちゃごちゃしている。

悩んでいるうちに、周囲はどんどん作業を始めていく。

 

ふと日向さんの方を見ると、もう迷いなく鉛筆を走らせていた。

何を描いているのか気になって覗き込むと、

その視線の先には――那智君。

椅子にだらしなく座り、頬杖をついている。

どうやらそのまま人物デッサンにするつもりらしい。

 

「動かないでよ」

 

日向さんが低い声で言う。

 

「え、俺モデルにされてんの?」

 

「動いたら描きづらいでしょ」

 

「なんかそれ、すげー恥ずかしんだけど」

 

口ではそう言いながらも、那智君は満更でもなさそうだった。

……なるほど。

生きている人間を描くという手があったか。

一瞬感心しかけたけれど、その直後、那智君の行動に僕は思わず眉をひそめた。

彼はこそこそとポケットからスマホを取り出し、画面を机の上に置く。

そして何かをじっと見つめながら、スケッチブックに鉛筆を走らせ始めた。

どう考えても資料を見ながら描いている。

しかも先生がいないのをいいことに堂々と。

 

……それはさすがにまずいだろ。

注意しようかとも思ったけれど、いや待て、と僕は思い直す。

他人を気にしている場合じゃない。

僕はまだ、何を描くかすら決まっていないんだ。

焦りがじわじわと胸を締めつける。

そんな時、視界の端で伊藤が静かに鞄を開けるのが見えた。

彼女は中から一枚の写真を取り出した。

何気なく覗き込んだ僕は、思わず目を見開く。

そこに写っていたのは、堂々と空へそびえる自由の女神だった。

 

「……へぇ」

 

思わず声が漏れる。

伊藤は涼しい顔でその写真を机に立てかけると、迷いなく鉛筆を構えた。

なるほど。

そういう手があるのか。

目の前にあるものではなく、自分が過去に撮った写真を資料にして描く。

確かに禁止とは言われていない。

でも、それってずるくないか。

いや、ずるいという言い方は正しくないのかもしれない。

海外旅行の経験があり、なおかつそういう写真を持ってきている伊藤だからこそできる芸当だ。

美術の先生のお気に入りで、何をやっても器用にこなす伊藤らしい選択だった。

 

それに比べて僕はどうだ。

手元には真っ白なスケッチブック。

頭の中も同じくらい真っ白。

時間だけが、無情に過ぎていく。

教室には鉛筆の走るかすかな音が広がり始めていた。

その音を聞けば聞くほど、僕の焦りは大きくなっていく。

このまま何も描けなかったらどうしよう。

そんな嫌な想像ばかりが膨らんでいく。

どう考えても、もう無理だ。

周囲では鉛筆の走る音が絶えず響いている。紙を擦る乾いた音が、まるで僕だけを急かしているみたいだった。

 

日向さんはすでに全体の輪郭を描き終え、那智君のだらしない座り方までしっかり再現している。那智君は相変わらずスマホをちらちら見ながら何かを描き込んでいたし、伊藤に至っては自由の女神のシルエットがもうそれとわかるくらい形になっていた。

対して僕のスケッチブックは、開いた時のまま真っ白だ。

まるで僕の無力さをそのまま映しているみたいだった。

 

……もういいや。

 

僕は内心、半ば諦めていた。

このまま白紙のまま持ち帰ろう。

家で何か描けそうなものを探して、次の授業までにどうにかすればいい。

そう決めて、鉛筆を置こうとしたその時だった。

すっ、と視界に何かが差し出される。

顔を上げると、伊藤が無言で一枚の写真を僕のキャンバスの上に置いていた。

 

「……ん?」

 

思わず写真を手に取る。

そこに写っていたのは、白いワンピースをまとった綺麗な女性だった。

柔らかな光の中で静かに腰掛け、少しだけこちらに顔を向けている。長い髪が肩に流れ、どこか儚げで、それでいて気品のある雰囲気をまとっていた。

まるで絵画の中からそのまま抜け出してきたような、不思議な美しさ。

僕は一瞬、誰なのかわからなかった。

けれど、その顔立ちをじっと見つめているうちに、ある特徴に気づく。

 

切れ長の目元。

すっと通った鼻筋。

どこか意志の強さを感じさせる口元。

そして何より、見覚えのある面影。

 

僕ははっとして顔を上げた。

 

「この女性のモデルって……もしかして伊藤?」

 

伊藤は言葉を発さず、わずかに視線だけで肯定した。

その表情はいつも通り淡々としているのに、どこか気まずそうでもある。

僕はもう一度写真を見る。

言われてみれば確かに伊藤だ。

髪型や服装、それに今より少し幼い雰囲気のせいですぐには気づかなかったけれど、顔立ちは間違いなく彼女そのものだった。

 

「どうしてこんな写真を?」

 

率直な疑問を口にすると、伊藤は少しだけ眉をひそめた。

 

「母がルノワールのファンなんだ」

 

ぶっきらぼうにそう言ってから、小さく息をつく。

 

「『可愛いイレーヌ』っていう絵画の真似をさせたくて仕方なかったんだろう。ワンピースまで着せられて、こんな写真を撮らされたんだよ」

 

そう言われて、なんとなく納得する。

たしかに写真全体の柔らかな雰囲気は、印象派の絵画みたいだった。

伊藤は少し視線を逸らしながら続ける。

 

「獅子御が人を描くのが億劫だと言うのなら、その写真好きに処分してくれ」

 

その言い方が、妙にそっけなかった。

まるで本当は見られたくないものを無理やり差し出しているみたいで。

僕は写真を両手で持ち直しながら首を振る。

 

「ううん、大切に使わせてもらうよ」

 

そう答えると、伊藤はほんの少しだけ口元を曲げた。

笑った、というほどはっきりしたものじゃない。

けれど確かに、嬉しそうだった。

その表情を見た瞬間、僕の胸の奥が少しだけ温かくなる。

同時に、さっきの言葉が引っかかった。

 

――好きに処分してくれ。

 

どうしてそんな言い方をしたんだろう。

恥ずかしかったからなのか。

それとも、本当にいらないと思っていたのか。

どちらにしても、僕にはこの写真を「処分する」なんて選択肢は思い浮かばなかった。

結局僕は、その写真を見本にしてなんとかデッサンを描き始めた。

もちろん出来栄えはお世辞にも良いとは言えなかったけれど、白紙のまま終わるよりずっとよかった。

 

―――

 

その日の放課後。

家に帰ってからも、僕はしばらくその写真を眺めていた。

捨てるなんてできるわけがない。

だから僕は勉強机の上を少し片づけて、小さな写真立て代わりに参考書へ立てかけた。

白いワンピース姿の伊藤が、静かにこちらを見つめている。

なんだか不思議な気分だった。

勉強しようとして顔を上げるたびに、その視線と目が合う気がして、少しだけ落ち着かなくなる。

けれど嫌ではなかった。

 

むしろ――

その写真が机の上にあるだけで、自分の部屋が少しだけ特別な場所になった気がした。

 

その夜、僕はいつもより少し遅い時間にベッドへ入った。

机の上には、参考書に立てかけたままの写真。

部屋の電気は消してあるのに、カーテンの隙間から差し込む街灯の淡い明かりが、白いワンピース姿をぼんやり浮かび上がらせている。

 

伊藤。

 

昼間はなんとか平静を装っていたけれど、こうして改めて見るとやっぱり不思議な気分になる。

クラスメイトの、それも普段は男子の格好している女の子を写真を自分の机に飾っているなんて、冷静に考えたらかなり奇妙な光景だ。

なのに僕はそれを片づける気になれなかった。

 

「好きに処分してくれ」

 

伊藤はそう言った。

でも、もし本当にいらない写真なら、わざわざ僕に差し出したりしなかったはずだ。

そう思うと、この写真には何か別の意味があるんじゃないかと考えてしまう。

いや、考えすぎだ。

きっと単に課題を助けてくれただけだ。

僕はそんな思考を振り払うように布団を頭まで引き上げ、目を閉じた。

 

明日も学校だ。さっさと寝ないと。

そう自分に言い聞かせた、その時だった。

 

ぶるるっ。

 

枕元のスマホが震える。

こんな時間に誰だろうと思いながら画面を手に取る。

表示された名前を見た瞬間、僕は思わず身構えた。

曽米さん。

胸騒ぎがする。

恐る恐るメッセージを開く。

そこにはこう書かれていた。

 

『帰り際にリチャード君のデッサン盗み見しちゃった。『可愛いイレーヌ』かと思ったよ。だけど絵柄的に印象派って言うより写実主義っぽいかな。もし名前をつけるなら『聖海高校のヴィーナス』?それならルネサンス味がもう少し欲しいかも』

 

僕はその文章を二度見した。

 

……ヴィーナス。

 

その単語が、やけに強く胸に刺さる。

 

ヴィーナス。

 

愛と美の女神。

つまり曽米さんは、あの絵をそういう風に見たってことだ。

僕は反射的に机の方へ視線を向ける。

暗がりの中で、写真の中の伊藤が静かに微笑んでいるように見えた。

どくん、と心臓が跳ねる。

 

まさか。

いや、そんな。

でももし――

 

伊藤があの写真を僕に渡したのって、本当にただ課題を助けるためだけだったんだろうか。

あんな風に少し嬉しそうに笑ったのはどうしてだ。

 

「大切に使わせてもらうよ」

 

そう言った時、あの表情を浮かべたのは。

そして「好きに処分してくれ」なんて、わざわざ念を押すように言ったのは。

僕の頭の中で昼間のやり取りが何度も再生される。

そこに曽米さんの『聖海高校のヴィーナス』という言葉が重なって、妙な意味を帯びていく。

 

まさか伊藤は、本当に僕のことを……。

そこまで考えた瞬間、僕は勢いよく布団をかぶった。

 

「そんなわけ……」

 

小声で否定する。

考えすぎだ。

絶対に考えすぎだ。

曽米さんが面白がってからかっているだけに決まってる。

あの人はこういう誤解を生み出す天才なんだから。

それなのに、一度浮かんでしまった想像はなかなか消えてくれなかった。

布団の中で寝返りを打つたび、頭の中に白いワンピース姿の伊藤がちらつく。

 

静かな横顔。

わずかに口元を曲げたあの表情。

写真の柔らかな視線。

 

気づけば僕は何度もスマホを手に取り、曽米さんのメッセージを読み返していた。

 

『聖海高校のヴィーナス』

 

その文字を見るたび、胸が妙にざわつく。

結局その夜、僕はなかなか寝つけなかった。

ようやく浅い眠りに落ちた時でさえ、夢の中で白いワンピース姿の伊藤がこちらを振り返り、何かを言いかけていた気がした。

 




①アメリカ独立戦争
植民地時代のアメリカはイギリスからの度重なる課税に不満を募らせ、「ボストン茶会事件」を期に国民の怒りは頂点に達した。
強硬な態度を崩さないイギリスに対してアメリカは独立革命を展開。イギリスはアメリカ議会によるヨーロッパ各国への周到な根回しと、ロシア主導の「武装中立同盟」によって孤立無援となり、アメリカの独立を認めざるを得なくなった(パリ条約)。
自由の女神像はアメリカ独立を記念してフランスが寄贈したものである。

②ルノワール
フランスの画家。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」「舟遊びをする人々の昼食 」「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)」などの作品を遺した。

③ボッティチェリ
ルネサンス期を代表するイタリアの画家。
神話に題材にしたものが多く、「ヴィーナスの誕生」「プリマヴェーラ(春)」などを描いた。

④印象派
主にフランスで生まれた芸術運動であり、瞬間的な光の動きと日常の風景を捉えることに重きを置いた一派。
ルノワールの他にモネ、ドガなどがいる。

⑤写実主義(リアリズム)
日々移ろいゆく社会、日常風景やそこで生きる人々を客観的に描くことを重視した芸術運動。
画家にクールベ、ミレー、マネ。作家にバルザック、フローベールなどがいる。

⑥ルネサンス
イタリアからヨーロッパに波及した宗教的価値観に偏りすぎず、現実世界の美しさや人間そのものが持つ能力や個性(ヒューマニズム)を再評価しようとする社会変革運動。
文化人にレオナルド・ダ・ヴィンチ、ダンテ。芸術家にボッティチェリ、ラファエロ。科学者にガリレオ・ガリレイ、ケプラー、デカルト。
社会変革だけではなく科学革命ももたらしており、大航海時代と重なって世界の一体化が進んだ時代でもあった。
ルネサンスはフランス語であり、「再生」を意味する。
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