九月下旬。
暦の上ではもう秋だというのに、空気にはまだ夏の名残が色濃く残っていた。
登校するだけでじんわり汗ばむし、教室の窓から差し込む日差しも相変わらず強い。けれど、吹き抜ける風だけはほんの少しだけ乾いていて、確かに季節が動き始めていることを感じさせた。
そんな中、僕たちはシルバーウィークと呼ばれる連休を目前にしていた。
普通なら嬉しくて仕方ないはずの連休。
でも今回は少し事情が違う。
連休明けには小テストが控えている。
夏休み気分が抜けきらないまま迎えた二学期最初の大きな関門だ。
さすがに今回はちゃんと勉強しないとまずい。
特に英語と現代文。
伊藤のおかげで以前よりは興味を持てるようになったとはいえ、興味があることと高得点が取れることはまったく別問題だった。
だから僕は、この連休は家でしっかり勉強するつもりでいた。
曽米さんもきっとそうだろうと思っていた。
あの人の世界史への情熱は常軌を逸しているが、テスト前ともなれば、きっと図書館に籠もって参考書とにらめっこしているに違いない。
そう考えていたから、特に予定なんて立てていなかった。
それが、連休前日の放課後。
教室で帰り支度をしていた僕のところへ、曽米さんがふらりとやって来た。
そして開口一番、妙に真顔でこう言った。
「山登りたい気分だよね」
僕は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
山?
どうしていきなり山?
しかも「登りたい気分だよね」と断定口調だ。
どう考えても僕の意思確認ではなく、答えが決まっている問いかけにしか思えない。
いわば誘導尋問だ。
僕は慎重に言葉を選んだ。
「ごめん、曽米さん。僕は運動神経悪いし体力もないから山はちょっと……」
これは事実だった。
体育の成績は平均以下だし、長距離走なんて毎回途中で魂が抜けかける。
そんな僕が山登りなんてしたら、途中で遭難しかねない。
すると曽米さんは、見るからに肩を落とした。
「そっか……」
その落胆ぶりがあまりにも露骨で、僕は思わずたじろぐ。
しゅん、と垂れた眉。
伏せられた視線。
まるで捨てられた子犬みたいな顔。
……ずるい。
そんな顔をされたら、罪悪感が湧いてくるに決まっている。
僕は慌てて言葉を継ぎ足した。
「で、でも小さい山だったら――」
そこまで言った瞬間だった。
さっきまでのしょんぼりした空気が嘘みたいに消え去る。
曽米さんはぱっと顔を上げ、目を輝かせた。
「ホントに!?じゃあ明後日一緒に行こ!」
ものすごい速度で話が進んだ。
「え、いや、まだ行くとは――」
「決まりね!」
僕が反論する隙も与えず、曽米さんは満面の笑みで宣言する。
その勢いに押され、僕は口をぱくぱくさせるしかなかった。
……やられた。
完全に誘導された。
あの落ち込みようも演技だったんじゃないかと思えるくらいの鮮やかな手のひら返しだ。
そんな僕たちのやり取りを隣の席で見ていた伊藤が、呆れたように口を開いた。
「曽米はおかしな薬でもやっているのか?」
あまりにも直球すぎるツッコミに、思わず吹き出しそうになる。
その言葉に、普通なら「何言ってるの」とでも返すところなんだろう。
でも曽米さんは普通じゃない。
彼女はきょとんとした顔をしたあと、すぐに口元をにやりと歪めた。
「薬?アヘン?どっちのアヘン?ナンキン、それともテンシン?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
けれど次の瞬間、僕は理解する。
……アヘン戦争だ。
南京条約か、それとも天津条約か。
またしても世界史ネタ。
しかもまるで麻薬の隠語のような表現をしているせいで、余計に意味不明さが際立っていた。
さすがにこれは誰もついていけないだろう。
そう思った矢先だった。
伊藤が額を押さえながら低い声で言う。
「言葉遊びにつきあわされるほど獅子御だって馬鹿じゃない――」
その忠告は、たぶん正しかった。
本来なら。
でも、僕の口はなぜか勝手に動いていた。
「僕はアロー派かな」
言ってから、自分で「あっ」と思った。
しまった。
反射的に返してしまった。
アロー号事件をきっかけに始まった第二次アヘン戦争。
つまり“天津”側。
頭のどこかで世界史の知識が勝手に接続されてしまったらしい。
教室が一瞬静まり返る。
そして次の瞬間。
曽米さんの顔がぱっと輝いた。
「リチャード君、今日もキマってるね!」
満面の笑みで親指を立ててくる。
いや、褒められてるんだろうけど、その言い方だと本当に危ない人みたいだからやめてほしい。
僕は顔が熱くなるのを感じながら視線を逸らした。
でも、曽米さんが嬉しそうなのを見ると、悪い気はしない。
そんな僕たちのやり取りを見ていた伊藤は、こめかみをひくつかせていた。
ぎりっ。
はっきり聞こえるほど歯を軋ませている。
「……だから言っただろう」
低く押し殺した声。
その目は、僕を見るというより「なぜ乗った」と問い詰めているようだった。
僕は思わず肩をすくめる。
「ご、ごめん。なんか自然に……」
「自然で済む問題か」
伊藤は深くため息をつく。
けれど曽米さんはどこ吹く風だ。
「じゃあ明後日の山登りでは、清朝と列強の関係について語り合おうね」
「山登りで!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
なんで山を登りながらアヘン戦争を語らなきゃいけないんだ。
僕が頭を抱えていると、伊藤がぼそりと呟いた。
「……遭難より先に精神がやられそうだな」
その言葉に、僕は心の底から同意した。
伊藤の冷静な返しに、周囲で聞いていた数人がくすくす笑う。
けれど曽米さんはまるで気にした様子もなく、僕の机に身を乗り出してきた。
「じゃあ集合は朝八時!動きやすい格好でね!」
「ちょ、ちょっと待って。どこの山に行くの?」
「それは当日のお楽しみ」
にこり、と意味深に笑う。
その笑顔に、僕の背筋がうっすら寒くなった。
小さい山。
たしかにそう言った。
でも曽米さんの言う「小さい」が、一般的な基準と一致している保証はどこにもない。
もしかしたら彼女の中では、標高千メートルくらいでも“軽いハイキング”扱いかもしれない。
そんな不安が頭をよぎる。
けれどもう断れる空気ではなかった。
僕は曽米さんの弾んだ声を聞きながら、心の中で静かに覚悟を決めた。
せめて遭難だけはしませんように、と。
―――
登山当日の朝。
まだ少し眠気の残る頭を抱えながら、僕は駅前へ向かっていた。
休日の朝にしてはかなり早い時間だ。
家を出た時は「なんで僕、こんな時間に起きてるんだろう」と本気で思った。
そもそもシルバーウィークは勉強に使うつもりだったのだ。なのに今の僕は、リュックを背負き、動きやすい服にスニーカーという完全なハイキング仕様で駅へ向かっている。
すべては数日前の、あの誘導尋問のせいだ。
――山登りたい気分だよね。
あの一言から、なぜこんなことになったのか。
今でも納得しきれていない。
駅前に着くと、休日らしい穏やかな空気が漂っていた。
家族連れや買い物客がちらほら行き交う中、待ち合わせ場所の時計台の下に曽米さんの姿を見つける。
けれど、その隣に立っている人物を見た瞬間、僕は思わず足を止めた。
「あれ?」
見覚えのある女性だった。
柔らかなウェーブのかかった髪を後ろでまとめ、動きやすそうなアウトドアウェアに身を包んでいる。普段の白衣姿とはずいぶん印象が違うけれど、その優しげな目元には見覚えがあった。
僕は反射的に口にしてしまう。
「あれ?ナイチンゲール先生も一緒なんですか?」
言った瞬間だった。
その女性――保健室の先生は、ぴくりと片眉を上げた。
そしてにこやかな笑みを浮かべたまま、じっと僕を見る。
「おはよう、獅子御君」
声音は穏やかだ。
でも、どことなく圧がある。
「曽米さんの影響だと思うのだけど、私には内地(ないち)っていう立派な名前があるの。今日から覚えておいて頂戴」
その言葉に、僕は一気に血の気が引いた。
しまった。
そうだった。
以前、曽米さんが勝手に「ナイチンゲール先生」なんて呼び始めて、それが妙にしっくりきてしまったせいで、僕までついその呼び方に慣れてしまっていた。
でも当然ながら、それはあだ名にすぎない。
しかも本人の前で堂々と呼んでいいものじゃない。
「す、すみません!えっと……内地先生!」
僕は慌てて頭を下げた。
内地先生はふっと小さく笑う。
怒っているというより、少し面白がっているようにも見えた。
「まあいいわ。しっかり覚えてくれれば」
その言い方に、僕はなんとか胸を撫で下ろす。
すると隣で曽米さんが悪びれもせず口を開いた。
「ナイチンゲール先生が山登り趣味って言うから、冗談半分で誘ってみたら来てくれたんだよ」
内地先生の笑顔が微妙に引きつる。
「冗談って言ったの?」
じとっとした視線が曽米さんへ向く。
「あなたって本当に小悪魔ね」
その言い方は呆れ半分、感心半分といったところだった。
曽米さんはまるで褒め言葉をもらったみたいに胸を張る。
「えへっ、よく言われます」
「褒めてないわよ」
即座に返される。
そのやり取りを見ながら、僕はそっとため息をついた。
……嫌な予感しかしない。
ただでさえ曽米さんと二人きりの登山というだけで、何が起こるかわからない不安があった。
そこに内地先生まで加わるとなると、事態はさらに読めなくなる。
この三人で穏やかに山を登れる未来が、どうしても想像できない。
しかも先生がいる以上、変なことが起きても簡単には逃げられない。
僕がそんなことを考えていると、曽米さんがぱん、と手を叩いた。
「よーし!全員揃ったし、曽米登山隊出発!」
やけに元気な声。
そのテンションに押されるようにして、僕たちはバスのあるロータリーへと向かった。
秋の気配が混じり始めた朝の風が吹き抜ける。
これから始まる山登りに胸が高鳴る――なんてことはなく、僕の胸を満たしていたのは、これから何が起こるんだろうという不安ばかりだった。
駅からローカルバスに揺られること三十分。
車窓から見える景色は、次第に住宅街から緑の濃い山並みへと変わっていった。
最初のうちはぼんやり外を眺めていた僕も、山が近づくにつれてだんだん現実味を帯びてきて、じわじわと緊張してくる。
本当に登るんだな。
曽米さんに押し切られる形で決まった予定だったせいか、どこか他人事みたいに感じていたけれど、もう逃げられない。
バスが停車し、僕たちは終点で降りた。
目の前には登山口へ続く広場があり、その先にはこんもりとした山がそびえている。
思っていたよりずっと大きい。
「……これ、小さい山?」
思わず呟くと、曽米さんがきょとんとした顔で振り返る。
「標高八百メートルくらいだよ?」
まるで「近所のコンビニ」くらいの軽さで言う。
いや、十分高いと思うんだけど。
僕が若干ひるんでいると、内地先生が笑いながら説明してくれた。
「大丈夫よ。初心者向けの整備されたルートがあるの。ペースを守れば問題なく登れるわ」
その言葉に少しだけ安心する。
さすがに先生が同行しているんだから、無茶な山行ではないはずだ。
もっとも、その先生自身はどこか疲れた顔をしていた。
バスの中で聞かされた愚痴を思い出す。
『最初は軽いハイキングって聞いたのよ』
『それが地図を見せられたら普通に登山コースだったの』
『断ろうと思ったら「保健の先生がいた方が安心して楽しめるので!」って満面の笑みで言われてね。してやられたって思ったわ』
どうやら曽米さんは、“大人がいた方が安全”というもっともらしい大義名分を盾にして、内地先生を断りづらい状況へ追い込んだらしい。
その話を聞きながら、僕は心の中で静かに納得していた。
……やっぱり。
あの人ならやる。
内地先生はため息混じりに言っていた。
「あの子、将来かなりの策士になるわね」
僕もそう思う。
というか、すでにかなりの策士だ。
休日ということもあって、登山口周辺はかなり賑わっていた。
家族連れ、友人同士らしいグループ、本格的な装備をした年配の登山客。
みんなそれぞれのペースで準備を整えている。
リュックの紐を締め直す人。
地図を広げる人。
売店で飲み物を買う人。
そんな中、僕たちも登山道へ足を踏み入れた。
先頭を歩くのは内地先生。
慣れた足取りでどんどん進んでいく。
僕はそのすぐ後ろをついていった。
そして、僕の隣にはぴたりと曽米さんが並ぶ。
「リチャード君、大丈夫?息切れてない?」
「まだ大丈夫」
まだ登り始めたばかりだ。
とはいえ、この「まだ」がどこまで続くかはわからない。
曽米さんはにこりと笑った。
「安心して。私がしっかりサポートするから」
その言葉に一瞬ほっとしかける。
けれど次の瞬間、嫌な予感がした。
……いや待て。
この人の言う“サポート”って。
案の定だった。
「ところで登山の歴史って知ってる?」
始まった。
僕は心の中で静かに天を仰ぐ。
曽米さんは構わず楽しそうに語り始めた。
「探検家といえばキャプテン・クックも捨て難いけど、近代登山の父といえばやっぱりフンボルトだよね」
きらきらした目。
完全にスイッチが入っている。
「十九世紀初頭、あの人は南米の山に挑戦したんだ。当時としては前人未到の登山で、しかも単なる冒険じゃなくて、気圧や植生の変化を科学的に観察したんだよ」
山道を歩きながら、曽米さんの歴史講義が流れていく。
「あの人の功績はね、登山を“自然科学の探究”として成立させた点にあるんだよ。標高ごとの植生分布を体系化したのも画期的だったし――」
すごい。
たしかに内容は面白い。
普通に勉強になる。
でも今は登山中だ。
ただでさえ慣れない坂道を登っているのに、脳までフル回転させられるのはかなりきつい。
それでも曽米さんはお構いなしだ。
「ちなみにフンボルトの名前は海流にも残ってて――」
「曽米さん」
僕は息を整えながら言った。
「ちょっとだけ休憩、挟まない?」
すると曽米さんはぱちぱちと瞬きをしたあと、にっこり笑った。
「リチャード君の今の心境、よくわかるなぁ。フンボルトの偉業に圧倒されて立ち止まりたくなったんだね」
違う。
純粋に体力の問題だ。
でも訂正する余裕すらなく、僕はじわりと額に滲んだ汗を拭った。
前方では内地先生が振り返り、どこか同情するような目を向けている。
たぶん先生もわかっているんだろう。
この登山で一番険しいのは、山道そのものじゃない。
曽米さんの歴史トークだということを。
①アヘン戦争
アヘン中毒が社会問題になっていた清は禁輸処置を取り、撤回を求めるイギリスは武力で自らの要求を押し通す(第一次アヘン戦争)。結ばれた南京条約により清は香港を奪われた。
しかし、清はアヘンの密輸を阻止するためイギリス船籍の臨検を行う。不当だと抗議したイギリスはフランスを誘い、砲台を破壊し、略奪なども相まって清軍の軍事力を無力化した(アロー号事件、第二次アヘン戦争)。
不平等条約でもある天津条約を結ばされ、清における列強の領土分割がより一層進んでいくことなる。
②クック
イギリスの探検家。
世界地図の不明瞭な地域であった太平洋の航海を行う。
当時、ヨーロッパの人々は南方にも(オーストラリア以外の)巨大な大陸が存在すると信じており、クックは自ら測量し、その目で大陸が存在しないことを証明した。
③フンボルト
プロイセンの地理学者。
生物学や植物学だけでなく、探検家としての一面も持っていた。
「フンボルト海流」や「フンボルトペンギン」など「フンボルト」の名を冠した事物は多岐にわたる。