文化祭当日。
普段はどこか気怠げな空気が漂う聖海高校も、この日ばかりは別世界みたいに騒がしかった。
廊下には色とりどりの装飾が貼られ、教室の扉には手作りの看板が並ぶ。遠くからは軽音部の演奏が聞こえ、校庭からは運動部の呼び込みの声が響いていた。
そんな中、僕たちのクラスは――タコ焼きを売っていた。
鉄板の上で生地が焼ける音。
ソースの香ばしい匂い。
そして大量のキャベツを刻み続けるクラスメートたち。
どうしてこうなったのかと言えば、原因はほぼ間違いなく日本史担当の末長先生だろう。
末長先生は、テストのたびに「頑張ったご褒美」と称して生徒へタコ焼きを振る舞うサービス精神旺盛な教師。
しかも、その自由さが凄まじい。
授業中だろうが何だろうが関係なく、突然教室へタコ焼きを持ち込み、生徒たちに配り始める。
当然、教室中がソースの匂いに包まれる。
隣のクラスにまで匂いが流れ込むことも珍しくなかった。
日本史を受けていない生徒たちからすれば、「なぜあのクラスだけ授業中に粉ものパーティーをしているんだ」という状態だったに違いない。
だからだろう。
文化祭の出し物を決めるホームルームで、曽米さんが何気なく、
「タコ焼きでよくない?」
と言った瞬間。
クラス全体が妙な納得感に包まれた。
「それでいいんじゃない?」
「他のクラスと被ったりしたりして」
「末長先生も喜びそう」
そんな空気が自然に出来上がってしまったのだ。
僕と伊藤は内心、「本当にそれで決まるのか?」と思っていた。
もっと他に候補はなかったのか、と。
だが、クラスメートたちが楽しそうに話し合って決めた結果でもある。
結局、僕たちは特に反対もしなかった。
そして現在。
僕は自分の担当時間を終え、校舎の廊下で伊藤を待っていた。
エプロンを外し、ほんのりソース臭くなった制服の袖を軽く払う。
窓の外では、他クラスの呼び込みがまだ賑やかに続いていた。
実は昨日。
伊藤から珍しくメッセージが届いていた。
『明日、一緒に文化祭を見て回らないか?』
最初に見た時、少し驚いた。
伊藤は基本的に単独行動を好むタイプだ。
必要以上に群れないし、文化祭みたいな騒がしいイベントも、どちらかと言えば苦手そうに見える。
だからこそ、なおさら意外だった。
けれど僕はその誘いを断れなかった。
伊藤には、いつも勉強を教えてもらっている。
特に世界史以外の教科なんて、曽米さんと出会う前の僕なら赤点候補だったはずだ。
ノートを貸してもらったこともある。
放課後に付き合ってもらったこともある。
だからこれは、ある意味で恩返しみたいなものだった。
……本当は。
本当は曽米さんと回りたかった。
文化祭なんて、絶対に曽米さんと一緒なら騒がしくて、意味不明で、でも妙に楽しい時間になるに決まっている。
けれど、文化祭前日。
曽米さんは意味深な表情で、
「やらなきゃいけないことがある」
と言い残し、そのままどこかへ行ってしまった。
結局、その後まともに話す機会もなく、僕は曽米さんを誘えなかった。
だから今こうして、廊下で伊藤を待っている。
その事実に後悔があるわけじゃない。
ない、はずなのに。
なぜか胸の奥に、小さな引っ掛かりみたいなものが残っていた。
そして、僕は伊藤と二人で文化祭を回っている。
クラスごとの出し物はどこも個性が強く、廊下を歩くだけでも飽きない。
射的。
クレープ屋。
演劇部による西洋風ファンタジー劇。
なぜか校舎裏で開催されていた「戦国武将人気投票」。
さらには科学部による「絶対に爆発しない化学実験展示」まである。
文化祭特有の雑多な熱気が学校全体を包み込んでいた。
僕たちも色々な催しを回った。
伊藤は基本的に冷静だったけれど、展示物に対する観察眼は鋭く、時折ぽつりと漏らす感想が妙に面白い。
「この迷路、出口より入口の方が難易度が高いな」
「このクレープ、生地より生クリームの比率がおかしい」
そんな調子で淡々とツッコミを入れていく。
それが何だか心地よかった。
去年、僕たちはお化け屋敷にも入ったことがある。
けれど、その時。
伊藤は曽米さん扮するドラキュラに「口撃」を受けトラウマを植えつけられた。
しかも退出後、珍しく顔色を悪くしていた。
どうやら本気で苦手だったらしい。
その経験が相当堪えたのか、今年はお化け屋敷の前を通った瞬間、伊藤が即座に、
「ここは素通りする」
と宣言した。
僕も特に異論はなかった。
そんな風に、僕たちは並んで廊下を歩いていた。
ふと。
僕は隣を歩く伊藤のことが気になってしまう。
伊藤は女性だ。
けれど普段から男子用の制服を着ている。
今もそうだ。
黒いブレザー。
ネクタイ。
すらりとした立ち姿。
短めの髪。
周囲から見れば、どう考えても“男子生徒二人”にしか見えないはずだった。
実際、さっきすれ違った他クラスの生徒も、僕たちを特に気に留めていなかった。
なのに。
なぜか僕は少し落ち着かなかった。
変に意識してしまう。
隣にいるのが伊藤だからなのか。
それとも、“二人で回っている”という状況そのものが妙に特別に感じるのか。
自分でも上手く説明できない。
そんな僕の様子に気づいたのか、伊藤がこちらを向いた。
「どうした?」
その声はいつも通り落ち着いている。
「曽米のことが気になるのか?」
僕は少し慌てて首を振った。
「ううん、違うんだ」
けれど、完全に誤魔化すのも違う気がして、言葉を探す。
「その……言葉にするの難しいんだけど」
僕は恥ずかしさを抑えながら続けた。
「こうやって二人で見て回るのも、悪くないなって」
それは本心だった。
伊藤といる時間は、不思議と気疲れしない。
会話が途切れても苦じゃないし、無理に盛り上げる必要もない。
静かな空気が自然に続く。
伊藤は一瞬だけ目を見開いた。
そして。
その瞳に、ふっと柔らかな光が宿る。
普段の伊藤からはあまり見ない表情だった。
「もし」
伊藤が静かに口を開く。
「この伊藤枢という人間が、女子生徒と同じような格好で学校生活を送ると言ったら――」
言葉がゆっくりと僕の胸へ落ちていく。
「獅子御は、変わらぬ態度で接してくれるか?」
僕は息を呑んだ。
その表情が。
その目が。
あまりにも真剣だったから。
冗談じゃない。
ただの確認でもない。
まるで、ずっと胸の奥に抱えていた何かを、恐る恐る差し出しているみたいだった。
僕の心臓が大きく跳ねる。
廊下の喧騒が、急に遠くなった気がした。
「う、うん……」
気づけば、僕はそう答えていた。
それしか言えなかった。
僕は伊藤の言葉を頭の中で反芻していた。
――女子生徒と同じような格好で学校生活を送ると言ったら。
その一言が妙に胸に残っている。
伊藤の真剣な表情まで思い出してしまい、僕はうまく次の言葉を見つけられなかった。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、不意に前方の異様な光景が目に入る。
長蛇の列。
しかも尋常じゃない。
廊下の端から端まで人が並び、途中で折り返している。
「うわ……」
僕は思わず足を止めた。
「凄い……何のイベントをやってるんだろう?」
メイド喫茶でもここまで並ばないだろう。
僕が呆然としていると、隣の伊藤がすっと目を細めた。
何かに気づいたような顔だった。
「ここはやめておこう」
珍しく即断だった。
「まだ行ってない所は――」
すると。
背後から妙に芝居がかった声が響いた。
「これはこれは、ライオンハート殿と伊藤殿ではございませんか?」
振り返る。
そこには大堤君が立っていた。
眼鏡をきらりと光らせ、不敵な笑みを浮かべている。
文化祭だというのに、いつも通り濃い。
僕は少し安心しながら声をかける。
「大堤君、誰かと回ってるの?」
すると大堤君は胸に手を当て、どこか誇らしげに答えた。
「ええまあ、ヒミコ様と一緒に、あるイベントを催しておりましてな」
ヒミコ様。
つまり曽米さんのことだ。
その瞬間。
僕の胸に、ほんの少しだけ妙な感情が刺さった。
――ずっと一緒だったんだ。
朝から姿が見えなかったのも、大堤君と準備をしていたからなのか。
僕は自分でも驚くくらい、その事実を意識してしまっていた。
別に曽米さんが誰と行動しようが自由だ。
そんなことは分かっている。
なのに、なぜか少しだけ胸の奥がざわつく。
隣の伊藤が列へ視線を向けながら口を開く。
「朝から曽米の姿が見えなかったことと関係しているのか?」
その声音には、嫌な予感を確信へ変えたような響きがあった。
「もしや、この長蛇の列の正体は……」
大堤君が満足げに鼻を鳴らす。
「察しの通り」
そして両腕を広げ、大仰に宣言した。
「この列はヒミコ様を一目見ようと、入信希望者が集まってできたのです」
「入信希望者?」
僕は思わず聞き返してしまう。
何をやっているんだ曽米さんは。
文化祭だよね?
宗教戦争じゃないよね?
大堤君はそんな僕の困惑など意に介さず、さらに続ける。
「お二人を特別にヒミコ様の元へ案内しますぞ」
なぜか特権階級みたいな扱いだ。
「もうしばしお待ちくだされ」
そう言い残すと、大堤君は列の先頭方向へ猛ダッシュしていった。
人混みをかき分ける姿が無駄に俊敏だった。
その背中を見送りながら、伊藤がぽつりと呟く。
「……ここを離れよう」
「え?」
僕は思わず振り返く。
伊藤は真っすぐ前を見たままだった。
「曽米に獅子御との時間を使われるのは嫌だ」
その言葉に、僕は目を丸くした。
伊藤はいつも冷静だ。
感情を表に出さない。
多少振り回されても、「やれやれ」と流すタイプだった。
なのに今の言葉は、驚くほど率直だった。
子供っぽいくらい真っすぐで。
少しだけ拗ねているようにも聞こえる。
僕は何か返そうとして口を開く。
けれど、その瞬間だった。
ざわついていた廊下が急に静かになる。
「……あれ?」
気づけば。
さっきまであれほど並んでいた長蛇の列が、綺麗さっぱり消えていた。
僕が伊藤の方を見た、その瞬間だった。
「こちらです!」
「お待ちしておりました!」
どこから現れたのか分からない謎の生徒たちに、僕たちは一斉に囲まれた。
「えっ、ちょっ――」
抵抗する暇もない。
両脇を固められ、そのまま半ば強引に廊下を進まされる。
しかも妙に統率が取れている。
何なんだこの集団は。
文化祭スタッフにしては熱量がおかしい。
僕と伊藤は顔を見合わせるが、状況を把握できていないのはお互い様らしい。
ただ、伊藤の表情だけは露骨に険しくなっていた。
そのまま連れて行かれた先。
教室棟の隅に、場違いなほど怪しいものが設置されていた。
黒い布で覆われた簡易テント。
入口には不気味な装飾。
そして、赤い文字で書かれた看板。
『ヒミコのクリスタル・ナハト』
僕は思わず呟いた。
「……
完全に語感だけで口にした。
すると隣の伊藤が、深々とため息をつく。
「このために準備をしていたのか」
その声音には、諦めと苛立ちが半分ずつ混じっていた。
そして伊藤は迷うことなくテントの中へ入っていく。
もう逃げても無駄だと判断したのだろう。
僕も慌てて後を追う。
中へ入った瞬間、視界が闇に包まれた。
「うわっ……暗っ」
外の喧騒が嘘みたいに遮断されている。
薄暗い。
というより、ほぼ真っ暗だ。
微かに漂うお香みたいな匂い。
どこか異国風の音楽。
完全に怪しい店だった。
しばらくすると目が慣れ始め、少しずつ内部の輪郭が見えてくる。
机。
揺れる蝋燭。
そして――骨格標本。
「なんで骨あるの……」
僕は思わず小声で漏らした。
すると、その奥。
薄闇の中に、一人の人物が座っているのが見える。
占い師姿の曽米さんだった。
黒いローブ。
頭には怪しいベール。
しかも机の上には大きな水晶玉まで置かれている。
気合いが入りすぎていた。
伊藤が開口一番、冷たく言い放つ。
「君と大堤は、クラスの仕事を放棄してまで、こんなくだらない遊びに精を出していたのか?」
辛辣だった。
容赦がない。
僕は思わず口を閉じる。
フォローしようにも、実際かなり忙しい時間帯があったのは事実だ。
「あれ、曽米さんと大堤君どこ行った?」
という空気が漂っていた瞬間も確かにあった。
だから僕も強く否定できない。
しかし曽米さんはまったく動じなかった。
むしろ静かに目を閉じ、いかにも“導く者”みたいな仕草を取る。
「そう怒りに身を委ねていては、破滅の道を行くだけ」
妙に低い声だった。
「今はカトリーヌ・ド・メディシスと親交のあったノストラダムスの声に耳を傾けることが先決」
僕は心の中で即座にツッコむ。
――なんで占いじゃなくてノストラダムスなんだよ。
しかも予言者限定なんだ。
水晶玉との相性だけで選んでない?
伊藤は無言で曽米さんを睨み続けている。
空気が若干危ない。
このままだと本当に喧嘩が始まりそうだったので、僕は慌てて割って入る。
「さ、さっきすれ違った人たちが言ってたよ」
できるだけ明るく言う。
「曽米さんの占い、結構当たるんだって」
すると曽米さんの口元がわずかに緩む。
僕はさらに続けた。
「だから僕は、将来のことを占ってほしいな」
その瞬間。
ぐいっ。
袖を引っ張られる。
振り向くと、伊藤だった。
明らかに「これ以上付き合うな」という顔をしている。
けれど。
曽米さんはもう完全にスイッチが入ってしまっていた。
「いいだろう」
ゆっくりと頷く。
「早速始めるとしよう」
そう言うと、曽米さんは両手を水晶玉へかざした。
暗闇の中。
蝋燭の火だけが揺れる。
その姿は妙に雰囲気があって――
そして同時に、とてつもなく胡散臭かった。
①水晶の夜
ナチス・ドイツの直轄組織突撃隊(SA)主導によるユダヤ人排斥事件。住宅街や商業区を中心に暴動が起き、割れたガラスが月の光に反射して水晶に見えたことが由来。
「ホロコースト」の始まりとされる。
②カトリーヌ・ド・メディシス
フランス王国の王妃。
国王が亡くなる自身が摂政となり政務を行う。
「ユグノー戦争」が勃発すると、プロテスタントの一派であるユグノー(フランスのカルヴァン派に対する呼称)を弾圧する(サン・バルテルミの虐殺)など後世に悪名を残した。
③ノストラダムス
フランスの医者、占星術師。
国王の死を予言したとされ、カトリーヌ・ド・メディシスから信頼を勝ち取る。
『ノストラダムスの大予言』は地球規模の危機(戦争や経済不安)が迫ると取り上げられることがあり、現在でも様々論客たちが議論を繰り広げている。