曽米さんは両手で水晶玉を包み込んだまま、じっと目を閉じていた。
テントの中は静まり返っている。
揺れる蝋燭の火。
骨格標本の不気味な影。
そして曽米さんの妙に真剣な横顔。
雰囲気だけなら完全に本物の占い師だった。
いや、むしろ本物より怪しい。
やがて。
曽米さんがゆっくりと目を見開く。
「見える……」
低い声だった。
「見えるぞ……」
その言い回しだけで既に胡散臭い。
僕は思わず身構えてしまう。
すると曽米さんは、水晶を覗き込んだまま僕を指差した。
「リチャード君の背後に見える……」
一瞬、変な霊でも出てくるのかと思った。
「この方は――宇宙大将軍?」
「……宇宙……大将軍?」
僕は素で聞き返してしまった。
完全に意味が分からない。
急にスケールが銀河規模になった。
僕は世界史ネタだと気づけず、「絶対ふざけてるだろ」と本気で思った。
というか、もう占いでも何でもない。
しかし曽米さんは笑わなかった。
むしろ、先ほどまでの茶化した雰囲気が嘘みたいに真剣な表情をしている。
「名ばかりでなく、実が伴わなければ人はついてこず、壁にぶつかっても誰も助けてはくれない。獅子の心を持ったの王になりたくば――」
静かな声だった。
「もっともっと世界史を勉強しなされ」
その瞬間。
僕は妙に言葉を失ってしまった。
さっきまで“宇宙大将軍”とか言っていた人とは思えないくらい、急に核心を突くことを言い始めたからだ。
僕は今でも、自分に自信があるわけじゃない。
世界史だって、曽米さんや伊藤に比べればまだまだだ。
影が薄いのも昔から変わらない。
だからこそ、“名ばかりでは駄目”という言葉が、変に胸へ刺さった。
気づけば僕は小さく頭を下げていた。
「……ありがとうございます」
言った後で我に返る。
何を真面目に感謝してるんだ僕は。
さっきまで宇宙大将軍だったんだぞ?
この時間は一体何なんだ。
僕は混乱したまま、水晶玉を見つめる。
すると隣で伊藤が深々とため息をついた。
「もう行くぞ」
完全に呆れ切った声だった。
「こんな茶番、付き合ってられない」
伊藤は踵を返そうとする。
けれど。
曽米さんが静かに言葉を投げた。
「そこの者」
空気が変わる。
「本当にこのままで良いのか?」
伊藤の足が止まった。
テントの中が妙に静かになる。
伊藤は振り返らないまま、低く返す。
「……どういう意味だ?」
その声には、さっきまでとは違う硬さがあった。
曽米さんは水晶玉から目を離さない。
「自分を偽り続けていたら、他者からの真の評価は得られない」
蝋燭の火が揺れる。
「ありのままの姿を晒すことで、見える景色もある」
その言葉を聞いた瞬間。
伊藤が絶句した。
僕は思わず伊藤を見る。
さっきまで冷静だった横顔が、明らかに揺らいでいた。
唇がわずかに震えている。
目を見開いたまま、何も言えない。
その姿を見て、僕の胸がざわつく。
伊藤は以前、僕に聞いた。
――女子生徒と同じような格好で学校生活を送ると言ったら。
あの言葉。
あの真剣な表情。
全部が頭の中で繋がっていく。
僕は急に、この薄暗いテントの空気が息苦しく感じ始めていた。
テントの中に重たい沈黙が落ちる。
揺れる蝋燭の火だけが、ぼんやりと僕たちの顔を照らしていた。
伊藤はまだ立ち止まったままだ。
背中越しでも分かる。
空気が張り詰めている。
僕は曽米さんと伊藤を交互に見ることしかできなかった。
さっきまで文化祭の出し物として笑っていられた空間が、いつの間にか別物になっている。
曽米さんは静かに水晶玉を撫でながら、再び口を開いた。
「アダムとイヴの逸話を知っているよね?」
唐突だった。
けれど、曽米さんは構わず続ける。
「イヴは知恵を得た代償として、多くの苦しみを背負うことになった」
薄暗い空間の中、曽米さんの声だけが妙に響く。
「女として生きるということは、痛みと哀しみが伴うということ」
僕は意味が分からず瞬きをした。
どうして急に聖書の話になるんだ。
しかも、“女として生きる”?
伊藤へ向けられている言葉なのは分かる。
でも、その意味が上手く飲み込めない。
僕は困惑したまま伊藤を見る。
すると。
伊藤はゆっくりと振り返った。
その横顔には、さっきまでの動揺がまだ残っている。
けれど同時に。
それ以上に強い何かが宿っていた。
伊藤は曽米さんを真っすぐ見据え、静かに言い返す。
「君に言われずとも」
低い声だった。
けれど、不思議なくらい芯が通っている。
「覚悟なら、とうにできている」
僕は息を呑んだ。
その言葉があまりにも重かったからだ。
軽い冗談でも。
感情的な反発でもない。
本当に覚悟を決めた人間の声だった。
その瞬間、僕はようやく理解する。
伊藤はただ“興味本位”で言っていたわけじゃない。
制服の話も。
ありのままの姿の話も。
全部。
全部、伊藤の中では本気だったんだ。
テントの中に再び静寂が訪れる。
僕だけが、その空気についていけていなかった。
ただ。
伊藤の横顔から、どうしても目を離せなかった。
重たい沈黙を破るように、突然テントの外が騒がしくなった。
「お、お待ちくだされ!」
大堤君の焦った声が聞こえる。
「なりませぬぞ!あいにく先客がおられますゆえ――」
その直後。
別の声が被さった。
女性の声だ。
「覗くぐらいいいでしょ?」
どこか呆れたような、それでいて押しの強い口調。
聞き覚えがある。
僕が反応する間もなく、入口の布がばさっと開いた。
外から光が差し込み、一瞬だけ暗闇が揺らぐ。
「ここかしら?」
入ってきた人物が周囲を見回す。
「数撃ちゃ当たるって評判の占い師がいるって噂の――」
そこで僕は、その顔を見て思わず声を上げた。
「ナイチンゲール先生?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
保健医の内地先生が、じとっとした目でこちらを見る。
「あら、獅子御君に伊藤君じゃない」
「伊藤君」という言葉に僕はつい反応してしまう。
内地先生は伊藤が女性であることを知らないからだ。
そしてすぐにため息をついた。
「というかナイチンゲールって呼び方、やめて頂戴って言ったわよね?」
「す、すみません!」
僕は反射的に頭を下げる。
またやってしまった。
内地先生は保健室でやたら献身的に面倒を見てくれるせいで、一部生徒から半ば冗談で“ナイチンゲール先生”と呼ばれている。
でも本人はその呼び名をあまり気に入っていない。
以前も「養護教諭と看護師は別物なの」と真顔で訂正されたばかりだった。
内地先生は呆れたように肩をすくめる。
「それより……」
そう言ってから、薄暗いテントの奥へ視線を向けた。
水晶玉。
蝋燭。
骨格標本。
そして占い師姿の曽米さん。
内地先生は「あー……」と微妙な顔になる。
「占い師って曽米さんのことだったのね」
ちょっとガッカリしていた。
どうやらもっと本格的な何かを想像していたらしい。
いや、十分本格的ではあるんだけど、方向性が怪しすぎる。
すると曽米さんが、水晶玉を撫でながらゆっくり口を開いた。
「アダムとイヴの次は天使がやってきたか」
また妙に雰囲気のある言い回しだ。
「今日は中々騒がしい一日だが、まぁよい」
僕は心の中で即座にツッコむ。
――今日しかやってないじゃん。
さも毎日この預言所を開いてるみたいに言わないでほしい。
曽米さんは続ける。
「内地先生は婚期を占いに来たのかね?」
「ぶっ」
危うく吹き出しかけた。
直球すぎる。
しかも教師相手に。
内地先生は呆れた顔で額を押さえる。
「勝手に婚期を占わないで頂戴……」
そこまではいつもの調子だった。
けれど次の瞬間、少しだけ遠い目をする。
「……けれど、図星ではあるのよね」
その言葉に、僕と伊藤は同時に固まった。
まさか認めるとは思わなかった。
曽米さんだけが「ふっ」と意味深に笑っている。
そしてテントの空気は、再び妙な方向へ進み始めていた。
内地先生が困ったように笑った、その直後だった。
曽米さんが突然、水晶玉へ両手をかざす。
「見える……」
いや、まだ了承取ってないよね?
僕がツッコむ暇もなく、曽米さんは勝手に占いを開始していた。
「見えるぞ……」
薄暗いテントの中。
揺れる蝋燭。
怪しげな音楽。
完全に空気へ飲まれたのか、内地先生もいつの間にか真面目な顔になっている。
そして。
「理想はそうね、年収一千万以上」
急に現実的だった。
「身長百八十は最低でも欲しいわ」
条件が高い。
「料理ができて、年下で――」
止まらない。
内地先生は完全に“理想の男性像発表会”を始めていた。
ここ結婚相談所じゃないんだけど。
僕は隣の伊藤を見る。
伊藤も半ば呆れたような顔をしていた。
というか、さっきまでの重たい空気が嘘みたいだ。
何なんだこの空間。
すると曽米さんが、水晶を覗き込みながら静かに口を開く。
「その条件での結婚は臥薪嘗胆……失敬、前途多難」
「うっ」
内地先生が露骨にダメージを受ける。
だが曽米さんは容赦しない。
「だが、妥協すれば身近に……」
内地先生が机へ身を乗り出す。
「妥協すれば?」
曽米さんはゆっくりと言った。
「日本史を教え」
僕と伊藤の脳裏に、同じ人物が浮かぶ。
「癖の強い喋り方をし」
確定だ。
「タコ焼きをこよなく愛する男が寄ってくるであろう」
末長先生だった。
どう考えても末長先生だった。
僕と伊藤は思わず顔を見合わせる。
しかし。
当の内地先生は、本気で分かっていないらしい。
「そんなソース顔の人、近くにいたかしら?」
しかもなぜか僕たちへ助けを求めてきた。
やめてほしい。
これを説明するのはかなり危険だ。
沈黙が流れる。
すると伊藤が、すっと目を細めた。
そして皮肉交じりに発音良く呟く。
「レ・ミゼラブル」
「え?」
内地先生が首を傾げる。
「レ・ミゼラブル?」
僕は思わず続けてしまった。
「ああ無情……」
言った瞬間、しまったと思った。
内地先生の眉がぴくりと動く。
「ちょっと」
嫌な予感しかしない声だった。
「それどういう意味?」
僕と伊藤は同時に視線を逸らす。
「先生をからかわないで教えなさいよ?」
内地先生がじりっと距離を詰めてくる。
「ねぇってば!」
もう駄目だ。
これは面倒な流れになる。
僕と伊藤は無言で頷き合う。
そして次の瞬間。
僕たちは一斉にテントを飛び出した。
「ちょ、待ちなさい!」
背後から内地先生の声が飛んでくる。
廊下へ出た僕たちは、そのまま全力で走った。
文化祭の喧騒の中を駆け抜けながら、僕は思う。
――今日は本当に、情報量が多すぎる。
①侯景
中国南北朝時代の武将。
南朝に対して反乱を起こすも、権謀の限りを尽くし苛烈な統治もあって部下に殺害された。
宇宙大将軍を自称した。
②旧約聖書
ユダヤ教の聖典。
古代イスラエルの神話や歴史をまとめた書物。
天地創造、アダムとイヴ、出エジプトなどの祖先の物語が記されている。
キリスト教(新約聖書)やイスラム教(コーラン)との間には多くのルーツを持つ。
③三国干渉
日清戦争で勝利した日本は「下関条約」により遼東半島を得た。しかし、日本の進出を警戒したロシア・ドイツ・フランスは外交圧力をかけ遼東半島を返還させることに成功する。
日本政府は国民の反発心を利用し、「臥薪嘗胆」をスローガンに掲げ、軍備拡張競争に参入することになった。
④レ・ミゼラブル
フランスの小説家ユーゴーによる歴史小説。
刑期を終え出所した主人公を軸に、激動のフランス革命期の人々を描いた物語。
日本では「ああ無情」というタイトルで出版された。