文化祭が終わってから、校内の空気は少しずつ変わり始めていた。
次に控えている大きな行事――体育祭。
放課後になると、各クラスから応援練習の掛け声が聞こえるようになり、廊下では「リレー誰が出る?」だの「クラス対抗どうする?」だの、そんな会話が飛び交っている。
そんな中、僕たちは体育の授業を終え、昼休みを迎えていた。
校庭での授業だったせいで、制服へ着替えた今でも身体にじんわり熱が残っている。
僕と大堤君は教室へ戻る途中、そのままトイレへ立ち寄った。
昼休み前だからか、人は少ない。
窓から入る風だけが妙に涼しかった。
すると手を洗いながら、大堤君が自信満々に胸を叩く。
「体育祭の騎馬はワタクシにお任せくだされ」
いつもの芝居がかった口調だ。
「大船に乗ったつもりで構いませぬぞ」
僕は思わず笑ってしまう。
「あはは」
確かに、大堤君は背が高い。
しかも体格も良い。
騎馬戦ではかなり頼もしい存在だろう。
「大堤君は背が高いし、簡単に鉢巻きを取られそうにないから安心して騎馬戦に臨めるよ」
すると大堤君は眼鏡をくいっと上げ、不敵に笑った。
「フッ……戦場において重要なのは体格だけではありませぬ」
また始まった。
「敵の動きを読む知略――まさに兵法が必要なのです」
「騎馬戦に兵法って必要かな……」
「必要ですぞ」
大堤君は真顔だった。
「ワタクシは既に数パターンの布陣を考案済み。場合によっては魚鱗陣も――」
「騎馬戦で魚鱗陣ってどうやるの?」
僕は苦笑しながら蛇口をひねる。
冷たい水が火照った手に心地よかった。
そのまま僕たちは並んで手を洗う。
すると。
廊下の方から、ガッ……ガッ……と足音が聞こえてきた。
誰かがこちらへ近づいてくる。
僕と大堤君がトイレを出ると、そこには曽米さんが立っていた。
……いや。
正確には、“立っていた”というより、“何かやらかしていそうな雰囲気で突っ立っていた”。
そして曽米さんは僕たちの顔を見るなり、
「ギョッ!?」
と声を上げ、本当に“ギョッ”とした表情を浮かべた。
驚き方が漫画みたいだった。
僕は思わず足を止める。
「え、なに?」
すると僕は気づく。
曽米さんの手。
そこには――齧られたジャガイモが握られていた。
しかも生だ。
なぜ。
どうして昼休み前に廊下で生のジャガイモを齧っているんだこの人は。
僕の脳が状況理解を拒否していると、隣の大堤君が目を見開いた。
「ヒミコ様……!」
珍しく本気で動揺している。
「それはワタクシの実家で取れたジャガイモではありませぬか!?」
大堤君がクラスメートに差し入れるつもりで持ってきたジャガイモらしい。
大堤君はさらに一歩踏み出す。
「もしや食したわけではないでしょうな!?」
すると曽米さんは、ジャガイモを片手にぶんぶん振りながら反論した。
「そういえばピョートル君の実家って農家だったような……」
まるで探偵の仕草をする曽米さん。
「たまたまアゴヒゲの教室の前を通ったら、廊下に落ちてたジャガイモを拾っただけだもん」
情報量が多い。
まず“アゴヒゲ”が誰なのか一瞬で脳裏に浮かぶ。すぐに那智君だと察する。
そして何より問題なのは、“廊下に落ちてたジャガイモを拾って齧った”という部分だ。
普通、拾わない。
まして食べない。
しかし。
なぜか大堤君は胸を撫で下ろしていた。
「よ、よかった……」
何が?
僕は完全に置いていかれていた。
すると曽米さんが突然こちらを向く。
なぜか目が輝いている。
嫌な予感しかしない。
「リチャード君!」
僕は反射的に身構えた。
「昼休みはジャガイモ飢饉について話そうね!」
やっぱりそっちに繋がるんだ。
アイルランド。
ジャガイモ。
大飢饉。
曽米さんの中で既に歴史トークへの導線が完成している。
僕は自分の制服を見る。
体育終わりで汗ばんでいるし、まだ着替えも済ませていない。
「いや、その前に」
僕は苦笑しながら答えた。
「汗かいてるから着替えたいんだけど……」
すると曽米さんは「むっ」と少し不満そうに頬を膨らませた。
どうやら今すぐ語り始めたかったらしい。
すると、その時だった。
廊下の奥から、慌ただしい足音が響いてくる。
バタバタと床を蹴る音。
しかもかなり切羽詰まっている。
僕は反射的にそちらへ顔を向けた。
そして次の瞬間。
「そこをどいてくれぇぇぇ!!」
悲鳴みたいな声が響く。
那智君だった。
顔面蒼白。
片手で腹を押さえ、もう片方の手を前へ伸ばしながら全力でこちらへ走ってきている。
様子がおかしいなんてもんじゃない。
完全に限界寸前だ。
僕は思わず一歩後ずさる。
「あっ……」
けれど。
その進行方向には――曽米さんが立っていた。
しかも、なぜか微動だにしない。
僕は慌てて声を上げる。
「曽米さん、そこ男子トイレだよ!?」
いや、そこじゃない気もするけど、とにかく退いてあげないとまずい。
しかし曽米さんは、そんな僕の言葉を無視するように、手に持った齧りかけのジャガイモを見つめた。
そして。
探偵みたいな顔で呟く。
「このジャガイモ、齧った犯人わかっちゃった」
「……え?」
僕は理解できなかった。
何の話?
犯人?
というか今それどころじゃないよね?
那智君もう本当に限界そうなんだけど。
しかし隣を見ると、大堤君が「なるほど……」みたいな顔で深く頷いていた。
えっ、分かるの?
僕だけ置いていかれてる?
曽米さんはジャガイモを掲げながら続ける。
「この歯型……そして拾われていた場所……」
妙に名推理っぽい口調だった。
「全て繋がったよ」
いや全然繋がらない。
すると那智君が涙目で叫ぶ。
「頼むから推理は後にしてくれぇぇぇ!!」
その瞬間。
曽米さんはスッと横へ退いた。
まるで“全てを見届けた名探偵”みたいな顔で。
那智君はその隙間を風のように駆け抜け、そのまま男子トイレへ飛び込んでいった。
直後。
個室のドアが勢いよく閉まる音が響く。
しかし、曽米さんはそれで終わらなかった。
男子トイレへ駆け込んだ那智君へ向かって、追撃するように声を張り上げる。
「ちなみにティコ・ブラーエの死因は、宴会中にトイレを我慢しすぎたことが原因って言われてるからねー!」
個室の向こうから、
「やめてくれぇぇぇ!!」
という悲痛な叫び声が返ってきた。
僕は完全に思考が停止する。
ティコ・ブラーエ?
なんで今その話?
しかもタイミングが最悪すぎる。
僕はもうツッコむ気力もなく、曽米さんへ声をかけた。
「曽米さん」
すると曽米さんは「なに?」と振り返る。
「そこにいると、男子トイレを覗いてるようにしか見えないから教室戻ろう」
冷静に考えてかなり危ない構図だった。
女子生徒が男子トイレ前に居座りながら、中へ向かって歴史人物の死因を叫んでいるのだ。
通りかかった人に見られたら誤解どころでは済まない。
しかし曽米さんは腕を組みながら、
「でも歴史は繰り返される可能性が――」
「繰り返さなくていいから!」
僕は即座に遮った。
すると隣で、大堤君がなぜか深く頷き始める。
「フム……この状況、まるで徳川家康が武田信玄に臆した時を彷彿とさせますな」
なぜ?
どう繋がった?
僕が困惑している間にも、大堤君の解説は始まってしまう。
「三方ヶ原の戦いにて家康公は武田軍の圧力に恐れおののき――」
しかも妙に熱が入っている。
曽米さんも「なるほどなるほど」と頷き始めた。
いや、絶対分かってないでしょ。
男子トイレの前で戦国時代の講義を始めないでほしい。
僕はもう何かを止めることを諦めた。
どうせ止めても話題が別の歴史へ飛ぶだけだ。
僕は小さくため息を吐き、壁にもたれかかる。
個室の向こうからは、時折那智君のうめき声が聞こえてくる。
そして目の前では、曽米さんと大堤君が「排泄を我慢した歴史人物」について語り合い始めていた。
……昼休み前に見る光景じゃない。
僕は静かに思った。
――早く教室へ戻りたい。
それからさらに二十分後。
ようやく那智君がトイレから出てきた。
長かった。
本当に長かった。
僕たちはまだ昼食を食べていない。
しかも時計を見ると、午後の授業開始まで残り三十分ほどしかない。
普通なら今頃、購買へダッシュしている時間帯だ。
なのに。
「つまり戦国時代における兵站とは――」
大堤君の歴史講義は未だ継続していた。
しかも曽米さんが妙にノリノリで相槌を打っている。
「へぇ~!」
「それってヴァレンシュタイン……じゃなかった織田信長もやってた?」
日本史がそこまで得意なわけでもないのに、なぜそんな楽しそうなんだ。
しかも、信長をヴァレンシュタインと同列に語るのは曽米さんぐらいだ。
僕はもう半分虚無みたいな気持ちで二人を眺めていた。
すると、那智君がふらふらと歩いてくる。
両手をぶらぶら揺らしながら、疲れ切った声で呟いた。
「だいぶ楽になったぜ……」
顔色もかなり戻っている。
どうやら本当に回復したらしい。
すると大堤君が顎に手を当て、探偵のような顔で言った。
「フム……やはりナチス殿の腹痛の原因はジャガイモの芽でしょうな」
「ナチス殿」とは那智君のことだ。
那智君が「芽?」と眉をひそめる。
大堤君は続けた。
「取り除かずに食したのではありませぬか?」
「……あ」
那智君の表情が固まった。
図星らしい。
大堤君は淡々と説明する。
「ジャガイモの芽には毒がありますゆえ」
その瞬間。
僕の中でようやく全てが繋がった。
だから腹痛。
だから曽米さんの“犯人”発言。
だからティコ・ブラーエの話まで飛び出してきたのか。
僕は今さら理解し、小さく呟く。
「そういうことだったんだ……」
すると曽米さんが、待ってましたと言わんばかりに口を開いた。
「無知の知って、こういう時に使うんだね」
那智君が「は?」という顔をする。
僕は思わず苦笑いを浮かべた。
意味は分かる。
“自分が知らないことを知っている状態”――ソクラテスの有名な言葉だ。
けれど。
今このタイミングで言うと、ただの煽りである。
案の定、那智君が僕へ詰め寄ってきた。
「リチャード!」
肩を掴まれる。
「どういう意味だよ!」
目が本気だ。
「オレにも分かるように教えろ!」
僕は反射的に目を逸らした。
説明しづらい。
非常に説明しづらい。
「えっと……その……」
僕が言葉を濁していると、曽米さんが横から補足する。
「つまり“自分が無知だと理解することが大切”って意味!」
そこまでは良かった。
だが次の瞬間。
「アゴヒゲは“知らないことを知らなかった”から、お腹壊したんだね!」
完全に追撃だった。
「回りくどい言い方するんじゃねぇ!」
那智君の叫びが廊下に響く。
僕はもう止める気力もなく、小さくため息を吐いた。
……昼休み、あと二十五分。
僕はなんとか教室に戻るよう仕向けようとしたが、曽米さんの視線は那智君の手元に向いていた。
さっき洗ったばかりの濡れた両手だ。
曽米さんは真顔で尋ねる。
「ちゃんと手を泡立てて洗った?」
那智君はうんざりした顔を浮かべる。
「当たり前だろ!」
声にはまだ疲労が滲んでいた。
「オレだってまだ昼メシ食ってないんだよ。気分は最悪だが、少しは腹に入れないと午後の授業に耐えられねぇ」
その言葉を聞き、僕は今しかないと思った。
これ以上ここにいると、本当に昼休みが終わる。
僕はすかさず口を挟む。
「早く教室に戻ろう?」
ほとんど懇願だった。
「僕たちもお昼食べてないんだから」
すると曽米さんは僕の言葉を聞き流すように、那智君へ視線を向けた。
「ねぇ、アゴヒゲ?」
「……あん?」
那智君が露骨に嫌そうな顔をする。
曽米さんは構わず続けた。
「しっかり泡を立てないで手を洗わないと、どうなるか知ってる?」
那智君は最初、「何言ってるんだコイツ?」みたいな顔をしていた。
しかし。
曽米さんの妙に真剣な表情を見た瞬間。
その顔色が徐々に変わっていく。
「え……」
さっきまでの気怠げな態度が消える。
「ま、まさか……」
目が見開かれる。
「死ぬのか!?」
なんでそうなるんだ。
僕は思わずツッコみそうになったが、曽米さんは既に“預言者モード”へ入っていた。
薄暗いトイレ前。
ジャガイモを片手に持ったまま、静かに告げる。
「――貧乏になるよ」
沈黙。
数秒後。
「なんだそっちかよぉぉぉ!!」
那智君が頭を抱えた。
しかし次の瞬間。
彼は猛ダッシュで再びトイレへ戻っていく。
「オレはサッカーで絶対成功するんだぁッ!!」
叫び声が廊下へ響き渡る。
そして直後。
洗面台の方から、
ゴシゴシゴシゴシ!!
という凄まじい音が聞こえてきた。
那智君が本気で手を洗っている。
しかもさっきより明らかに念入りだ。
僕は呆然とその光景を見つめる。
「……信じるんだ」
僕がぽつりと呟くと、曽米さんは満足そうに頷いた。
「『泡立てて手を洗わない人間は貧乏人である』。『アゴヒゲは泡立てて手を洗わない人間である』。ゆえに『アゴヒゲは貧乏人である』」
三段論法を駆使してまで説得力のあることを言う曽米さん。
でも『泡立てて手を洗わない人間は貧乏人である』って、ただの偏見だよね?
大堤君まで腕を組みながら深く頷く。
「手水の文化もまた、歴史の積み重ねですな」
もう誰も止められない。
僕は静かに天井を見上げた。
昼休み終了まで、残り二十分。
……もうパン一個を流し込めれば御の字かもしれない。
①ジャガイモ飢饉
アイルランドで主食として栽培されていたジャガイモが疫病により被害を受け、多くの餓死者や病死者を出した。
②ティコ・ブラーエ
デンマークの天文学者。
望遠鏡が発明される以前に、超人的な精度で肉眼による天体観測を行った人物。
膨大な観測データがケプラーの法則へ繋がり、最終的にはニュートン力学の土台になった。
③ソクラテス
古代ギリシアの哲学者。
無知を自覚することで物事の本質を考え続けることの重要性を説いた「無知の知」や、「三段論法」による問答法など西洋哲学の基礎を築いた。
弟子にプラトン、孫弟子にアリストテレスがいる。
④南海泡沫事件
イギリス政府が戦費の調達、返済のために設立した「南海会社」の株価暴落事件。
「資産価格が本来の価値を大きく超えて上昇している状態」のことを経済学では「バブル(泡沫)」と呼ばれる。
過熱感が頭打ちすると利益を確定させるため大量の株が投げ売りされ、逃げ遅れた投資家たちは莫大な損失を抱えることになった。