準決勝が始まるまで少し時間があり、僕たちは待機場所で他クラスの騎馬戦を眺めていた。
グラウンドでは別のクラス同士が激しくぶつかり合い、鉢巻きが宙を舞うたび歓声が上がる。砂埃の匂いと熱気が混ざっていて、立っているだけでも体力を奪われる。
僕はようやくペルシャ猫の着ぐるみから解放され、まだ火照りの残る体をうちわで扇いでいた。
もうあれは懲り懲りだ。
次は普通に戦いたい。
心からそう思っていた、その時だった。
「ねぇねぇ、次の奇策なんだけどみんな聞きたい?」
曽米さんが、満面の笑みで切り出した。
まだあるの?
というか、一回戦の時点で十分すぎるほど嫌な思いをした。これ以上の奇策など、僕の身体が耐えられる気がしない。
僕はなるべく穏やかな口調を意識して言った。
「奇策じゃなくて普通にやろう。あまり複雑な作戦を立てるとみんな混乱しちゃうから」
自分でも驚くほど真っ当な意見だった。
隣の伊藤も即座に頷く。
「ああ。体育祭の一部でしかない騎馬戦に頭を働かせるのは非効率的すぎる」
珍しく僕と伊藤の意見が完全一致した。
これで曽米さんも少しは考え直してくれるかと思ったのだが――
「本当にそうでしょうかな?」
ゆったりとした声が割って入った。
大堤君だった。
彼は腕を組み、どこか演説でも始めそうな顔で言葉を続ける。
「普段教室で陽の目を見ることのない者たちが輝ける唯一の華――それが騎馬戦だとワタクシは思うのですよ」
一瞬、周囲が静まった。
そして次の瞬間。
「……確かに」
「言われてみれば……」
「騎馬戦って男子種目の見せ場ではあるよな……」
周囲にいた男子たちがざわつき始めた。
空気が変わっていくのが分かる。
特に普段教室の隅で静かにしているタイプの男子たちの目が、妙に輝き始めていた。
僕は言葉を失った。
なぜなら僕自身、その“大勢の中の一人”だという自覚があったからだ。
否定したくてもできない。
騎馬戦に青春の見せ場を重ねてしまう男子の気持ちが、少し分かってしまう。
何も言い返せなかった。
その沈黙を好機と見たのか、曽米さんがぱんっと手を叩く。
「それじゃ作戦を話すよ――」
止まらない。
もう誰にも止められない流れになっていた。
僕は助けを求めるように隣の伊藤を見る。
伊藤も僕と目が合った。
だが、その表情は諦めきっていた。
“もう止めようがない”
そう顔に書いてある。
そして伊藤は小さく息を吐いてから言った。
「曽米の言葉を受け入れるのは耐え難いものがあるが、大堤の言い分には一理ある」
そこで一度言葉を切る。
伊藤は騎馬戦のグラウンドを見つめながら、少しだけ自嘲気味に笑った。
「この伊藤という人間が役立てるのは、こういう機会しかないからな」
その言葉に、僕は返事ができなかった。
伊藤は僕から見れば運動神経も良いし、頼りになる。
それでも本人には、本人にしか分からない思うところがあるのだろう。
だから僕は何も言わず、ただ頷いた。
その横で、曽米さんは嬉々として地面に紙を広げ始めた。
僕はそれを見下ろしながら思う。
……どうか次は、猫の着ぐるみ以上の何かではありませんように。
ただ、それだけを祈っていた。
曽米さんが立案した作戦は、僕の想像の遥か斜め上をいくものだった。
「相手は伊藤ちゃんだけを狙ってくるよ。私がそう仕向けたからね」
あまりにさらっと言うものだから、僕は一瞬聞き流しかけた。しかし、言葉の意味を頭の中で反芻した瞬間、思わず曽米さんの顔を見返してしまう。
「そう仕向けたって……相手のクラスが曽米さんの言葉を信用したってことだよね?」
騎馬戦の作戦を、しかも対戦相手に自分から教えるなんて普通じゃない。いや、曽米さんに“普通”を求めること自体が間違いなのかもしれないけれど、それでも限度というものがある。
僕の隣で腕を組んでいた伊藤も、呆れ半分の声で言った。
「にわかに信じ難い。他のクラスの人間が作戦を吹聴したとして、誰が耳を傾ける?それこそ罠だと思って警戒するに決まってるだろ」
確かにその通りだった。僕だって逆の立場なら絶対に信じない。
ところが曽米さんは、自信満々に胸を張るでもなく、なぜか辺りをきょろきょろ見回し始めた。まるで国家機密でも話すみたいに声を潜める。
「これは私とリチャード君、伊藤ちゃん、ピョートル君だけの秘密にしてほしいんだけど――」
その前置きの時点でもう嫌な予感しかしない。
「実は相手の騎馬の人たちに『もし私たちのクラスに勝てたら内地先生の連絡先を教えてあげる。それに、うちの軍師である伊藤枢を狙えばうちは総崩れになるよ』って教えたんだよ。そしたら男性陣たちが寄ってたかってきちゃってさ。まさか私なりに練り上げた
僕は絶句した。
……いや、待ってほしい。
前半も後半も問題しかない。
内地先生――保健室の先生で、男子生徒の間では“聖海高校のナイチンゲール”なんて呼ばれている人気者だ。優しくて綺麗で、怪我をした男子が必要以上に保健室へ行きたがる原因を作っている張本人でもある。
その連絡先を報酬にした?
勝手に?
「内地先生の連絡先を勝手に教えて大丈夫なの?」
僕が恐る恐る尋ねると、伊藤も険しい顔のまま口を挟む。
「作戦を漏らした意図はさておき、内地先生の許可はしっかりもらってるんだろうな?」
曽米さんは僕たちの視線を正面から受け止めることなく、
「……あはは」
と、乾いた笑いだけを返した。
その瞬間、僕と伊藤のため息がぴったり重なった。
やっぱり無許可か。
問題しかない。
しかし、そんな僕たちとは対照的に、大堤君だけは妙に冷静だった。腕を組み、軍師の分析官のような顔で状況を整理している。
「だとすれば――伊藤殿の騎馬を囮にして、敵を誘い込み一網打尽にする、というわけですな」
大堤君が静かに言う。
「つまるところ、これは瞬時の判断力と緻密な連携が求められる危険な賭けですぞ」
僕は思わず伊藤を見る。
伊藤は難しい顔でグラウンドを眺めていた。風で前髪が揺れる。その表情からは、呆れなのか、感心なのか、それとも諦めなのか読み取れない。
たしかに理屈としては成立していた。
相手は“軍師・伊藤枢を倒せば勝てる”と信じ込み、伊藤の騎馬へ集中する。
その隙に、手薄になった敵陣へ僕たちが横から入り込む。
言うなれば、陽動。
囮を前に出して敵の戦力を一点に引きつけ、その裏を突く戦術だ。
ただし――。
「それってつまり……」
僕は伊藤と曽米さんの顔を交互に見ながら言った。
「伊藤が、ものすごく狙われるってことだよね」
「そういうこと!」
曽米さんは満面の笑みで親指を立てた。
伊藤はこめかみを押さえた。
僕は空を見上げた。
五月の青空は雲ひとつなく晴れ渡っている。
なのに、僕の気持ちだけが、ひどく曇っていた。
準決勝の騎馬戦が始まろうとしていた。
グラウンドには砂埃が舞い、応援の歓声と校庭に響く音楽が入り混じっている。さっきまで他人事のように眺めていた騎馬戦が、いよいよ自分たちの番になると、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。
しかも相手は、一回戦とはまるで違う。
背の高い男子が肩を組んで騎馬を組み、腕を回して準備運動をしている。そのどれもが体格に恵まれていて、野球部やサッカー部だと一目でわかる連中ばかりだった。肩幅も厚みも、僕なんかとは比べものにならない。
いかにも“本格派”という圧がある。
けれど、曽米さんの策略によって、あいつらの狙いは一つに絞られている。
――伊藤の騎馬。
それがわかっているからこそ、僕は試合よりも別のことばかり考えてしまっていた。
男たちに四方から囲まれる女子である伊藤の姿。
腕が伸びてきて、鉢巻きを奪いにくる光景。
砂の上でもみ合いになるかもしれない。
そう想像しただけで、背筋がひやりとした。
僕は我慢できず、伊藤のそばへ歩み寄った。
「伊藤、僕が代わりに囮をやるよ。さすがに――」
最後まで言い切る前に、伊藤は僕の言葉を静かに遮った。
「この伊藤なら心配無用だ」
その声には迷いがなかった。
いつもの凛とした響きだ。
伊藤は腕を組みながら、自分の騎馬をちらりと見た。
「それに馬の役割を果たすものたちも承知してくれていたようだ」
「え?」
僕が聞き返すと、伊藤は小さく息をつく。
「曽米が『囮になってくれたら私の連絡先を教えてあげる』と根回しをしていたらしい」
「……手が込みすぎてるよ」
思わず額を押さえた。
どこまで交渉材料にしているんだ、あの人は。
伊藤は呆れたように肩をすくめながらも、少しだけ口元を緩めた。
「馬の方が相手より殺気立っている。だから獅子御が止めても彼らは止まらないだろう」
言われて騎馬の下を見る。
伊藤を担ぐ男子たちは、確かに異様な気迫だった。
「絶対に守り抜く……!」
「曽米さんの連絡先は俺たちのものだ……!」
「誰にも伊藤には触れさせないぞ!」
……目的が守護なのか私欲なのか、もうよくわからない。
ただ少なくとも、士気だけは異常に高かった。
それでも僕の不安は消えなかった。
伊藤がどれだけ強くても、相手は全員で襲いかかってくる。
もし転倒したら。
もし誰かが無理に引っ張ったら。
嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
僕は伊藤の目を見て言った。
「怖かったら言ってよ。僕と大堤君が助けに行くから」
自分でも少し熱くなっているのがわかった。
騎馬戦なんてただの競技だ。
勝ち負けより、伊藤に怪我をしてほしくない。
それだけだった。
すると伊藤は、一瞬だけ目を丸くした。
そして――
ふっと表情をほどいた。
普段の鋭さが消えて、まるで別人みたいだった。
柔らかくて、あどけなくて。
思わず息を呑むくらい、女の子らしい笑顔だった。
「獅子御がそばにいてくれるなら怖くない」
その言葉に、僕の心臓が一拍遅れて強く跳ねた。
喧騒に包まれたグラウンドの音が、ほんの一瞬だけ遠ざかった気がした。
笛の音も、歓声も、砂を踏む音も、全部ぼやけて聞こえる。
僕の耳に残っていたのは、伊藤のその一言だけだった。
……ずるい。
そんな顔で、そんなことを言われたら。
「……うん」
僕はなんとかそれだけ返した。
たぶん変な顔をしていたと思う。
熱くなった頬を隠すように視線を逸らし、僕は自分の騎馬の位置へ戻った。
そのとき――
パンッ!!
開始の号砲が、グラウンドに鋭く鳴り響いた。
もちろん。試合の緊迫感と、獅子御が作戦より伊藤を選ぶ瞬間が伝わるように、一人称で続けるね。
開始のホイッスルが鳴った瞬間だった。
まるで解き放たれた猛獣みたいに、相手の中心の騎馬が一斉に動いた。
砂煙を蹴り上げながら、一直線。
狙いは最初から決まっている。
――伊藤の騎馬だ。
「来た……!」
僕が息を呑むのと同時に、伊藤の騎馬が動いた。
相手の進路を読むように、すっと右へ旋回する。
追いかける敵騎馬。
逃げる伊藤の騎馬。
まるで闘牛士が突進する牛をかわしているみたいだった。
けれど、数が違いすぎる。
一騎、二騎、三騎……次々に伊藤の方へ吸い寄せられていく。
曽米さんの策は確かに成功していた。
成功しているはずなのに、僕の胸のざわつきは大きくなるばかりだった。
僕を支える大堤君が、走りながら前方を鋭く見据えている。
「鶴翼の陣、ですかな?」
「え……?」
「敵陣の動きを見て、伊藤殿は持って一分。しかし――」
大堤君の声は冷静だった。
冷静すぎるほどに。
「馬の背丈が相手より分が悪いですぞ。一分も持たぬやもしれませんな」
その言葉が胸に突き刺さった。
僕もわかっていた。
伊藤の騎馬はよく粘っている。でも相手は運動部の集団だ。脚力も体格も違う。
囲まれれば、いずれ押し切られる。
理屈ではわかっていた。
このまま僕たちが背後へ回れば、敵の本陣を突ける。
曽米さんの作戦通りだ。
たぶん、それが一番勝率が高い。
……でも。
僕は前方で敵に追われ続ける伊藤の姿から目を離せなかった。
帽子を押さえながら、左右へ指示を飛ばし、必死に耐えている。
その姿を見た瞬間、もう駄目だった。
僕は大堤君の肩をぐっと掴んだ。
「ごめん、大堤君」
自分でも驚くほど強い声が出た。
「僕にはやっぱり無理だよ。こんな作戦」
勝つための作戦だってわかってる。
ここで背後へ回れば、僕たちのクラスが勝てるかもしれない。
でも――
伊藤が囲まれているのに、それを見捨てて背後に回り込むなんて、僕にはできなかった。
大堤君は一瞬だけ黙った。
そして低く答える。
「少々無理が祟りましたな」
彼もまた、前を見ていた。
「今からでは敵陣背後に回っても勝敗は変わりますまい。なれば……」
僕は叫ぶように言った。
「伊藤を助けに行く!」
気づけば喉が焼けるほど声を張っていた。
「大堤君、お願い!」
大堤君がわずかに目を細める。
そのまま後ろの二人――馬役のクラスメートへ視線を送った。
息を切らしながら走っていた二人が、無言で頷く。
意思は、一瞬で決まった。
「進路変更!」
大堤君の声が飛ぶ。
次の瞬間、僕たちの騎馬が大きく向きを変えた。
本来なら敵の背後へ回り込むはずだった進路を捨てて、
一直線に――
伊藤のもとへ向かって走り出した。
砂が跳ねる。
揺れる視界の向こうで、伊藤の騎馬が敵に包囲されつつあった。
間に合ってくれ。
ただそれだけを願いながら、僕は前だけを見ていた。
伊藤は孤立無援の中、それでも耐え続けていた。
敵の騎馬が四方から迫る。
その中心で、伊藤だけが崩れない。
左手で必死に鉢巻きを押さえ、右手で相手の手を払いのける。ひとつ弾いても、次の腕が伸びてくる。まるで波みたいだった。
それでも伊藤は冷静だった。
「右、半歩引いて!」
「重心を落として!」
鋭い声が飛ぶたびに、伊藤の騎馬が生き物みたいに動く。
相手に押し込まれそうになれば、あえて低く構えて衝撃を受け流す。
囲まれれば敵同士がぶつかるよう絶妙に進路を変える。
もはや騎馬戦というより乱戦だった。
砂が舞い、怒号が飛び交い、何人もの足が入り乱れる。
その渦の中心に伊藤がいる。
「一秒でも時間を稼げればいい」
伊藤の声が風に乗って聞こえた。
「それが囮の役目ならば――……っ!?」
次の瞬間だった。
複数の騎馬が同時にぶつかった。
鈍い衝撃音。
伊藤の騎馬が大きく揺れる。
前が押され、横からぶつかられ、ついにバランスが崩れた。
「伊藤!」
考えるより先に体が動いていた。
僕は騎馬の上から飛び降りていた。
背後で誰かが叫ぶ声が聞こえた気がした。
たぶん大堤君だ。
でも耳に入らなかった。
砂を蹴って、転びそうになりながら、ただ伊藤の方へ走る。
間に合ってくれ。
お願いだから。
倒れ込む伊藤の姿がスローモーションみたいに見えた。
僕は両腕を伸ばした。
次の瞬間、全身に衝撃が走った。
肩。
背中。
腕。
地面に叩きつけられた痛みが一気に押し寄せる。
砂が舞って、口の中がじゃりっとした。
でもそんなことはどうでもよかった。
腕の中に重みがある。
恐る恐る見ると、伊藤が僕の胸元にうずくまっていた。
目をぎゅっと閉じたまま、息を止めている。
「い、伊藤……怪我はない?」
自分でも驚くくらい声がかすれていた。
伊藤のまつげが小さく震える。
やがて、ゆっくりと目を開けた。
ぼんやりした視線が僕を映す。
「……獅子御?」
伊藤は信じられないものを見る顔だった。
「何故ここにいる?どうして騎馬から降りた?」
僕は息を整えるのも忘れて答えた。
「ごめん……やっぱり伊藤が酷い目にあってるのを放っておけなくて」
言ってから、自分でも馬鹿だと思った。
作戦も何も台無しだ。
曽米さんが組み立てた陽動も、大堤君の判断も、全部無駄にしたかもしれない。
でも、あの瞬間はそれしかなかった。
伊藤はしばらく黙っていた。
それから僕の肩、腕、擦りむいた手の甲へと視線を落とす。
砂で汚れ、赤く擦り切れた傷。
それを見た伊藤の表情が変わった。
大きな瞳に涙が滲む。
「……バカ」
かすれた声だった。
「もう少し考えて動け」
怒っているはずなのに、その声はひどく震えていた。
涙をこらえているみたいだった。
僕は苦笑するしかなかった。
「ごめん」
そのとき、少し離れた場所から歓声が上がった。
「取ったぞーーー!!」
クラスメートたちの叫び声。
顔を上げると、残った僕たちの騎馬が敵陣の鉢巻きを奪っていた。
僕と伊藤が引きつけた混乱に乗じて、他の騎馬が一気に攻め込んだらしい。
作戦通りとはいかなかった。
むしろかなり滅茶苦茶だった。
それでも――
僕たちの仇を取るかのように、仲間たちは最後まで戦い抜いてくれた。
判定の笛が鳴る。
勝者、二年一組。
その声と同時に、グラウンドが歓声に包まれた。
砂まみれの地面に倒れ込んだまま、僕は空を見上げた。
青空がやけに眩しい。
胸の上にはまだ伊藤の重みがあった。
その温もりを感じながら、僕はようやく、自分の鼓動がまだ速いままなのに気づいた。
①合従策
中国戦国時代、楚・斉・燕・趙・魏・韓が同盟し秦に対抗。
縦横家の蘇秦(そしん)が提唱した。
合従軍は函谷関の戦いで秦を攻撃するも敗れた。
②連衡策
縦横家の張儀(ちょうぎ)によるもので合従策に対応するべく、秦が個別に同盟を持ちかけることで合従側を対立させるように仕向けた。
後に遠交近攻(遠い国と同盟し、近い国を攻める)政策へと発展させ、秦は中華統一を成し遂げる。