曽米さんの『世界史』愛が強すぎる!   作:公私混同侍

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奔走する策士、飛舞する軍師 その3

 

決勝戦を前にして、僕は保健室のベッドの上にいた。

窓の外からはグラウンドの歓声が遠く聞こえてくる。さっきまであの砂の上にいたのが嘘みたいに、保健室の中は静かだった。

消毒液の匂いが鼻をつく。

内地先生が僕の腕の擦り傷に薬を塗りながら、小さくため息をついた。

 

「また曽米さんに振り回されたんでしょ?」

 

「……はい」

 

僕は苦笑いするしかなかった。

否定できる材料がひとつもない。

むしろ今回に限っては、振り回されたというより吹き飛ばされたに近い。

薬が傷にしみて、思わず肩がぴくっと揺れる。

 

「痛い?」

 

「だ、大丈夫です」

 

そう答えると、内地先生は少し呆れたように笑った。

ベッドの横には伊藤が付き添ってくれていた。

腕を組み、いつになく真剣な顔で僕の様子を見ている。

やがて伊藤が静かに口を開いた。

 

「決勝は棄権するしかない」

 

その一言で、保健室の空気がさらに静まり返った気がした。

 

「さっきの乱戦で負傷したのは獅子御だけじゃない。馬役も負傷した。これ以上続けるのは難しい」

 

伊藤は理性的だった。

いつものように冷静に状況を分析して、感情を挟まず結論を出している。

 

「大堤を通して男性陣を説得する。伊藤は運営に出向いて話をつけてくる」

 

僕はシーツの上に置いた手を見る。

決勝戦。

ここまで来たのに。

あと一歩で優勝だった。

正直、悔しくないと言えば嘘になる。

みんなでここまで勝ち上がってきたんだ。僕だって最後まで出たかった。

けれど、腕を動かすたびに走る鈍い痛みが、それが無理だと教えてくる。

それに伊藤の言う通りだ。

ここで無理をして怪我人が増えたら意味がない。

 

「……うん。わかった」

 

僕は頷いた。

 

「伊藤の判断が正しいと思う」

 

伊藤もわずかに頷き返す。

そのときだった。

保健室の扉が勢いよく開いた。

 

「リチャード君、怪我しちゃったんだって!?」

 

聞き慣れた声が保健室いっぱいに響いた。

曽米さんだった。

髪を揺らしながらずかずかと中に入ってくる。

そしてベッドの僕を見るなり、

 

「次の決勝戦、出られそう?」

 

開口一番、それだった。

僕は一瞬、言葉を失った。

……やっぱり曽米さんにとって、いま最優先なのは決勝戦らしい。

すると伊藤がすっと前へ出た。

そして僕の寝ているベッドを手で示しながら、鋭い声で言う。

 

「君の優先順位はどうなっている?」

 

空気がぴんと張った。

 

「怪我をしたのは獅子御だけじゃない」

 

伊藤の言葉に、曽米さんの表情が曇る。

いつもの勢いが少しだけしぼんだ。

 

「……う」

 

「作戦の結果、複数の負傷者が出た。その事実を軽く見るな」

 

曽米さんは目を伏せた。

それから申し訳なさそうに、制服の裾をぎゅっと握る。

 

「……作戦の詰めが甘かったのは私の責任」

 

いつになく小さな声だった。

 

「それに怪我人を出しちゃったのも私のせい」

 

少し沈黙してから、ぱっと顔を上げる。

その目には、いつもの強い光が戻っていた。

 

「だから今度は私が出るよ!」

 

「……え?」

 

僕は思わず聞き返した。

曽米さんは拳を握っていた。

まるで決意表明みたいだった。

 

「リチャード君の代わりに私が騎馬に乗る!責任は私が取る!」

 

その言葉に、僕は困惑した。

たぶん伊藤も同じだったと思う。

さっきの伊藤の言葉の意味が、まったく伝わっていない。

問題は責任の所在だけじゃない。

人数も足りていないし、怪我人もいる。

それに何より――

 

「それでも後二人足りないし……」

 

僕はベッドの上から曽米さんを見上げながら言った。

 

「これ以上、女性陣を危険に曝すわけにはいかないよ」

 

言うと、曽米さんはきょとんと目を瞬かせた。

保健室の窓の外では、那智君のクラスの騎馬戦が行われている。

僕は伊藤と曽米さんに両脇を支えられながら、ゆっくりと校庭へ向かっていた。

足を動かすたびに、脇腹と腕に鈍い痛みが走る。

けれど、不思議と気分は悪くなかった。

グラウンドから聞こえてくる歓声が近づくにつれて、胸の奥がまた熱を帯びていく。

決勝戦。

本当なら棄権するはずだった。

それなのに僕はいま、こうして校庭へ向かっている。

自分でも呆れるくらい、馬鹿だと思う。

だけど、みんなが待っていると思うと、どうしても行かずにはいられなかった。

校庭に着くと、すでにクラスのみんなが騎馬の周りに集まっていた。

その中心で大堤君が腕を組みながら、なにやらクラスメートに説明している。

僕たちに気づくと、大堤君は目を見開いた。

そしてすぐに心配そうな顔になる。

 

「ライオンハート殿、無理をなさらぬ方が……」

 

「僕は大丈夫だよ」

 

僕は苦笑いしながら答えた。

 

「騎馬の上に乗るだけなら僕じゃなくてもできるから」

 

本当は、大丈夫と言い切れるほどではなかった。

けれど心配させたくなかった。

僕はみんなの前に立つと、小さく頭を下げた。

 

「それより、みんなに迷惑かけてごめん。決勝戦も出られなくなっちゃって」

 

頭を下げながら、自分でも情けないなと思った。

せっかくここまで勝ち上がってきたのに、最後に穴を空けるなんて。

申し訳なさで胸が詰まる。

……でも。

頭を上げた僕の視界に、見慣れない二人の男が飛び込んできた。

 

「……え?」

 

思わず声が漏れた。

騎馬の近くに、体操着姿の大柄な男が二人立っている。

どちらも肩幅が広く、妙に存在感がある。

クラスメート……ではない。

少なくとも僕の記憶に、あんな人たちはいない。

僕は思わず目をこすった。

 

「……あんな大人びた人たちって、大堤君以外にクラスにいたっけ?」

 

大堤君は露骨に目を泳がせた。

 

「あ、あの方たちは……何と申せばよいか……」

 

珍しく歯切れが悪い。

 

「ヒミコ様が直々にお声をかけた手練れのようで」

 

寒気がした。

ものすごく胸騒ぎもした。

僕は目を凝らして、その二人を見つめる。

片方は彫りが深く、日焼けした顔立ちの男。

もう片方は整った顔立ちだが、なぜか体操着のハーフパンツから見えるすね毛の主張がやけに強い。

そして次の瞬間、僕は自分の目を疑った。

 

……え。

……いや。

……まさか。

 

そこに立っていたのは――

 

日本史担当の末長先生と、

古文と漢文担当の宋金先生だった。

僕も伊藤も、その場で固まった。

末長先生が準備運動でもするみたいに肩を回しながら、気さくに言う。

 

「曽米から助っ人頼まれてなぁ」

 

そしてニヤッと笑った。

 

「勝ったら内地先生の連絡先、教えてくれる言うてんねん」

 

「…………」

 

僕の思考が止まる。

一方、宋金先生は腕を組んだまま真顔で言った。

 

「騎馬戦で勝ったら、卒業まで先生の農奴になる契約を曽米と結んだんダ」

 

「…………」

 

農奴。

奴隷じゃなくて農奴。

いや、そこじゃない。

そこじゃないんだけど、どうしてもそこが引っかかる。

頭の中で「農奴?」という言葉がぐるぐる回る。

突っ込みたいことが多すぎて、何から言えばいいのかわからない。

僕は口を半開きにしたまま、隣を見る。

伊藤も同じ顔をしていた。

いつも冷静な伊藤が、珍しく完全に思考停止している。

その横で曽米さんだけが満足げに胸を張っていた。

 

「どう?戦力補強、完璧でしょ?」

 

僕と伊藤は顔を見合わせた。

 

「まずいでしょ!」

 

僕は思わず曽米さんに詰め寄っていた。

周りの視線が一斉に集まる。

それでも止まれなかった。

 

「高校生しかいない騎馬戦に大人が参加するって、絶対問題になるでしょ!」

 

至極まっとうな意見だと思った。

むしろ今この場でそれを言っているのが僕しかいないことに恐怖すら覚える。

だが、当の助っ人二人はまったく悪びれる様子がない。

末長先生は腕を組みながら、喧嘩腰で顔を近づける。

 

「なんやリチャード、いきりくさってからに――」

 

そう言って肩を揺らす。

 

「大人が青春振り返んのが罪や言うんかワレ?」

 

「いや、そこじゃなくて……」

 

思わず反射で返した。

論点がまるで違う。

青春どうこうの前に、ルールの話をしている。

すると今度は宋金先生が、妙に誇らしげな顔で頷いた。

 

「まったくダ」

 

腕を組んだまま、低い声で続ける。

 

「奴隷じゃなくて農奴で妥協してやったことを感謝してほしいくらいダ」

 

「そこも論点じゃないです」

 

僕は即答した。

なぜ先生たちはこんなにも乗り気なんだろう。

しかも誰も「農奴」という単語に突っ込まない。

僕の頭が混乱しているのか、周囲がおかしいのか、だんだん自信がなくなってくる。

そんな僕の横で、曽米さんが不満そうに口を尖らせた。

 

「だってリチャード君、怪我して出られないんでしょ?」

 

「それは……」

 

「それに決勝戦なんて人生で何回もできる経験じゃないんだから」

 

曽米さんはグラウンドの中央を指さした。

他のクラスの騎馬戦が行われている。

歓声がまた大きくなる。

 

「助っ人ぐらい一人や二人いても、誰も文句言わないと思うけど」

 

いや、言う。

絶対言う。

僕の中でそう即答した。

というか「一人や二人」の問題じゃない。

教師が騎馬戦に混ざる前例なんて聞いたことがない。

そこで浮かんだ当然の疑問を、伊藤が冷静に口にした。

 

「事前に運営と相手クラス……」

 

伊藤は一拍置いた。

 

「それと内地先生には了承を得たのか?」

 

その問いは、この場で最も重要な確認だった。

みんなの視線が曽米さんに集まる。

曽米さんは一瞬だけ固まった。

そして視線をふわりと空へ逃がす。

 

「あー……その辺は……まあ……」

 

悪い想像しか浮かばない。

 

「たぶん……大丈夫?」

 

語尾が上がっていた。

僕は額を押さえた。

伊藤も同じタイミングで眉間に手を当てる。

その姿を見て、僕たちは無言で顔を見合わせた。

もう十分だった。

これ以上深く聞けば聞くほど、状況が悪化する未来しか見えない。

そしておそらく、もう止められない。

曽米さんはすでに助っ人を呼び、

助っ人の先生たちは準備運動を始め、

クラスメートたちはなぜか盛り上がっている。

どこをどう切り取っても、今さら引き返せる空気ではなかった。

僕は深く息を吐いた。

 

「……伊藤」

 

「なんだ」

 

「もう、関与しない方がいい気がする」

 

伊藤は即答した。

 

「ああ。同感だ」

 

僕たちは揃って視線を逸らした。

見ない。

聞かない。

これ以上考えない。

そう心に決めた。

そのすぐ横で、曽米さんが拳を突き上げる。

 

「よーし!決勝戦、絶対勝つよー!」

 

末長先生が「おう!」と応じ、

宋金先生が静かに頷く。

歓声と熱気に包まれるグラウンドの中で、

僕と伊藤だけが、すべてを諦めたような顔で空を見上げていた。

 

決勝戦の開始を告げる放送が流れる直前、僕たちは校庭の隅に集まっていた。

周囲では他のクラスの歓声や太鼓の音が入り混じり、グラウンド全体が熱気に包まれている。

そんな中、僕たちだけが騎馬を囲んで円陣のようになっていた。

ただ、その輪の中に担任でもない先生が二人混ざっている光景は、どう考えても異様だった。

末長先生が腕を組み、相手陣営をじっと見つめながら口を開く。

 

「あのクラスには那智(ナッチ)がおるんか。ちゅうことは百戦錬磨の猛者がゴロゴロおるえげつないクラスやで」

 

その視線の先には、すでに整列している決勝の相手チームがいた。

たしかに一回戦や準決勝とは雰囲気が違う。

運動部ばかりなのが一目でわかる。

肩幅も広く、騎馬も安定していて、隙がない。

そしてその中央には、腕を組んでこちらを見ている那智君の姿があった。

末長先生が顎に手を当てる。

 

「なんか、ええアイデアでもあるんか?」

 

そういえば末長先生は、那智君が所属しているサッカー部の顧問だった。

普段から見ているぶん、相手の厄介さもよく知っているんだろう。

すると隣で宋金先生が、やる気があるのかないのか分からない顔で言った。

 

「激しく動き回るのは得意じゃなからナ」

 

そして真顔のまま続ける。

 

「もっと効率よく、直線的じゃないと先生たちは動けないゾ」

 

僕は思わず心の中で突っ込んだ。

……動けない、じゃなくて、動きたくないの間違いでは?

でも誰も突っ込まない。

もはやこの場では、その程度の違和感は誤差になっていた。

すると、それまで黙っていた曽米さんがふっと口元を吊り上げた。

嫌な予感しかしない笑みだった。

 

「ふふふ」

 

そして背負っていたリュックを前に下ろす。

あのリュックだった。

以前、ペルシャ猫の着ぐるみが収納されていた、謎の収納力を誇るリュック。

僕の背筋に嫌な汗が流れる。

曽米さんはそのリュックを地面に置くと、ためらいなく逆さまにひっくり返した。

ばさばさばさっ――と音を立てて、中身がこぼれ落ちる。

 

「……え?」

 

僕は目を疑った。

地面に散らばったのは、

口髭。

つけ鼻。

油性ペン。

黒縁メガネ。

そして、よく分からないカツラ。

完全に変装道具一式だった。

 

「……何これ」

 

僕が呆然とつぶやくと、曽米さんは自信満々に胸を張った。

 

「相手にアゴヒゲ――つまり那智(なち)独志(ひとし)がいるってことは」

 

那智君を指差す。

 

「当然、我らが伊藤ちゃんに狙いを定めてくるってことだよね?」

 

僕は頷いた。

 

「うん。去年同じクラスだったし、伊藤のことは知ってるはずだよ」

 

伊藤は腕を組み、静かに続ける。

 

「人望のある那智がいるということは、クラス全体に情報が共有されていると見ていいだろう」

 

その目はすでに敵陣を観察していた。

 

「それに既に手の内が見透かされているとすれば――」

 

伊藤が眼鏡の位置を指先で直す。

 

「敵が()()()を狙うのは必然」

 

「……」

 

僕は一瞬、言葉を失った。

大将。

伊藤が、自分で自分のことを“大将”と言った。

たしかに間違ってはいない。

うちの軍師だし、作戦の中心人物だ。

実際、伊藤が落ちれば戦況は大きく崩れる。

理屈はわかる。

すごくわかる。

でも。

僕は伊藤の横顔を見ながら、どうしてもおかしくなってしまった。

いつもの無表情で「大将」と言い切っているのが妙に面白い。

本人は大真面目なのに、その言い回しだけ妙に時代劇みたいで。

笑ってはいけない場面だとわかっているのに、口元が緩む。

伊藤がちらりと僕を見る。

 

「……何がおかしい?」

 

「ううん……伊藤も案外、負けず嫌いなんだなって思っただけ」

 

「曽米が調子に乗ってるのが気に食わないだけだ」

 

伊藤はそういうと変装道具を興味深そうに見始めた。

そんな僕たちの前で、曽米さんは変装道具を両手いっぱいに持ち上げて宣言した。

 

「というわけで――」

 

満面の笑みだった。

 

「伊藤ちゃんを増やします!」




①農奴制
農奴とは領主の土地を耕す農民のこと。
中世では農民が戦争や疫病の被害を受けやすく、その保護を領主に求めざるを得ない事情があった。
土地の移動や外部との交流を制限されるが、物として扱われる奴隷とは違い最低限の自由は保障された。
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