曽米さんの『世界史』愛が強すぎる!   作:公私混同侍

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奔走する策士、飛舞する軍師 その4

 

「――伊藤ちゃんを増やします!」

 

曽米さんの高らかな宣言に、僕たちの間に一瞬の沈黙が落ちた。

……増やす?

いや、増やせるものなの?

誰もが同じことを思ったはずだった。

 

しかし次の瞬間、曽米さんは「あ、違った」と自分で手を振って訂正した。

 

「間違った!」

 

そして変装道具の山を指さして言い直す。

 

「伊藤ちゃんが誰だかわからなくなるように、みんなには変装してもらいまーす!」

 

「おおおお!」

 

なぜか驚嘆の声が上がった。

そして空気が一気に変わる。

さっきまで決勝前の緊張感に包まれていたはずなのに、次の瞬間には校庭の隅が仮装大会の会場になっていた。

もはや無法地帯だった。

 

「お、これいいじゃん!」

「ヒゲ貸して!」

「誰か油性ペン持ってこい!」

「そんなカツラ被ったら鉢巻きつけられなくない?」

 

口髭が飛び交い、カツラが宙を舞い、顔に落書きを始める者まで現れる。

なにが作戦会議だ。

完全にお祭りだった。

野球部の坊主頭の男子には、なぜか丸眼鏡が装着されていた。

曽米さんが腕を組みながら満足そうに頷く。

 

「うん、ガンジー」

「なんでだよ!」

 

本人が抗議するが、周りは大笑いだった。

さらに別の男子には、曽米さんが指でカメラを作るポーズをしながら、

 

「このカツラ被ってみて」

「めっちゃ恥ずかしんだけど……」

「そうそう、そのまま!」

 

曽米さんがびしっと指を差す。

 

「ジョージ・ワシントン!」

「知らねえよ!」

 

その男子の叫びも歓声にかき消える。

僕はもう、何を見せられているのかわからなかった。

伊藤も隣で腕を組んだまま、完全に言葉を失っている。

そんな混乱の最中、さらに衝撃的な光景が目に入った。

曽米さんが宋金先生を捕まえていた。

しかも躊躇いなく、顔面に油性ペンで点を描き始めている。

 

「えっ、ちょっ……」

 

僕が止めるより早く、

てん、てん、てん、と軽快な音がしそうな勢いで、先生の額から頬まで黒い点が増えていく。

あっという間に顔じゅうがぶつぶつ模様になった。

完成したところで、宋金先生が手鏡を受け取り、自分の顔を見つめる。

しばらく無言。

そして低い声で尋ねた。

 

「おい曽米」

 

「なに?」

 

「これは誰を模倣したんダ?」

 

曽米さんは胸を張って、

 

(しゅ)(げん)(しょう)だよ!先生なのに知らないの〜?」

 

僕は「それ本人に言うのか」と内心で息を呑んだ。

怒る。

さすがに怒るだろうと思った。

でも宋金先生は鏡を見つめたあと、ふっと口元をゆるめた。

 

「よく分からんガ」

 

そして少し嬉しそうに言った。

 

「楽しくなりそうだナ」

 

「受け入れるんだ……」

 

僕は思わず小さく呟いてしまった。

その横では末長先生も変装を終えていた。

ただ、こちらは眉毛と口髭をつけただけだった。

なのに本人は妙に納得した顔で胸を張っている。

そして突然、大きな声で叫んだ。

 

「誰が独裁者スターリンや!」

 

「誰も言ってません」

 

僕は反射的に突っ込んでいた。

周囲も一瞬静まり返る。

末長先生は髭を指で撫でながら満足げだ。

誰にも例えられていないのに、自分からスターリン認定していた。

意味がわからない。

もう本当に意味がわからない。

僕は変装道具が散乱した地面と、盛り上がるクラスメートたちと、ヒゲをつけた先生二人を順番に見回した。

そのあと隣の伊藤を見る。

伊藤も僕を見た。

 

僕たちは数秒見つめ合って――

 

どちらからともなく視線を逸らした。

もう考えるだけ無駄だ。

決勝戦前だというのに、僕たちのクラスだけ異様な熱気に包まれていた。

仮装大会としか思えない混乱の中心で、僕はひとつ引っかかっていることに気づいた。

ヒゲをつけた先生たち。

顔に落書きをされたクラスメート。

なぜか偉人扱いされている野球部員。

もう何が正解かわからない。

でも、だからこそ逆に見えてくる違和感があった。

僕は腕を組んでいる伊藤の袖を軽く引いた。

 

「伊藤」

 

「どうした?」

 

「先生たちが変装するのは……まあ、百歩譲ってわかるんだけど」

 

「譲るのか」

 

「うん、そこはもう譲る」

 

これ以上考えると頭が痛くなりそうだった。

僕は校庭のあちこちでヒゲやカツラを装着しているクラスメートたちを見回しながら言った。

 

「でもさ、他の馬役の人まで変装する必要ないんじゃ……」

 

先生二人を目立たなくさせたい。

それはまだ理解できる。

だけど全員が変装してしまったら、むしろ悪目立ちしている気がする。

僕の問いに答えたのは伊藤ではなく、すぐ横で聞き耳を立てていた曽米さんだった。

 

「ふっふっふ」

 

嫌な予感しかしない笑い方だった。

振り向くと、案の定、曽米さんが両手を腰に当ててドヤ顔をしている。

 

「リチャード君はこれがただの仮装大会だと思ってるの?」

 

「……違うの?」

 

僕は思わず聞き返した。

今のところ、どう見てもただの仮装大会だった。

すると曽米さんは人差し指を一本立てた。

 

「理由は二つあるんだよね」

 

どこか得意げな口調だった。

 

「一つは――」

 

そして、変装した騎手たちをぐるりと指差す。

 

「騎手全員が仮装するのは、伊藤ちゃんの騎馬を相手に悟られないようにするため」

 

「……あ」

 

僕は小さく声を漏らした。

それはたしかに理にかなっていた。

相手はまず間違いなく伊藤を狙ってくる。

去年同じクラスだった那智君がいるなら、伊藤の顔も動きも知られている。

だったら見分けがつかないようにしてしまえばいい。

単純だけど効果はある。

少なくとも遠目からなら、一瞬迷わせられるかもしれない。

伊藤も静かに頷いた。

 

「もう一つは先生方だ」

 

そう言って、口髭をつけた末長先生と、顔じゅうに黒い点を描かれた宋金先生を見る。

 

「先生方が馬役をやるとなれば、傍から見れば大人だと一目でわかってしまう」

 

それはその通りだった。

体格も大きいし、顔立ちも高校生とは明らかに違う。

変装したところで限界はある。

伊藤は続ける。

 

「それなら馬役全員が仮装してしまえばいい」

 

「……」

 

「誰が誰なのか判別しづらくなる」

 

伊藤の視線は相手陣営へ向けられていた。

 

「最終的にバレたとしても構わない」

 

その声は静かだった。

 

「騎馬戦開始の合図までバレなければ十分だ」

 

僕は思わず息を呑んだ。

たしかにそうだ。

開始前に見抜かれなければ、最初の突撃の一瞬で相手は判断を誤る。

伊藤の騎馬を狙うつもりが、見失う。

先生たちの存在にも気を取られる。

そのわずかな混乱が、勝敗を分ける。

……そこまで考えていたのか。

さっきまで完全に仮装大会だと思っていた自分が少し恥ずかしくなった。

 

「なるほど……」

 

僕が感心して呟くと、曽米さんはさらに胸を張った。

 

「でしょ?」

 

完全に勝ち誇った顔だった。

 

「私はそこまで計算してるんだよ」

 

そのときだった。

すぐ後ろから、

 

「曽米ぃ!このヒゲ、片方取れたで!」

 

と末長先生の叫び声が飛ぶ。

さらに、

 

「おい、汗で点が滲んできたゾ」

 

と宋金先生が続く。

曽米さんが「あーもう動かないでよ!」と慌てて駆けていく。

僕はその背中を見送りながら思った。

……やっぱり半分くらいは仮装大会なんじゃないかな。

 

僕は曽米さんから渡された眼帯を右目につけ、校舎の窓ガラスに自分の姿を映した。

額には油性ペンで大きく「伊藤」と書いてみた。

さらに目尻のあたりに適当に皺を描き足してみる。

眼帯。

額に「伊藤」。

よくわからない皺。

どう見ても変な人だった。

僕は自分の顔を見つめたまま小さく呟く。

 

「……まぁ、こんなもんで」

 

正解があるのかもわからない。

というより、この変装に完成形という概念が存在するのかすら怪しかった。

そのとき、背後から静かな声がした。

 

「獅子御、頼みがある」

 

振り向くと、伊藤が油性ペンを片手に立っていた。

僕はそのペンを見た瞬間に察してしまった。

 

「……え」

 

嫌な予感しかしない。

伊藤は無言でペンを差し出してくる。

僕は思わず一歩後ずさった。

 

「もしかして……僕が伊藤の顔に描けっていうの!?」

 

思わず声が裏返る。

 

「そんなことできないよ!」

 

伊藤の顔を見る。

やっぱり何度見ても整いすぎている。

白く滑らかな肌。

長い睫毛。

整った鼻筋。

女子だけど、普段から男の格好をしているからか同学年の女子よりも不思議な魅力を感じ、どこか中性的で――見慣れているはずなのにたまに目のやり場に困る。

そんな顔に。

そんな芸術品みたいな顔に。

僕が油性ペンで落書きなんて。

罰当たりにも程がある。

しかし伊藤は真顔のままだった。

 

「本来なら己でやらなければ意味がないのかもしれない」

 

低く落ち着いた声で言う。

 

「だが、ただ落書きするだけでは他の騎手の二番煎じになる」

 

たしかに周囲を見れば、もう顔に落書きしている人だらけだった。

ヒゲ。

眉毛。

頬の線。

謎の模様。

統一感は皆無だ。

 

「それでは那智に見破られる」

 

伊藤の目は真剣だった。

 

「獅子御、君に任せたい」

 

そこまで言われて、僕は黙った。

伊藤が僕に頼みごとをするなんて、珍しかった。

それも、こんな大事な場面で。

僕はペンを見て、それから伊藤を見る。

 

「……本当にいいの?」

 

「ああ、思いっきりやってくれ」

 

「僕で?」

 

伊藤は迷いなく頷いた。

僕はごくりと唾を飲み込む。

責任重大すぎる。

失敗したらどうしよう。

一生恨まれるかもしれない。

いや伊藤はそんなこと言わないけど、僕が勝手に気にする。

僕は視線を泳がせた。

すると近くに小道具の山が見えた。

ヒゲ。

カツラ。

つけ鼻。

眼鏡。

そして――黒いサングラス。

僕はそれを手に取った。

 

「……よし」

 

伊藤の顔にそっとサングラスをかける。

それだけで、雰囲気が一変した。

謎の人物感が一気に増した。

さらに僕は油性ペンを手に持ち、慎重に伊藤の頬へ線を引く。

右に三本。

左に三本。

猫のヒゲ。

描き終えた僕は少し離れて全体を見る。

……すごい。

怪しい。

ものすごく怪しい。

でも不思議と似合っていた。

最後に僕はペンを持ち直し、伊藤の額へ大きく書く。

『伊藤』

書き終えた瞬間、僕は息を止めた。

伊藤は無言。

怒っただろうか。

やりすぎたかもしれない。

恐る恐る顔を上げる。

サングラス。

猫ヒゲ。

額に「伊藤」。

どう見ても怪人物だった。

 

だけど――

 

「……悪くない」

 

伊藤は静かにそう言った。

僕は思わず胸をなで下ろした。

そのやり取りを見ていた近くの騎手のひとりが叫ぶ。

 

「それ、いいじゃん!」

 

別の男子も乗ってきた。

 

「それなら俺も伊藤になる!」

「俺も!」

「俺も伊藤!」

 

気づけばその場にいた騎手たちが次々と油性ペンを手に取り、自分の額へ『伊藤』と書き始めた。

 

「伊藤」

「伊藤」

「伊藤」

 

校庭のあちこちで量産されていく伊藤。

ヒゲのある伊藤。

眼鏡の伊藤。

坊主頭の伊藤。

カツラを被った伊藤。

顔じゅう落書きされた伊藤。

僕はその異様な光景を見回しながら思った。

……もう本物の伊藤がどれなのか、僕でもわからない。

 




①ガンジー
インドの宗教家。
イギリスからの抑圧に対して非暴力・不服従を掲げ独立運動をインド全土に広める。
アメリカのキング牧師や南アフリカのネルソン・マンデラにも影響を与えた。

②ジョージ・ワシントン
アメリカの初代大統領。
イギリスからの独立戦争において、総司令官としてアメリカを勝利に導いた。

③朱元璋
明の初代皇帝。
中国を支配していた元で紅巾の乱が起こると、朱元璋もこの乱に加わる。元を追い払うことに成功すると自らが皇帝となり、漢民族による国家を復活させた。

④スターリン
ソ連の指導者。
農業主体だった国家に急速な工業化を推し進め、ソ連を超大国へと押し上げた。
一方では敵対関係にあったヒトラーと「独ソ不可侵条約」を結び列強国を驚かせ、他方では条約を破り侵攻してきたドイツ軍に対しておびただしい犠牲(スターリングラード攻防戦)を払いながらも祖国防衛の英雄として語られるなど、独裁色の濃い政治手法は現在でも議論の的になっている。
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