夏休みに入ってからというもの、部屋にこもって宿題を片付ける日々が続いている。曽米さんたちは部活動が忙しいみたいで、放課後の勉強会も、今はお休みだ。
そのせいで、スマホのメッセージもすっかり静かになってしまった。
ほんの数週間前までは、あんなに頻繁にやりとりしていたのに。
…会えないと、なんだか物足りない。
曽米さんの、あの明るい笑顔が、少し恋しい。
――何考えてるんだ、僕は。
気を抜いたら、すぐこれだ。
仕方なく、暇な時間はゲームや漫画で埋めているけど、どうしても世界史のことが頭から離れない。
気づけば、曽米さんが言っていた『キリスト教の歴史』について調べていたり、『日本と世界の繋がり』に興味を持っていたり。
…こんなに世界史にハマるなんて、あの頃の僕からは想像もつかない。
そんな時だった。
テーブルの上に置いていたスマホが振動した。
曽米さんからのメッセージだった。
『今から一緒に図書館に行かない?』
――えっ。
あまりの突然の誘いに、一瞬、画面を見つめたまま固まった。
曽米さんが、僕を図書館に誘う…?
あの曽米さんが?
…う、嘘じゃないよな。
頭の中で何度も確認してから、慌てて返信を打った。
『行く!今すぐ行く!』
メッセージを送った瞬間、心臓がバクバクと音を立てた。
…ヤバい、変に舞い上がってる。
でも、仕方ないじゃないか。
夏休みに入ってから会ってなかったんだし。
急いで着替えようとして、クローゼットを開けた瞬間、絶望した。
…服が、ない。
よく考えたら、母さんがまとめて洗濯してるって言ってたんだ。
Tシャツも、ズボンも、まともなのが見当たらない。
やばい。
せっかく曽米さんに会えるのに、だらしない格好なんてできない。
…そうだ、通販で買った新品の服があったはず。
引き出しを漁って、ようやく見つけたのは、『アイウォンチュー』と大きく文字が書かれたTシャツだった。
外国人風のおじさんがこっちに指を突きつけて渋い表情をしているデザインだ。英語が書いてあれば、オシャレっぽく見せられるはず。
…うん、これなら問題ないだろう。
急いで着替えて、家を飛び出した。
―――
図書館の入り口に着くと、そこには曽米さんが立っていた。
相変わらず元気そうな笑顔だ。
でも、僕はその瞬間、思わず目を疑った。
――なんだ、あのTシャツ。
曽米さんの服には……『マチュピチュ』?
テレビで見たことあるから、たぶん間違いない。
…いやいや、待て待て待て。
なんだ、そのセンスは。
世界史にちなんでる…のか?
いや、でも普通、そんなTシャツ着るか?
僕が唖然としていると、曽米さんがニコニコしながら近づいてきた。
「リチャード君、そのTシャツ、イカしてるね!」
…え?
「『アイウォンチュー』って書いてある。アンクル・サムだよね!」
――アンクル・サム?
「知らないの?アンクル・サムって、アメリカの象徴みたいなキャラクターなんだよ。第一次世界大戦の時に『君を必要としている!』って兵士募集のポスターに使われてたの。リチャード君、やっぱり世界史愛がすごいね!」
…待ってくれ。
これ、歴史ネタだったのか。
僕はただ、オシャレだと思って着ただけで、そんな背景があるなんて全く知らなかった。
でも、それ以上に気になるのは曽米さんのTシャツだ。
思わず指をさしてしまった。
「あのさ、曽米さんのそれ…マチュピチュ?」
「そう!インカ帝国の遺跡だよ!」
曽米さんは誇らしげに胸を張った。
「インカ帝国はね、スペイン人のピサロによって滅ぼされたんだ。彼はアタワルパ王を捕らえて、莫大な身代金を要求したけど、金銀を手に入れた後、約束を破って王を処刑しちゃったんだよ。それでインカ帝国は滅亡して、南米はスペインの植民地になったの」
…さらっとエグい話してるな。
でも、曽米さんの口調は明るいままだ。
「マチュピチュは、インカ帝国が滅んだ後もスペイン人には見つからなかったから、破壊を免れたんだって。神秘的な場所だよねー!」
…いや、歴史って、そんな壮絶な話が隠れてるのか。
「リチャード君も興味湧いた?」
曽米さんはキラキラした目で僕を見つめる。
「…うん、ちょっとね」
素直にそう答えると、曽米さんは嬉しそうに笑った。
…やっぱり、曽米さんには敵わない。
僕は苦笑いしながら、その後を追いかけた。
図書館に入った後も、曽米さんの世界史トークは止まらなかった。
主に、スペインとポルトガルが南米を侵略した話題だ。
「スペイン人はね、金銀を求めて南米にやってきたんだ。最初は友好的なふりをして接近したけど、すぐに裏切って征服を始めたの」
そんなことを楽しそうに話す曽米さんを見ていると、僕はだんだん、内容が頭に入らなくなっていった。
…いや、正確には、曽米さんに見惚れてしまっていた、というべきか。
元気いっぱいに喋る様子が、本当に楽しそうで。
瞳を輝かせて、身振り手振りを交えて話す彼女は、
いつも以上に生き生きして見えた。
――こんな表情するんだな。
初めて会った時は、もっとクールで近寄りがたい雰囲気だったのに。
気づけば、曽米さんの顔ばかり見つめていて、話の内容が全く頭に入ってこなかった。
「…それでね、ピサロがインカ帝国を滅ぼして、その後、スペインは南米を支配したんだ」
ピサロが、インカ帝国を滅ぼした――。
…うん、確かそんなことを言っていた気がする。
でも、曽米さんが楽しそうに話す姿に夢中で、正直、あまり聞いていなかった。
本を探すこともなく、小一時間ほど曽米さんは喋り続けた。僕はただ、頷いたり相槌を打ったりして、
曽米さんの話に付き合っていた。
――いや、正確には、曽米さんの表情を眺めていただけ、だ。
すると、曽米さんが急に話を止めて、僕の顔をじっと見つめてきた。
「インカ帝国を滅ぼした
曽米さんは言葉を区切って、僕の反応を伺っている。
…あれ?
今、コルテスがインカで、ピサロがアステカって言ったか?
…いや、違うような気がする。
さっきも何か言ってたような…。
でも、曽米さんが期待した目で見てくるから、僕は仕方なく、曖昧に頷いた。
その瞬間、曽米さんは目を細めて、口元をにやりとさせた。
「リチャード君、私の話、ちゃんと聞いてなかったでしょ?」
――えっ!?
急に鋭いツッコミを受けて、僕は慌てて言い訳を考える。
「い、いや、ちゃんと聞いてたよ!えっと、その…南米がどうとか…」
「じゃあ質問!インカ帝国とアステカ帝国を滅ぼしたのは誰?」
――そ、そんな急に!?
待て、どっちがどっちだっけ…。
僕は頭の中を必死に掻き回して、曽米さんの言葉を思い出そうとした。
…確か、コルテスとピサロって言ってた。
でも、どっちがどっちだっけ…。
「え、えっと…」
曽米さんの期待の眼差しが、どんどんプレッシャーになっていく。
「インカ帝国は…コルテス。アステカ帝国は…ピサロ…なんでしょ?」
言った瞬間、曽米さんの顔が曇った。
あからさまに落胆している。
「あーあ、やっぱり聞いてないじゃん」
曽米さんは、腕を組んで溜め息をついた。
「リチャード君、今まで私の話、適当に相槌を打ちながら聞いてたでしょ?インカ帝国を滅ぼしたのはピサロで、アステカ帝国を滅ぼしたのはコルテスだよ」
――あ。逆だった。
やばい。完全にバレてる。
…でも、どうしても曽米さんが可愛くて、話が頭に入ってこなかったなんて、絶対に言えない。
でも、曽米さんはじっと僕を見ていて、言い逃れできない雰囲気だ。
…仕方ない、正直に言おう。
「ご、ごめん。曽米さんが楽しそうに話してるのが…可愛くて、話が全然入ってこなかった…」
…あ。言っちゃった。
曽米さんは、一瞬目を丸くして、その後、顔を真っ赤に染めた。
「な、なに言ってんの!?リチャード君の……バカ……」
そう言いながら、曽米さんは慌てて目を逸らした。
僕も顔が熱くなってきた。
恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
曽米さんは咳払いをして、表情を整えると、急に真面目な顔になった。
「…インカ帝国とアステカ帝国って、名前が似てるから混乱しちゃうよね。でも、インカとピサロ、アステカとコルテスって組み合わせれば、文字数が同じだから覚えやすくなるかもね」
そう言うと、曽米さんはそっぽを向いたまま、そそくさと図書館を出ていった。
――え、ちょ、待って。
なんで急に出ていくんだ?
僕は慌てて、曽米さんの後を追いかけた。
①ルシタニア号事件
第1次世界大戦が開戦した当初、アメリカは中立を表明していたが、ドイツ軍に客船であるルシタニア号を撃沈させられ協商国(イギリス、フランス側)で参戦するきっかけとなる。
②コンキスタドール
15世紀末から16世紀にかけて、スペインやポルトガルから土地を征服、支配するためにアメリカ大陸にやってきた者たちの総称。
「コンキスタドール」という言葉はスペイン語で「征服者」という意味。
③インカ帝国
現在のペルー・ボリビア・エクアドルに存在した帝国。スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ病原菌とピサロの征服によって滅亡した。
④アステカ帝国
現在のメキシコに存在した帝国。インカ帝国同様スペイン人の来訪とコルテスの征服によって滅亡した。