曽米さんの『世界史』愛が強すぎる!   作:公私混同侍

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打ち上げは王様気分 前編

 

体育祭が終わったあとも、校内にはまだざわめきが残っていた。

校庭では後片付けが続いていて、テントを畳む音やパイプ椅子を運ぶ音があちこちから聞こえてくる。

僕は教室に戻り、汗で張りついた体操着を脱いで制服に着替えていた。

白シャツの袖に腕を通した瞬間、脇腹に鈍い痛みが走る。

 

「っ……」

 

思わず動きが止まった。

騎馬戦で伊藤を助けたときに打ったところだ。

保健室で手当てはしてもらったけれど、まだ少し動くだけで痛む。

鏡代わりの窓ガラスに映る自分を見ると、髪は汗で乱れているし、顔にもまだ洗いきれなかったペンの跡がうっすら残っていた。

なんだか一日でずいぶんくたびれた気がする。

荷物をまとめながら教室を見回す。

伊藤はもう先に帰ってしまっていた。

最後に「無理はするな」とだけ言い残して。

大堤君とも昇降口のあたりで別れた。

 

「ご武運……はもう不要でしたな」

 

なんて最後まで大堤君らしいことを言っていた。

僕は鞄を肩にかけ、小さく息を吐く。

今日はもう早く帰って寝たい。

その気持ちしかなかった。

廊下に出ると、ちょうど曽米さんがクラスの片付けに駆り出されていた。

椅子を運びながら、誰かに何か説明している。

たぶんまだ怒られている最中なんだと思う。

僕はその横を通りながら声をかけた。

 

「曽米さん」

 

「あっ、リチャード君」

 

曽米さんが振り向く。

さっきまでの勢いとは違って、少し疲れた顔をしていた。

 

「怪我もまだ痛むし先に帰るね」

 

「そっか」

 

曽米さんは一瞬だけ眉を下げた。

 

「今日はごめんね。……それと、ありがと」

 

その言葉が意外で、僕は少しだけ目を丸くした。

でも曽米さんはすぐにいつもの調子に戻って、

 

「ゆっくり休んで!明日ちゃんと生きて学校で会おうね!」

 

と笑った。

 

「うん」

 

僕も笑って手を振り、そのまま校舎をあとにした。

夕方の空気は、昼の熱気が嘘みたいに涼しかった。

校門へ向かう道を歩くたび、肩や腕にじわじわ痛みが走る。

やっぱり今日は無理しすぎたかもしれない。

校門が見えてきたところで、ふと人影が目に入った。

二人、並んで立っている。

末長先生と宋金先生だった。

二人ともすでにジャージではなく私服に着替えていて、体育祭のときとはまるで別人みたいだった。

……いや、宋金先生の頬にはまだうっすら黒い点が残っていたけれど。

僕は軽く会釈をした。

 

「お疲れさまでした」

 

そのまま通り過ぎようとしたとき、末長先生が声をかけてきた。

 

「おう、リチャード」

 

僕が振り向く。

末長先生は珍しく穏やかな顔で僕を見ていた。

 

「怪我は大丈夫か?」

 

大阪弁も少し柔らかかった。

 

「痛みがあるなら、病院で診てもらった方がええぞ」

 

思っていたより真面目な心配の仕方で、僕は少し驚いた。

 

「ありがとうございます。たぶん、大丈夫です」

 

そう答えると、隣で宋金先生が腕を組んだままぶっきらぼうに言った。

 

「今から末長先生と飲みに行くんダ」

 

なぜか報告された。

 

「獅子は家でゆっくり休むことだナ」

 

「……はい」

 

僕は素直に頷く。

たしかに今日は寄り道する元気なんてない。

このまま帰って、ベッドに倒れ込みたい。

そう思った――そのときだった。

背後から聞き覚えのある声が飛んできた。

 

「私も打ち上げにいきたい!」

 

元気すぎる声だった。

僕が振り返る。

校門へ駆け寄ってきたのは、やっぱり曽米さんだった。

肩で息をしながら、目だけはきらきらしている。

その言葉に、末長先生と宋金先生が同時に固まった。

 

「げっ!?」

 

二人の声がぴったり重なる。

末長先生は目を見開き、

宋金先生は眉をひそめ、

僕は思わず足を止めた。

夕暮れの校門前に、奇妙な沈黙が落ちた。

曽米さんの「打ち上げに行きたいです!」という突然の宣言に、末長先生と宋金先生は一瞬言葉を失ったように顔を見合わせた。

その沈黙が妙に気まずくて、僕は慌てて曽米さんに声をかけた。

 

「先生たちは、お酒を飲むって意味で言ったんだよ。曽米さんが行っても……その、先生たちの邪魔になるだけだと思うし……」

 

言ってから、しまったと思った。

少し言い過ぎたかもしれない。

曽米さんが傷ついた顔でもするんじゃないかと恐る恐る横を見る。

けれど当の本人は、まるで意に介した様子もなく、ぱっと顔を明るくした。

 

「それならリチャード君も行こうよ」

 

「……え?」

 

「お酒は飲めなくても、美味しいご飯をご馳走してもらえるかもしれないよ?」

 

あまりに自然な口調で言うものだから、一瞬何を言われたのか理解できなかった。

いや、理解したくなかった。

先生たちの許可もなく、勝手に人数を増やしている。

しかも僕まで巻き添えだ。

僕が言葉を失っている間に、末長先生が宋金先生の方を向き、ぽつりと言った。

 

「宋金先生、どうします?ワシは人が多くても気になりませんけど」

 

宋金先生は腕を組み、眉間に深いしわを寄せた。

 

「曽米を農奴にできず、食事まで奢れト?」

 

低い声だった。

その響きに、僕の背筋がぞくっとする。

やっぱり怒ってる。

絶対怒ってる。

騎馬戦での「農奴契約」をまだ引きずっている。

僕は内心で曽米さんに、お願いだからもう余計なことを言わないでくれ、と祈った。

しかし宋金先生は、小さく息を吐くと続けた。

 

「無神経極まりない言動には腸が煮えくり返る思いがあるガ……せっかく末長先生と仲良くなれたんダ。今回だけという条件なら構わないゾ」

 

僕は思わず胸を撫で下ろした。

よかった。

許してもらえた。

しかも「今回だけ」とはいえ、打ち上げ参加も認められたらしい。

もう僕の役目は終わりだ。

僕は静かに一礼すると、その場から離れようとした。

……その時だった。

 

「リチャード君」

 

冷たい視線を感じた。

振り返ると、曽米さんがなぜか真剣な顔で僕を見ている。

 

「か弱い乙女を一人にするつもりなの?」

 

「え?」

 

「こんな屈強な大男たちが襲ってきたら、リチャード君、責任取れないよね?」

 

「……は?」

 

一瞬、耳を疑った。

何を言っているんだ、この人は。

末長先生も宋金先生も一瞬固まり、空気が止まる。

次の瞬間、末長先生が額に青筋を浮かべて叫んだ。

 

「なんなんやお前!?人の善意無駄にしやがって。付いて来ぉへんのやったら帰れや!」

 

その怒号が校舎中に響いた。

僕は縮み上がった。

けれど曽米さんはまったく怯まず、僕の制服の袖をぎゅっと掴んだ。

 

「ほら、リチャード君。ボディガードお願い」

 

「いやいやいや……」

 

「お願い」

 

「いや……」

 

「お願い」

 

断れる空気じゃなかった。

僕は宋金先生の険しい視線と、末長先生の呆れ顔に挟まれながら、小さく肩を落とした。

こうして僕は、なぜか曽米さんの“ボディガード”として、先生たちの打ち上げに同行することになった。

怪我をしているのは僕の方なのに。

体育祭の疲れもまだ抜けていないのに。

それでも曽米さんは、まるで遠足にでも行くような足取りで僕の隣を歩いていた。

僕はその後ろ姿を見ながら、今日一日の出来事を思い返した。

騎馬戦で怪我をして、ようやく帰って休めると思っていた。

なのに、どうして僕は今、教師二人と曽米さんに囲まれて、夜の街へ向かっているんだろう。

どう考えても、おかしい。

……けれど。

曽米さんがやけに楽しそうに笑っているのを見ると、「帰りたい」という気持ちも、少しだけ弱くなってしまうのだった。

 

先生たちは僕たちが高校生であることに気を遣ってくれたらしく、連れてこられたのは駅前のファミレスだった。

店の自動ドアが開いた瞬間、温かい空気と料理の匂いが流れ込んでくる。

土曜日の夜ということもあって、店内はかなり賑わっていた。家族連れ、部活帰りらしい学生たち、仕事終わりの社会人らしきグループで席はほとんど埋まっている。食器の触れ合う音や店員さんの「お待たせしました」という声が絶え間なく飛び交っていて、体育祭終わりの高揚感と妙に似たざわめきだった。

四人席に案内され、先生二人が向かい合って座り、僕は曽米さんと隣同士になった。

メニュー表を開く。

先生に奢ってもらう。

その事実だけで胃が少し縮こまった。

遠慮しないでと言われても、本当に遠慮しないわけにはいかない。

ハンバーグも美味しそうだったし、唐揚げ定食にも惹かれたけれど、僕は一番値段の手頃なオムライスに指を止めた。

これなら変に気を遣わせずに済む。

 

「僕、これにします」

 

注文を伝えると、向かいに座る末長先生がメニューを閉じながら、

 

「ワシはビールで」

 

と店員さんに頼んだ。

宋金先生も飲み物を注文し、店員さんが去ったあと、末長先生が僕を見てニヤッと笑った。

 

「リチャードはまだまだ育ち盛りやろ?遠慮せんで、たらふく食べてええぞ」

 

僕が「いえ、十分です」と答えかけたところで、末長先生は横目で曽米さんを見た。

 

「でも、お前はあかん」

 

「なんでですか!」

 

曽米さんが即座に抗議する。

頬を膨らませながら、メニューをぱたんと閉じた。

 

「私、ダイエット中だから夜は食べる量を極力少なくしてるから那智(アゴヒゲ)みたいにバクバク食べないもん」

 

風評被害を受けた那智君が気の毒に思えたが、僕は思わず曽米さんをちらりと見る。

たしかに曽米さんは細い。

というより、かなりスタイルがいい。

体育祭でも目立っていたし、普段から姿勢もいいせいか、制服のシルエットがすごく綺麗に見える。

……いや、別に変な意味じゃない。

その瞬間だった。

 

「リチャード君」

 

耳元で小さな声がして、僕の肩がびくっと跳ねた。

曽米さんが、すっと顔を寄せていた。

距離が近い。

近すぎる。

 

「今、私の裸想像したでしょ?」

 

「ぶっ――!?」

 

僕は飲んでいた水を危うく吹き出しかけた。

いや、吹き出した。

慌てて口を押さえたけれど、少しテーブルに飛んでしまった。

 

「ち、違うよ!」

 

僕がむせながら否定すると、曽米さんは僕の腕に巻かれた包帯を触りながら平然とした顔で続けた。

 

「今度やったら、ピョートル三世みたいな死に方するから」

 

「物騒すぎるよ……!」

 

僕は咳き込みながら水を飲み直した。

なんなんだ、その脅し文句は。

死に方……といえば絞殺か撲殺、はたまた毒殺か。

しかもピョートル三世。

それってもう犯人がほぼエカチェリーナ二世じゃないか。

僕の頭の中に、豪華なドレス姿の曽米さんが玉座に座っている意味不明な光景が浮かぶ。

いや、なんでだ。

そのタイミングで、注文した飲み物が運ばれてきた。

末長先生の前に冷えたビールジョッキ。

宋金先生のグラス。

そして僕と曽米さんの前には、それぞれ水の入ったグラスが置かれる。

末長先生がジョッキを持ち上げた。

 

「ほな、今日は体育祭お疲れさんってことで」

 

宋金先生も静かにジョッキを手に取る。

僕も慌てて水のグラスを持ち上げた。

隣で曽米さんも楽しそうにグラスを掲げる。

 

「かんぱーい!」

 

澄んだ音が重なった。

ジョッキとグラスが触れ合う小さな音が、賑やかな店内のざわめきの中に溶けていく。

冷たい水をひと口飲みながら、僕は思った。

つい数時間前まで騎馬戦で土埃まみれになっていたのに、今は先生たちとファミレスで乾杯している。

しかも隣には、いつ爆弾発言をするかわからない曽米さん。

今日は本当に、最後まで予想のつかない一日だ。

 

運ばれてきたオムライスは、想像していたよりずっと美味しそうだった。

つやつやした薄黄色の卵がケチャップライスを包み、その上には赤いソースがたっぷりとかかっている。湯気と一緒にバターの香りが立ち上ってきて、思わずお腹が鳴りそうになった。

僕はスプーンを入れ、一口食べた。

……美味しい。

空腹だったこともあるけれど、それを差し引いてもかなり美味しかった。ふわっとした卵の甘みとケチャップライスの酸味がちょうどいい。

体育祭で体力を使い切った体に染み渡る。

夢中になって二口目を運ぼうとしたところで、隣からじっと視線を感じた。

横を見る。

曽米さんだった。

こちらを見ている。

正確には、僕のオムライスを見ている。

 

「……どうしたの?」

 

僕が尋ねると、曽米さんは視線を逸らしながら小さく言った。

 

「別に」

 

「……」

 

「別に食べたいわけじゃないし」

 

「……うん」

 

「でもリチャード君がどうしてもって言うなら、一口くらいなら付き合ってあげてもいいけど」

 

「言ってないよね?」

 

さっきまで「ダイエット中だから夜は食べない」と言っていたのは誰だったのか。

しかし曽米さんは聞こえないふりをして、僕の方へ身体を寄せてくる。

 

そして――

 

「あー」

 

「……え?」

 

口を開けた。

完全に待っている。

食べさせてもらう気満々だった。

 

「いや、自分で食べればいいじゃん」

 

「あー」

 

「聞いてる?」

 

「あー」

 

断固として閉じない口。

なんでこうなるんだ。

というか、今日騎馬戦で怪我をしたのは僕の方だ。普通なら介抱される側のはずだ。

なのに、なぜ僕が曽米さんにオムライスを食べさせているんだろう。

意味がわからない。

僕は周囲を気にしながら、小さくため息をついた。

 

「……はい」

 

スプーンで少しだけすくい、恐る恐る差し出す。

曽米さんはぱくっとそれを食べた。

 

「ん~」

 

満足そうに頬をゆるめる。

 

「……美味しい」

 

「そりゃよかったね……」

 

結局そのあとも、僕が食べようとするたびに曽米さんが当然のように「あー」と口を開けるものだから、なぜかオムライスを半分こすることになってしまった。

僕が頼んだのに。

僕のお金じゃないけど。

僕のオムライスなのに。

向かいでは先生たちの話もだいぶ盛り上がっていた。

ビールが入ったせいか、末長先生の声がさっきより大きい。

 

「今年の二年三組、ほんま元気やろ? いや元気っちゅうか、騒がしいな」

「騒がしいで済めば可愛いものダ」

 

宋金先生がグラスを置きながら答える。

そこから話題は担任を受け持つクラスのことへ移り、やがて部活動の話になった。

末長先生が顧問をしているサッカー部の県大会の話。

宋金先生が顧問の剣道部の一年生の話。

さらにその流れで、保護者対応の苦労話にまで発展していく。

 

「いやこの前な、夜の十時に電話かかってきましてね――」

「それはまだマシだ方だゾ。私は朝五時にメールが来たからナ」

「五時!?」

「しかも件名が『至急』ダ」

「怖すぎるやろ……」

 

二人とも、さっきまで職員室にいた時よりずっとくだけた表情だった。

先生もこうして学校の外に出ると、一人の大人なんだなと思う。

……ただ、その会話の中には、たまに聞いてはいけないような単語も混ざっていた。

 

「あの保護者、去年も――」

「いやそれはここで言うたらあかん」

「おっと、口が滑りそうになっタ」

 

僕はオムライスを口に運びながら、聞こえなかったふりをした。

曽米さんも口をもぐもぐさせながら、聞いているのかいないのかわからない顔をしている。

店内は相変わらず混んでいて、食器の音や笑い声、店員さんの声があちこちから響いている。

そのざわめきが先生たちの会話の一部をちょうどよくかき消してくれていた。

その時ばかりは、この騒がしい土曜のファミレスに少し感謝した。




①ピョートル3世
ロシア帝国の皇帝。
七年戦争の最中に即位。
敵であったプロイセン王国のフリードリヒ大王を崇拝しており、要衝であったシュレージエンを目前にしながら軍隊を撤兵させ単独講和を果たす。
妻のエカチェリーナ2世にクーデターを起こされ退位。数日後、不可解な死を遂げた。

②エカチェリーナ2世
ピョートル3世の妻にして皇后。
ピョートル3世に退位を迫り、自ら皇帝に即位。
アメリカ独立戦争が起こると、イギリスに対する経済圧力を強めるために「武装中立同盟」を提唱する。間接的にアメリカ独立を支援することになった。
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