曽米さんの『世界史』愛が強すぎる!   作:公私混同侍

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疾きこと風の如く 前編

 

今年も残すところ、あと一ヶ月。

朝の空気は吐く息が白くなるほど冷たくなり、校舎の窓から見える景色もどこか冬らしい色合いを帯びている。

期末テストも近くなり、放課後の図書室には勉強する生徒の姿が増えていた。

その日も僕は伊藤と向かい合って座り、黙々とノートを広げていた。

ページをめくる音。

シャープペンシルが紙を走る音。

図書室独特の静かな空気が流れている。

ふと窓の外を見ると、もう空が暗くなり始めていた。

冬は日が沈むのが早い。

時計を見る。

 

「今日はこのくらいにする?」

 

僕がそう言うと、伊藤も頷いた。

 

「ああ」

 

お互いノートや参考書を片付け始める。

その時だった。

不意に昔の記憶が蘇った。

中学の卒業式の日。

伊藤に呼び出されたこと。

そして結局、行かなかったこと。

いや、正確には忘れていたのだ。

あの日は卒業式で慌ただしく、そのまま帰宅してしまった。

今思えば酷い話である。

僕は鞄にノートをしまいながら口を開いた。

 

「中学の卒業式の日のことなんだけど……」

 

その瞬間。

伊藤の手がわずかに止まった。

いや。

止まったというより、震えたように見えた。

ほんの一瞬だった。

僕が見間違えたのかもしれない。

伊藤はすぐにいつもの表情へ戻っている。

僕は続けた。

 

「あの時、僕がすっぽかしちゃってさ」

 

胸の奥が少し痛む。

 

「伊藤が何を伝えようとしていたのか聞けなかったんだ」

 

僕は頭を下げた。

 

「今更だけど、ごめん」

 

しばらく沈黙が流れた。

図書室の遠くで本を閉じる音だけが聞こえる。

やがて伊藤が静かに言った。

 

「別に怒ってはいない」

 

その声音は意外なほど穏やかだった。

僕は少し安心する。

しかし次の言葉に首を傾げた。

 

「むしろ感謝を伝えるために呼んだんだ」

 

「感謝?」

 

思わず聞き返してしまう。

何のことだろう。

僕には全く心当たりがなかった。

伊藤は小さくため息を吐く。

 

「本当に君は鈍感だな」

 

呆れたような口調だった。

けれどどこか懐かしそうでもある。

伊藤は鞄へ教科書をしまいながら続けた。

 

「中学に入った頃から、こんな男と同じような格好をしていたんだ」

 

自分の制服を軽く引っ張る。

僕は黙って聞いていた。

 

「着替えているところを獅子御に見られてしまった」

 

そこでようやく思い出した。

体育の授業だった。

偶然だった。

更衣室の扉を開けてしまい、慌てて謝った記憶がある。

 

「それでも君は」

 

伊藤の声が少し柔らかくなる。

 

「『何か事情があるなら、絶対に誰にも話さない。約束する』って言ってくれたんだ」

 

僕の記憶が一気に繋がった。

そうだ。

確かに言った。

深く考えたわけではなかった。

ただ、伊藤が困った顔をしていたから。

だから秘密にしようと思っただけだ。

 

「この伊藤が特に約束してくれとも頼んでいないのにも関わらずな」

 

伊藤は少しだけ笑った。

本当に少しだけだった。

僕は何と言えばいいのか分からなくなった。

そんなことを感謝されるとは思っていなかった。

 

「僕は……」

 

言葉を探しているうちに、伊藤が続ける。

 

「それと」

 

そこで声が止まった。

伊藤の視線が少し泳ぐ。

珍しい。

いつも冷静な伊藤らしくない。

僕が顔を上げると。

伊藤の頬が、ほんの少し赤くなっていた。

夕日のせいではない。

図書室の照明は白い。

だから余計に分かった。

 

「感謝とは別に伝えたいことがあって……」

 

僕は思わず息を呑む。

何だろう。

中学の頃から抱えていた話だろうか。

それとも――。

しかし。

伊藤は突然口を閉じた。

そして首を横に振る。

 

「いや」

 

いつもの無表情に戻る。

 

「何でもない」

 

「え?」

 

「今のは忘れてくれ」

 

そう言うと、伊藤は勢いよく立ち上がった。

鞄を掴む。

そして僕が何か言う前に歩き出してしまう。

 

「伊藤?」

 

返事はない。

足取りだけが妙に速い。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

僕も慌てて鞄を掴んだ。

椅子が音を立てる。

図書室の利用者がこちらを見るが構っていられない。

何でもないはずがない。

あの顔はどう見ても何かあった。

僕は伊藤の背中を追いかける。

図書室の扉が閉まる音が響いた。

冬の夕暮れに染まる廊下の向こう。

足早に去っていく伊藤の背中を見ながら、僕は必死に後を追った。

 

「伊藤!待って!」

 

僕は図書室を飛び出し、廊下を駆けた。

だが距離は一向に縮まらない。

伊藤は決して走っているわけではない。

むしろ早歩きだ。

それなのに追いつけない。

僕は階段を下りながら息を切らした。

 

「なんであんなに速いんだ……」

 

考えてみれば当然だった。

伊藤はテニス部に所属している人間だ。

対して僕は平均以下。

運動能力に雲泥の差がある。

追いつけるわけがない。

校門付近まで探したが姿は見当たらず、僕は諦めて昇降口へ向かった。

靴を履き替える。

そして何となく窓の外を見下ろした。

冬の日暮れは早い。

校庭の向こうにある駐車場には長い影が伸びていた。

その時だった。

 

「あれ?」

 

見覚えのある後ろ姿が見えた。

伊藤だ。

誰かと話している。

相手は――

 

「内地先生?」

 

保健室の先生だった。

僕は少し安心した。

少なくとも怒って帰ったわけではなさそうだ。

そのまま階段を下りて駐車場へ向かう。

近づくにつれ、二人が話している内容も聞こえてきた。

内地先生は一台の赤い車の横に立っていた。

夕暮れの光を受けて車体が輝いている。

スポーツカーだ。

 

「伊藤君も車に興味あるのかしら?」

 

内地先生が笑顔で尋ねる。

先生は当然ながら伊藤の事情を知らない。

だから普通に「君」と呼んでいた。

伊藤も特に気にした様子はない

「父もロードスターに乗っていますので」

 

伊藤は車体を見ながら答えた。

 

「まさかここでも出会えるとは思いませんでした」

 

ロードスター。

僕はその名前を初めて聞いた。

ちょうどそこで二人の近くまで来る。

 

「この車、ロードスターって言うんだ」

 

僕は思わず車を見上げた。

低い車高。

流れるようなボディライン。

どこか獲物を狙う動物みたいな雰囲気がある。

 

「カッコいいなぁ」

 

素直な感想だった。

僕は昔からスポーツカーに憧れがあった。

詳しくはないけれど、見ているだけでわくわくする。

すると伊藤が少しだけ表情を和らげた。

 

「ロードスターはマツダのオープンスポーツカーだ」

 

おや。

さっきまでより機嫌が良さそうだ。

伊藤は車体を指差しながら説明を続ける。

 

「名前の由来であるロードスターは元々オープンカーの一種を指す言葉で、『軽装馬車』という意味合いを持つ」

 

そしていつの間にか。

 

「マツダという社名も歴史的な背景があるんだ」

 

始まった。

僕は聞き覚えがある。

確か曽米さんから聞いたことがあった。

 

「ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダとの関連が語られることがある」

 

「ああ、それ!」

 

僕が反応すると伊藤は頷いた。

 

「企業の創業者である経営者の名前(松田)とも掛けられている」

 

内地先生は感心したように聞いていた。

 

「へぇ~」

 

そして微笑みながら言った。

 

「歴史を絡めて説明すると曽米さんみたいね」

 

その瞬間だった。

伊藤の顔が露骨に曇った。

さっきまで機嫌が良かったのに。

僕でも分かるくらい不機嫌になった。

 

「……」

 

無言で視線を逸らす。

まずい。

空気が変わった。

僕は慌ててフォローに入る。

 

「いや、でも伊藤は曽米さんと同じくらい頭がいいから――」

 

我ながら悪くないフォローだと思った。

しかし。

 

「そうかもしれないな」

 

伊藤は即答した。

声は妙に平坦だった。

あれ?

なんか違う。

全然フォローになっていない気がする。

僕が困惑していると、内地先生が苦笑した。

 

「それじゃフォローにならないわよ。獅子御君」

 

「え?」

 

何がまずかったんだろう。

僕は本気で分からなかった。

すると伊藤がこちらを見る。

ほんの少し呆れたような目だった。

そして小さくため息を吐く。

 

「本当に君は鈍感なんだな」

 

「え?」

 

まただ。

今日二回目だ。

しかもついさっき図書室でも同じことを言われたばかりだった。

僕は内地先生を見る。

内地先生はなぜか笑いを堪えている。

伊藤を見る。

伊藤はまた少し不機嫌そうだ。

そして僕だけが状況を理解できていない。

冬の冷たい風が吹き抜ける。

ロードスターの赤いボディが夕日に照らされている。

なのに僕の頭の中だけは濃い霧がかかったようだった。

――いったい何がいけなかったんだろう。

その答えだけが、どうしても分からない

僕はどうにかして伊藤の機嫌を直せないか考えていた。

曽米さんと比較したとはいえ、さすがにさっきの件は少し怒らせてしまった気がする。

何か話題はないかと辺りを見渡していると、一台の古めかしい車が目に入った。

流線型のボディに独特の存在感がある。

僕は車に詳しくないが、なんとなく高そうだ。

 

「これってクラシックカーですか?」

 

すると近くにいた内地先生が車を見ながら答えた。

 

「それはアルファロメオね。校長先生の愛車よ」

 

「ああ、なるほど」

 

確かに校長先生が乗っていても違和感がない。

どことなく品があるというか、趣味人っぽいというか。

僕は車そのものよりも、隣にいる伊藤の方を気にしながら言った。

 

「なんか校長先生っぽいですね。アルファロメオってどんな意味なんだろう?」

 

もちろん半分くらいは質問のための質問だ。

僕はチラチラと伊藤の顔色を窺った。

伊藤は呆れたような顔をしてため息を吐く。

 

「曽米みたいな蛇足だらけの解説は期待するな」

 

どうやら最低限の会話には応じてくれるらしい。

少しだけ安心した。

伊藤はアルファロメオを指差しながら説明を始める。

 

「アルファロメオはイタリアの自動車メーカーであり、名前はロンバルダ自動車製造会社という意味だ」

 

「へぇ」

 

「アルファロメオのエンブレムに描かれている赤い十字は、ミラノの守護聖人アンブロジウスに由来すると言われている」

 

「アンブロジウス?曽米さんから聞いたことあるような、ないような……」

 

「ローマ帝国皇帝であるテオドシウス一世と関連のある人物だよ」

 

「そ、そうなんだ。知らなかった。この特徴的な紋章は?」

 

「蛇が人間を飲み込んでる紋章はヴィスコンティ家を表していて、ミラノを支配した名門貴族だ」

 

即答だった。

さっきよりは機嫌が良さそうだ。

すると内地先生が面白そうに微笑んだ。

どうやら僕と伊藤のやり取りを観察していたらしい。

先生は今度は隣に停まっている別の車を指差した。

 

「じゃあ伊藤君。このフォルクスワーゲンにも色んな歴史があるのよね?」

 

伊藤は特に嫌そうな顔もせず、そのまま説明を続けた。

 

「フォルクスワーゲンはドイツ語。"Volks"が国民、"Wagen"が車。つまり『国民車』という意味になる」

 

「へぇー」

 

「1930年代に大衆向け自動車を普及させる構想から始まった、ドイツ労働戦線を前身として設立された会社だ」

 

「ドイツ労働戦線?聞いたことないな、ナチスと関係する?」

 

「フッ、察しがいい。ドイツ労働戦線はアドルフ・ヒトラーが労働者をまとめるために作った組織といえる。大衆車の普及はアウトバーン(高速道路)の建設と同時に進められていたんだ」

 

僕が素直に感心していると、内地先生も目を丸くしていた。

 

「伊藤君はホントに何でも知ってるのね。このフォルクスワーゲンは宋金先生が中古で買ったらしいわよ。最近、免許を取ったみたいで『日本の交通ルールは覚えるのが大変』って嘆いてたわ」

 

「ああ、それは分かる気がします」

 

僕が頷く。

日本は左側通行だし、海外とは違う標識も多い。

外国出身の宋金先生なら苦労するだろう。

すると伊藤が小さく肩をすくめた。

 

「むしろ日本は標識が丁寧な方だと思うが?」

 

「伊藤なら簡単に免許取れそうだし――」

 

「免許を取る予定がない」

 

「それじゃあ、伊藤が免許取ったら隣に乗せてもらおうかな」

 

僕は伊藤の反応が面白くてつい余計なことを口走る。

すると内地先生が僕たちの顔を覗き込む。

伊藤もほんの少しだけ口元を緩める。

どうやら機嫌は、少しだけ直ってくれたらしい。




①ゾロアスター教
古代ペルシアを起源とする最古の宗教。
火を神聖視したことから「拝火教」とも呼ばれる。
「サーサーン朝ペルシア」の国教であった。

②ランゴバルド王国
北イタリアに存在したゲルマン系の王国。
フランク王国のカール大帝に滅ぼされた。
「ロンバルディア(ロンバルダ)」の語源。

③テオドシウス1世
古代ローマ帝国皇帝。
キリスト教アタナシウス派を唯一の国教として定めた人物として知られる。
民衆の暴動に対して虐殺命令を出したため、司教アンブロジウスに破門された。

④ヴィスコンティ
中世イタリアの名門貴族。
都市国家であったミラノを支配し、ローマ教皇も輩出するなど一時代を築いた。

⑤アウトバーン
ワイマール共和国時代から着工が進められていた高速道路計画を、ヒトラーが失業対策と軍事利用を兼ねて推し進めた。

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