駐車場で車談義をしているうちに、寒さが身に沁みてくる。
吐く息が少し白くなり始めた頃、内地先生が両腕をさすりながら言う。
「立ち話をしてたら寒くなってきたわね。もし良かったらどちらか送っていくけど、二人はどうする?」
僕は反射的に答えた。
「お願いします!」
ロードスターだ。
あのオープンカーだ。
車の知識がない僕でも、一度くらいは乗ってみたいと思う。
しかし返事をした直後に問題に気付いた。
ロードスターは二人乗りである。
僕と伊藤の二人を乗せたら定員オーバーだ。
どちらかが歩いて帰らなければならない。
僕が困っていると、伊藤があっさりと言った。
「この後歩いてピアノ教室に向かいます。帰りに母が迎えに来てくれるので、獅子御を乗せてやってください」
「え?」
思わず聞き返した。
そんなに簡単に譲るのか。
伊藤は平然としている。
どうやら本当に予定があるらしい。
内地先生も、
「そう?それじゃ獅子御君を送っていこうかしら」
と頷いた。
話はあっさりまとまってしまった。
僕は少し申し訳なくなりながらも、
「伊藤は乗ろうと思えばいつでも乗れるから、どっちでもいいのか」
と言った。
すると伊藤は呆れたような顔になる。
「毎日なわけないだろ。父は仕事でロードスターに乗って出かけるんだ。普段は母が乗っているフィアットで送迎してもらっている」
「あはは……だよね」
考えてみれば当たり前だった。
まるで伊藤の家にロードスターが何台もあるみたいな言い方をしてしまった。
伊藤は小さくため息を吐いたが、それ以上は何も言わなかった。
その時だった。
内地先生がロードスターのドアを開け、シートを軽く掃除しながらこちらを見る。
「ちょっと聞きたいことがあるの。いいかしら?」
「何ですか?」
僕が首を傾げる。
先生は少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
「嫌なら答えなくてもいいわ」
そう前置きしてから、
「伊藤君って女の子だって噂を耳にしたのだけど、本当なのかしら?」
と尋ねた。
僕は一瞬固まった。
その話題か。
正直なところ、僕自身も詳しい事情を聞いていない。
伊藤が女の子だという事実は知っている。
だけど、どうして男装しているのかは曖昧なままだった。
僕はどう反応していいか分からず、思わず伊藤を見る。
しかし当の本人は驚く様子もなく答えた。
「ええ、本当ですよ」
あまりにも自然な返答だった。
伊藤は少し空を見上げるようにして続ける。
「中学に入学する時、父から『今は多様性の時代だ。異性の気持ちを理解することも将来、お前の役に立つときがくる』と助言されました」
僕は思わず目を瞬かせる。
伊藤のお父さんらしいと言えばらしい。
なんというか、発想のスケールが独特だ。
「保守的な母は一貫して否定的でしたけど、こんな貴重な機会は中々ないと思ったので、男装で学校に通うと決めたんです」
そう言い終えた伊藤は微笑んだ。
いつもの冷静な表情だった。
だけど僕には、その笑顔が少しだけ無理をしているように見えた。
ほんの一瞬だけ。
何かを思い出したような。
そんな暗い影が差した気がした。
けれど内地先生は気付かなかったらしい。
安心したように胸を撫で下ろす。
「そういうことだったのね」
そして苦笑しながら言った。
「もっと『男らしい作法を身につけて、父の跡を継げ』みたいな特殊な事情かと思っていたから少し安心したわ」
「それは父でも言わないでしょうね」
伊藤は即座に返した。
「娘にそんなことを言ったら、母に怒られますから」
「それもそうね」
内地先生が笑う。
二人の会話はそこで終わった。
だけど僕は、さっき伊藤が見せた一瞬の表情が妙に気になっていた。
男装を始めた理由は聞けた。
けれど、それだけでは説明できない何かがあるような気がしたのだった。
僕は内地先生に促され、ロードスターの助手席へと乗り込んだ。
思っていた以上に車内は低い。
地面がすぐ近くに感じる。
スポーツカーに乗る機会なんてほとんどない僕は、それだけで少し興奮していた。
シートベルトを締めると、まだ外に立っている伊藤へ顔を向ける。
「また明日、学校で」
伊藤はコートのポケットに手を入れたまま軽く頷いた。
「ああ。冷たい風を浴びすぎて学校を休むことのないようにな」
「なんだよ、それ」
僕は苦笑する。
すると伊藤も少しだけ口元を緩めた。
ロードスターのエンジンが静かに唸りを上げる。
車がゆっくりと動き出した。
僕は後ろを振り返る。
すると伊藤がこちらへ向かって手を振っていた。
何気ない仕草だった。
だけど普段の伊藤は必要以上に感情を表へ出さない。
そんな彼女が、わざわざ僕たちを見送るように手を振っている。
その姿が少しだけ愛らしく見えてしまった。
僕は思わず頬を緩めながら手を振り返す。
伊藤の姿がだんだん小さくなっていく。
やがて校門の向こうへ消えていった。
その様子を見ていた内地先生が、ふと呟く。
「いいわね、高校生って」
僕は意味が分からず首を傾げた。
「そうですか?」
「そうよ」
僕は少し考えてから答える。
「伊藤は頭が良くて、面倒見も良くて、みんなから好かれるんですよ」
言ってから気付いた。
まるで自分と比較しているみたいな言い方だった。
伊藤は特別だ。
頭も良いし、運動もできる。
何をやらせても器用だ。
対して僕は平凡そのもの。
無意識にそんな考えが言葉に出てしまったのかもしれない。
しかし内地先生は苦笑した。
「そういう意味じゃないわよ」
「え?」
僕はますます分からなくなる。
内地先生は前方を見ながら穏やかに続けた。
「小さく手を振って私たちを見送ってくれたでしょ?」
「はい」
「ああいうことを普通の男の子はあまりしないと思うの」
僕は黙って聞く。
「だから伊藤君……じゃないわね」
内地先生は少し言い直した。
「伊藤さんは、獅子御君をとても大切な人だと認識しているんじゃないかしら」
心臓が妙な音を立てた気がした。
僕は窓の外を見る。
夕暮れの街並みが流れていく。
だけど景色はほとんど頭に入ってこなかった。
「それって……友達としてですか?」
ようやく絞り出した言葉だった。
内地先生は少しだけ考える。
そして首を横に振った。
「それは私にはわからないわ」
僕は黙る。
風が髪を揺らす。
オープンカー特有の風圧が耳元を通り過ぎていく。
内地先生は少しだけ意味深な笑みを浮かべた。
「でも一つ言えるとしたら……」
僕は思わず唾を飲み込んだ。
胸の奥がざわつく。
なぜか分からない。
だけど次の言葉を聞くのが怖いような気もした。
ロードスターは駅前へ向かって走り続ける。
夕焼けに染まった街並みが流れ、風景がぼやけて見えた。
そして内地先生は静かに言った。
「三年生になったらわかるかもしれないってとこかしら」
「三年生……?」
意味を尋ねようとしたが、内地先生はそれ以上説明しなかった。
ただ微笑みながら運転を続けている。
僕は結局何も聞けなかった。
伊藤が僕を大切に思っている。
その言葉自体は嬉しかった。
だけど、それがどういう意味なのかまでは分からない。
友達としてなのか。
それとも別の意味なのか。
考えれば考えるほど答えは遠ざかっていく。
やがてロードスターは駅前へ到着した。
「はい、到着」
「ありがとうございました」
僕は車を降りる。
内地先生は運転席から手を振った。
「また学校でね」
「はい」
ロードスターが走り去る。
僕はしばらくその後ろ姿を見送った。
そしてふと空を見上げる。
冷たい風が頬を撫でた。
――三年生になったらわかるかもしれない。
内地先生の言葉が頭から離れない。
結局その意味を理解できないまま、僕は駅へと向かった。
その夜。
風呂から上がった僕は、自室のベッドに寝転びながら今日の出来事を思い返していた。
アルファロメオ。
フォルクスワーゲン。
ロードスター。
そして――伊藤。
何となくスマホから目を離し、壁に掛けられたカレンダーを見る。
十二月。
気付けば今年も残りわずかだった。
そして数日後にはクリスマスがやってくる。
「クリスマスか……」
僕は小さく呟いた。
頭に浮かんだのは曽米さんだった。
相変わらず騒がしくて。
世界史の話になると止まらなくて。
でも一緒にいると退屈しない。
せっかくのクリスマスだ。
どこか遊びに誘ってみようか。
そんな考えが浮かぶ。
僕はスマホを手に取った。
メッセージアプリを開く。
曽米さんとのトーク画面。
指が震える。
たった一文送ればいい。
『クリスマス、どこか遊びに行かない?』
それだけだ。
それだけなのに。
送信ボタンを押そうとした瞬間だった。
脳裏に伊藤の顔が浮かんだ。
校門で手を振っていた姿。
ロードスターを見送る姿。
夕暮れの中で少しだけ柔らかく見えた表情。
僕は思わず指を止めた。
「……なんで」
画面を見つめる。
伊藤は友達だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思っている。
思っているはずだ。
なのに送信ボタンが押せない。
押した瞬間、何かが変わってしまう気がする。
今までの関係が。
今までの日常が。
何か取り返しのつかない方向へ進んでしまう気がした。
「なんで……僕は曽米さんと二人で遊びに行きたいだけなのに……」
僕は頭を抱えた。
自分でも意味が分からない。
その時だった。
スマホが震えた。
メッセージ通知。
僕は反射的に画面を見る。
送り主は――伊藤。
『今、大丈夫か?今後について確認したいことがある』
あまりにも事務的だった。
僕は一気に緊張する。
何かやらかしただろうか。
今日の会話か?
曽米さん関連か?
それとも学校で何かあったのか?
慌てて返信する。
『大丈夫だけど、何かあった?』
送信して数秒。
すぐに既読が付いた。
そして返ってきた文章を見た瞬間、僕は固まった。
『今度のクリスマス、どこか行かないか?』
「……へ?」
思わず声が出た。
何度も読み返す。
今度のクリスマス。
どこか行かないか。
確かにそう書いてある。
僕は目を擦った。
読み間違いじゃない。
伊藤からの誘いだった。
胸が妙に騒がしくなる。
僕は自分が気持ち悪くなった。
短い文章一つで何を考えているんだ。
伊藤の本音を探ろうとしている。
行間を読もうとしている。
まるで恋愛小説の主人公みたいだ。
だけど。
普段から忙しい伊藤だ。
学校以外で遊ぶ時間なんてほとんどない。
そんな伊藤からの誘い。
断るなんて選択肢はなかった。
僕は半ば勢いで返信する。
『いいよ。伊藤が行きたいところに行こう』
送信。
すぐに既読が付く。
しかし――返信が来ない。
一分。
二分。
三分。
沈黙。
僕は急に不安になった。
「まずかったか……?」
文章を見返す。
上から読む。
下から読む。
変な意味に取られる部分はないか。
馴れ馴れしくなかったか。
冷たくなかったか。
そんなことばかり考えてしまう。
そして数分後。
ようやく返信が来た。
僕は少し緊張しながら画面を開く。
すると。
『悪いが二人だけじゃないんだ』
僕は瞬きをした。
続きを読む。
『曽米から君に送るよう求められた』
「え?」
さらに続きを読む。
『クリスマスは予定がないから、獅子御がいるならという条件でメッセージを送った。気を悪くしたならすまない』
僕はベッドの上で固まった。
数秒後。
「えぇぇぇぇっ!?」
思わず声が出た。
曽米さんが?
伊藤に?
僕を誘わせた?
頭の中が混乱する。
つまり。
クリスマス。
曽米さん。
伊藤。
そして僕。
三人。
そういうことか。
僕はベッドへ倒れ込んだ。
顔が熱い。
さっきまで勝手に深読みしていた自分が恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
しかし同時に別の問題が発生した。
「いや待てよ……」
曽米さんと伊藤。
女子二人。
そこに僕。
これってどういう構図なんだ?
いや。
伊藤は男友達みたいに接すればいい。
いつも通りだ。
問題ない。
問題ないはずだ。
……本当に?
僕はスマホを見つめる。
返信欄が空白のまま待っている。
『気を悪くしたならすまない』
その一文が妙に気になった。
伊藤は本気で謝っている。
変な気を遣わせてしまったかもしれない。
だけど何と返せばいいのか分からない。
『気にしてない』
では素っ気ない気がする。
『楽しみにしてる』
だと何だか変な意味に聞こえる。
『曽米さんにもよろしく』
いや、それも違う。
僕はスマホを握ったまま天井を見上げた。
数十分前まで曽米さんを誘おうとしていた。
それなのに今は伊藤への返信一つで悩んでいる。
自分でも何をしているのか分からない。
ただ一つ確かなのは――
今年のクリスマスは、どうやら静かには終わりそうになかった。