新年を迎えた。
テレビでは朝から正月特番が流れ、窓の外はどこかいつもより静かだった。
来年の今頃、僕たちはどうしているのだろう。
そんなことをふと思う。
高校二年生としての生活も残りわずか。
間もなく三年生になり、その先には受験が待っている。
進路。
大学。
将来。
今まで何となく遠くに見えていたものが、少しずつ現実味を帯びて近付いてきていた。
そんなことを考えながら、僕はリビングのこたつでスマホを操作していた。
片手でアプリゲームを進め、もう片方の手でお節料理を摘む。
非常にだらしない正月の過ごし方である。
「お兄ちゃん」
向かいに座っていた妹が声を掛けてきた。
「何?」
「お兄ちゃんの彼女の
僕は思わず顔を上げた。
彼女?
クレメさん?
誰だろう。
親戚にそんな人いただろうか。
数秒考えてから、ようやく思い当たる。
「ああ……」
曽米さんだ。
間違いない。
以前、僕が曽米さんと電話していた時のことだった。
気付けば二人でクレメンス五世の話になっていて、妹が横でその会話を聞いていたのだ。
妹の中で曽米さんは「クレメさん」になったらしい。
なぜそうなった。
「彼女じゃないよ」
「またまたー」
妹は疑いの目を向けてくる。
「クリスマスも一緒だったじゃん」
「みんなで遊んだだけだから」
「ふーん」
全く信じていない顔だった。
僕はため息を吐きながらスマホへ視線を戻す。
すると不意に曽米さんの顔が浮かんだ。
今頃何をしているのだろう。
きっと正月早々、世界史に関係する神社や人物の話をしているに違いない。
そう思うと少し笑ってしまう。
僕はスマホを操作し、ダメ元で曽米さんへ連絡しようとした。
その時だった。
通知音が鳴る。
メールではない。
アプリゲームのチャット機能だった。
誰だろうと思って確認すると、
『初詣はもう行ったか?』
伊藤からだった。
珍しい。
ゲーム内のチャットで連絡してくること自体が珍しい。
僕はすぐに返信する。
『まだ行ってない』
すると数秒後。
『獅子御が良ければ』
続いて新しいメッセージが表示される。
『一緒に行かないか?』
僕は一瞬だけ画面を見つめた。
初詣。
伊藤と二人。
予想していなかった誘いだった。
そして、その瞬間。
なぜか脳裏に曽米さんの笑顔が浮かぶ。
「リチャード君!正月と言えば歴史的に――」
そんな声が聞こえてきそうだった。
もし曽米さんを誘ったらどうなるだろう。
神社に着く前に世界史の講義が始まりそうな気がする。
少しだけ迷う。
本当に少しだけ。
だが誘ってきたのは伊藤だ。
クリスマスの遊園地でも、彼女なりに僕を頼ってくれていた。
それに、こうして自分から誘ってくるのは珍しい。
僕はキーボードを開いた。
『いいよ』
短く返信する。
すぐに既読が付いた。
そして、
『分かった』
『それでは十一時に駅前で』
いつも通り簡潔な文章が送られてくる。
僕はスマホを置いた。
妹がじっとこちらを見ていた。
「デート?」
「違う」
「絶対デートだ」
「違うって」
「クレメさん泣いちゃうよ?」
「だから彼女じゃないし、クレメさんでもない」
妹はケラケラ笑っている。
僕は呆れながらも苦笑した。
正月の穏やかな空気の中。
僕は新年最初の外出を伊藤と過ごすことになった。
元日の駅前は思った以上に賑わっていた。
初売りへ向かう人。
家族連れ。
晴れ着姿の人たち。
普段の見慣れた駅前なのに、どこか違う場所のように感じる。
僕は待ち合わせ場所の時計台の下でスマホを確認した。
十一時ちょうど。
だが伊藤の姿は見当たらない。
「珍しいな……」
思わず呟く。
伊藤は時間に正確なタイプだ。
むしろ五分前には来ている印象がある。
遅れるなんてほとんど記憶にない。
何かあったのだろうか。
そんなことを考えていると、前方から見覚えのある人影が駆け寄ってきた。
「あけおめ、リチャード君!」
聞き慣れた声だった。
僕は思わず目を丸くする。
「曽米さん?」
紺色のコートを羽織った曽米さんが満面の笑みで立っていた。
「なんでここにいるの?」
純粋な疑問だった。
今日は伊藤と初詣の約束だったはずだ。
すると曽米さんは悪戯が成功した子供みたいな顔になる。
「えへへ」
そして嬉しそうに言った。
「伊藤ちゃんが誘ってくれたんだよ」
僕は耳を疑った。
「え?」
思わず聞き返してしまう。
伊藤が?
曽米さんを?
あの伊藤が?
僕の頭の中で情報が上手く整理できない。
すると背後から落ち着いた声が聞こえた。
「待たせてすまない」
振り返る。
そこには伊藤が立っていた。
僕はすぐに質問をぶつける。
「伊藤が曽米さんを誘ったって本当?」
伊藤は特に隠す様子もなく頷いた。
「ああ」
そして少しだけ首を傾げる。
「嫌だったか?」
予想外の質問だった。
僕は慌てて首を横に振る。
「嫌じゃないけど……」
むしろ驚いただけだ。
伊藤が自分から僕以外の人間を誘うこと自体珍しい。
しかも曽米さんを。
すると曽米さんが会話に割り込んできた。
「私たちが歩いて行けそうな神社って限られてるからね」
確かにその通りだった。
この辺りで初詣と言えば候補はそう多くない。
「伊藤ちゃんから『初詣には行ったか?』ってメッセージが来た時はびっくりしたけど」
曽米さんは楽しそうに笑う。
「てっきり世界史の悩み相談かと思ったもん」
それは曽米さんだけだと思う。
僕が苦笑していると、伊藤が静かに口を開いた。
「クリスマスの時のお礼だ」
「お礼?」
「日向と一緒に服を選んでくれただろう」
そんなことがあったのか。
僕は日向さんが伊藤の服装を決めたのだと思い込んでいた。曽米さんも一枚噛んでいたようだ。
「その借りを返したかった」
伊藤らしい理由だった。
律儀というか真面目というか。
その時、僕はふと違和感を覚えた。
視線が自然と伊藤の足元へ向く。
そして気付く。
今日の伊藤はクリスマスの時のワンピース姿ではなかった。
代わりに着ているのは見慣れた男子用の学生服。
休日なのに制服である。
冬用コートまで含めて、ほぼ学校へ行く時と変わらない格好だった。
そういえばクリスマスの日はかなり印象が違った。
新鮮だったし、正直よく似合っていた。
僕が何となく見ていると、伊藤が僕の視線に気付いたらしい。
「……」
少しだけ沈黙する。
そして、
「ガッカリしたか?」
と言った。
僕の思考が止まった。
「え?」
「クリスマスの時と違うからな」
淡々とした口調だった。
だが耳が少し赤い気がする。
気のせいだろうか。
僕は慌てて首を振った。
「ち、違う!」
否定が少し大きな声になる。
周囲の何人かがこちらを見る。
恥ずかしい。
「そういう意味じゃなくて!」
「そうか」
伊藤は短く答えた。
だがどことなく安心したようにも見えた。
曽米さんはそんな僕たちを交互に眺めている。
そして何かを察したような顔になった。
嫌な予感がする。
非常に嫌な予感がする。
だが幸いにも曽米さんは何も言わなかった。
代わりに両手を広げて元気よく宣言する。
「それじゃあ行こう!」
「初詣だね!」
僕は胸を撫で下ろした。
少なくとも今は余計な歴史ネタも恋愛ネタも飛び出さなそうだ。
――そう思ったのだが。
曽米さんが次の瞬間、
「ちなみに神社といえば戦後GHQが――」
と言い始めたので、やっぱり油断してはいけないのだと新年早々思い知らされることになった。
神社へ到着すると、予想以上の人の多さに圧倒された。
参道には屋台が並び、甘酒や焼きそばの香りが漂っている。
家族連れ、友人同士、カップル、外国人。
みんな新年最初の参拝を楽しんでいるようだった。
「すごい人だね」
僕が呟くと、
「さすが元日だな」
伊藤も周囲を見回す。
曽米さんはというと、
「初詣は世界的にも興味深い文化で――」
既に何か話し始めていた。
僕たちは人の流れに従いながら拝殿へ向かう列に並んだ。
十分ほど待った後、ようやく賽銭箱の前へ辿り着く。
まずは僕。
財布を開く。
中身を見る。
少し悲しくなった。
なけなしの五十円玉が一枚。
受験生の財布事情は厳しい。
僕は五十円玉をそっと投げ入れた。
カラン。
綺麗な音が響く。
(今年も曽米さんと……)
そう願いながら手を合わせる。
続いて伊藤。
伊藤は迷いなく百円玉を取り出した。
カラン。
僕の倍である。
何となく負けた気分になる。
(別に競うものじゃないけど)
そんなことを考えながら横を見る。
すると曽米さんが奇妙な行動を始めていた。
胸の前で十字を切っている。
しかも真剣な表情で。
僕は思わず目を瞬かせた。
「え?」
神社で?
十字を切る?
どういう状況だろう。
僕は曽米さんへ声を掛けた。
「曽米さんってキリスト教徒だったの?」
すると曽米さんは突然遠くを見るような目になった。
どこか哀愁すら漂っている。
「黙っててごめんね」
重々しい口調だった。
「リチャード君」
なぜか僕の肩に手を置く。
「実は私、東方正教を信仰してるんだ」
一瞬だけ信じそうになった。
だが次の瞬間。
隣から冷静な声が飛んでくる。
「君は獅子御を騙そうとしているのか?」
伊藤だった。
曽米さんの動きをじっと見ている。
「その十字の切り方は
沈黙。
僕は感心した。
「分かるの?」
「基本的な知識だ」
さらっと答える。
いや、全然基本的じゃない気がする。
少なくとも僕は知らなかった。
曽米さんは一瞬固まった後、
「くっ……!」
と悔しそうな顔をした。
「まさか伊藤ちゃんに見破られるとは!さすがは宦官」
「誰が宦官だ!見破るも何も、作法が雑だ」
伊藤は容赦なかった。
「というか神社で十字を切るってバチが当たったりしないのかな?」
僕は思わず突っ込んだ。
伊藤も呆れたようにため息を吐く。
周囲では参拝客たちが真面目に新年の祈願をしている。
その中で、
東方正教だの、
西方教会だの、
そんな会話をしている高校生三人組。
冷静に考えると異様な光景だった。
僕は改めて周囲を見渡す。
正月の青空。
厳かな神社。
賽銭箱。
そして十字を切る曽米さん。
それを宗派判定する伊藤。
(僕たちは神社で何をやってるんだろう……)
新年早々、そんな疑問が頭をよぎった。
しかし考えてみれば、曽米さんと一緒にいる時点で今さらなのかもしれない。
参拝を終えた僕たちは、人混みを避けながら神社の出口へ向かっていた。
屋台から漂う甘い匂いに惹かれつつも、まずは人の流れから抜け出そうと歩く。
すると曽米さんが突然立ち止まった。
そして空を見上げながら呟く。
「そういえば今年ってユリウス暦何年だっけ?」
僕は真面目に考えてしまった。
「ユリウス暦……?」
聞いたことはある。
世界史で習ったはず……。
だが肝心の内容が出てこない。
「って何だっけ?」
曽米さんがずっこけそうになる。
「嘘だと言ってよ、リチャード君。私たちの二年にも及ぶ世界史交流は何だったの?」
「いやだって僕たち日本人だし……」
すると伊藤が小さくため息を吐いた。
いつもの教師モードである。
「ユリウス暦は古代ローマのユリウス・カエサルが導入した暦だ」
僕は伊藤の言葉で、
「思い出した。現在世界で一般的に使われているのはグレゴリオ暦だ」
伊藤はさらに続けた。
「ユリウス暦は一年を、365日と6時間として計算していた」
「当時は正確だと信じられていたんだよね?」
「だが実際の太陽年とは微妙に誤差がある」
伊藤は指を一本立てる。
「その誤差が何世紀も積み重なった結果、季節とのズレが生じた」
「それでグレゴリオ暦になったのか」
「そういうことだ」
僕は素直に感心した。
受験勉強もあるのに、よく覚えているものだ。
曽米さんは満足そうに頷いていた。
「さすが伊藤ちゃん!」
そして次の瞬間。
話題が飛んだ。
ものすごい勢いで飛んだ。
「伊藤ちゃんの両親ってルター派?それともカルヴァン派?」
僕は首を傾げる。
何の話だろう。
そもそも伊藤の家の宗教事情なんて聞いたことがない。
伊藤も眉をひそめた。
「なぜそんなことを聞く?」
当然の反応だった。
だが曽米さんは妙に自信満々だった。
「今更しらを切るなんて伊藤ちゃんらしくないよ?」
「意味が分からない」
「だってさっき十字の切り方を指摘してくれたじゃん」
曽米さんは人差し指を立てる。
「それって近くにキリスト教徒がいるってことでしょ?」
僕は思わず感心してしまった。
なるほど。
確かに普通の高校生ならそこまで詳しくない。
少なくとも僕は分からなかった。
伊藤は一瞬だけ言葉に詰まる。
そして観念したようにため息を吐いた。
「……君に家族のことを話せば」
伊藤は曽米さんを見た。
「世界史の話に持っていくだろう?」
「もちろん!」
即答だった。
あまりにも即答だった。
伊藤は額を押さえる。
「だから今まで黙っていたんだ」
僕は納得した。
ものすごく納得した。
もし本当に伊藤の家がキリスト教系だったとしても、
「宗派は何?」
「同性愛は認められてるの?」
「ユダヤ教とイスラム教ってどう思う?」
などと伊藤が質問攻めされてる未来しか見えない。
伊藤の判断は正しい気がした。
その後も僕たちは駅へ向かって歩いた。
しかし曽米さんは諦めない。
「ルター派?」
「……」
「カルヴァン派?」
「……」
「英国国教会?」
「違う」
「違うんだ!」
「そこだけ反応するな」
「じゃあ東方正教?」
「違う」
「アリウス派?」
「違う」
「ネストリウス派?」
「異端になった宗派を混ぜて尋問するな!君は魔女か?」
伊藤のツッコミもだんだん鋭くなっていく。
僕は二人のやり取りを見ながら苦笑した。
正直なところ、
(宗派ぐらい教えてあげてもいいのでは?)
と思わなくもない。
だが同時に、
(教えたら絶対面倒なことになるな……)
とも思う。
たぶん今日一日では終わらない。
下手をすると卒業まで宗教改革の話題を振られ続ける。
伊藤もそれを分かっているのだろう。
結局、駅に着くまで曽米さんの尋問は続いたが、伊藤は最後まで宗派を明かさなかった。
その頑なな態度を見ながら僕は思う。
もしかすると伊藤は、受験勉強よりも曽米さんの歴史談義を回避する方が難しいと思っているのかもしれない。
①東方正教(正教会)
ローマ帝国がキリスト教を国教にするが、帝国が東西に分裂すると対立が表面化。教会は分裂し西ヨーロッパは教皇が権威を持つローマ教会、東側は皇帝の影響力を受けた東方正教が誕生する。
②グレゴリオ暦
ユリウス暦による日付のズレを修正するため、ローマ教皇グレゴリウス13世が制定する。うるう年が調整された。
③ルター派
ドイツの聖職者マルティン・ルターが提唱した宗教改革におけるプロテスタントの一派。
カトリック教会が重んじていた儀礼や善行主義に疑義を呈し、聖書による絶対性(聖書中心主義)と信仰によってのみ人は救われると説いた。
ドイツのみならず北欧諸国にも広まる。
④カルヴァン派
フランスの神学者カルヴァンが提唱した宗教改革におけるプロテスタントの一派。
神は最初から誰が救われるかを決めている(予定説)ため、自身の死後は誰にもわからない。人々は神から与えられた労働に励むことで、自身が神に選ばれた存在であることを自認できるとする。
イングランドではピューリタン(清教徒)、フランスではユグノー、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)と呼ばれた。
⑤ニケーア(ニカイア)公会議
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がニケーアで招集したキリスト教の歴史の中で初の宗教会議。
父・子・聖霊を一つの神とする「三位一体説」を説いたアタナシウス派が正統とされ、キリストの神性を否定するアリウス派は異端とされた。
⑥エフェソス公会議
東ローマ皇帝テオドシウス2世が開いた宗教会議において、「三位一体説」を否定したネストリウス派は異端宣告を受ける。帝国内で活動ができなくなった一派は東方(ペルシア方面)に布教し、唐(中国)では「景教」と呼ばれた。