思わぬシーンが流れ、妙な空気になるが……。
「……え、浅羽隊員とビデオ屋に?」
「うん、ハルマサとビデオ見るの! それでね、ハルマサのおうちでねこちゃんと仲良くなるの!」
とてもよく晴れた休日、蒼角はお気に入りのTシャツに着替え終わるとパジャマを洗濯かごに入れながらそう言った。
キッチンで朝食の準備をしていた柳は困惑の表情で蒼角がリビングへ戻ってくるのを待っている。
「……ええと、ビデオと、猫はどういう関係が……?」
「うんとね、ハルマサのおうちにはねこちゃんがいるんだけどね、とっても怖がりさんでね、それでわたし、お友達になりたいんだけど、ただ行くだけじゃきっとまた怖がられちゃうから、ビデオ見にきたんだよ~何でもないからね~ってふりして、会いに行くの!」
「なるほど、浅羽隊員の飼い猫が警戒しないようにビデオに集中しているふりをして様子を伺うんですね」
「そう! あ、でもねでもね! ビデオも見たいんだよ! この前プロキシのお店に行ったらね、おもしろそうなのがい~~~っぱいあってね! 迷っちゃって!」
「そうですか……ビデオなら私とも一緒に見ましょうね」
「うん! ナギねえとも見る!」
「……浅羽隊員、まさか猫でうちの蒼角を釣ろうと……?」
「え、何?」
「あ、いえ、こちらの話です」
柳はトーストとサラダ、分厚いベーコンの上に目玉焼きが載ったプレートをテーブルの上に置いた。
もちろん蒼角の方は量が倍だ。
「いっただっきまーす!」
「はい、召し上がれ」
嬉しそうにベーコンと目玉焼きを一緒に頬張ると蒼角はもぐもぐと咀嚼し飲み込む。それから次にトーストを口に放り込むとボウルの中のサラダをがつがつと食べた。
柳はそれを見て幸せそうに微笑むとコーヒーカップに口をつける。
「蒼角、もっとゆっくり食べないと喉を詰まらせますよ」
「ふぁいひょふひゃひょお~~~んん~~~もぐもぐ、ごくんっ」
「ほら、またお口の周りにいっぱいつけて……」
「ふぇ?」
柳は蒼角の口元をハンカチで拭った。
頬が擦れ、蒼角は思わず目を瞑る。
「はい、取れましたよ」
「ありがとナギねえ! ……あれ?」
「どうかしました?」
蒼角はふと、首を傾げる。
うーん、と唸りながら先日のことを思い返していた。
(ハルマサもナギねえとおんなじように口についちゃったごはん取ってくれるけど、ナギねえは拭いておわりで、ハルマサは食べてたなぁ……)
(もしかしてハルマサ、もったいないよ、お口のまわりにつけちゃわないように全部食べなきゃだめだよっておしえてくれてるのかな……!?)
「――蒼角、今までいっぱいもったいないことしてたのかも!」
蒼角はわわわわと慌てるように顔を青くさせると、「これからはお口につけないようにきれいに食べるからだいじょうぶ!!」とすごい気迫でテーブルを叩いた。
「ええ……? ええと、そうですね。綺麗に食べれば上品ですしね……?」
柳は、急な蒼角の気づきに違和感を覚えつつも「もしかしていつも拭いてあげるのは甘やかしすぎだったでしょうか」と自分のこれまでを振り返り反省をした。
「――そういえば、どんなビデオを借りたいんですか?」
「んーっとねー、えーっとねー、カイジュウが出てくるのとかぁー、過去に戻ってやりなおす……? みたいのとかぁー」
「そう……それを、浅羽隊員と見るんですか?」
「うん! あ、ハルマサが見たいのもあるかなぁ……」
「浅羽隊員が見たいビデオ……」
柳はふむ、と口元に手を当て、それからはっとしたように目を見開いた。
「蒼角、浅羽隊員はどの女優さんが好きか聞いてみるといいですよ」
「どのじょゆうさん?」
「ええ、浅羽隊員も男の子ですから。好きなタイプがあるでしょうし」
「ええ~? えっと、それをハルマサに聞いたらいいの?」
「はい。……もしこれで若いアイドルだったり大人っぽい綺麗なグラビア系女優であれば蒼角への感情も私の杞憂だとわかるかもしれませんし」
「あいどる? ぐらびあ?」
「あ、いえ! こちらの話です!」
慌てて顔の前で手を振ると、柳は自分の朝食に再度手を付けた。
朝食が終わればさっそく洗濯をしようか、と柳は外の天気を見ながら思った。
***
本日の六分街は少し賑わう声がいつもより多い気がした。
ゲームセンターの前を通りかかってみると、どうやら今日はゲームイベントが催されているらしい。
「ゲームかぁ、蒼角下手っぴだからなぁ~」
人がいっぱいいて面白そう、と思いつつもそこへ入っていく勇気は出なかった。
とはいえ今日の目的はビデオ屋。
蒼角はラーメンの匂いに後ろ髪を引かれながらも、振り切るようにしてビデオ屋のドアを開けた。
「こんにちはーっ!」
中へ入り挨拶をすれば、ビデオ屋店長であるアキラが振り向いた。
「いらっしゃい、蒼角」
「ビデオ借りに来たよーっ!」
「それは嬉しいな。ゆっくり見て行って」
「はーい!」
元気な蒼角の声に、奥からぱたぱたとやってきたリンが嬉しそうに手を振る。
「いらっしゃい!」
蒼角もリンに手を振ると、ビデオをじっくりと眺め始めた。
あれもいいな、
これもいいな、
怪獣のはどこだったかと探し、
いつのまにか足元をすり抜けていった黒猫に驚いて「わ!」と声を上げたりした。
そんな蒼角の様子に、リンがそっと近づいていく。
「今日もひとりでビデオ見るの?」
「ううん! 今日はハルマサと見るの! あ、こないだ借りた時もね、ハルマサと見たよ!」
「悠真と? そうだったんだ。それで悠真は? 一緒じゃないの?」
「えーっとね、ここで待ち合わせしてるんだけど……まだ来ないなぁ」
蒼角は自分のスマホを取り出し、メッセージが来ているか確認する。
もしかすると寝坊でもしているのかも、と思い電話をかけようとしたその時だった。
「あ、蒼角来たよ!」
来店者に気づきリンが声を上げる。
蒼角は振り返ると、そこに立っている人物に「ハルマサー!」と声をかけた。
「ごめんね蒼角ちゃん、遅れちゃったかな」
「ううん! ぜんぜん気にしてないよ!」
「あれ、なんか今日は大きいリュック背負ってるね?」
「あのね、この中にねこちゃんのおやつ入ってるの! あ、もちろんわたしのおやつも!」
「ハハ、それで大荷物なわけか。ビデオは決まった?」
「ううんまだ!」
えーっとねぇ、どうしよっかなぁ、と蒼角はまた陳列されたビデオ棚に向き合う。
その様子を眺めている悠真の横に、リンがすすすっと並んだ。
「悠真~、蒼角と仲良いんだ~。いいなー私も蒼角と一緒にビデオ見たり悠真のおうちの猫と遊びた~い」
「ん? あんたも来たいなら大歓迎だけど?」
「ほんと!? おにーちゃーん! 今日遊びに行ってもいーいー!?」
リンが振り返り聞くと、アキラは目を瞑り首を横に振った。
「ちぇー、おにーちゃんのケチー」
「今日はやることがあるって言っただろう?」
「ケチー!」
「リン、いいからこっちにおいで」
「はぁ~い」
悠真はとぼとぼと歩いて行くリンを見て、それからまた蒼角の方へと向き直る。
するとしゃがみこんでビデオを見ていた蒼角が、悠真の方を見上げていた。
「……プロキシもおうちに来たらみんなで見れたのにね!」
「ん? そうだねぇ。その方が蒼角ちゃんも喜ぶと思ったんだけど、残念だ」
「ざんねーん。あ、これなんかどうかなー。新作だって! 新しいやつってことだよね?」
「どれどれ?」
悠真が蒼角の横に並んでしゃがみこむ。
棚の陰になり、二人はビデオ屋の中で隠れたようになった。
「これ、ハルマサ好き?」
蒼角が見せてきたパッケージを手に取り、まじまじと眺める。
「んー僕はどっちでも」
「えーそれじゃねー……あ、そうだった。ねぇハルマサ、どのじょゆうさんが好き!?」
「……は?」
唐突な質問に目をぱちくりとさせる。
そんな悠真に、蒼角は聞こえなかったのだろうかと「だから、どのじょゆうさんが好き?」と再び訊ねた。
「えーっと……女優さん? いやー、特別この女優さんが好きとかはないかなぁ」
「え~? じゃあじゃあ、ここにあるビデオの中でどのじょゆうさんがタイプ?」
「タイプ?? ……ううーん」
困惑しつつも、悠真はしゃがみこんだまま目線を横に流しつつ下段、中段、上段と進めていった。
「あ、あの女優さんとか綺麗だよね~。それにおっ――」
はっ、として悠真は口を噤む。
蒼角はどうしたのかと首を傾げた。
(……いやいや、おっぱいもでかいし、とか言ってどーすんの。思わず男同士でする会話のノリを出しちゃうとこだったよ)
学校に通っていた時代、交わされる男同士での会話は主に「どんな女がタイプか」「どのグラビアが一番ヌけるか」といった下世話なものが多かった。
悠真自身はそういった会話が好きなわけではなかったが、その場にいる以上混ざらないわけにもいかない。
お前はどんなのがいい、と聞かれればそこはのらりくらりと相手が好みそうな返事をして交わすのだ。
実際にはそう思っていなかったとしても。
「……ハルマサ?」
「えっ、ああ、ごめんごめん。いやーこんなこと蒼角ちゃんに聞かれると思ってなかったから戸惑っちゃったよ。どうしたの? 突然」
「えっとね、蒼角もなんでかはわかんないんだけど、聞いておけって」
「聞いておけ?」
「変だよね~、ハルマサがどんな人を好きでも別にいいのにね」
ふふっと笑うと、蒼角は膝を抱えた。
少しだけ赤らんだ横顔を見つめると、悠真は一瞬頭がぼんやりとした。
じっと見ていたいような。
そのまま触れてみたいような。
――それをかき消すかのように、ゴホン、と咳払いをする。
「あーっと、これ、見てみる?」
「え? なになに? ボンプの魔人? 古くなったボンプを見つけて磨いてみると、そのボンプはなんでも叶えてくれる魔法のボンプで……? すごーい! おもしろそう! うんこれ見よ!」
「じゃ、借りに行こっか」
悠真はそう言うとゆっくりと立ち上がり、手を差し伸べた。
蒼角はその手を掴むとぴょんと立ち上がる。
だが、少し違和感を感じたように悠真の手を掴んだままでいた。
「………」
「……蒼角ちゃん?」
「あ、ううん! 行こ行こ!」
ぱっ、と手を放すと蒼角はカウンターの方へと駆けて行った。
悠真はビデオを持っている方の手を軽く上げて、「これ貸してくださーい」とカウンターに立つアキラににこやかに言った。
***
悠真の部屋に着くと、蒼角は初めて来た時とは違ってそろりそろりと中へ入っていった。
「おじゃましまぁーす……」
猫を驚かさないように、と抜き足差し足で床を歩く。
そんな彼女の後ろから悠真は普通に歩いてくる。
「多分もう奥に隠れてると思うな~」
「え!? もう!? 蒼角静かに入ってきたのにぃ~」
「猫ちゃんは敏感だからね、多分ドアを開ける前から気づいてたと思うよ」
「そんなぁ~。……あ、でも今日は蒼角、秘密兵器があるもんね!」
そう言うと蒼角は背負っていたリュックを床に下ろすと、がさごそと中から何かを取り出した。
「じゃーん! 猫ちゃんのおもちゃ!」
至って普通なねこじゃらしを天高く掲げると、とても自信満々に鼻息を荒げた。
「これが一番ねこちゃんが遊んでくれるってお店のひとが言ってた!」
「あららー、そんなものまで買ってきてくれたわけ?」
くすくすと笑うと、悠真は蒼角の隣に腰を下ろした。
「あっちのお部屋、行ってもいい?」
「うんいいよ」
悠真の許可を取ると、蒼角は四つん這いで奥の部屋へと進んでいく。
少しだけ開いたドアの隙間から中を覗くと、真っ白なシーツがかけられたベッドが見えた。
猫はどこかと探したが、ベッドの上にもその近くにも見当たらない。
「……どこだろう」
じーっと中を見つめる。
生き物の気配はするが、とうとうわからずに蒼角はため息を吐いた。
「焦っちゃだめだって~」
と、頭の上から声が聞こえた。
見上げると悠真がすぐ横に立って同じように部屋の中を眺めていた。
「きっと狭いとこに隠れちゃったんだね~、怖がりだからさ」
「次はおやつを持ってきてみる!」
「いやいや、ひとまずはゆっくりしようよ。そのうち顔を見せてくれるって」
そう言うと悠真は蒼角を脇から抱えて持ち上げた。
そしてそのまま座布団の上に座らせる。
されるがままの蒼角は置物のようにそこに落ち着いた。
「何か飲む~?」
いつのまにかキッチンの方へと行っていた悠真から声がかかり、蒼角は耳をぴくりと動かす。
「緑茶と、コーヒーと、あと青汁と……」
「青汁はもういいってばー!」
「あはは。じゃあ緑茶を入れてあげるよ」
「じゃあ蒼角、ビデオ準備してるね! 入れていい!?」
「どうぞ~」
キッチンの方からは湯を沸かす音が聞こえてくる。
カチャカチャ、という茶器を用意する音も。
蒼角はそれを聞きながら、テーブルの上に置かれたビデオに手を伸ばした。
そそくさとテレビに近づき、その下に設置されたビデオデッキの電源をオンにする。
人差し指でふたをそっと押し開け中身が入っていないことを確認して、四角いビデオテープを差し込んだ。
ウィーン、
ガチャン、
とセットされた音が響き慌ててテレビを点ける。
「始まるよぉ~!」
蒼角はそう言うと、テーブル前に置かれた座布団の上へと戻った。
「……そういえば悠真のお部屋にはソファないんだね~」
「ん? ああ、ないね」
お茶を淹れ戻ってきた悠真が、テーブルの上に湯のみを二つと急須を置いた。
そして蒼角の右隣りに座る。
「どうせ家は寝に帰ってくるだけだし。ソファに座るよりベッドの上の方が長いからねぇ」
「そっかぁー」
「床だと足痛い?」
「ううんだいじょぶだよ!」
話しているうちに、映像が始まる。
――主人公はホームレスの少年。
ある日ゴミ捨て場に捨てられたボンプを見つけるところから話が始まる。
そのボンプを修理してどうにか使えないかと試行錯誤しているうちに、磨き上げたボンプが奇妙な光を放つ。
そのボンプは起動するなり、
『あなたの願いを3つまで叶えます』
と言うのだ。
訝しみながらも少年は「大金持ちになりたい!」と言う。
その途端、ボンプの腹部がパカッと開き、そこから大量のディニーがなだれてきた。
「急にお金持ちになっちゃった!」
蒼角は驚きで目をまん丸にしている。
そして持ってきていた棒付きキャンディーをぺろりと舐めた。
――心根の優しい少年は結局手に入れたディニーのほとんどを同じくホームレスとして苦しんでいる人々に使ってしまった。
手に残ったのは数枚のディニーだけ。
次に少年が願ったのは「たくさんのご飯が食べたい!」
またボンプの腹部がパカッと開き、そこからいくつもいくつも様々な料理が湧いてくる。
少年は目を輝かせ、周囲にいたホームレスたちと一緒に食事を分け合って食べた。
「蒼角もたくさんご飯食べたい! でも、この量じゃ蒼角ひとりで食べきっちゃうかも……」
蒼角はそう言うと、大きなマシュマロを口の中に放り込んだ。
それから悠真にもそのマシュマロを「はい」と手渡す。
無意識にもらってしまった悠真はそれを口に入れ、「ヴッ……めちゃくちゃ甘いなこれ」と苦笑いした。
――そして最後の願い。
『次は? 次は?』
と急かすボンプに、少年は恥ずかしそうにしながらも、
『……恋がしてみたい』
と言った。
ボンプはしばらく少年を見上げていたが、急に光を放ったかと思えば――姿を消してしまった。
少年はボンプを探した。
一体どこへ行ったのか。
探して探して、遠くの通りまでやってきた時。
少年は花屋に立つ一人の少女に恋をする。
そして少年はその少女に振り向いてもらう為、必死に仕事を探し、お金を貯め、長い時間がかかってしまったが花屋へとまたやってくる。
花屋の少女は美しい女性へと成長していた。
そして少年はホームレスではなく、町工場で働く青年へと成長していた。
青年は花屋へと通い、いつしか彼女と結ばれることになる。
『あなたが小さなホームレスだったこと知ってるわ』
『どうして』
『私もあの時あなたに恋をしたからよ』
そうして女性は青年に顔を寄せ――
「……っ!」
思わず、悠真は蒼角の顔を右手で覆った。
体が動かないよう、左手は蒼角の左肩を抱いて。
「え!? 何!?」
「いやそのー」
「蒼角なんにも見えないよ~!!」
「もうちょっと待って」
「ハールーマーサー!!!!」
怒った蒼角は悠真の手を掴み、そのまま上へと持ち上げどけた。
そうしてようやく見えた画面。
映っていたのは、ベッドの上で体を寄せる男女。
「………わ」
両者とも服を着ていて致してこそいないものの、その情熱的なキスは子ども向けとは言い難い。
息遣いは荒く、
執拗なまでのリップ音が響く。
蒼角はそれから目を反らせずにいる。
ぽかんとしてる、というのが正しいかもしれない。
その隣で悠真は「あちゃー」と額に手を当てていた。
結局そのシーンはそのあとすぐに終わったのだが、
そこから蒼角も悠真も無言になってしまった。
――そして作中のふたりは仲睦まじく暮らしていく。
そんなある日、主人公は自宅近くのゴミ捨て場で捨てられたボンプを見つける。
どこかで見たそのボンプに、主人公ははっとする。
持っていたハンカチでごしごしと磨くとボンプは途端に起動する。
『あなたの願いを3つまで叶えます』
主人公はほっとしたように肩を落とし、ボンプをぎゅっと抱きしめた。
『願いは1つだ。君に友達になってほしい』
作品は終わりを迎え、エンディングロールが流れた――。
***
……ちゅぱ、と吸い付くような水音が鳴る。
蒼角が二本目の棒付きキャンディーを舐めていたのだ。
思わずそれをちらりと見てしまった悠真の目と、蒼角の目が合った。
「……おもしろかった? 蒼角ちゃん」
「……う、ん。おもしろかったよ」
なんとなく気まずい空気。
悠真は新しくお茶でも淹れようかと急須に手を伸ばそうとした。
「えっと、ハルマサは隠してくれたけど……別に、蒼角だってあーゆーの見たことあるよ」
蒼角の発言に、悠真は動きを止める。
「……え」
「ほら、夜にやってるドラマとか! ナギねえの帰りが遅くてテレビつけたら、あーゆーシーン、出てくる時あるもん」
「あ、ああー……あはは、そうだよね。ごめんね~子ども扱いして」
「………」
「僕が隠したりしちゃったから、変な空気になっちゃったねぇ」
あはは、と乾いた笑いを上げて悠真は両手を後ろにつく。
蒼角は小さくなったキャンディーを舐め、ゴリッと噛み砕いた。
がり、
ごり、
という音が部屋に響く。
(……もしかして怒らせちゃったかな)
悠真はため息を吐いた。
(家族で恋愛映画を観るとラブシーンで妙な空気になる、ってのは聞いたことがあるけどほんとなんだねぇ)
湯のみに手を伸ばす。
わずかに残っていたお茶を、クルクルと回して揺らす。
そしてそれをひと飲みすると、悠真は目を伏せた。
この妙な空気を脱する為にはどうすべきか。
それを頭の中で巡らせている。
ひとまずは気持ちを落ち着ける為にもお茶を淹れるべきかな、そう思い目を開けた時だった。
こちらを見ている蒼角と目が合う。
「あ……何?」
悠真の声が上擦る。
蒼角はやけに神妙な顔で、「ねぇ」と言った。
手が伸びてくる。
その手が悠真の頬をつつつ……と撫でた。
「……っ、え」
蒼角の少しひんやりとした手が、
悠真の頬を、
耳を、
額を、
撫でていく。
「いや、え、蒼角ちゃ――」
何をされているのかわからず、悠真は困惑した。
上がる息。
視界がわずかに滲む。
口から漏れる息が熱い。
(あれ?)
悠真が気づくよりも前に、蒼角がそれを言葉にした。
「……ハルマサ、お熱ある?」
***
――どどどどうしよう!
――えーっとえーっととにかく寝ないと!
蒼角の声がぼんやりと聞こえる。
自身の体調の悪さを自覚した途端、悠真の意識は少しずつ遠のき始めていた。
「蒼角ちゃ……あの、僕、大丈夫だからさ。とにかく今日は帰っていいから……」
――何言ってるの!?
――こんなハルマサ放って帰れないよ!
――ベッド! ベッドに行こ!
「いや、えーと、ちょっと床で寝てれば少しはラクに……」
――床で寝たらだめだよ!
――もう、蒼角が運ぶから!
小さな体が悠真を横抱きで抱え上げる。
蒼角に掴まればいいものの、力が入らない悠真は小さな肩に上半身をだらしなく預けてしまった。
呼吸は浅く、苦しい。
入ってくる酸素が薄いせいでこのまま意識を手放しそうになる。
だが、ベッドにどさっと置かれた衝撃で悠真は再び瞼を開けた。
――えーっとえーっと、あ、これ体温計だよね!?
――はい、お熱計って!
――う~~~~、ハルマサ、お熱計るの~~!!
蒼角が呻いている。
悠真は急激な倦怠感に体温計を持つこともままならない為、上手く測れないのだ。
急にひやりとした手が悠真の服の内側へと滑り込み、腹部を、胸部を撫でる。
――脇にこうやってはさむんだよね?
――ううー、これで測れてるかなぁ……。
――あ、39.0度だって! これって高いよね!?
――どうしよう、えーっと、とにかく病院? お薬?
――あ、そうだナギねえに助けてって連絡すれば……!
咄嗟に何か声をかけようと思ったが、薄く開いた悠真の唇からは何の音も出なかった。
代わりにできたのはわずかに動かせた指先で、蒼角の服の裾を握ること。
――ハルマサ?
蒼角の声が、優しく撫でるように発音される。
それを聞いて悠真はほっとした。
「……薬、飲めばすぐ良くなるから。とりあえず今は、寝かせて」
そう言った彼の意識はそこで途切れ、急にベッドの深く深く深く奥へと落とされていくように感じた。
***
「……ハルマサ、寝ちゃった」
蒼角はベッドの上で寝息を立てる悠真をじっと見つめた。
そっと指先で彼の額を撫でる。
やはり熱い。
「プロキシのお店で手握った時に熱かった気がしたのは、気のせいじゃなかったんだ」
ぎゅ、と服の裾を握る。
蒼角は眉を下げ、しゅんとした。
「……ハルマサ、具合悪いのに蒼角と遊んでくれたのかなぁ」
そう呟くと、ふと視線を感じ振り返る。
クローゼットの奥で何かが光っている。
「………………もしかして、ねこちゃん?」
蒼角はベッド脇から動かないまま、その光る眼と対峙した。
「ねこちゃんも、ハルマサが心配だよね。えっとね、だいじょうぶ! 蒼角がハルマサの看病するから! だから心配しないで!」
ようし、と蒼角は立ち上がる。
ベッド脇に置いてあるチェストの上には薬が入った入れ物があるのがわかった。
「お薬……これを飲めばいいのかな、わかんないや」
寝室を出て、リビングへと戻る。
蒼角は自分で持ってきたリュックの中身をひっくり返した。
出てきたのは蒼角用のおやつと猫用のおやつがいっぱい。
「キャンディーもポテチも、具合の悪い時に食べるものじゃないんだよね。あ、この前ナギねえが体調悪い時、ゼリーを食べてたかも……? でもゼリーは今日持ってきてないや……。うーん、どうしよう、うん、やっぱりこういう時はちゃんと聞こう!」
そう言うと蒼角は自分のスマホを操作して電話をかける。
相手はもちろん柳だ。
1コール、2コール、3コール目で繋がった。
『――はい、月城です』
「ナギねえ!? あのね、ハルマサがお熱で倒れちゃってね! わたし看病したくってね! どうしたらいいかな!?」
『浅羽隊員が倒れたんですか? ええと、今どこです?』
「今はハルマサのおうち! あのね、用意してあげた方がいいご飯とか、してあげた方がいいこととか、何かないかな!?」
『ええっと、では私がそちらに行くので蒼角は少しそこで待っていてください』
「うん! ……あ」
蒼角の脳裏にふと、
悠真の表情と
服の裾を握った指先が蘇る。
「………ナギねえ」
『はい?』
「やっぱりナギねえは来ないで!」
『えっ』
「蒼角だけでなんとかするから、えっと、買いに行った方がいいもの教えて! 覚えるから!」
『何を言ってるんですか蒼角、今準備してるのですぐそちらに――』
「来ちゃだめ!!」
大声を上げ、そんな自分に蒼角はハッとする。
「……ナギねえ、ごめんなさい」
『………』
「あの、蒼角怒ってるわけじゃないよ、あのね、えっと、でもどうしても来てほしくないの」
『来てほしくない、とは、私にですか? 他の人であれば、行ってもいいんでしょうか?』
「……ううん、誰も来ないで。蒼角ひとりで看病する」
『そう、ですか。……事情はわからないですが、困ったことがあればすぐに連絡してくださいね?』
「……うん」
『それじゃあ、今から言うものを準備してください』
柳が言うものを蒼角は必死に覚えようとする。
何か紙にメモでも書けばよいのだろうが、悠真の部屋では勝手がわからずそれもできない。
蒼角は何度も柳が言った買い物リストを復唱すると、深呼吸をして「もうだいじょうぶだよ、ありがとう」と電話を切った。
蒼角はおやつの中に紛れた財布を探し出すと、中身を確認した。
「うん、だいじょうぶ」
そう呟くときょろきょろと部屋の中を見回し、目当てのものが見つかったのか「あ!」と声を上げると駆け寄った。
そしてそれを手に取り、寝室の方へぱたぱたと駆けていく。
「……ハルマサ、おうちの鍵ちょっと借りるね!」
返事はない。
蒼角はそっと静かにドアを閉めた。
猫が出てきてもいいように、ほんの少し隙間を開けて。
***
――夢を見た。
病室のベッドの上に幼い僕がいて、
ぼうっとしている。
部屋に独りぼっちが怖くて、
小さな手でシーツをぎゅっと握ると、
両親を呼んで静かに泣いた。
真っ白な壁は僕を取り込んでいくようで、
手から伸びる点滴の管はまるで鎖のようで、
泣き声は次第に大きくなっていくけれど、
誰もここにはやってこない。
やってこない。
そのうち泣くことは意味のないことだと理解して、
僕は泣くのをやめた。
『――悲しい時はね、いっぱい泣いていいってわたし知ってるよ!』
突然聞こえた声。
乾いた涙痕を僕は拭った。
「だれ?」
『それでね、いっぱい涙流したら、その分たくさんお水が飲みたくなるんだよ。そしたら蒼角の飲み物分けてあげる!』
「そうかく? おねえちゃんのなまえ? どこにいるの?」
幼い僕は、必死に声を上げる。
この真っ白な部屋には僕以外誰もいない。
外へ出ていく扉もない。
天井に向かって、叫ぶ。
『だいじょうぶ、だいじょうぶ。ハルマサがいい子だって、蒼角、知ってるよ』
その瞬間、頭を撫でられた感覚がした。
ふと横を見れば、そこには青い肌をした鬼の少女。
幼い僕は初めて見た生き物に「あっ」と小さな声を上げる。
『だいじょうぶだよ』
『すぐ良くなるからね』
少女は優しい笑みを携えて、
幼い僕の頭を、
額を、
頬を撫でる。
『怖くないよ、蒼角がいるよ』
その途端、
僕はぽろりと涙を流した。
「どこにも行かない?」
怖がりな声が、小さく問う。
『行かないよ』
「ずっといっしょ?」
『うん』
「本当?」
僕の問いに、お姉ちゃんは満面の笑みで頷いた。
涙がぽろぽろと止まらない。
お姉ちゃんがそれを拭ってくれようとしたけれど、
僕はたまらずその胸に抱きついた。
『……大丈夫だよ』
お姉ちゃんの手が優しく僕を撫でる。
柔らかな胸が温かくて、
僕はいつか両親に抱かれた日のことを思い出した気がした。
そんな、夢。
***
「……ん」
うっすら目を開けると、濃い青が部屋を包み込んでいた。
どうやらもう夜らしい。
悠真はゆっくりと上半身を起こす。
すると、ぼと、と濡れたタオルが額から落ちてきた。
もう冷たくはないそのタオルを拾い上げて、どうしてここにあるのかとぼんやりと考える。
汗でべたついた身体が気持ち悪い。
「どうしたんだっけ……」
ぼーっとタオルを見つめながら思い出そうとする。
いつから寝ていたのか、
昨日からだっただろうか、
こんな時間まで寝ているなんて随分な寝坊だ、
そんなことを考えていると、クローゼットの奥から「にゃお」という声が聞こえた。
「ん……あれ?」
悠真の飼っている猫が、隠れるようにそこにいた。
何故そこにいるんだろうかと考える。
考えて、
思い出す。
「……あ、ハルマサ起きたんだね!」
見れば蒼角が部屋の入口に立っていた。
リビングの明かりを背負っているせいで表情はよくわからないが、いつもと変わらず明るい笑顔のように思えた。
「蒼角ちゃん……? え、と、僕は……」
「覚えてないの? えーっとね、お熱があってね、具合悪くなっちゃってね、それでハルマサ寝てたの!」
そう言うと蒼角はベッドに横たわる悠真の脇に立ち、持っていたタオルで額の汗を拭った。
「わ」
「あ、ごめん! ヤだった?」
驚く悠真と、きょとんとする蒼角。
「いっぱい汗かいてるから、拭いてあげるからね!」
そう言うと蒼角はどこか手慣れたように悠真の顔や首の汗を拭っていく。
「あれれ、背中もびっしょりだ!」
悠真の背に触れた蒼角は驚いたようにして、すぐに考え込むように顎に手を添える。
「うーん、ハルマサ、拭いたげるから服脱いで!」
「……え?」
「あ、もしかして自分でできない? 蒼角やってあげるね!」
「……え!?」
困惑する悠真をよそに、蒼角は悠真の着ているシャツのボタンを上からぷちぷちと外していく。
蒼角が何故そんなことをしているのかわからない、というように悠真は彼女の顔を見つめるが、蒼角は至って真剣だ。
「はい、袖引っ張るよー」
言われるがままシャツは取り払われ、悠真の上半身が露わになる。
熱を帯びた体にはひやりとした空気が気持ちいい。
「背中拭くね」
蒼角は背後に回るようにしてタオルで汗を拭っていった。
悠真もそれを助けるように少し前かがみになる。
「……えっと、ね、蒼角ちゃん」
「うん」
「もしかして、ずっと僕のこと看病してた?」
「うん」
「……なんで?」
「なんで?」
蒼角は復唱し、悠真と顔を合わせる。
「だって具合が悪い時ひとりぼっちはヤでしょ?」
にこり。
一つ笑みを向けると、蒼角はまた悠真の汗を拭く仕事に戻った。
今度は肩を、脇を、胸を丁寧に拭いていく。
悠真はこんな奇妙な事態に今頃ながらも鼓動を速めた。
「蒼角ちゃん、看病慣れてるの?」
「ううん! あのね、ナギねえに教えてもらったの。汗たくさんかいてたらお顔とか拭いてあげてねって。お水も飲ませてあげてねって。あ、お水飲む?」
「あ……うん」
はい、と蒼角はチェストの上に置いてあったペットボトルのキャップを開けて悠真に手渡した。
「ありがと」
「あのね、ゼリーあるけど食べる? おくすり飲む前に何か食べなきゃいけないんだよね?」
「食べる」
「はーい!」
何故だか嬉しそうに返事をする蒼角はぱたぱたと部屋を出ていくと、すぐに手に何かを持って帰ってきた。
コンビニでよく見かける大容量のくだもの入りゼリーだ。
悠真の横に膝をつくと、そのゼリーのフタをぺりぺりと開ける。
ついてきたのであろうプラスチックのスプーンですくうと蒼角は、
「はい、あーん」
「………………」
悠真はドッドッドッと急に大きな音を立てる心臓にパニックになりそうだった。
「あれれ、どしたの」
「………………」
「ハルマサぁ……おくち、あけて?」
ほらほら、と蒼角はゼリーがのったスプーンを悠真の口の前へと持ってくる。
その後ろでは今にもそのゼリーを自分で食べてしまうんじゃないかというくらい、蒼角の小さな唇が吸い付きたそうに開いている。
それがやけに艶めかしく見えて、悠真は目をぎゅっと瞑って口を開けた。
――ぱく。
「ゼリーおいし?」
「……………おいひい」
「わー! よかったね! 実は蒼角も食べたくておんなじゼリー買ってあるんだ~。あとで食べよ!」
わくわくした様子で、蒼角は次のゼリーをスプーンですくう。
そしてまた「あーん」と言うのだ。
悠真は観念したように口を開け、それを食す。
「あむ…………それで、月城さんは? 向こうの部屋にでもいるの?」
「え? ナギねえ?」
「さっき教えてもらったって言ってたじゃない」
「ううん、いないよ」
「え?」
蒼角は次のゼリーを準備し、今やひな鳥のようになっている悠真の口に差し入れる。
「ここには蒼角しかいないよ~」
「……ええ?」
「ナギねえには電話でね、いろいろ教えてもらったの。ハルマサがお熱で倒れちゃったから助けて~~って」
「そんなの……月城さんなら蒼角ちゃんのこと心配して来ちゃうんじゃないの?」
「ううん、来ないでって言ったの」
「は?」
スプーンが、ゼリーの中に浮いたみかんにぶつかる。
それを巻き込んですくうように、蒼角はスプーンを動かした。
大きな一口分のゼリーが、悠真へと差し出される。
「蒼角が言ったの。ナギねえも誰も来ないでって」
反射的に開けた口の中に、ゼリーが詰め込まれる。
咀嚼する音が、悠真の心臓の音によってかき消される。
ただ、そのどちらも蒼角には聞こえていないのだが。
「……ハルマサ、弱ってるところあまり人に見られたくないかなと思って」
「………」
「違った?」
「……いや、違ってはいない、かな」
「蒼角誰にも言わないよ、ハルマサがこーんなふうに弱ってたよ! なんて」
「ああ、そう……」
「あ、お熱計ってみる?」
そう言って蒼角はチェストの上に置かれていた体温計に手を伸ばし、悠真に手渡す。
電源を入れ、体温計を脇の下に差し込んだ。
しばらく黙っていると、くぐもった電子音が聞こえてくる。
「……どう?」
蒼角が体温計を覗き込むも、部屋が暗く、上手く見えない。
悠真は窓の方に体温計を向けて月明かりを頼りに見ようとする。
「ん、熱下がってる」
「ほんと!?」
よかったー、と蒼角はほっとしたように言った。
「これ片付けてくるね!」
空っぽになったゼリーの容器とスプーンを手に、蒼角は行ってしまった。
悠真は一人ベッドの上に取り残される。
どさ、と後ろに倒れた。
枕が自分を受け止めてくれたが、汗ばんでいて気持ちが悪い。
「……うわー、同僚に何させてんだよ、僕」
急に恥ずかしさが込み上げてきて、悠真は両手で顔を覆った。
あくまでも同僚に、
熱を出した自分を看病させてしまった、
ことによる恥ずかしさ。
そうだと思い込もうとする。
しかしそれが間違いであることに自分でも気づいている。
悠真は熱と違う熱さを感じていた。
(……蒼角ちゃんは、妹みたいで、娘みたいで、そーゆー、扱いのはずなのに)
(なんかおかしくない?)
***
「――蒼角ちゃん、もう帰っても大丈夫だよ」
薬を飲み終えた悠真がそう言うと、リビングのテーブルでゼリーを頬張っている蒼角はショックを受けたような顔をした。
「も、ももももしかして蒼角迷惑だった!?」
「いや、迷惑とかじゃなくてさ……その、すごく助かったけど、体調だいぶ良くなったし。外ももう暗いし。あとシャワー浴びよっかなって……」
「あ、汗気持ち悪いもんね! いいよ入ってきて!」
「いや、いいよじゃなくてね」
「だってシャワー浴びてる時にハルマサ倒れちゃったら誰が助けるの? ハルマサ一人暮らしだよ??」
「もし倒れちゃったらまあその時は潔くこの世を去るしかないかなぁ」
「そんなのヤだよ~!! わたし、ハルマサが上がってくるまで絶対ここにいる!!」
「あらら……ごめんごめん冗談だって」
あははは、というものの、蒼角は頬を膨らませたままだ。
どうやら悠真を信用していないらしい。
「あー……ええとね、じゃあ入ってくるから、こっち来ちゃだめだよ」
「倒れたら行くよ?」
「倒れないから! あのね! 誰だって素っ裸見られたら恥ずかしいでしょ!?」
「あ、そっかぁ! うん行かないよ!」
「……………」
頭を抱え、悠真は洗面所へと一人向かった。
リビングからはテレビの音が聞こえ始める。
どうやら蒼角は悠真の部屋に随分馴染んだようだ。
(ま、テレビ見るくらい別にいいけど)
服を脱ぎ、張り付いた下着を取り払う。
べたついた体の表面を撫で、
つい、蒼角に汗を拭かれていた状況を思い出す。
「……………」
悠真は黙って浴室へと入った。
蛇口をひねり、冷たい水を頭から浴びせる。
次第に温かくなっていくが、随分と頭の芯は冷えた。
(健気でいい子だよね~蒼角ちゃんは。こんなたかが同僚の看病なんかしちゃってさぁ。あーゆー子にこそ幸せになってほしいもんだよ)
顔を上げ目を瞑り、容赦のない水流をそのまま受けた。
(僕なんてどうせそう遠くない未来にいなくなっちゃうんだからさぁ、その後きっとあの子も大きくなって、美人さんになったりして、そんで誰かと結婚とかするわけだよね~なんて、ハハハ)
ハハハハ。
声に出さない笑い。
誰かに向けてじゃない笑い。
それは自分を嘲笑うもので。
悠真は虚しさのようなものを感じた。
(それがあの後輩くんだったり? はたまた他の知り合いだったり? 顔も見たことない知らない奴が蒼角ちゃんと仲良しこよしになっちゃったり?)
キュッ、と蛇口をひねりシャワーを止める。
まるで遠い昔に見た映画かのように、
昼間見たビデオの男女のキスシーンが思い起こされる。
その女優が蒼角へとすり替わり、
誰かを求めるような仕草をする。
それは先ほど悠真にゼリーを「あーん」していた姿に酷似している。
悠真は眉間に皺をぎゅっと寄せた。
(なんつー想像を……)
かき消すように前髪をかき上げると、鏡に映った自分と目が合う。
首元の注射痕が目につき、ため息を吐いた。
現実を、自分の弱さを思い出させるもの。
苦しい過去と今を。
その、首に
蒼角の唇が吸い付くような映像が頭を駆け抜ける。
(うわうわうわうわ……)
咄嗟に蛇口をひねり、大量の湯が覆い被さってくる。
悠真は冷たい床にしゃがみこんだ。
「待って、僕ってこんな妄想癖あった……?」
何かの浸蝕症状じゃなかろうか、と悠真は自分の想像力を呪った。
***
「おかえりハルマサ!」
リビングでくつろいでいた蒼角が、シャワーから上がってきた悠真を見上げて言った。
「ああ、はい。ただいま」
悠真の方は随分と火照った体でそこに立っている。
「ハルマサー、ちゃんと髪乾かさないとまたお熱出しちゃうよ!」
「乾かすってば」
「蒼角がやってあげよっか!?」
「いいって! 僕子どもじゃないんだからできるからね!?」
「あははは! ハルマサ元気になった~! よかったよかった~」
蒼角はけらけらと可笑しそうに足をばたつかせると、「あ」とスマホを取り出した。
「ナギねえに報告しなきゃ! ハルマサ元気になったよって!」
「あー……うん、そうだね。連絡したら蒼角ちゃんも帰りな」
「うん! そうだ、さっきね、ねこちゃんとちょっと距離が縮まったんだよ!」
「へえ……?」
蒼角はリュックの中から何かを取り出すと、見せつけるように悠真の前へそれを突き出した。
「これ!」
「……猫用のおやつ?」
蒼角が持っているのは多くの猫が好きなペースト状のおやつだ。
「あのね、最初の方はシャーッて言われちゃったりしたんだけどね、さっきこれを指にちょっとだけつけてクローゼットの中に入れたら、ちょんって、ちょんってお鼻がくっついたの!」
「へぇ~」
「これって少し仲良くなれたってことだよね!?」
「そうだね~、ちょっとは蒼角ちゃんに慣れたんじゃない?」
「やった~!!」
蒼角は嬉しそうにぴょんとその場で跳ねた。
そして持っていた猫用おやつをリュックに戻す。
「……あ、ねこちゃんのおやつって結構おいしいんだね!」
「いや食べたんかい!」
悠真の高速ツッコミにまた蒼角はけらけらと笑う。
そしてスマホを操作すると、電話をかけ始めた。
「……あ、ナギねえ! あのね、ハルマサ元気になったよ! あとねこちゃんとちょっと仲良くなれた! これから帰るね~! うん、うん……うん? うん、いるよ? 待ってね」
そう言うと蒼角はスマホを悠真に「はい」と手渡した。
「え」
「ナギねえがハルマサとお話したいって」
「あ……はい」
表情を引きつらせながらも笑顔を作って悠真は電話に出た。
「もしも~し、月城さん?」
『ああ、浅羽隊員。体調はどうですか?』
「いやーひと眠りしたら熱も下がって絶好調ですよ! あ、でも念のため明日は休暇を取っておきたかったり?」
『大丈夫そうですね』
「うん、僕の話聞いてました?」
『蒼角はご迷惑をおかけしていませんでしたか?』
「いやーそれが蒼角ちゃん僕の為に冷たいタオルを載せてくれてたり、ゼリーを買ってきてくれたり、めちゃくちゃいい子だったんですよぉ~」
『そうでしたか、それは安心しました』
「ちょっと外が暗いのが気がかりですけど、これからちゃんと月城さんのお宅にお返ししますんで、ご心配なさらず~」
『そうですね、私も駅前まで迎えに行こうと思うので浅羽隊員も心配しなくて大丈夫ですよ』
「はいはい、それじゃそーゆーことで蒼角ちゃんにお返ししまーす」
『浅羽隊員』
急に緊張感のある声が電話口から聞こえてくる。
悠真は固まった笑顔が崩れぬよう慎重に口を動かした。
「はい」
『何もなかったですか?』
「何もとは」
『何かです』
「何か」
『なかったですか?』
「ないですけども」
『そうですか。……それでは明日、また職場でお会いしましょうね。今夜はしっかり体調を整えてください。それでは』
プツ、と音が途切れる。
悠真はゆっくりと画面を確認する。
通話は切れていた。
(何かって、あったらやばいでしょ)
変な緊張感が駆け抜け、せっかくシャワーに入った悠真の背中を嫌な汗が流れていった。
――少しして、蒼角は帰り支度を済ませた。
来た時にはパンパンだったリュックはいくらかしぼみ、それを背負うと玄関先で靴を履いた。
「それじゃ、蒼角帰るね!」
「うん、今日はありがとね」
「あ、これからは体調が悪い時はちゃんと言ってね!? 遊ぶ約束中止になってもわたし怒んないから!」
「はいはい、今日は自分でも気づいてなかっただけだから。ごめんね」
「うん。じゃあ……」
「あ、蒼角ちゃん」
「ん?」
ドアノブに手をかけた蒼角が振り返る。
いつもの無邪気で何も知らなさそうな無垢な表情。
それを見て、悠真は熱に浮かされ見た“夢”を思い出す。
「あー……っと、その、僕寝てる間に変なこと言ったりしたりしてなかったかなー? なんて……」
念のためと悠真が聞けば、蒼角は一瞬固まったようにし……静かに頬を赤く染めていった。
「……えっと」
「?」
「悠真って、おっぱい好きなんだねぇー……あははは……」
「…………え」
「それじゃ、蒼角帰るね! また明日ねー!!」
――バタン!
扉は勢いよく閉じ、そこには一人ぽかんとしている悠真が取り残された。
しばらくの間そこで茫然と立っていたが、足元にふわふわとした猫の毛を感じ現実に引き戻される。
「……あれってもしかして、ただの夢じゃなくて」
ふいに、柔らかな胸に埋もれて安心する夢を思い出す。
ぎゅっと抱きしめれば、少し骨にぶつかる小さな胸。
頬に当たる感触に心が穏やかになる。
穏やかに。
「――お、だ、や、かになってる場合じゃないだろ……!」
急激に自身の性別を思い出させるように下半身が張り詰める。
それを騙し隠すかのように悠真はしゃがみ込んだ。
(ただ、うちでのんびりビデオ見るだけのつもりだったのに)
(こんなことになるなんて、誰が想像できたんだ…………!!!)
――それからしばらくの間、玄関から苦悶の呻き声が聞こえていた。