『ルールが――ました。泳者は――に任意の――譲渡す――きるように――』
頭が痛い。
意識が定まらない。
山積みの洗剤の容器、式神と化してるのか混ざりあった塩素系と酸性の洗剤から発生したガスが身を爛れさせる。
高濃度の塩素ガスが生き物のように常に此方を追い掛けてくる。
完全に眼球は溶けてる、焼かれてるように痛くて仕方ない。
手足は痺れて動かない、肺もイカれたのか呼吸するだけで溺れてるように息が出来ない。
僅か数秒で死にかけている。
ダメ押しとばかりに、身体中がグチャグチャになっていた。
鎧の特性上、物理的な欠損は防げても衝撃は防げなかった。
「ハァハァ……」
『恵!しっかりしろ!』
グレイが呪力を奪って円鹿の能力を行使しているのが分かる。
纏わりつくガスも霧散し、肉体の回復も始まる。
だが、毒物という特定と除去が必要なそれは高度な呪力操作を求めてくる。
霧散しようと追加の塩素ガスが来て、回復しようにも毒物の除去が不完全であるが故に再生は芳しくない。
……よく考えている。流石に平安の術師、反転術式に何が有効か経験則で知ってたか。
「……りょ、領域展開!」
印を結ぶ、呪力を広げる。
だが、外郭を周囲に依存した術式は歪な形の、天井が壊れているプールサイドを境界として区切る事が出来ない。
途中で崩壊し、領域としての区切りが出来ないことから展開は失敗する。
「ハハ……ゲホッ!?」
『恵!諦めるな!』
死への嫌悪が齎す、負の感情より生み出された呪力を奪ってグレイが反転術式に変換する。
変換した反転呪力、正の呪力が俺の生命維持をするが肉体の破壊と再生では、毒の分だけ破壊の方が上回る。
緩やかな死、それが俺をジワジワと追い詰める。
『め――!あき――!――み!』
「…………」
声が遠くなっていく。
瞼は重くなっていく。
手足に力は入らず、濡れている感覚はない。
どこにいるのかも分からないし、そもそも何をしてたのか分からない。
俺は……俺ってなんだっけ?何が分からないんだっけ?
これは……何だ?俺は何の中にいる?中に……いる?
グチャグチャのナニカの傍に吠え続けるイヌがいる。
いや、そもそもイヌなんていなかった。
あるのは、プールに浮かぶ血だらけのナニカだけだ。
『……痛ッ』
頭が痛かった。
あー、二日酔いだこれ、寝てんのか。
そんな取り留めのない思考が結論を出す。
さっきまでの自分を思い出そうとして、強烈な吐気が思考を中断させる。
鼻を突くツンとした匂いが最悪な気分にさせる。
それと同時に、原因である記憶が頭の中で想起される。
どういう訳か16歳である俺の記憶と30歳くらいの公務員のオッサンの記憶が同時にある。
どっちかって言うと、オッサンの記憶のせいで思考回路というか、精神年齢が色々可笑しくなってる気がする。
頭痛の原因これじゃないかと思って来たのだが、一つの結論に行き着く。
これ、あれだ、憑依転生って奴だと。
だって、俺、良く知ってる術式を転生特典って勘違いしてんだもん。
しかも、なんか死にかけてて心臓も止まってる。
頭が痛い……でも、それは二日酔いや塩素ガスによるものじゃない。
死という強烈な負荷による、呪力の発生と脳の変異。
流れる呪力の量、圧、方向性、発生する瞬間から拡散されて消失する瞬間までの情報が一気に理解させられる。
呪力とはそこにあって、そこにはない。
エネルギーとして負の感情から生まれる。
負の感情、感情は脳による神経伝達物質と電気信号の産出物。
本当にそうか?だって今、心臓は止まって脳の一部は酸素供給を絶たれて現在進行系で壊死し始めてる。
では、脳の一部が壊死しているのに正常な状態よりも生み出される呪力とは何なのか。
脳の機能に比例していない出力、ならば呪力の発生と脳は関係ない。
人為的に神経伝達物質を過剰生成して感情的にしようとも、呪力は強力に発生しないだろう。
『なら、呪力とは何なのか』
負の感情から生み出されるとされていた物は、肉体と関係ない不確かな物だ。
憑依するまで見えていた世界は、呪霊の存在が見えれば変わる不確かな物だ。
生きている感覚も、呪力を知ったことで感じる物が変わる不確かな物だ。
世界を運用する法則も、術式の発生によって時には乱れる不確かな物だ。
肉体は関係なく、見知った事も関係なく、経験したことも関係なく、絶対的だと思わされている物も関係ない。
この世界も、スマホの液晶の中に羅列された文字列なのかもしれない。
俺自身から生み出されるという呪力とは、何処から生まれるというのか。
俺が存在しなければ生み出されない呪力とは、存在してないのではないだろうか。
何故なら、俺が存在していると言い切れないからだ。
本当にそうだろうか?
俺が存在しないというのならば、今この瞬間に疑っている俺とはなんだ?
俺が存在しないのならば、俺が存在しているかどうか誰が考えているんだ?
存在しなければ、存在してるかどうかすら考えられない。
ならば、疑っている俺は存在してると確かに言えるではないか!
でも、負の感情の元になる神経伝達物質と電気信号を出す肉体はない!
なのに、呪力は今も発生している!
なら、俺は肉体がなくても呪力を生み出している!
つまり、魂から呪力は発生している!
俺が!俺である限り俺は存在し!存在することで魂から呪力を生み出している!
『何だよ、超カンタンじゃん!ハハハ!』
俺自身を疑うなら俺は存在し、俺が存在するなら肉体を除いた要素である魂がある、魂があるなら呪力が出力される。
魂があるなら、受肉した術師のように肉体を魂の形に変えられる。
死んだ直後の肉体を魂から出力した呪力で治す、設計図は魂だ。
肉体が綺麗な状態に戻る、次に体内に残った塩素ガスの毒物を特定と分解をする。
化学式なんか分からないが総当りで呪力を使うことで分解する。
何だって出来る、呪力は自由だ、だって秤パイセンだってゴリ押しで何とかしてるしな。
出来ないのは疑う自分がいるから、当たり前に出来ると思えば時だって止められる。
ほら見ろ、時間や空間を弄れるんだ、毒くらい何とかなる。
「あ、あぁ……んんっ!喉が終わってんなぁ!」
『恵!生き返った!』
俺の身体に灰色の毛玉が纏わりつく、一旦邪魔だな。
また俺の身体を蝕もうとする塩素ガスを、存在する状態から存在しない状態に変更する。
「術式反転・投影!」
黄色く見える塩素ガスが俺を中心に黒く染まっていく。
物質として存在しない、影として世界に映された幻。
影を実体にする十種影法術、その反転は実体を影にする。
立体を平面に、3次元を2次元に、投射呪法に通じる物がある。
「お前……何で、死んだはずじゃ!」
「よぉ、元気にしてたか?レジィ・スター!」
腕を振るう、迸る呪力が浸食した空間全てを影に変える。
俺を中心に、黒い球体が発生する。
「チッ、術式反転か!」
ドローンや包丁、何らかの薬品瓶、大量の水、立て続けにレシートから物が出てくる。
だが、黒い球体に触れた瞬間に黒く染まり、それは取り込まれて消えていく。
「何故だ、取り込んだ質量が加算されるはず」
「簡単さぁ!全部影にしちまってんだ、そもそも影に入れてんじゃねぇよ!」
レシートがどんどん焼き切れて、色々な物が出てくる。
車もビルも何もかもだ。
だが、触れた場所が抉れるように消失する。
「確定申告だぁ!これで……あぁ、クソ!」
大量のレシートが一枚のレシートから発生して、そこから大量の物が具現化される。
だが、全てが無意味だ。
俺が俺である限り、俺以外は不確かな存在だ。
そして残ったのは、パンツしかないレジィと黒いオーラのように影を纏った俺だった。
「吾思う、故に我在り」
「Cogito ergo sumか、殺せ」
「なんそれ、平安時代の人間なのに英語ペラペラかよ……点、くれよ。そしたら、俺は見逃してやるよ」
「縛りは結んだからな。コガネ、俺の点を伏黒恵に渡せ」
点の譲渡が行われる。
さて、虎杖と合流……しなきゃ……まずい。
「爪が甘いな、伏黒恵。意識を失いかけるとは、死ね」
「お前がな……」
呪力を拳に集めたレジィの半身が、抉れて消える。
背後には半身を食いちぎったグレイの姿がある。
「縛りを反故にしたのか?式神に指示して……」
「グレイの自由意志だ、俺は関係ない」
「式神を自立させるなんて……頭……おかしい……ぜ……」
俺もそう思うし、お前が納得してなければペナルティがあるかもな。
こっちも想定外だし、不本意な……ヤバい意識が……
「グレイ……」
『恵、大丈夫か!誰だ貴様!』
「後は……」
意識を失う瞬間、真っ白な光と翼の生えた女が見えた。
ハハハ、お迎えかな?幻覚が見えてらぁ。