隻眼ウマ娘(中二に非ず) 作:アンノーン
ああそうだ●●●●●…そう、●●●●●だ。
何をしていたんだっけか…名前以外何も思い出せない。
住所も、家族構成も自分自身の顔すらも。
ただ、何となくだけどわかることが一つだけある。
●●●●●は、スマホのインカメに映る自分の顔をじっと見つめた。
きっと彼女は、私ではないんだろう。
第1話
ふと目が覚めたとき、ゆっくりと瞬きをする私の視界に映ったのは、青白い顔に涙を滲ませながら私に縋るケモ耳っ子の姿だった。
何も覚えていないけど、ぼうっと見つめたその視界で
ああ、ここは異世界なんだ。
とそう直感した。
可愛い女の子だけど、その頭には本来人間にはないものがついていて。
それを見た時、私は何だか寂しくなった。
記憶もないのにおかしな話だ。
「ぁっ…たー、ちゃん…たーちゃんっ!!!」
ぼうっとケモっ子を見ていたら、涙が少し溢れた。
この体は、どうやら涙脆いらしい。
焦りながら顔を拭ってくる彼女を見つめながら私は、冷静に私の名前はたーちゃんなのか、なんて自己分析をしていた。
○○○●●●
落ち着いてきた彼女は「みんなに連絡してくる」なんて言って出て行った。
ちょうど良いし起き上がって情報収集でもしようか。
私はゆっくりとベッドから起き上がり、床に足をついて一歩目を踏み出した。
「あいたっ…くぅ〜…」
隣のベッドの足に盛大に小指をぶつけた。
まだこの体になったばかりで体の距離感が掴めていないのか、視界の違和感が大きかった。
実際の体の動きと、視界情報から得られる自分の感覚の差を埋めないと。
ジンジンと痛む自分の足を見つめ、私はため息をついた。
というか…
「裸足、それに…」
私は隣の誰もいないベッドをチラリと見た。
ああ、少しずつわかってきた。
ここは病院。
それに、私は…たーちゃんは病人。
そういえば私の本名はなんだろう。
たーちゃんはあだ名のはず。
本名は…た、た…タカコ、とか?
苗字のパターンもある、タグチ的な。
まあ、兎にも角にも私は病人らしい。
さっきの子の感じを見るに、結構重い感じに。
ともすればあまり盛大に歩き回ることも憚られる…大人しくベッドにいようか。
「たーちゃん!お母さんと先生すぐ来るって!あ、あと先生!あ、これはお医者さんの先生ね?さっき受付言って起きたって言ったらすぐ来るって…あ、ナースコールすればよかったんだ…忘れてたよ」
私がベッドに入り直した瞬間、先ほどの子が帰ってきた。
落ち着きなく、言葉を勢いのままに捲し立てるケモっ子に私は声をかけた。
いや、口がひとりでに動いた。
「ひーちゃん」
私は彼女の名前など知らない。
あだ名なんてもってのほかだ。
ならばこれはこの体の…私ではないたーちゃんの記憶で。
やはり私は私ではないのだろう。
「ひー、ちゃん。落ち着いて、ゆっくり…私は逃げないよ」
今度は私が、私の言葉で言う。
たーちゃんのあだ名を勝手に使うのが申し訳なくて少し吃ったが、私は彼女の他の呼び方を知らない。
“ひーちゃん”の目を見て…今にもまた泣きそうな彼女を慰めるために言葉を紡ぐ。
「私、何でここにいるんだっけ」
「それは─────────────
○○○●●●
「ふぅ…」
夜、暗くなった天井を見て私はため息をついた。
あの後は大変だった。
ひーちゃんことヒズリリベルがまた泣き出したり、後から来たたーちゃんの母親が私を抱きしめたまま動かなくなったり、お医者さんが深刻そうな顔で私のことを診断していたり。
ただ、色々と話を聞いて分かったことが多くあった。
ウマ娘のこと、レースのこと。
私が病院にいた理由。
そして私の…ニンブルターンの学生生活のこと。
「いや…マジか」
そう、私の名前は、ニンブルターン。
nimble turn、軽快なターンって…初めて聞いた時は思わず人の名前?と口に出そうになった。
ヒズリリベルもそうだが、この世界はキラキラネームだらけなのかと。
そして自分と彼女のことを客観的に考えて理解した。
ああ、人の名前じゃないんだ、と。
そう。
「いやぁ、まさかケモ耳っ子になる日が来るとは」
人じゃなくて、ウマ娘の名前なんだと。
私はニンブルターンという名前のウマ娘の中に宿った。
名前以外の記憶は何一つないけど、おそらく人間で…ウマ娘なんてものはいない世界にいた。
私が宿ったニンブルターンは、中央トレセン学園という名門のスポーツ学校に通う学生の1人で…いつも成績が悪かったらしい。
話を聞くにきっと彼女は、いわゆる天才の中の凡才だったのだろう。
より大きな存在に食べられてしまった、お山の大将。
レースで無理をして大転倒、頭を打って気を失い病院搬送…そして気づけば私に代わっていたと。
話によれば、そういうことだった。
一時は息もしていなかったらしい。
私は何となく、一度この体は死んで私に代わったのではないかと…そう感じた。
なぜかは分からないけど、私はこの体をニンブルターンから貰い受けてしまったのである。
ウマソウルだかなんだかのおまけ付きで。
私にはそのウマソウルとやらを感じることは出来なかったが、ウマ娘には必ずそれが宿っているらしい。
そして、それがウマ娘たちに力を、勇気を、走る意味をくれるのだと。
走る意味。
そう、ウマ娘たちは走る。
身を、命を削りレースをする。
この体の元の持ち主、ニンブルターンも…全てを賭けて走り、その末に命を失った。
私はどうやらこの体に宿る前はインドア派だったらしく、その話にあまりピンとは来なかった。
ただ、私の情報うんぬんよりももっと大変だったのは、その後に学校の先生らしき人物が来た後だった。
先生は、病室に来ていの一番に私の母親に深々と頭を下げた。
母親は「もう何度も謝っていただいてます」なんて言って困った顔をしていたけど、先生の表情はずっと硬いままだった。
話によると、私が目覚めるまでの1日と少しの間先生は何度もこの病室に顔を出しては、うちの母親に謝っていたらしい。
最初母親が抱いていた怒りすらも、寧ろ罪悪感に変わるほどに…先生は苦しそうな顔をしていたのだ。
実際にその顔を向けられた私からしても、そこには監督責任なんて言葉では表現しきれないような…そんな、深い悲しみが見て取れた。
病院の先生は言った。
状況は悪いが、悪い中では最善だと。
経過観察の通院は必要だが、今すぐ治療するものはなく命に関わるものも無いため一先ずの退院すら可能だと。
正しくは、治療できない…なのかもしれないが。
私はブルリと、体を震わせた。
「トイレ、行きたいな」
右手がベッド脇にあるナースコールのボタンを押そうと動き、空ぶった。
未だ、体の距離感が掴めない。
暗いこともある、慣れない体なこともある。
でも、それ以上の明確な理由を私は数時間前に得た。
「うーむ、これが片目の世界か…」
私はどうやら、右目が見えないらしかった。