隻眼ウマ娘(中二に非ず) 作:アンノーン
その光景を見た誰もが息を呑んだ。
同室の少女の取り乱した姿も、その服に染みついた血の跡も。
ジュニアにも満たないウマ娘たちには、あまりにも大きなショックだった。
しかし、知っている者は知っていた。
レースに全てを賭ける、というその言葉の意味と…重みを。
レースが常に血と隣合わせな事を。
故に彼女らは、少女を心のうちで讃えた。
その決意を見せたのがジュニアにも満たない少女であった事を。
「…あれは、確か今年入ってきた…ニンブルターン…?」
ここにも、少女を讃えたウマ娘が1人いた。
彼女の名はナカヤマフェスタ、自他共に認める生粋のギャンブラーである。
ナカヤマフェスタがそれを見つけたのは偶然だった。
寮を飛び出していく小さな背中、その黒の癖っ毛は少し前に学園の話題を掻っ攫って行ったウマ娘のもので間違いない。
ニンブルターン。
今年、その才能を買われ本格化と同時に高等部に入学してきた、中-長距離のウマ娘。
活発で、何より走ることを楽しんでいた…とは言っても、入ってまだ何ヶ月も経ってないため知名度としてはゼロに近いものであったが。
彼女のことが多くのウマ娘にとって強く記憶に残っている理由は、まさに一週間ほど前にあった事件が原因だ。
「あ、頭から血を流して救急搬送されたぁ!?」と大声を出して驚いたのは、彼女の記憶にも新しいつい先週の出来事だった。
故障のニュースは多くのレースをこなしてきたシニアクラスのウマ娘…ナカヤマフェスタからすれば別に特段珍しいものではなかった。彼女を驚かせたのはその情報から考えられる重傷っぷりと、何よりそれほどの根性を見せたのが選抜レースも突破していないような未熟なウマ娘であったという点だ。
ざわつく寮の雰囲気に思わず事情を尋ねたナカヤマフェスタに齎されたその情報は、彼女にニンブルターンを意識させるのにはあまりにも十分すぎた。
「ちょっと前まで入院してたって聞いてたんだがな?」
ナカヤマフェスタはそう呟くと首を傾げた。
ケガの程度などの話は流れてこなかったため、彼女からすればニンブルターンはあまりに元気に映ったのだ。
そうこうしている間にもニンブルターンは走って行く。
その姿はいつの間にやらはるか向こうにあった。
噂は所詮噂か。
不可思議な光景に鼻を小さく鳴らした彼女は、興味を無くしたように顔を逸らした。
(しかしあいつ…確か選抜レース勝った事ないんだったよな?)
「にしてはやけに…速いじゃねぇか」
ふむ、と再び首を傾げた彼女は、少女の消えて行った先をじっと見つめ、徐に歩き始めた。
それをさせたのはウマ娘としての勘か。
それとも、勝負師としての親近感か。
どちらにせよ、彼女の内なる部分が告げていた。
少女には何かがあると。
○○○●●●
速い、速い。
速すぎやしないか。
「くそっ、既に3回も転けかけた…」
ウマ娘とやらの身体は運動能力が高すぎる。
元人間が処理し切れるものじゃないな、これは。
全力じゃない、それも実力も中途半端だった身体でこれとは…一体最上位の上澄みの身体能力はどんだけバケモンなんだ。
まあ仕方ない。
私はもうこれに慣れていくしか無いのだから。
「右目が疼く…文面だけ見るとただの中二病にしか感じられないな、これ」
走るたび、息を大きく吸い込むたびに薄らと疼く右目に、どうでも良い事を呟きながら私は走り続けた。
校舎を通り、中庭を通り、噴水の前を通り。
定期的に転けそうになったりウマ娘とぶつかりかけながら。
そうして私は、見覚えのある小さなトラックに辿り着いた。
そこに、目的の人物はいた。
「…先生」
トラックの脇にあるベンチに、彼女はぼうっと座っていた。
「先生…少し、疲れてる?」
できるだけ明るい声を意識して、私は話しかける。
こちらを向いた先生の顔に、疼きを超えて痛みすら出ている右目も、脈を打ちすぎて苦しい胸も。
全てを誤魔化すように、私は笑顔で声を発した。
「ねぇ先生、私また走ることにしたんだ!だから、大丈夫だよ!」
鼓膜の細い血管の中を、鼓動が通りすぎていく。
ドキドキとうるさいそれが、狼狽える彼女への罪悪感を訴える。
どうでもいい。
私は走ると決めた。
本物の、ニンブルターンのために。
そのために、全員を黙らせる必要がある。
実力で、または言葉で。
「…でも、貴女…目が…」
掠れた声で先生が言う。
ごめんね、先生。苦しませて。
そしてごめんなさい、先生。これからもっと貴女を苦しませます。
「うん!でも私、あれからとっても調子いいの!まだちょっと慣れないけど…今すぐにでも走りたくてたまらないくらい!」
でも大丈夫。
これから起こることは何にも貴女は悪くないから。
全部は、泥棒の私のせい。
悪者は私だよ。
「…学園には、ケガの届出をもうしてしまったのよ、何もなければ…一ヶ月もしないうちに…」
そう。
私は退学になる。
だから。
「結果を出して、トレーナーがついてもそうなるかな?ならないよね!だって退学は、私が走れないからでしょ?走れれば大丈夫ってことじゃん!」
短い期限。
慣れない身体。
拙い走り。
それでも、結果を出さないといけない。
たーちゃんのために。
「…目のことが分かれば、誰もトレーナーには、なりたがらないわ」
徐に口を開いた先生は、ゆっくりと喋り始めた。
先生の呼吸が激しくなる。
目が左右に揺れ、手が震えていた。
それはまるで何かを言い淀むように、迷うように。
「だって…だって、キャリアが…傷つき、ますから」
「…ッ!!!」
言い切った彼女の目には、涙が滲んでいた。
その言葉に、その光景に私は息を呑んだ。
それはあまりにも残酷な言葉。
夢のカケラもない、どこまでもリアルなビジネスの話だった。
私は弱い。
なのに、ケガまでしてしまった。
もはや私には価値がない。
日記から感じ取った先生の性格ならば、絶対に言うことのない、そんな言葉を彼女は発した。
追い詰められて、先生までもおかしくなってしまった?
いや、きっとこれは私が言わせてしまったのだろう。
もはや不可能な願いをヤケになって言っている、カラ元気の少女のために…彼女は鬼になったのだろう。
これ以上、少女が傷つかないように。
現実という悪意に苛められないように。
「ッ…ごめん、違うの…こんなことが言いたかったんじゃないの…ごめん、ごめんね…」
泣き出した先生を私は、手を強く握りしめ、じっと見つめた。
目を逸らしては、ならなかったから。
私がこれからやるのはこういう事だと、自分自身に言い聞かせるように。
私はただ、先生を見つめ続けた。
「…ねぇ、先生ッ?ぁ…」
発した自分の声が裏返って初めて私は、自分の足が震えていることに気づいた。
笑えることに、この期に及んで私はどうやら怖いらしい。
でも、もう止まれない。
止めるわけにはいかない。
「ねぇ、先生?私は大丈夫、結果を出してみせる」
「でもそれまではきっと、ケガのことを知られちゃうとみんなに心配されちゃうと思うんだ…」
「だから、先生にはお願いがあるの!」
「今まで通りに接して!私にまたレースを教えて?」
「学園にも、他の先生達にも、私のケガのことを極力周りに話さないようお願いして欲しいの!」
「私のために、私が走るために!…助けて、先生?」
ああ、胸が痛い。
先生の歪む顔が、苦しい。
でも笑顔はやめない。
私は笑って、話しかける。
これは一世一代の大博打。
2人分の人生と、全ての人を騙すって罪をベットして私は戦う。
母親への電話は走りながら済ませた。
彼女は私に走って欲しそうだったから、言えばきっと反対はしないと算段をつけて。
そして、私はその賭けには勝った。
あとは先生だけなんだ。
だから、笑え。笑え。笑え。
1ミリの不安も感じさせないほどに笑え。
「…まだッ…まだ、走れる…の、よね?」
「うん!モチロン!」
「ケガ、私のこと、恨んで…ない?」
「なんで?ケガは誰のせいでもないよ!事故だもん!」
「…そう、そう…ッ!ねぇ、また私のこと…先生って呼んでくれる?」
「ずっと言ってるじゃん!先生!」
「そう、そうね…ウン、分かったわ…じゃあ…今日の練習を、始めましょう?」
「…!うん、先生!」
例えば、死後の世界とやらがあるのなら。
地獄に行くのは私だけであって欲しいなぁ。
私はなんとなく、そう思った。
○○○○○○
トラックを走るニンブルターンを遠くから見つめながら、ナカヤマフェスタはフンと鼻を鳴らした。
ウマ娘の耳を持ってしてもこの距離での盗み聞きはなかなか難しく、彼女には2人の先ほどまでの会話はほとんど聞こえていなかった。
それでも分かった。
2人の、尋常ではない雰囲気。
トレセン学園の生徒らしからぬ辿々しい走り。
目がどうとか、うっすら聞こえたそんな話。
誰の目から見ても明らかだ。
あいつじゃ勝てない。
実際あいつは一度だって勝ってない。
彼女をしてそう思わせてしまうほどの、消えかけの光。
それと、それすらかき消す、肌がヒリつく情熱と根性。
「面白いじゃねぇか」
彼女は尻尾を激しく動かした。
遠目に見てもヘタクソな少女の走りは、その先がいかに険しいかを示していた。
彼女の行く先はきっと茨の道だろう。
それでも勝負の世界に絶対はない。
事故もケガも、運も実力も、何もかもが勝負の世界じゃ正攻法なのだ。
前評判は関係ない。
勝者はいつだって、敗者だったはずの者によって打ち砕かれるのだ。
「…確かあいつまだトレーナーついてないんだっけ?」
勝負師は算段を始めた。
最近担当ウマ娘をシニアまで完遂させ、次代育成している同期をチラチラ気にしているとある男のこと。
やはり見間違いではない、やけにバ
ケガに苦しんだ同期のウマ娘のこと。
最近知り合った、来年デビュー予定のやけにソリのあうウマ娘のこと。
どこにどうベットすれば、よりヒリついた勝負ができるか。
答えはとうに出ていた。
「選抜レース、期待してるぜ?」
面白いことが起こると、勝負師の勘が告げている。
故に彼女は迷わない。
徐にスマホを取り出した彼女は、慣れた動きで一つの番号を呼び出した。
『おう、いきなりどうした?』
「いやなに、大したことじゃないんだけどよ…」
私は、いや…私たちは勝負師だ。
なら、ワクワクする方に賭けなきゃ、燃えねぇだろ?
「前にそろそろ担当を増やしてみたいって言ってたよな?」
なぁ、トレーナー?