隻眼ウマ娘(中二に非ず) 作:アンノーン
「諸君、明日が何の日かわかるかな?諸君らのうちの何人かはほかならぬ自分のことだから、まあわかるかとは思うが…」
ある、金曜日。
その日は、あっけなくやってきた。
トレーナーがついて、本格的に練習を始めて2週間ほど。
そして。
「そう、明日から今年度の新バ戦が始まる」
担任の教官の言葉に、普段のんびりとしていたHRにピリッと緊張した雰囲気が流れた。
そうだ。
ついに始まる。
今年の、メイクデビューが。
「不安もあるだろう、後悔も残るだろう」
教官が、デビューを控えた生徒一人一人を見つめて言葉を紡いでいく。
そしておもむろにチョークを持つと、後ろの黒板に何かを書き始めた。
「そんな諸君らに一つ、私からエールを送るとしよう」
Eclipse first, the rest nowhere
唯一抜きん出て並ぶ者なし
「我が校の校訓だよ」
全ての生徒が静かに教官の声に耳を傾けていた。
振り返った教官は、そんな私たちを見て困ったように笑う。
そして『ありきたりだがね』と小さく呟き、一呼吸おいて顔を引き締めた。
「難しいことだ。なんせこれが許されるのは、十数にたった一つの者だけだからな」
それは、残酷な言葉だった。
教室の何人かが息をのんだのが聞こえた。
聞きたくない。
そんな気持ちが、痛いほど伝わってきた。
教室に暗い雰囲気が漂いかけた、その時。
教官はおもむろに黒板消しを手に取り、下の一文を消した。
そして、改めて文字を書いた。
「だからこそ私はこの言葉を、こう解釈した」
倒れるのであれば、それは常に前であれ。
それは紛れもなく。
教官自身の言葉で紡がれたエールだった。
「今から云うことを、悩んだ時にでも思い出すと良い」
「挑まねば
「望まねば
「故に─────存分に勝ちを競れよ。
「諸君らの、夢のために」
では、これにて今日のHRは終了とする。
教官は、そう言うとカツカツとヒールを鳴らして出ていった。
周りをそっと見渡す。
目が合ったタップダンスシチーは好戦的に笑った。
エアシャカールはすました顔をして、しかしその目を爛々と輝かせていた。
ダンツフレームは緊張からか、少し顔をこわばらせていた。
彼女らとの関係は、まだ浅い。
それでも数週間、クラスメイトとして過ごしてきた人たち…いや、ウマ娘たち。
彼女らには、夢がある。
彼女らには、目標がある。
思い出すのは、選抜レースの景色。
恐れ、怒り、恨み。
目の当たりにした、勝負の世界。
──────存分に勝ちを競れ、少女たち。
私は、どうすればいい。
私は、どうなれる。
私は、
そっと、顔に触れた。
私の顔は、強張っていた。
割れそうなほど、歯を食いしばって。
何かに恐れるように。
思い出すのは、あの日開いてしまった日記の文字たち。
私が震え、恐れているのは、何故なのだろう。
それとも私が、恐れているのだろうか。
混ざりあった私たちにはわからない。
でも、痛いほどに熱を持つ私の右目が訴えている。
私はきっと、勝たなきゃいけない。
私の犯した、罪のために。
「なぁ、いつか戦ろうぜ」
横からそう話しかけられて、私は頭をぐりんと横に向けた。
前を向いたまま右隣の彼女を視界に収めるのは、今の私には少し難しいから。
ニッと笑った少女は…確か、今年にはデビューしない、ジャングルポケット。
震える私を、見かねたのだろうか。
彼女は安心させるように明るく笑って、私に未来の話をした。
早くて、再来年。
ふと、前世代の名バたちを思い出した。
うわさに聞いた、すべてのウマ娘の模範、シンボリルドルフ。
地方より移り、葦毛の力を示したオグリキャップ。
異邦の名だたる強豪を押しのけ、総大将とも呼ばれたスペシャルウィーク。
その影で消えていったウマ娘が、いったい何人いたのだろう。
彼女が土俵に上がってくる頃、私はそこに居られているのだろうか。
居なかったらその時、私は何者なのだろうか。
居たらその時、私は、今度は誰の、何を奪ったのだろうか。
今よりさらに、罪を重ねたのだろうか。
恐ろしい。
どちらも、恐ろしい。
臆病な私には、とても耐えられないほどに。
何を残せる。
何を成せる。
何者でもない私に、一体何が。
「そうだね、いつか…戦えたらいいね」
私は、
○○○○○○
■月■日
私が"私"になってから、日記をつけていなかった。
今日から再開することにしたのだが…残念ながら、私の記憶力ではここまでのすべての日を改めて書き記すことは難しい。
それでも、すべてを書かないのはそれはそれで、もったいないというものだ。
いくつか、私の中で大事な日があった。
せめてそれらだけは、書き記しておこうと思う。
6月■日。
その日は、特別な日だった。
そして、特別な日に成りもした。
良く晴れた日だった。
私は────────。
いつもとは違う冷たいコンクリートの道を、トレーナーの男は歩く。
カツ、カツと蹄鉄を鳴らしながらその横を少女も歩く。
「なぁ」
男はこの一週間で何度目かもわからない問いを少女に投げる。
「走ることは、楽しいか」
ある日、男は少女に問いを投げかけた。
それはいたってシンプルな質問で、而して少女には禁忌ともいえる質問だった。
走ることは、楽しいか。
きっと、多くのトレーナーとウマ娘からすればその質問は意味の分からないものだろう。
それはあまりにも当たり前のことだから。
そして少女から帰ってきたのもまた、ウマ娘らしい、そして天真爛漫な彼女らしい答えだった。
やはり、愚問か。
それはもはや、聞く必要のない疑問のように思えた。
しかし男は、その日から問答を繰り返すようになった。
男の直感は、それがどこまでも表面的で、テストの模範回答のように用意されたものであるということを見抜いていた。
少女はいつだって真剣に取り組んだ。
まじめで、快活で、天真爛漫だった。
それでも、走る時はいつだって、誰よりも苦しそうにしていた。
少女の中に、走ることへの熱中は本当にあるのか。
少女は、何のために走る。
あの日見た少女の熱は、原動力はどこにある。
今日に至るまで、少女は頑なに答えを変えなかった。
それは男の求めてはいない答え。
いや、本質的には…最も求めている答えではあるのだが。
男はついぞ分かり得なかった。
同僚に気づかされて、男自身も知りたいと願うようになったそれらの疑問の答えを。
それでも男は、知りたいと願った。
故に、男は習慣化してきた質問を投げかける。
走ることは、楽しいかと。
この日も、何も分からず終わると、そう思っていながらも。
少女は少し視線を彷徨わせ、
「なぜか以前より少し────────楽しく、なりました」
今、なんと言った。
男の頭が疑問で埋め尽くされる。
今、彼女は何て言った。
何を?
いや…
困惑したように自身の口を覆う少女を、男は呆然と見つめた。
少女をそうさせたのは、これから始まるレースへの緊張か、不安か。
どちらにせよ男はこの時初めて、"彼女"に触れた。
笑顔の鉄仮面の奥の、静かな彼女に。
それは、男の見たことのない少女の姿。
きっと少女自身も出すつもりはなかったのであろう、無意識の言葉だった。
少女は言った。
以前より、楽しくなったと。
それは、少女自身すらも自覚し得なかった、少女の心の深い深い底にあったもの。
義務感で蓋をされていた、期待への喜びだった。
クラスメイトに、母親に、先生に、先輩に、トレーナーに声を掛けられて、応援されて。
何者でもない少女は、自身が誰かにとっての何者かに成り得る可能性に、静かに期待していた。
真っ白になった男の頭が少しずつ、思考力を取り戻していく。
そして、男は理解した。
この時
男は思う。
走ることを楽しいと感じていなかったであろう、目の前の少女のことを。
ずっと、ちぐはぐに感じていた。
どこまでも天真爛漫な少女の姿を。
ああ、きっと今のが、彼女の"素"なのだろう。
男は、同僚の話を思い出した。
「…そうか、俺が"熱中"させなきゃならなかったのは、君だったんだな」
トレーニングをしている時も、模擬レースに出させた時も。
必死でないわけではなかった。
本気でないわけではなかった。
あの日俺が惚れこんだ熱は、確かに少女の中にあった。
それでも少女は、"熱中"してはいないように思えた。
笑顔の奥に、どこまでも暗いものがあるようだった。
男は改めて、少女を見る。
既に
「…そうか、そうか!」
それでも、男はそれを残念だとは思わなかった。
ただにんまりと笑う。
やっと見えた解決の糸口が、男はうれしくてたまらなかった。
思わず笑ってしまわずにはいれらないほどに。
難解なことなど、男にとってはどうでもよかった。
もとより、男は苦難・苦境の類を楽しむ"たち"である。
男は少女の肩をつかみ、しっかりと目を合わせた。
警戒する心を表すように少し瞳孔が開く左と、がらんどうのように開ききった右。
ああ、まったく。
その目はまるで、男から見た少女のようで。
男はそれがなんだかおかしくてたまらなかった。
男の見たことがないほど、せわしなく動く耳と尻尾。
初めてわかる。
初めて感じる。
少女の、本心を。
男は心のどこかで、今日のレースの結果を察した。
少女はメッキが剝がれるほどには、本調子じゃなかった。
どうでもいい。
男は自身の無駄な考えを頭の端に追いやった。
「なあ、これは俺の担当の受け売りなんだがな」
「レースは鉄火場なんだとよ」
「ああ、賭場って意味じゃない…それに近い感覚ではあるのかもしれないがな」
「レースってのは、火花が散って血が湧き上がる、そんな刺激にあふれた楽しい場所らしい」
男の願い。
それは叶わないかもしれない。
身内びいきの入ったその目をしてなお少女はまだ発展途上で、ともすればこの新米の場にすらふさわしくないのかもしれないのだから。
「いつか、お前のレースを教えてくれ」
ただ、それでも男は願わずにはいられなかった。
この小さな少女が何者であるか、それを知られる日のことを。
遠くから、歓声が聞こえる。
きっとそれは、今年のニュービーたちを歓迎するもの。
そして彼女らの、これからの長い…長い旅路を讃えるもの。
「さあ、そろそろ俺たちも控えに移動しよう。のんびりしすぎて遅刻したんじゃ笑いものだ」
コンクリートの道の先、光と歓声が漏れてくるほうへ。
少女の体が強張るのが、男の手が触れている肩から伝わってくる。
男は思う。
この小さな両肩に、彼女は何を乗せて走るのだろう。
幾万の喝采か。
たった二つの声援か。
パドックではどんな評価を受けるだろうか。
新バ戦に下バ評はない。
注がれる好奇の目に、期待の目に彼女は沿うのだろうか。
この先のレースはどうなるのだろうか。
何度転んでもかまわない。
立ち上がる方法ならば、いくらでも教えられるのだから。
ああ、それでも。
願わくば、温かく迎えられてほしいものだ。
少女がいつか見るであろう、夢のために。
優しく少女の手を引き、男は歩き出す。
その手は今はまだ、何かを掴むにはとても小さく、頼りない。
でも、不安に思う必要はない。
それ故に、大人には大きな掌がついているのだ。
男にとってのがらんどうの右は、少女にとっては雄弁の瞳。
男にとっての雄弁な左は、少女にとってはがらんどうの瞳。
どちらから見た左右が正しいのかを決めるのは、今ではまだ性急というものです。