今回はかなり緩めな話かもしれません。
下江…コハルです。
今の私のテンションはかなりの低空飛行。
お姉ちゃんが見ていたSF映画の戦闘機並みに。
逃れられない未来だとは分かっていたのよ…学生という身分上、それが定めである事も重々承知していたし。
でも。
納得はしてない。
だってそうでしょう?
年に数回とはいえ、全教科の総復習をさせられて、間違えたら「成績」として刻まれて、さらに怒られて、追試なんかが待ってるのよ?
こっちは毎日、生きてるだけで結構いっぱいいっぱいなのに。
定期試験。
“学園生活のラスボス”…もとい、“よく出る中ボス”
中学時代でも苦しんだのに…強化されて帰ってきた訳だ。
私をどれだけいじめれば気が済むのか、はぁ…そこまでのマゾではない…
正直、勉強なんて好きじゃない。というか、わりと嫌い。
ただ――
できることなら、私は“飛び級”したいと思ってる。
かっこいいし、何より……少しでも早く、背中を追いたい人に追いつけるかもしれないから。
それに、私みたいなのが飛び級したら、なんかちょっとすごくない?
まわりも「え? あの子が?」って驚くし、きっとお姉ちゃんも……ほめてくれる。……たぶん。
だから、今回の定期試験、できるなら一年生範囲だけじゃなく、二年生の問題もやってみたい。
……でもそれと、勉強が好きかどうかは、まったくの別問題なのだ。
とりあえずコハルは机に向かった。
カタツムリのチャームがついたシャーペンを握る。
無駄に値段が高く、性能が良いヤツだ。
『道具を改善すればやる気もでるだろう』中学時代の彼女なりに考えた案だった。
試験は紙…昔ながらのペーパーテスト。
今のところキヴォトスではそれが主流だ…どうもハッキングやその他諸々が怖いらしいが、紙でも答案が盗まれる事もあるので…まぁと言った感じ。
復習用のBDとそのガイドを机に置き…ノートを開き……三分後、コハルは毛布に顔を埋めていた。
「こ…こんなハズじゃ…」
集中力、どこ。
こんなんじゃ……飛び級どころか、補習一直線かもしれない。
補習…話じゃかなりの量の課題が出されるらしい……補習授業的なのが無いだけマシだけどその課題にどれほどの時間がもってかれるか…考えるだけで恐ろしい。
予定と言うのは何故こうも狂うのだろうか。
「ぬぅ…」
力を振り絞り、机に戻る。
お姉ちゃんに褒められたい。
ハスミ先輩に褒められたい。
虹色の未来を妄想し、それを原動力にすればいいんだ。
「……」
紙と黒鉛がこすれる音が部屋に響く。
「…ふぅ…」
窓の外が気になる。
冷蔵庫の中が気になる。
布団のふくらみが妙に魅力的に見える。
スマホの通知がピコンと鳴ったら、もうアウト。
「…ってダメダメ!」
再び視線をノートに戻す。
参考書の文字が、まるで催眠術の呪文のように脳に入り込んでくる。眠気を引き連れて。
エナジードリンクかお茶を持ってきたいところだが…多分キッチンからの帰りで道草を食ってしまう気がした。
「んぐ…」
ふと机の上に置いた小さな時計に目をやる。
針はすでに正午を回っていた。
……集中できない。
意味もなくスマホを手に取り、机に戻し画面を伏せて、また取り上げて……
ぬいぐるみを整え、寝癖を直し、部屋の空気を入れ替え――そうしてるうちに、気づけばベッドに腰かけていた。
(あ〜〜〜〜、もうっ……身体がむずむずするっ)
たぶん、それは疲労と眠気と、あらゆる欲が重なった結果だった。
別に悪いことをしてるわけじゃない。でも、誰にも見られたくない自分がそこにいた。
そう、なんかこう、ちょっとだけ――個人の時間が過ぎたあと。
「……私、なにしてるの」
なんだか情けなくなり、ベッドからずるずる床に崩れ落ちる。
乱れた髪と服のままぬいぐるみを手繰り寄せ、抱きしめてぼんやりと天井を見上げた。
「はぁ…」
このままだと、ほんとに全部終わる。
飛び級なんて夢のまた夢だし、下手したら赤点。
お姉ちゃんとハスミ先輩が怒る…なんて様子は想像できないけど…残念がられるのは確か。
「……ダメだ、図書館行こ」
無理だった。誘惑が強すぎた。
この部屋には勉強を阻むすべてが詰まってる。空気からして甘すぎる。
少なくとも、あそこにはベッドもないし、私が好むような雑誌もないだろうし。
人の目を気にして変な事はしないだろう…スマホをいじったりとかもし無いハズ。
制服に着替え、ラックから愛銃を引っ張り、バッグに必要なものを詰め込んで、玄関へと向かった。
昼を過ぎたころ、空はすっかり泣き顔になっていた。
肌に触れる雨粒は冷たく、制服の袖口にじわりと滲む感触がやけに現実的で、コハルは少しだけ眉をひそめた。
ルーズソックスの端が濡れるのが分かった。
こうなるとは予想できたがおしゃれの方がどうしても優先順位が上になる。
透明な傘の縁をつたう水滴をぼんやりと目で追っていると、視線の先、歩道の端に小さな塊が見えた。
「……あ、カタツムリ」
足を止め、傘の柄を傾けてじっと覗き込む。殻の模様がやけにきれいだった。黒と灰色の渦巻き。ツヤがある。
アスファルトの上をのそのそと移動していた。雨の日しか会えないこの生き物に、コハルは何故か目が離せなくなる。
「……つの出てる……かわいい……」
手に取ることはない。ただじっと見るだけ。それでも、心のどこか深い場所がじんわりと温かくなる。
何がそんなに好きなのか、自分でもうまく説明できない。ただ、こうして雨の中で動いている姿を見ていると、妙な安心感が湧いてくる。
(お姉ちゃんにも見せたいな……反応が想像できないけど)
そう思いながら、ずっと見つめていると、足元に小さな水たまりが広がってきた。
道路の片隅にうずくまっている人…傍から見れば中々いぶかしげな光景だろうか。
「……カタツムリって、勉強しなくていいし、レポートも出さなくていいし、ずるいな……」
独り言のように呟き、でもちょっと羨望が混じっているその声は、雨音にかき消されていった。
図書館へ向かう道のりは、思っていた以上に長く感じた。
地面を打つ雨の音は単調なようでいて、歩くリズムに微妙に干渉してく。
頭の中で考えごとをしようとしても、その水音に遮られるような気がして、まとまらない。
ぴちぴちだとかちゃぷちゃぷだとか、そんな陽気な気分にはどうもなれない…あの歌は好きだがもう子供ではない。
さっき見かけたカタツムリが、まだ頭の中を這いずっていた。
(……あれ、無事かな。誰にも踏まれてないといいけど)
あんな小さな生き物より自分の事を心配しろ…何処からかそんな声が聞こえた気がした。
(その通りよ、うるさい。正論で一方的に殴るのは正義なの?)
そんな事を無に対して叫びながら赤信号を待つコハル。
ふと彼女の目に、傘を忘れたのか…鞄で雨から身を守りながら走っているスーツ姿のロボットが見えた。
お勤めご苦労様です…なんてぽつりと思ったがコハルはふと、あることに気づいた。
(……お姉ちゃん、今日傘持ってたっけ)
朝、食卓での会話を思い返してみる。
水着で徘徊している人がまた現れたと、ぼやきながらため息をついている姉の姿がとても印象的だった。
そして玄関を出る姉の後ろ姿…
(持ってなかった気がする……かも)
大きめのため息をひとつ。鼻から抜けるような、やれやれといった吐息だった。
(風邪、ひかないといいけど……お姉ちゃん体調くずしやすいし…)
またお前は自分より他の者の心配をするのか…なんて。
「はぁ…勉強しに行くんだってば私」
自分に言い聞かせるように、声を出してみる。けれども気分はさほど切り替わらず、雨の中でずぶ濡れの空気をまとったまま、コハルは重たい足取りで図書館の重厚な扉への階段を上った。
扉の前で水を払い、ハンカチで頬を軽く押さえる。息を整えて、もう一度つぶやいた。
「……勉強しに来たんだってば」
ようやく、扉を開く。
湿り気を含んだ空気の中に、乾いた紙とインクの匂いがふわりと広がった。
館内に入ると、空気から一転、ひんやりとした静けさが全身を包み込んだ。
(……あ、涼しい)
トリニティの図書館はとても大きい…どれほどかと言うと…トリニティ学園の建造物で一番と言って良いほど。
外観はまるで古代の神殿だが、内部に足を踏み入れると、その印象はガラリと変わる。
空調完備の静音読書スペース。天井まで届く巨大な木製の書棚には圧倒されるが、それと同時にどこか洗練された都会的な空気が漂っていた。
棚の規律は整ってはいるが…館内構造はとても複雑で、毎年…いや毎月平均三人は迷子になる。
図書委員会に入って最初の仕事はこの館の全容を把握する事らしい。
「で、でかい……」
ぽつりと漏らした声は、図書館の静けさに吸い込まれていった。
何を読みに来たわけでもない。何かを調べたかったわけでもない。ただ「図書館に行けば頭が良くなるのでは」「勉強がはかどるのでは」という、中々ふわっとした発想で来てしまったのだ。
「……来たはいいけど……何か借りた方が自然よね……?」
そう呟きながら、コハルはぐるりと周囲を見渡す。
木製の本棚が幾何学的に配置され、どれもこれも規則正しく本が詰まっている。その静けさは、心地よさと同時にほんの少しの緊張感をもたらした。
(うぅ……何がどこにあるのかさっぱりだ……)
頻繁にこの場に訪れる訳ではないコハルにとって、この空間は未知そのものだった。背伸びしてみたけれど、分からないものは分からない。
「図書委員の人に聞けば……とりあえず、いいかな」
心細げに呟いて、彼女は足元に気をつけながら、木の床をコツコツと鳴らして受付カウンターへ向かった。
そして――
カウンターの奥にいたのは、ふわりと広がるピンクブロンドの長髪。左右の髪を飾る大きなミントグリーンのリボン。そして、整った制服に眼鏡の奥からのぞく知的な瞳。
失礼かもだが、いかにも…的な文学少女だ。
彼女はコハルの控えめな視線に気が付いたのか、読んでいた本に栞を挟み席から立った。
「こんにちは。なにか、お探しですか?」
やさしく、それでいて少し張りのある声だった。
円堂シミコ。そう名札に書かれた彼女は、トリニティ図書委員の中でも一際目立つ存在だった。
「あっ、えっと……その……」
口を開いたはいいものの、コハルは言葉が出てこなかった。
(何て言うんだっけ?えーっと、勉強ができるようになる本?でもそれって……)
悩みに悩んだ末、ようやく口をついて出た言葉は――
「て、手っ取り早く頭がよくなる本ってありますか?」
それは、あまりにもストレートで、あまりにも情けない響きを持った一言だった。
「…」
「…」
声をひそめたつもりだったが、妙に静かな館内ではやけに響いた。
どこかの棚の奥で、ページをめくる音がぴたりと止まった気がする。
(やばっ……)
コハルが顔を赤らめたその瞬間、シミコが静かに眼鏡を押し上げ、優しい笑みを浮かべた。
「残念ながら…そう言ったジャンクフードみたいな本はありませんね…」
「で、ですよね…スミマセン」
コハルはそそくさと頭を下げる。
図書館から逃げ出そうかとも考えたが…シミコは笑顔で続ける。
「でも……勉強のやり方や、モチベーションの保ち方について書かれた本はあります。それなら、ご案内できますよ?」
「あっ、それ……!それください!」
「ふふ。貸し出しなので、返却はお忘れなく」
にこやかに微笑むシミコに、コハルは(あっ、この人、強い……)と勝手に思った。
姉や先輩とは違う強さだ。
「えっと…学生証を見せればいいんですよね?」
「そうですね、用意して頂けると助かります」
図書委員らしい丁寧さと、どこか柔らかい雰囲気。それに、眼鏡越しの冷静な視線は、一瞬たりともコハルのドタバタに引きずられなかった。
やがてシミコは、館内奥の棚へとコハルを導いた。
高くそびえる本棚のあいだ、湿り気を帯びた雨のにおいが、外気口からほんのりと入り込んでいる。微かに軋む床の音と、彼女の制服の裾が揺れる気配――
その背中を追いながら、コハルはふと思った。
(誰かに勉強を相談したの…久しぶりかも)
かつては、何度もシオリにノートを見せてもらったり、一緒に問題を解いたりしていた。だが、中学の二年生くらいからだろうか、それも自然と減っていった。
時間が合わなくなったのもある。でも、もっと大きいのは、自分の中の小さな意地だったのかもしれない。
姉に心配をかけたくない。
口に出すほどのことでもない、小さなプライド。でも、それを支えにしていた時間も、確かにあった。
あとどこか、『相談したら負け』だと考えている節もあった…なのでこうして人に助けを求める行為は自分でも珍しい気がした。
そんなことをぼんやり思いながら、本棚の前で足を止めたシミコに倣い、彼女も歩みを止める。
「この辺りです。きっと、役に立つと思いますよ」
柔らかな声が、静かな空間にすっと溶け込む。
「……ありがとう、ございます」
コハルは少しだけ、顔を伏せて答えた。
本を受け取った手のひらが、ほんのり温かい。雨に濡れたはずの制服の袖が、気づけば少しだけ乾いていた。
それだけのことが、ちょっと嬉しい。
(……頑張らないと)
図書館の奥で、控えめな決意が芽生える。
ガラスの向こう、降り続ける雨の向こうに、まだ見ぬ試験の日が静かに待っている――。
図書館で勉強したこと(ないです)