紙がこすれる音、黒鉛が削られる音が響く。
教室の窓から差し込む柔らかな午後の日差しが、机の上に広げられた参考書やノートを照らしている。補習部のメンバーは、静かながらも真剣な空気の中で、それぞれの課題に取り組んでいた。
「ハナコ、この問題の攻略方法はあるか?」
アズサが尋ねると、ハナコはすぐに問題を覗き、答えた。
「はいはい、あぁなるほど。こういう場合は、倍数判定法を用いてこのようにすれば…」
「そう言う事か、理解した」
アズサは頷きながら、問題に向き直る。
「…」
ヒフミがその光景を何か感心したように眺めている。
しばらくの静寂の後、アズサが再び口を開く。
「ハナコ、これは…?」
彼女の指差すページには、古文のテキストが開かれていた。
「えーと、これは古い叙事詩の冒頭部分かと」
「ふむ」
「古代の叙事詩の一節で、英雄の怒りが物語の軸になっているんです。ここでは物語の主題を提示していて、叙事詩の特徴である長い連続した詩形が用いられていますね」
彼女の声は静かだが情熱がこもり、その知識の深さが感じられた。
「あぁ、あれか。分かった」
アズサは頷き、再び手を動かし始めた。
そのやり取りを見ていたシオリが口を開く。
「文学の勉強は苦手だったけど、こうやって背景や時代を知ると面白いね」
シオリの言葉には、いつものふんわりとした柔らかさの中に、小さな発見を喜ぶ輝きが混ざっていた。
「そうですね、意味や背景を知るとグッと身近に感じられます」
ハナコが穏やかに頷く。だが、その横でコハルはノートを睨みつけながら、低く小さく呟いた。
「面白く無い…」
コハルがノートを睨みながら、低く呟く。ペンを持つ手は止まり、眉間には深いしわ。ページの文字列がまるで敵の暗号のように見えているのだろう。
「文字がぐるぐる回ってる…」
苦笑まじりに呟くその横では、アズサが無表情で筆を走らせている。時折ハナコに質問を投げかけ、素直に頷き、すぐに理解している様子だ。
その姿が、どこか癇に障った。
(……)
コハルの目が、ちらりとアズサを横目でとらえる。敵意というより、ライバル意識に近い感情――けれど本人は、あくまで無自覚なまま、それを「なんとなくイラッとする」に置き換えている。
「なんでそんなに普通に勉強できんのよ…」
ぼそりと呟くように言った声は誰にも届かなかった。けれど、その口調には確かに棘があった。
「あら?コハルちゃん?手が止まっていますよ?分からない問題でもありましたか?」
「え?いやっ別にぃ?何よ、バカにしてるの!?」
「特にそう言った意図はないのですが…あ、ちなみに今コハルちゃんが見ているページは範囲外のモノですよ?」
「えぇ!?」
慌ててコハルは範囲表と睨めっこ。
段々額に汗がにじみ出てきた。
「大丈夫ですか…?」
「いやッ…知ってるわよ!今回の範囲は余裕だから、先を予習してたのよ!」
「あら、そうですか」
「コハル~油断は禁物だよ。予習するより、限界まで範囲を周回した方が良いと思うな」
「っ…まぁお姉ちゃんがそう言うなら」
「んふふ。その調子だよコハル!」
ちょっとだけ照れくさそうに、でも拗ねたように口を尖らせて返す。
シオリが笑顔で親指を立てると、ようやく場の雰囲気がほぐれていく。
「さて…次は科学か」
アズサがむふんと問題を見つめた。
その目は鋭く、まるで戦場に出る前のような緊張感がこもっている。だが内容は、あくまで平和な――元素記号の問題だった。
「元素記号…サービス問題ですね♡」
ハナコが目元を緩ませながら、笑った。
「ですね、点数の稼ぎどころです!」
アズサは一つ一つの記号をじっと見つめた。
「H、He、Li、Be、B、C、N、O、F、Ne……ふむ……暗号だな」
シーザー暗号かエニグマか…小さく眉をひそめ、まるで敵の通信を解読するかのような気迫でプリントを見下ろす。
「アズサちゃん、それただの元素記号の並びだよ」
と、シオリが苦笑いを浮かべながら突っ込んだ。
「いや、理解している。だがこれはただの記号ではない。全ての物質に潜む構成要素……この世界の“素”だろう?」
「……あ、うん。たしかにそうだけど」
言葉の選び方がいちいち仰々しい。
「それにしても、覚えにくいな。『リーベ、ぼくのふね』……などという呪文のような言葉を、先ほど聞いたが」
アズサは真顔のまま、プリントに記された元素記号の列を睨みつけていた。まるで敵情視察でもしているかのような、真剣すぎる視線だ。
「あら、有名な語呂合わせソングですね」
ハナコが穏やかに答えると、アズサは眉をわずかに動かして反応する。
「語呂合わせソング?」
「はい、リズムに合わせて、記号の最初の音を歌っていくんです。語呂を整えることで、順番の記憶がしやすくなるんですよ」
「なるほど?」
アズサは口ではそう返したものの、あまりピンと来ていない様子だった。眉間に皺が寄ったまま、プリントをじっと見つめている。
「『水兵リーベ、ぼくの船』だね。あれ、暗記だけじゃなくて普通に歌としても結構好きなんだよね」
と、シオリが口元をほころばせながら楽しげに言う。
「水兵である『リーベ』という兵士の歌……つまり、海軍の軍歌って事か?」
「軍歌……じゃないね。あ、私は軍歌だとゲヘナの『ケーニヒグレッツ』が好きかな~いや、あれって行進曲だっけ?映画で聞いて惚れちゃってさ」
シオリが軽やかに鼻歌でそのメロディーを奏でると、その横でノートをめくっていたコハルがふと顔を上げ、「あ」と小さな声を漏らした。
「映画って…冒険モノのやつ?」
「そうだよ!覚えてたんだ!」
思わぬ返答に、シオリはぱっと顔を明るくした。普段、全く興味がなさそうな態度を見せていた妹が、内容を覚えていてくれた――その事実が、胸の奥にじんわりと嬉しさを広げる。
「まぁ……結構、面白かったから」
コハルは照れ隠しのように視線を逸らしながら呟いたが、シオリにはその素直じゃない言い方が逆に可愛くてたまらない。
「よしっ!」
思わず立ち上がりそうな勢いで、シオリはグッと拳を握りしめた。そして自然な流れで、妹の頭を優しく撫でる。
「うふふ。シオリちゃん、話がそれてしまっていますよ。音楽は今回の試験範囲外です」
ハナコがやんわりと注意すると、シオリは「わっ、ごめん」と小さく舌を出して肩をすくめた。
「それにしてもゲヘナの歌がお好みとは」
「別に、ゲヘナになんかの恨みがあるわけじゃなから…音楽は校境を超えるからね。まっ、偉そうに言ってるけど、私は聴き専だし。楽器なんて鍵盤ハーモニカとリコーダーしか経験ないし…それも下手だしで…えへへ…」
その言葉に、ハナコもヒフミも先生も思わず微笑む。たしかに、音楽や芸術に境や派閥はない――シオリの言葉には、どこか彼女らしい柔らかさが宿っていた。
「では、そろそろ話を戻しましょうか。元素記号の語呂合わせの話でしたね」
ハナコがやさしく場を整えると、空気が再び学習モードに戻っていく。
「数がかなりあるが…全て覚えないとダメな感じか?」
アズサが眉をひそめながら問題集を指でなぞる。
かなりの量を前にして少し不安そうだ。
「いえ、最初の水素から…そうですねカルシウムまで覚えれば十分かと」
「ふむ……20コか」
アズサは指を折りながら数を確認する。少しだけ口元が引き締まり、戦術的にどう攻略するかを考える軍人のような表情を見せた。
「はい。まずはその20個ですね。これが周期表の“1~2族”と“13~18族”の基礎になる部分です」
ハナコの説明に、皆がそれぞれのノートに視線を落としつつ、集中を取り戻していく。
「まぁとりあえずは、元素の名前とその記号、順番を覚えるところまででいいでしょう」
「そこで、その『歌』とやらが役立つのか」
「そうですね。では、シオリちゃんに歌ってもらいましょうか♡」
「え?」
急なハナコのフリにシオリは素っ頓狂な声を出す。
「わ、私?なんかハナコちゃんが歌う流れだったじゃん!」
「私が歌うと、どうしても歌の雰囲気が変わりそうなので」
「えぇ?何?ロックアレンジとかヒップホップみたいになるって事…?」
「さぁどうでしょう?コハルちゃんなら分かるかと」
目を細めコハルの方を向く。
その視線に肩をびくつかせる。ハナコを睨みながら少し呆れたように言う。
「……私に何を求めてる訳…?」
その声音には若干の警戒心と、うっすら呆れのニュアンスが滲んでいたが、ハナコはただくすくすと笑っただけだった。
「うふふ。ではシオリちゃんお願いしますね。コハルちゃん、お姉さんのお口を使わせて頂きますよ」
「バッカじゃないの!?変な事言わないで!」
急に火がついたように顔を赤らめて立ち上がるコハル。机ががたんと鳴るほど勢いがついていた。
「え?大丈夫だよ?まぁ歌うし…『お口を使う』って比喩表現でしょ?代わりに歌ってもらう的な」
シオリはどこ吹く風といった調子で首をかしげ、逆にコハルの反応に戸惑い気味。
「そうですね、比喩です♡」
ハナコはにやにやと笑いながら、わざとらしく唇をうねうねと動かして見せる。その仕草に、コハルの眉がぴくりと跳ねた。
次の瞬間、コハルはスッと立ち上がり、ハナコの机のそばへずいっと寄る。そして、相手にしか聞こえないような低く抑えた声で、ぴたりと詰め寄った。
「お姉ちゃんに……変なこと言わないで……!!!」
真剣な眼差しにハナコはくすっと笑い、目を細めて答える。
「ふふふ、ジョークですよ?」
しかしコハルの表情は一向に緩まず、なおも睨みながら問いかける。
「っ……もしかして……アンタ、その……
「なんのことでしょうか?」
すっと視線を逸らし、あくまで涼しい顔で返すハナコ。そのとぼけた態度に、コハルは一瞬唇を噛み――だが何も言わずに、そっと息を吐くと、黙って自分の席へ戻っていった。
その背中を、ハナコはくすりと笑みを漏らしながら、目で追っていた。
「じゃあ歌うよ?ちゃんと聴いて覚えてよね?」
「あぁそのつもりだ」
「そこまで真剣にされると逆に…」
「む?すまない」
「では、歌います!」
シオリが手拍子を取りながら、声を張って歌い出す。
水兵リーベ、ぼくの船!なな曲がる、シップスクラークか?
短く、正直言ってかなり支離滅裂な歌詞を何度か繰り返す。
テンポよく、明るい声で歌い上げられる語呂合わせのメロディは、どこか懐かしい童謡のような響きを持っていた。自然と皆の表情も和らいでいく。
アズサは「ふむふむ」と静かに頷きながらリズムを口の中でなぞり、ハナコは満足そうに膝を両手でポンポンと叩いた。
ヒフミはほんのり笑顔を浮かべながら、足元で靴の底をコツコツと鳴らしてテンポを取る。
先生もいつの間にかペンを手に取り、リズムに合わせて机の上でトントンと小さく音を刻んでいた。
コハルは隣の姉に合わせ、少し照れたように小声で口ずさむ。
「……よし、頭に残った。これは助かる」
アズサが目を閉じるように頷き、ノートの隅に小さな文字で語呂合わせの歌詞を書き留めていく。その手つきは、どこか几帳面で静かな情熱が感じられた。
「うわぁ…学生時代を思い出すよ」
先生が懐かしそうに呟くと、シオリがすかさず反応する。
「先生も知ってたんですね」
「うん、自分だけのローカルな暗記法かと思ってたら、どこでも使われてたりして驚いたことが何度もあるよ」
「たしかに、誰かにとっての“定番”って、意外と広がってたりしますから」
ヒフミが笑ってそう言う。
「そうですね――ふふ、ここからはクイズ形式で行きましょうか♡」
ハナコがにっこりと笑いながら、手元のノートをパタンと閉じた。
「ちょ!いきなり?まだ覚えきれてないわよ…」
「私は覚えたぞ、準備なら出来てる」
「なっ…」
教室には、ほんの少しの緊張と、穏やかな熱気が漂い続けていた。
「ねぇ、ヒフミ」
先生がこっそりと手招きをする。
「どうしました?」
ヒフミがそっと先生の元に近づくと、先生は小さく笑った。
「いい感じだね」
「…あっ!はいっ! ハナコちゃんが、もう…すごくて…! アズサちゃんも吸収力がとんでもないといいますか!」
興奮気味に語るヒフミに、先生は頷きながら口元を緩めた。
「ハナコはもう、先生だね…私の存在意義が……あはは」
「だっ、ダイジョウブですよ! あっ、それにコハルちゃんも、実力を隠しているとかなんとか…シオリちゃんも、さすが正実のエリートといいますか…助けがいらなそうというか!」
「うんうん」
「これは…その、慢心は禁物ですけど……よ、余裕で合格も…!」
「夢じゃないかも?」
「ですよね!」
ヒフミは胸を撫で下ろし、少し肩の力が抜けたように笑った。
「よかったです……実は結構、心配で…」
「人間関係とか? 一応、取り締まった側とやらかしちゃった側の組み合わせだし……」
「それもあるんですけど、実は――」
そう言ってヒフミは、自分の鞄から折り畳まれたメモを一枚、そっと取り出した。文字の部分をちらりと確認してから、声を潜める。
「『もし、第一次試験で不合格者が出た場合は、合宿をせよ』……と、ティーパーティーからお達しが…」
「合宿か……これはまた、大がかりだね」
その時、すぐ近くで会話を聞いていたらしいシオリが、ひょこっと顔を出してきた。
「今、合宿って言った?」
「あ、シオリちゃん!はい。でも、落ちた場合のみですから。心配しなくても大丈夫です。この調子なら全員合格できます!」
ヒフミはそう言って、クイズ問題に集中している三人の方へ目を向ける。アズサの目は真剣そのもので、ハナコは口元に微笑を浮かべつつも次々と答えを繰り出していた。コハルも少し不機嫌そうな顔をしながらも、手元のノートに黙々と書き込んでいる。
「確かに!……でも、合宿かぁ。なんか一年生の頃を思い出すなぁ」
「正義実現委員会って、合宿するんですか?」
「うん。大量の荷物を背負わされて、山を登るんだよ〜」
シオリの何気ない発言に、先生とヒフミが顔を見合わせた。
「それって……合宿なの?」
「え? うん。泊まったし。テントに」
「どちらかというと、訓練というか……強化合宿?」
「まぁ、根性はつくよ! 途中で水を汲んでこいって言われて、渓流の中に片足突っ込んだら冷たくてさぁ~」
あっけらかんと語るシオリの様子に、ヒフミは小さく苦笑しながら、メモをそっとしまい込んだ。
「……もしそう言うタイプの合宿だった場合…回避する為にも頑張らないとですね」
「まったくだね……」
先生も同意するように、遠くを見る目をして静かに呟いた。
その後ろで、また一つ問題が出される声が聞こえた。
「…うーん、ハナコちゃんは勉強ができる人のように見えますが…なぜ補習になってしまったんでしょう。シオリちゃんや私みたいに何か事情が…って先生!そんな目で見ないでください!」
「いやぁ?何にも?」
「むぅ…と、とにかく、何度も言いますが合格しないと!もし三次試験も落ちたら…」
「まずい事になる感じ?」
シオリが首を傾げ聞く。
「な、何でもありませんよ!心配とはすぐおさらばできそうですから!」
「ふふ、ヨシッ!ワークをもう一周するかなぁ」
「じゃあ先生もこのクエスト周すかなぁ~」
「せ、先生?」
「あはは、冗談だよ!」
そう言って先生はタブレットをしまった。
高校のテストで叙事詩…?さすがトリニティ…