【悲報】下江姉、エッチを知らない   作:スラバヤサトゥ

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お疲れ様です。誤字報告、評価、感想…ありがとうございます。


きらめく水と笑顔

「……そろそろかな」

 

別館の玄関前。昼下がりの陽射しが差し込む中、短めのジャージパンツとラフなTシャツ姿に着替えた先生が、静かに腕時計に視線を落とし、ぽつりと呟いた。

足元には掃除用具一式が詰まったコンテナがひとつ。

 

そこへ、カツカツと軽快な足音を響かせながら駆けてくる影が二つ。

 

「先生、お待たせしました!」

 

先頭に立って飛び込んできたのは、ヒフミ。

紺色と白を基調としたトリニティの指定体操着に着替えていかにも“準備万端”といった様子だ。

そのすぐ後ろから、同じくジャージ姿のシオリが笑顔で手を振りながら続く。

 

「お待たせでーす!」

 

シオリが駆け寄ってくると、先生は明るく手を振り返しながら、ぽろりと漏らした。

 

「おぉ、体操着だね!」

 

その言葉に、後から現れたコハルの顔がみるみる赤く染まった。

 

「……それ、どういう感想よ……まさか、教師が生徒の体操着姿に興奮して――してっ!? 死刑!!」

 

勢いそのままに怒声を上げると、コハルは手にしていた雑巾を構える素振りを見せた。先生は冗談半分に両手を挙げて降参のポーズを取る。

 

コハルのジャージは、サイズが合っていないのか、袖がちょっぴりぶかぶかで前のファスナーは首元まできっちりと閉じられている、上げきった引き手の部品が下唇に少し触れてしまっている。

対照的に、シオリは上着のファスナーを全開にし、腕まくりとかなりラフな格好で風を受けていた。

姉妹でここまで違うのも面白いと思う一方で、先生は「これ以上いうと本当に死刑にされそうだな」と心の中で判断した。

 

「お待たせ」

 

その時、乾いた金属音――カチャン――というどこかで聞いた事がある音と共にちょっぴり幼い澄んだ声が背後から響いた。

 

「――あ、アズサちゃんも到着……って、えっ、どうしてライフルを!?」

 

振り返ると、そこには他の皆と同じくトリニティの体操着に着替えたアズサが、無言で立っていた。だが彼女は肩にスリングをかけ、白い愛銃を背負っている。

ヒフミが尋ねると、アズサは首を傾げた。

 

「? 銃は肌身離さず持っていないと意味がない。身構えていないと……死神が来る」

 

静かな語調ながら、どこか実感のこもったその言葉に、皆の背筋がすっと伸びる。

 

「し、死神……いや、まぁ正論は正論だけど!」

 

ヒフミが曖昧に笑いながら返す中、コハルが目を細めてアズサを見つめる。

 

「アズサ…あんた、銃に抱き着いて寝るタイプ……?」

 

「よくわかったね」

 

即答するアズサに、コハルは「うぅ……」と唸って顔をしかめた。冗談のつもりだったのに、まさかの事実とは。

特殊学園の人達が、銃を抱えて仮眠をとっている映像を見たことがあった。

それとほぼ同じ光景なのだろう。

 

「でも、シオリだって腰にホルスターがあるじゃないか」

 

ふいにアズサが言うと、場の空気がピタリと止まり、全員の視線が一斉にシオリの腰元へと集まった。確かに、体操着のジャージの裾からちらりと見えるホルスター。そこには、黒色の拳銃がきちんと収められている。ベルトには予備のマガジンもぶら下がっている…ほぼいつもの仕事着と変わらない腰回りだ。

 

「……いや、まぁ、うん。だいたいアズサちゃんと同意見って感じで……拳銃だけなら作業に支障がないかな~って思ってうん」

 

シオリはバツの悪そうに笑いながら、軽く腰に手を当てて見せる。

 

「お姉ちゃんはどこでも職務モードなのよ……そ、そこがカッコいいんだけど…

 

「まぁ実質今も職務中だし…」

 

「えっ?」

 

「あぁ何でもない!」

 

シオリは慌てて手を振り、笑ってごまかす。

だが、その仕草を遮るように、背後から艶やかでゆったりとした声が降ってきた。

 

「お待たせしました。ふふっ、皆さん早かったですね……まだ七時半ですよ?」

 

ふわりと甘い香りをまといながら、ハナコが優雅に登場する。

その姿に、一同の視線が自然と集まり――そして、次の瞬間、コハルが額に手をおき、深く息を吐いた。

 

「そりゃあ遅れるわよね……水着に着替えたらねぇ!!

 

最初は静かなトーンだった、が後半でアクセルベタ踏み、爆発した。

 

「アウト!!ゲームセット!!!しけぇ!!!バカじゃないの!?バーカ、この変態アホピンク!!!」

 

その声は怒鳴りというよりも、もはや絶叫に近い。

小学生並みの悪口の嵐、もはや脊髄で罵倒している。

 

コハルが全力で叫びながら、指を突き出す。その先には、なんと掃除に似つかわしくない、学校指定の水着姿のハナコがいた。

下江姉妹にとっては脳のタンス、それのかなり前の方にしまってある光景だ。

 

「ふふっ、どうしました? コハルちゃん?」

 

ハナコは相変わらずの笑顔で、まるで何事もないかのように首を傾げる。

 

「掃除だって言ってんでしょ!? 何よその格好、真面目にやる気ないでしょ!?」

 

コハルが額に青筋を浮かべながら叫ぶ。一方のハナコはというと、いたって涼しい顔で頬に指を添え、くすりと笑った。

 

「いえいえ、とても動きやすいんですよ? 汚れてもすぐ洗えますし、換気も完璧……それに、見てくださいこの吸湿速乾性能。まるで風と一体化したかのような通気性です」

 

「解説いらない!! っていうかこれで何回目よ!? ねぇ、お姉ちゃんからも何か言って!」

 

コハルは頼みの綱とばかりに姉のシオリを振り返る。だが、そのシオリはというと、ちょっと困ったように眉を下げながらも、どこかぼんやりと呟いた。

 

「え? あぁ…ハナコちゃん? いきなり人前で水着は、みんなびっくりしちゃうかもだよ?」

 

「ふふふ」

 

ハナコは満足げに微笑む。まったく反省する気はないようだ。

 

「でも、確かに水着って、掃除に適してるかも……」

 

シオリがぽつりと呟く。

 

「お姉ちゃん!?」

 

コハルが悲鳴のような声を上げる中、すかさずハナコが目を輝かせて寄ってきた。

 

「まぁ!! シオリちゃんも私と一緒の姿になりますか?」

 

「え、いや、その……どうしようかなぁ~」

 

シオリは腕を組んで考え込みながら、目線を泳がせる。なにやら、あながち悪くはないかも……という雰囲気だ。

 

「お風呂掃除する時とか、私も下着だけになるし……それと同じ感じかなって」

 

「あら、私は下着でも良いと思いますよ?」

 

ハナコのさらなる爆弾発言に、場の空気が一瞬フリーズした。

 

「バッカ!! お姉ちゃんに変なこと言わないで! お姉ちゃんも変に感心しないの! いい!?」

 

コハルが今にも泣きそうな顔でシオリの肩を揺さぶる。

 

「ん~」

 

当のシオリは、コハルの必死な抗議にもどこかふわふわとした調子で頷きながら、気まずそうに目を逸らす。どうやら心は少しだけ揺れているらしい。

 

「まぁハナコ?肌に直接触れない方が良い物も結構あるし…着替えた方が良いと私は思うな」

 

「うーん、そうですね…今日のところは勘弁してあげます♡」

 

「え?」

 

「あはは…」

 

 

 

 

「さて! まずは建物周辺の雑草を抜きましょう! 熱中症には十分注意を!」

 

ヒフミが軍手を両手にはめながら、明るく声を張り上げる。少し浮足立った空気に、引き締まった指示が心地よく響いた。

 

先生はそのすぐ隣で、草むらのそばにクーラーボックスと道具箱をどんと置く。中には軍手やゴミ袋、草刈り用の小さな鎌などが詰まっている。

 

「クーラーボックスにスポーツドリンクを入れてあるから、好きに取っていいよ」

 

「ごちそうさまでーす!」

 

シオリが手を挙げて軽やかに返事をし、すぐ近くの草むらにしゃがみこむ。

 

「雑草抜きかぁ……家に庭がないから、こういうのって結構久しぶりかも」

 

彼女は手袋越しに雑草の根を握り、ぐいと引き抜く。抜けた草と一緒にふわりと土の匂いが立ちのぼった。

その隣で、アズサが辺りをきょろきょろと見回す。

 

「侵入者は草むらに潜む可能性もある。そのようなポイントを事前に潰しておくのは有効的」

 

そう呟き、軍手のゴムをぱちんとならし膝をついて作業に取りかかっていた。

 

「あはは……えっと、草むしりを全員で片づけたら、それぞれ一か所ずつ担当して室内の掃除も進めていくってことでお願いします!」

 

ヒフミが笑いながら再確認すると、皆がそれぞれ頷いた。

 

「よしっ! 始めよう!」

 

先生の掛け声に呼応するように、全員が雑草と本格的に格闘を始めた。

 

 

 

 

 

「むぅ……」

 

雑草抜きと、自分の担当場所を片付けたシオリはうなじをかきながら、錆びついたシャッターを睨みつけていた。絡みついたツタを引きちぎり、重たく鈍い色をした金属の表面を手の甲でぬぐう。何かのガレージか、倉庫か。だが鍵がかかっていて開かない。

 

「気になるなぁ……」

 

ぶつぶつと独り言をこぼしながら、スマホを取り出す。

 

「この別館の鍵って、ヒフミちゃんが持ってたよね。もしかしたら、ここ用の鍵も……」

 

タップ音。数秒のコールの後、優しい声が応答した。

 

『はい、ヒフミです。どうしましたか?』

 

「あ、ヒフミちゃん。ごめんね、今裏のガレージにいるんだけど、シャッターが開かなくて。そっちが持ってる鍵束に、シャッター用の鍵がついてたりしないかなって思って」

 

『裏のガレージ?あぁ館案内図にありましたね。えっと……確認してみますね。あ、うん……たぶん、この小さい鍵かも?』

 

「本当!? もし都合がいいなら持ってきてくれない?」

 

『大丈夫ですよ!大体の掃除は終わりましたし!すぐ行きますね!』

 

「ありがとう~、待ってまーす!」

 

通話を終えると、シオリはスマホをポケットに戻し、再びシャッターの前にしゃがみ込んだ。

 

「鍵が合えばいいけど……どうだろうなー」

 

数分後、砂利を踏む足音が聞こえてくる。振り返ると、ヒフミが首から鍵束を提げ、コハルと並んで小走りにやって来る姿が見えた。

 

「おまたせしましたー、シオリちゃん! たぶんこの鍵だと思いますが…」

 

「ありがと、ヒフミちゃん! コハルも一緒だったんだ?」

 

「ちょうど一緒に玄関の窓拭いてたの。なんかイヤな予感がしてさ……やっぱりだった」

 

コハルは腕を組んで、ため息をつく。

 

「イヤな予感ってなにさぁ」

 

シオリが苦笑しながらそう返し、ヒフミから手渡された鍵をシャッターの錠に差し込む。カチャリと乾いた音が鳴り、確かな手応えが返ってきた。

 

「……よし、開いた!」

 

シオリが慎重にシャッターの取っ手を引き上げると、重たく鈍い金属の音を立てながら、シャッターはゆっくりと持ち上がっていく。太陽の光が少しずつ内部へと差し込み、埃まみれの空間を照らした。

 

まず姿を現したのは――黒ずんだゴムの塊。

 

「タイヤ……ですね」

 

ヒフミが目を細めながら呟く。

4本ほど、横になり斜塔のように鎮座している。

 

「じゃあ、ガレージだったんだ」

 

コハルが顔をしかめつつ中を覗き込む。

シャッターが完全に開ききった瞬間、全貌があらわになった。

 

そこにあったのは――埃をかぶり、くすんだ赤色のボディに苔と落ち葉が張り付いた、小さなクラシックカー。丸いヘッドライトに、やや潰れたようなコンパクトな車体。古びてはいるが、どこか愛嬌のあるフォルム。

 

「ミニだね」

 

シャッターが開ききった先で、シオリがぽつりと呟いた。フロントフェイスを見つめながら、感心したように目を細める。

 

「お姉ちゃん…小さい車だからって安直すぎ…」

 

コハルが呆れたようにツッコミを入れるが、すぐにヒフミが笑みを浮かべてフォローした。

 

「いえ、シオリちゃんは合っていますよ。これは“ミニ”っていう車なんです。トリニティ製の大衆車で有名なんですけど……本物を見たのは私も初めてですねぇ」

 

「へぇー…まぁ可愛いじゃん。動くの、これ?」

 

コハルが興味深げに車体に近づいていく。

 

「どうだろ……でも、放っておくには惜しいかも」

 

シオリはそう言って、しゃがみこみながらミニの側面に手を添え、汚れた窓から車内を覗き込む。革張りのシートは全体的にくすんではいるが破れは見られず、メーター類も奇跡的に無傷な様子。ダッシュボードの隅にカビの跡があるのが少し気になるが、それ以外は“古い”というより“味がある”という印象だ。

左側のヘッドライトにだけうっすらヒビが走っていたが、走行にすぐ支障が出るほどではなさそうだった。

 

「……よし、綺麗にしちゃおっか!」

 

意気込みたっぷりのシオリの声に、コハルが思わず目を丸くする。

 

「ちょ、ちょっと!まさか、これも掃除する気!?」

 

「うん。もしかしたら動くかもしれないし。せっかくなら、ピカピカにしたいな~って…ヒフミちゃん、他の所の掃除は…」

 

「皆さんのおかげでほぼかんぺきです!」

 

シオリがふわっと微笑みながら立ち上がり、両手をぱんと打ち鳴らす。

 

「掃除ってレベルじゃないでしょこれは!」

 

「でも、みんなでやったら楽しいかもしれませんよ?」

 

ヒフミがにこやかに言うと、コハルは「その笑顔が一番怖い」とでも言いたげな表情で肩をすくめた。

 

「洗車するだけだから大丈夫だよ!名車再生!!みたいに大がかりにはならないって!」

 

「なにそれ……」

 

「テレビのやつ!ボロい車をレストアする番組!」

 

「へぇ……って…興味ない!」

 

そう言いつつコハルは肩を落としながらも、姉の楽しそうな様子には逆らえず、しぶしぶ腕まくりを始めた。

 

「はぁ……オイルまみれになっても知らないからね……」

 

その様子に、シオリがくすくすと笑い、優しく頭を撫でる。

 

「じゃあ、バケツとブラシ、持ってくるね~!」

 

 

 

陽の傾きがゆっくりと変わり始めた頃、車は見違えるほどの姿になっていた。

 

長年の埃と土に覆われていた赤いボディは艶を取り戻し、曇っていた窓ガラスも透き通って中がよく見えるようになっていた。ヘッドライトのヒビだけが時の流れを感じさせるが、それも個性として許容できる範囲だ。

 

「……すごい、本当に綺麗になりましたね…」

 

ヒフミがうっとりとした声で呟き、タオルで汗を拭いながらミニのボンネットに触れる。

 

「まさかここまでになるとは……」

 

コハルは疲れ切った表情を浮かべながらも、どこか満足そうに息をついた。

隣でホースの先端を絞り、水を止めたシオリは口元に笑みを浮かべる。

 

「お疲れさま~! 思ったより楽しかったね!」

 

そのタイミングで、別々の場所を担当していたハナコとアズサ、そしてクーラーボックスを抱えた先生が揃って合流した。

 

「皆さん、こちらは済みましたか?」

 

「うん、バッチリ! こっちはミニをピカピカにしといたよ~!」

 

「ミニ……?」

 

先生が目を丸くすると同時に、アズサは一歩前に出て、車体をじっと見つめた。

 

「……これ、動くなら偵察にも使えそうだな。いや……流石に赤は目立ちすぎるか」

 

「なんでもかんでも軍事転用しようとしないで……」

 

疲れたのか、コハルは控えめな声でツッコミを入れる。

 

「あら、可愛らしい車ですね。備品なんでしょうか?」

 

「さぁ……ナンバープレートもないし、資料にも記載がなかったみたいで」

 

「でも、いざという時には使えそうです」

 

ヒフミの言葉にシオリが小さく頷く。

 

「ある程度掃除したし、これで終わりでいいわよね?」

 

コハルがタオルで額の汗をぬぐいながら、やや期待混じりに言った。だがその言葉に、ハナコがふわりと微笑みながら首を横に振った。

 

「あらコハルちゃん……まだ、手を付けていない場所がありますよ?」

 

「まだありましたっけ……?」

 

ヒフミが驚いたように振り返ると、ハナコは一歩前に出て、指をすっと立てる。

 

「はい。一か所、確実に残っています」

 

その言葉に、皆の視線が集まった。沈黙のなか、アズサがぽつりと呟く。

 

「……あぁ、プールか」

 

ぽんと手を叩くこともなく、ただ気づいたような声だった。

 

「そうとなれば、行きましょう!」

 

 

 

 

「うわぁ……こりゃ酷いや」

 

シオリがプールを見下ろしながら、小さくつぶやいた。

その顔はまるで、事件現場でも目撃したかのように険しく、少し引きつっている。

 

水は抜けきっているが、大量の葉や虫の死骸が落ちている。

コンクリートの縁には黒ずみと苔がびっしりと張り付き、かつてここが泳ぐための場所だったことすら忘れられそうだ。

 

「だいぶ大きい…どこから手をつけるか…いや、そもそも補習に水泳の項目は無かったような」

 

「なら別に、掃除しなくてもいいんじゃない……? 絶対時間かかるって……」

 

コハルが半ばうんざりとした声を上げると、その隣でハナコが一歩前へ出て、ゆっくりと優しく語りかけた。

 

「いいえ、コハルちゃん……よーく考えてみてください」

 

「え?」

 

「陽光に照らされ、きらめきながら揺れる水……もうすぐ夏ですよ? そして、楽しい合宿に、はしゃぎ回る生徒たち……」

 

ハナコの声は夢見るように柔らかく、まるで一幅の絵を描くようだった。

 

「なんだか……楽しくなりませんか?」

 

「……まぁ……うーん、分かるような分からないような」

 

「なんか、アオハルって感じがあるっていうか。楽しそうなのはわかるよ!」

 

「ふふっ、さすがシオリちゃん。その感じです」

 

ハナコは満足げに微笑むと、今度はくすんだ底面に目を向けた。

 

「……こんなふうに汚れてしまったプールを見ると、こみ上げてくるものがありますね」

 

静かに言葉を継いだのは、ヒフミだった。

彼女は目を細め、どこか遠くを見るようにプールサイドに立ちすくむ。

 

「確かに、ここは別館だ。だけど……こんな立派なプールがあったってことは、かつては使われていたはずだ。きっと……にぎやかな声が響いていた」

 

アズサは静かに目を閉じ、言葉を落とすように呟いた。

 

「それでもこうなってしまう…Vanitasvanitatum…それが世界だ」

 

「ばにたす…え?」

 

「えっと…」

 

コハルとヒフミは意味が分からなかったのか、頭に『?』を浮かべている。

 

「古代の言葉ですね…『全ては虚しいものである』…言い得て妙かもしれませんね」

 

「人生のはかなさを現わすんだっけ?虚しいかぁ…」

 

シオリはそっとプールを見た。

水垢だらけの手すりに、ひっくり返った分からない虫…誰にも使われることのない飛び込み台――かつてはここで誰かが笑い、泳ぎ、青春を過ごしていたはずの場所。

 

「……ううん、虚しいって、言葉ではよく聞くけど。実際にどんな気分かって言うと、なんか、うまく言えないわね」

 

コハルがぽつりと呟いた。

その声に応えるように、ふと風が吹く。湿った草と古びたコンクリの匂い、初夏の太陽のぬくもりを含んだ、どこか懐かしい風だった。

 

「まっ!綺麗にすればそんな虚しい…とかぶっ飛ぶんじゃない?」

 

シオリがいつもの調子で笑いながら肩をすくめた。

あまりにも気楽な口調にコハルは小さくため息をついたが、その横顔を見ていたハナコは、ふんわりと微笑んだ。

 

「ふふ、遊びましょうか♪」

 

「え?遊びって……」

 

ヒフミが首を傾げる。ハナコは一歩、前に出て手を広げるように言葉を続けた。

 

「掃除遊び、です。みんなでプールを綺麗にして、カルキの匂いがする新しい水を張って……思いきり飛び込むんです!」

 

その瞳には本気の輝きが宿っていた。

 

「明日からは本業に戻らないといけません。今日が最後の自由時間かもしれませんよ?私たちにとっても、このプールにとっても――ですから、今日、楽しんであげないと。さぁさぁ、早く濡れてもいい格好に着替えてきてください♪」

 

「……うん、すべてが虚しくても、今この瞬間に最善を尽くさない理由にはならない」

 

そう言ったのはアズサだった。すでに踵を返しており、やる気は十分だ。

 

「水着なら部屋にある。待ってて」

 

「アズサちゃん!?って、はやっ!」

 

ヒフミが驚きの声を上げ、シオリが笑いながらコハルの肩を軽く叩いた。

 

「うぅ…急ねぇ……まっ、分かったわよ。そこまで言うなら」

 

コハルも観念したように口をへの字にし、腰に手を当てる。

 

「さぁ、シオリちゃんも♡」

 

「うん!あ、スピーカーも持ってきていい?音楽かけたいから!」

 

「いいですね!シオリちゃんの選曲、楽しみにしています!ほらほら先生も」

 

「水着は流石にないけど…まっこの格好でいいかな」

 

 

 

 

 

「では、参りましょうか」

 

ハナコがにこやかに言いながら、手にしたブラシを優雅に構える。

 

「まてまてまて」

 

突然声を上げたのはコハルだった。びしっと指を差す。

 

「あら?コハルちゃんどうしました?」

 

「『どうしました?』じゃないのよ!なんで言い出しっぺのアンタが水着じゃない訳!?」

 

コハルの指摘通り、ハナコは制服を着ていた…どの角度から見ても『濡れて良い服装』ではない。

他のメンバーは学校指定の水着に着替え準備万端、あれだけ水着に叫んでいたコハルもだ。

 

「今こそ、着るときでしょうが!バカなの!?濡れちゃだめでしょそれは!」

 

「あら、これ“濡れて良い服”なんですよ?」

 

「はぁ?」

 

「うんうん、コハルの言う通り…制服は濡らしたらだめだよ」

 

シオリも少し困ったように言葉を添えると、ハナコは軽く目を伏せて小さく笑った。

 

「ふむ、シオリちゃん?美学…とはご存じですか?」

 

「…何が美しいとか何が良いとか…そう言うのを考える哲学の一種?」

 

「はいはい、あっていますよ♪ ではここで聞きます。水着と制服……濡れたらどっちが“良い”と思いますか?」

 

「えぇ?そりゃあ水着でしょ…水着は濡れるための服であって…制服が濡れると良い時は洗濯ぐらいじゃない?白だし透けちゃうよ?」

 

シオリがごく真面目に答えると、ハナコは顔をパッと明るくし、手を打った。

 

「ふふふ……んふふふっ!やっぱりシオリちゃんは、本当に可愛らしいですね!」

 

「えぇ?」と首を傾げるシオリ。

 

「ヒフミ、分かるか?」

 

「あはは…分からないです…」

 

「まぁちょっとしたジョークです。ほら見て下さい」

 

ハナコはぴらっとスカートを捲し上げる。

咄嗟にコハルは顔を赤らめ、目元を頭の翼でかぶせる。

 

「下にビキニをきているんです、これなら濡れても大丈夫でしょう?」

 

「お~それなら大丈夫だね!」

 

「……心臓に悪い…」

 

 

 

 

「それっ!」

 

ぱしゃっ、と水しぶきが上がった。

アズサが柄の長いブラシでプールの壁面をこすった拍子に、跳ね返った水がコハルの頬に飛ぶ。

 

「ひゃっ!?ちょっとぉ!アズサっ!」

 

「事故だ。不可抗力だ」

 

「ぜっっったい狙ったでしょ!?この、バニタス根暗アサシン!」

 

「根暗は余計だ」

 

小さくふるえる肩を押さえながら抗議するコハルの背後で、さらに冷たい飛沫が舞った。

 

「アサシンはいいんですね…ってひゃあ、ちべたっ!

 

「うふふ、ヒフミちゃん! 見てください、虹ですよ!」

 

ハナコがホースの口を指でつまみ、くるくると回しながら水を広くまき散らす。

強い陽光を受けて、細かな水滴が空中で屈折し、虹のアーチが淡く浮かび上がった。

 

「わぁ本当です! 虹の終わりにはお宝があるとか…綺麗ですねぇ……ってやっぱり冷たいですぅ!」

 

「近くの湖から直接引いてる水ですからね! 水道水のぬるま湯とは訳が違います!」

 

楽しげに笑うハナコがくるりと振り向き、プールサイドにしゃがんでいたシオリを見つける。

 

「シオリちゃ~ん、そちらはどうですか?」

 

「ん~ちょっと待って! 音楽、かけるから!」

 

シオリはプールサイドに置いた端末を操作し、防水スピーカーに接続した。

しばらくして、軽快で跳ねるような音楽が空気を切り裂くように流れ出す。

明るく弾むリズムに、金管楽器の音が陽気に踊り、まるで陽炎が立つ荒野を馬車が駆け抜けていくような印象だ。

 

「おっ、良いですねノリノリです!」

 

「でしょ! 気分上がるから掃除も捗るって!」

 

シオリがスピーカーの方に指を向けてウインクする。

 

「お姉ちゃん…なんかこう…音楽の好みが、一般的じゃないというか」

 

「そ~かな?」

 

音楽に誘われて、ヒフミも思わずスキップしながらデッキブラシを振る。

コハルは「えぇ……ノリすぎでは?」と呆れながらも、足元の水たまりを勢いよく拭いはじめる。

 

「ふふふ……このリズム、悪くありませんね。ね、アズサちゃん?」

 

「……うん、嫌いじゃない。むしろこういう調子の方が、戦意が……いや、作業効率が上がる」

 

「戦意って言っちゃったよ!」

 

シオリが笑い、ハナコも小さく肩を揺らす。

 

「よーし! 私もがっつりやるぞ~!」

 

音楽に背中を押されるように、シオリは勢いよくプールの中へと降りた。まだ完全には掃除の終わっていない底面には、わずかに水がたまり、日差しを反射してきらきらと輝いている。

 

すでに半ば掃除というよりも水遊びの様相を呈していたその空間で、彼女は片手にデッキブラシを握り、テンポに合わせて床をこすり始めた。

 

「へいへいっ! あんたたち、もっと腰入れてこすらんかーい!」

 

「何そのテンション!?」

 

ヒフミが笑いながらツッコミを入れるが、シオリは耳に入っているのかいないのか、リズムに乗るように軽やかにステップを踏んでいた。水しぶきを跳ね上げながら、まるで踊っているように。

 

「いっちにー!さーんしっ!」

 

その時だった。

 

「……っとわっ!」

 

つるり。

 

薄く残った水たまりに足を取られ、シオリの身体がまるで漫画の一コマのように宙を舞う――そして、

 

ごつん!!!

 

衝撃音がプールの底に響き渡った。

 

「シオリ!」

 

「シオリちゃん!!」

 

「お、お姉ちゃん!!!」

 

全員が声を上げ、道具を放り出して駆け寄った。先生は無言で膝をつき、顔色を読み取ろうとするようにシオリを覗き込む。

が、その本人は――

 

「うーん、世界がくるくるしてる~……でも大丈夫~……」

 

ぼんやりとした顔で起き上がると、頬をペチペチと叩いて自分に気合を入れ、数秒後にはまるで何事もなかったかのように立ち上がった。

 

「ほ、本当に大丈夫です……?かなり派手に……」

 

ヒフミが心配そうに声をかける。コハルは膝立ちのまま、手を口元に当てて絶句していた。

 

「大丈夫!ほら、この通り!」

 

シオリはニッと笑いながら、くるりとその場で一回転して見せる。軽快な動きには、どこにも痛みの気配はない。いつも通りのケロッとお姉ちゃんだ。

 

「もうお姉ちゃんのバカ!!あの音は心配するって!!」

 

プールの底に座り込んだままのシオリに向かって、コハルが涙目で飛びついた。そのまま、ぎゅうっと力いっぱい抱きしめる。

柔らかな胸元に顔をうずめながら、鼻をすんすん鳴らしている。

 

「ごめん…ごめんね、コハル」

 

シオリは少ししょんぼりとした声で謝りながら、そっと妹の背中を撫でる。

 

「シオリ……もう少し、冷静になろっか」

 

「はい…ごめんなさい先生。ちょっとテンション上がりすぎてました」

 

シオリは頬をかいてぺこりと頭を下げる。

 

「……頭のつくりが違うな」

 

アズサがぽつりと呟き…ふっと笑った。

 

「……色んな意味で」

 

「え、褒められてる!?それって褒め言葉!?」

 

シオリがぱっと顔を上げ、なぜか嬉しそうに反応する。

その姿に、ヒフミはふふっと笑いを漏らし、ハナコは口元を隠す。

 

「……思ってたよりシオリも問題児かなぁ…はぁ~」

 

先生はそう呟きながら「ふふっ」と笑い、スポーツドリンクで喉を鳴らした。

 

「あ、皆さん後で写真とりませんか!」

 

「さんせー!!私撮るよ!」

 

「あぁシオリちゃん…大丈夫ですよ、全員映ってないといけないのでタイマーかけますから…」

 

「おっと了解!!」

 

 

 

 

すっかり日は暮れていた。西の空にかすかに残っていた夕焼けも、いまはすっかり藍色の帳に飲み込まれ、空は静けさをまとっていた。

別館のプールには確かに水が張られている。けれど、すでに気温は下がり、ナイトプールを楽しむには体力も時間も彼女らには足りない。

 

「……明日、朝イチで入ってやる」

 

アズサがぼそりと呟く。手にしているスポーツドリンクを静かに傾けながら、プールをじっと見つめている。

 

「……うーん、入りたかったな〜泳げないけど」

 

シオリはプールサイドにぺたんと座り込み、タオルで濡れた髪をくしゃくしゃと拭きながら、どこか残念そうにぽつりと漏らした。

 

「私もです……って、えっ? シオリちゃん泳げないんですか?」

 

ヒフミが驚いたように問い返すと、シオリは平然とうなずいた。

 

「うん、泳げないよ」

 

「ごめんなさい……てっきりなんでもできるのかと…」

 

「いやいや、そんな超人じゃないって。私が泳ぐと……なんていうか、Uボート……いや、氷山にぶつかって沈む客船みたいになるんだよね」

 

「シオリは水兵にはなれないな」

 

「まぁね〜。私は陸の民で十分だよ〜」

 

軽口を叩き合う彼女たちのそばで、ハナコはプールを静かに見つめながら、ぽつりと口を開いた。

 

「そうでした……プールに水を張るには、相当な時間と何百トンの水が必要でしたね……ごめんなさい、失念していました」

 

「ハナコのせいじゃない。十分……楽しかった。それに……シオリ」

 

「ん?」

 

「……あの時、流れていた音楽……曲の一覧は、ないか?」

 

「あ、あるある!あとで送るよモモトークで!」

 

「ありがとう」

 

そのやり取りを背中で聞きながら、コハルはプールに映る灯りをじっと眺めていた。

 

「……綺麗」

 

「えぇ……綺麗です。ほんとうに……ほんとうに……」

 

ヒフミが穏やかに頷く。

夜の学校のプールなんて、そう簡単に拝める景色ではない…しっかりと、頭のフォルダーに焼き付ける。

 

「いい…夜ね」

 

そのままぽそりと呟いたコハルの頭が、ゆっくりと揺れた。

こく、こく、と船を漕ぐように――どうやら睡魔の招きが来たらしい。

 

「おっと、コハルはおねむみたいだね~」

 

シオリが口元を緩めながら立ち上がる。

 

「相当体を動かしましたからね……無理もありません」

 

「寝坊もできませんしね、休まないと」

 

「じゃあ、そろそろ戻ろっか? ごはんも作らないといけないし」

 

「私も……手伝う」

 

「ふふっ……」

 

シオリはそっとしゃがみ込んで、妹の顔をのぞき込む。

 

「コハル、おんぶと抱っこ……どっちがいい?」

 

「……ぅぅ……おんぶぅ……」

 

「了解、お姉ちゃんが責任を持って運びます!」

 

やや誇らしげに向けたシオリの背中に、コハルがそっともたれかかる。

そしてすぐにくーくーと寝息を立て始めた。

 

「頼りになるお姉ちゃんだね、シオリは」

 

「えへへ、先生…私はコハルが大好きで仕方なくって…絶対にこの子を守るって決めてますから!まぁおんぶが守るってのに含まれるかは…わかんないですけど」

 

どこかで虫の声が響きはじめる。しん、と静かな夜の空気に包まれながら、彼女たちはそれぞれの心に、ささやかな満足と少しの名残惜しさを抱いて、ゆっくりと別館の灯りへと戻っていった。

 

 




少し…長くなりましたが、かきたいものがかけたので自己満足です。
ちょっち詰め込み過ぎかも?


個人的に掃除のシーンが一番ブルアカで好きかもしれません。青春しているなぁ~と思います。いいですね、美しいです。
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