「いやぁ…美味しかったです…」
ヒフミはほわっとした笑顔でお腹をさすりながら、ベッドの端に腰を下ろした。軽く跳ねたスプリングの音が、夜の静けさにやわらかく溶けていく。
「それならよかったよ…えへへ」
シオリが足元に置いたバッグをごそごそと整理しながら、満足そうに笑った。夕食のメニューは、ありあわせの食材を使ったカレーとサラダ、そしてソーセージ入りのポトフ。
家庭的、庶民的なメニューだ。でも、額に汗を浮かべて働いた後の食事としては、どんな高級料理にも負けない味わいだった。
「本当に美味しかった…体に染みるってこういうことなんですね」
ヒフミがしみじみと呟くと、隣のベッドに腰を下ろしていたアズサがぽつりと漏らした。
「あぁ…美味しかった…あんなに美味しいものを食べたのは……初めてだ…」
その声は、どこか神妙で、真っ直ぐだった。表情は淡々としているのに、目元がかすかに赤い。食事の満足感と、今日一日の達成感が、胸の奥でゆっくりと溶け合っているようだった。
「ありがとね。すっごくうれしいよ」
シオリは静かなトーンで応え、深く息をついて、ぽふっと布団の上に倒れ込む。
「けど……えへへ、疲れたなぁ~」
「掃除に洗車にお料理…そりゃ疲れますよ。明日に響く前に、ちゃんと休んでくださいね?」
ハナコがやわらかい声でそう言いながら、シオリの肩にそっとタオルケットをかけた。
「うん…ありがと…ごめん、先に夢の国に旅立っていいかな…?」
「どうぞどうぞ、シオリちゃんは頑張りましたから」
「学校と同じ時間に、勉強開始でいいんだよね?」
「はい、九時集合予定です。朝食は七時半を目標に」
「おっけ~……じゃあ……おやすみなさぁい……」
言葉の終わりはすでに眠気に溶けて、マウスピースを口にはめる頃には、もう目を閉じていた。ほんの数秒のうちに、静かな寝息がベッドの中から聞こえてくる。
その姿を見て、みんなはほっと息をついた。心地よい疲労感と、柔らかな安心感が、部屋の空気を静かに包んでいた。
「あらあら、寝つきがいいですねぇ…うふふ」
「…うーん…」
コハルがベッドのふくらみを見つめながら小さく唸った。
「あら、コハルちゃん。どうかしましたか?」
「え?あ、その…お姉ちゃんがこんなに疲れてすぐ寝るの始めて見た…委員会の激務の後でもこんな事ないのに…」
「一時的に委員会の緊張感から離れたことで、心も体も一気に緩んだのでしょうね」
ハナコはやわらかな声で答えながら、窓辺に歩み寄り、そっとカーテンを引いた。
夜風がほんのり吹き込み、部屋の空気が少しだけ涼しくなる。
「…そういうもんなんだ」
「ええ、責任を抱えている人ほど、張り詰めた糸が切れたときに…本当に眠るんです」
ハナコは窓の外を見やりながら、どこか寂しそうに笑った。
その微笑みは月の明かりに照らされて、やさしく薄れていくようだった。
その表情に、コハルは一瞬だけ言葉を失い、そっとシオリの寝息に耳を傾けた。
「そっか……おやすみ、お姉ちゃん……また明日」
その囁きと同時にコハルはしゃがみこみ、タオルケットからそっと顔を覗かせすやすやと眠る姉の頬に、ふわりと軽いキスを落とした。
あの時…一次試験の朝…それのお返しだ。
その瞬間、シオリの眉がぴくりと動いたが、目を覚ますことはなかった。
ほっと息をつき、コハルが顔を上げると──そこには、目を丸くしたハナコの姿があった。
「あっ……」
その瞬間、全身を電流が駆け抜けたかのように、コハルは背筋をビクンと震わせた。
やってしまった。完全に、やらかした。
ここは自宅じゃない。
姉妹だけの、甘えや照れが自然に許される空間じゃない。
ここは合宿場。部活動の宿泊施設。もっと言えば、公共の場。
なのに、自分は──見られてしまった。やってしまった。あろうことか、一番見られたくない相手に。
顔を勢いよく真っ赤にし、まるでやかんのように湯気が出そうな勢いで、コハルは視線を逸らす。
が、そんな彼女の動揺が愉快でたまらないのか、ハナコの口元はにこにこと綻んでいく。
「まぁ……まぁまぁまぁ……♡」
ハナコは両手を頬に当て、身をよじるようにして小さく笑った。
その姿はまるで、とびきり素敵な映画を観たあとの観客のような幸福感に包まれていた。
「な、何よ、なによ…っ!」
コハルが詰め寄るが、声が裏返ってしまう。
顔の筋肉がぴくぴく動いているのが、自分でも分かる。
「こ、これは家族間でする、ただのスキンシップであって…!!!」
「ふふふ……まだ私は何も言っていませんよ?」
ハナコの声は穏やかで、それでいてしっかりと刺してくる。
「んふふふ……やっぱり、コハルちゃんって……可愛いです♡」
「あぁ!もうサイアク!!!死刑!しけぇ!!!」
力と感情にまかせてコハルはハナコにとびかかる…がひらりと躱され、そのままベッドの上にぼふんと落下した。
コハルの抗議もむなしく、ハナコの笑みはますます深まるばかりだった。
「お、お二人とも静かにぃ…」
「ぬぁ…うーん……だめだよぉ、いちあちゃん……ん…んあ……」
シオリの目がふと開いた。
夢の続きはすぐに霧散し、代わりにぼやけた暗闇だけが目の前に広がっている。
寝ぼけた脳をなんとか動かしながら、彼女は手をベッド上に這わせた。
(スマホ…どこだっけ……たしか枕の横に……)
手探りでガサゴソと枕元をまさぐると、指先にかすかな硬さが当たる。
少し薄い長方形──目的のものだ。
ボタンを押す。
瞬間、眩い光が目を直撃した。
「うっ……まぶひっ……」
顔をしかめて目を細める。吸血鬼が太陽に出くわしたかのようなリアクションだった。
それでもまぶたの隙間から、かろうじて画面に表示された時間を読み取る。
(……12時……5分……うわ、変な時間に起きたなぁ……なんでだろ…本当だったら今週、夜警だったから体が変におぼえてるのかなぁ)
一度大きく息を吐き、スマホをぱたりと横に放る。
もう一度眠ろうとした、その時。
(ん……?)
お腹のあたりに、もぞもぞとした違和感。
どこか奥の方から、わずかなプレッシャーが──
(……うぅ……これは……トイレ……だなぁ……)
自分の中でそっと結論を下す。
プール掃除の時、水分をけっこう摂った記憶がある。完全に油断していた。
あたりは当然真っ暗。
(起こさないように……そーっと……)
タオルケットを静かにめくり、慎重に足を床につける。
この辺の動きは、さすが委員会仕込み。
目立たず、音も立てず、影のように立ち上がると、ゆっくりとドアへと向かう。
(足元注意……目慣れてきた……オッケー)
床に置かれたカバンやスリッパを器用に避け、月明かりを頼りに歩を進める。
(……こういうとき、ステルス訓練って役立つんだよね……)
心の中で自画自賛しながら、シオリはそっとドアノブに手をかける。
「きい」とわずかな音を立てないように、ゆっくりと開けると、廊下にむわっとした空気が押し寄せてきた。
(うぇ…あっつ……)
汗ばむような感触に思わず顔をしかめる。
けれど、今は急ぐのが最優先だ。任務──いや、トイレが最重要事項である。
「えっお…とふぃれは…あっひだっへ…」
マウスピースをつけたまま、くぐもった声で独りごちる。
頭の地図を頼りに、静かに歩き出す。
だが──ふと、対面の部屋の隙間から、ほんのりと漏れる明かりに気づいた。
(あれ…あの部屋、先生のじゃなかったっけ……?)
扉の隙間から溢れる電球の淡い光が、夜の闇の中で異様に浮かんで見える。
こんな時間にまだ起きているのか…流石大人…と尊敬の念にも似た思いで通り過ぎようとしたそのとき──
……全員、退学……
ふいに聞こえたその声に、足が止まった。
脳の奥に20ミリの対物ライフル弾が突き刺さったような、ぞっとする感覚。
聞き間違いかと思ったが──
…先生も…知っていましたか…
(え……今の声……)
聞こえてきたのは、間違いなく知っている声だった。
(……ヒフミちゃん……?)
シオリの脳裏に、昼間の柔らかい笑顔がよぎった。
そんなヒフミが──深夜、先生と“退学”なんて言葉を使っている。
聞こえてしまった、恐ろしい言葉。
『退学』それはキヴォトスの学生にとって、実質的な『死』と同じだ。
その運命になった者の未来は……考えたくもない。
それが、全員?
全員ってみんなのこと?補習授業部の?
それって私もはいってるの?
それって本当?
だれがそんな事決めたの?
「…」
彼女のワインレッドの瞳がわずかに揺れた。
思わず廊下の壁に背をつけるように、身を引く。
音を立ててはいけない。
じっとして、気配を消すんだ。
何の根拠もないが、そうしなければいけないと、身体が訴えていた。
(……どういう意味……?どういう……こと?)
耳を澄ましても、それ以上の会話は聞き取れなかった。
ふたりの声は、まるで誰にも聞かれてはいけない秘密を分け合うように、低く、静かだった。
冷房のない廊下は蒸し暑いはずなのに、シオリの背筋はひんやりしている。
虫のざわめきがいつもよりうるさい。
マウスピース越しにこもる吐息が、自分の胸の内でぐるぐると反響している。
(あの二人の事だし…悪い事してないハズ。退学って、聞き間違いかな……)
その時だった。
──カラン。
ポケットに入れていたヘアピンが、ポロリと滑り落ちて、床に触れた。
その音は、夜の廊下に似つかわしくないほど鋭く、反響した。
(っ……やば……!)
一瞬の静寂。
すぐに何かが変わる気配を察し、シオリは落ちたピンを素早く拾い、音を立てぬよう足音を殺しながら壁際に張り付いた。
先生の部屋──明かりの漏れる扉の隙間が、ほんの少しだけ動いたように見えた。
(………)
息を止める。
喉の奥で、鼓動が小さく跳ねる。
空気すら震えているように感じるその中で、だが──扉は開かなかった。
(……なんで私は隠れてるんだろ)
恐る恐る、静かに、慎重にその場を離れる。
トイレ? もうどうでもよくなっていた。
足は無意識に、自分たちの部屋へと向かっていた。
寝よう。これは……きっと頭がぼけてるからだ。
寝よう。朝になればスッキリしてるハズだから。
そうだ、楽しい事を考えよう。
(朝ごはん…何かな)
シオリは明るく能天気な子です、そしてえっちを知りません。