「朝だ、夜明けだ、潮の息吹だ」
アズサはまるで詩のように淡々と呟きながら、部屋のカーテンを勢いよく開けた。
一瞬にして差し込む朝日が、まだ眠りに沈む部屋の空気を塗り替えていく。
「おはよう!」
「おはようございます、アズサちゃん。朝から元気ですね~」
既に制服に身を包んだハナコが、まぶしそうに目を細めながら柔らかな笑顔を向ける。
「一日の始まりだからね」
アズサは窓の外に一瞥をくれながら、軽く背伸びをした。
朝靄の残る空には、まだうっすらと白い雲が浮かび、空気は冷たく澄んでいる。
天の大きな光輪も健在…いつも通りのキヴォトスの空だ。
「……あら、アズサちゃん。髪が少し濡れていますね? もうシャワーを?」
「いや、プールを三往復してきたところ。シャワーはこれから入る」
「い、意味あります?」
「プールは体を洗うためのものじゃないし、温水でもない。……まぁ、確かにこれと言った意味は薄いかもしれないけど」
アズサは一瞬だけ視線を泳がせ、こほんと咳払いで言葉を締め直す。
「さあ、早く起きて。歯磨き、シャワー、それから着替え……朝食と行こう!」
キリッとしたその声が部屋に響くと、それに呼応するように、各ベッドの布団がもぞもぞと動き出す。
「まだ……まだです……いまペロロ様が……いいところで……10分のお慈悲を……」
ヒフミが目をつぶったまま、掛け布団の中からか細い声で抗議をする。
「む」
アズサの眉がぴくりと動いた瞬間、次の布団からもうひとつ、声が上がった。
「うぅ……もう朝?」
「うん、早く起きて。でないとナパームを──」
「起きる! 起きるから! 朝からそんな物騒なこと言わないでっ!?」
ガバッと音を立てて、コハルがベッドから上半身を跳ね起こす。
眠気が吹き飛ぶほどの大声に、自身も一瞬驚いたような顔をしながら、髪をかきあげた。
ナパームだなんて…朝っぱらから燃やされるのは勘弁だ。まぁ朝じゃなくても嫌だが。
「ふふっ、アズサちゃんのモーニングコールは強烈ですね」
「笑ってる場合じゃない!!!」
「コハルは起きた…ヒフミは…」
「うぅぅん…」
ヒフミの布団の中から、寝言のような返事が聞こえる。
「あら、ヒフミちゃんの方はもう少し時間が必要かもしれませんね。昨日…いえ、今日でしょうか?遅くまで起きていたみたいなので…」
「……彼女は部長だ、それによるプレッシャーもあるのかもしれない…まぁまだ時間に余裕はある、もう少し寝かしておこう」
「ですね」とハナコは軽くうなずき、部屋の空気はゆるやかに動き出す。
だが──ふと、アズサが首を傾げた。
「む、シオリはどこだ?」
視線の先、コハルの隣のベッドには、空っぽの寝具だけが残っていた。
タオルケットがめくれ、枕も乱れている。
「えっ…お姉ちゃん?」
コハルも慌てて視線を向ける。
その時、部屋の扉が音もなく開いた。
ひょこっと現れたシオリが、少しばかり引きつった笑顔を浮かべていた。
「……おはよう、ただいま~」
「ちょ、どこ行ってたの!? ベッドにいないから心配したじゃない!」
「うん、ごめん……ちょっとね、お腹こわしちゃって……」
「えっ……えぇぇ!? 大丈夫なの!?」
「うんうん、大丈夫……もう落ち着いたよ。多分昨日のカレーにスパイス入れすぎたのかも。へへへ」
そう言って手をふわふわと振って見せるものの、その顔色はまだどこか優れない。
笑顔にも、普段の底抜けの明るさは感じられず、わずかながら作り物めいた硬さが混じっていた。
「大丈夫です?救護騎士団にお世話になるのは…流石に禁止にされていませんし…少々顔色が…」
ハナコが心配そうに目を細める。
「全然へーきだよ!最近ちょ~っとね…大腸の調子が悪かったからうん、朝からスッキリで逆にサイコーだよ」
「なら…いいのですが…」
「ふぅ…いやぁトイレが蒸し暑くって、汗の方が気持ち悪いよ…」
顔色が悪いのはサウナ状態の個室にいたからだと言わんばかりに、手の甲で額の汗を拭う。
その様子を見たアズサが、ふっと息をつきながら近づいた。
「そうか、シャワールームならこっちだ来て」
「およよっ!」
返事を待たず、アズサはシオリの腕をすっと取り、軽やかで無駄のない動きで引っ張り始める。
シオリは抵抗する間もなく連れていかれ、足がもつれそうになりながらついていく。
「ほら、コハルもだ」
「えっ!? ちょっ、わ、私も!?」
完全に油断していたコハルも、次の瞬間にはアズサの逆の手にしっかりと捕まっていた。
朝のゆるやかな空気は、一転して戦場のような慌ただしさに包まれる。
「力つよっ!!」
半ば引きずられるようにして、アズサに連れられていくコハル。
三人が脱衣所へと消えた直後、勢いよく「バンッ」と扉が閉まった。
そして、数十秒後。
──ザァァァアアアア!!
「冷たい冷たい!!いきなりかけないでってばああああ!!!」
扉越しに響くのは、コハルの絶叫と、シャワーの激しい水音。
「それシャンプーじゃなくてボディーソープ!!」
「おっと、ごめん。ボトルのデザインがほぼ同じだったから」
アズサの冷静な声が返ってくる。
今度はしっかりとパッケージを確認し、プッシュ…出てきた液体をコハルの頭にたたきつける。
「うぇぇぇ……ぎもち~……朝風呂……しゅご~……えへへへへ~」
放心したように、シオリは天を仰いで、とろけた声を出しながら湯けむりに包まれていた。
降り注ぐお湯に何も抵抗する事はせず、雨の日に刑務所から脱獄した受刑者の姿のよう。
「あぁっ、やっぱりお姉ちゃん壊れてる!!というか溶けてる!!!」
部屋では流石に目を覚ましたヒフミがベッドで丸まったまま、くすくすと笑いをこらえていた。
その横で、ハナコがティーカップを片手に静かに呟く。
「まぁまぁ……一度で姉と妹両方と裸のお付き合いとは……ふふ、アズサちゃん、朝からなんと贅沢な……♡」
「お待たせしました。では──そろそろ、始めましょうか?」
ヒフミが柔らかな笑みで声をかけると、部屋の空気がきゅっと引き締まる。
「いいよ~」
「はーい」
「うんっ」
三人がそれぞれに快く返事をする中で──ただ一人、机に突っ伏して唸っている人物がいた。
「あぁ……全部見られた……終わりよ…」
机に頬をぺたっとくっつけ、うわごとのように呟くコハル。
その肩はかすかに震え、ついさっきまでのシャワールームでの出来事が、鮮明にフラッシュバックしている様子だった。
「見たって……裸のこと? ならコハルも私の見てるし、問題ないと思う」
素直な疑問をぶつけるアズサの一言に、コハルは机に頭を打ち付けるように突っ伏したまま、か細く叫んだ。
「そういう問題じゃないの!! あれは……あんなの拉致よ!服も無理やり剥いだじゃない!!」
「私は久しぶりにコハルの背中洗えて楽しかったよ?」
横からにこにこ顔で悪気なく言う姉に、コハルの顔は赤を通り越して茹だったトマトのようだ。
「お姉ちゃんもぉぉっ!そういう問題じゃなぁいっ!!」
「コハルちゃん、私も背中を流してあげましょうか?」
ハナコがうふふと笑いながら手を差し出すと、コハルは全身をびくっと震わせて振り返った。
「イヤだッ!! 絶対にいやだ!! 天地がひっくり返っても嫌よ!!そんなんだったら私はD.U湾に飛び込むっ!」
彼女の全力の叫びにハナコも「そこまで…」と困惑している様子。
「あ!アズサちゃんの背中を洗うのも楽しかったよ?」
「そうか?」
「うん!なんかもう一人妹が出来たみたいでさ!」
シオリのその言葉に、コハルは飛び跳ねる。
そのまま目を猫のようにし姉にがっついた。どうやら何か危機を感じたらしい。
「お、お姉ちゃん!い、妹は私だけだから!!!…私だけっ!!!」
「え?うん、妹はコハルだけだよ?」
「え……えっと……」
「ヒフミ、寝ぐせが跳ねてるよ、そこ──」
「えっ!? あっ、あ、ありがとうございますっ!!」
先生にぼんやり言われ、慌てて手鏡を取り出し、前髪の浮いた束を必死に押さえるヒフミ。だが、その最中でようやく思い出したように、ぴしっと姿勢を正す。
「……って、勉強です!! はい、皆さん、コチラにご注目をっ!」
「?」
にぎやかだった室内が、ぱたりと静まり返った。
水を打ったような沈黙の中、全員の視線がヒフミに集中する。
彼女は胸の前で小さく拳を握り、一つ深呼吸をしてから、真っ直ぐ前を見据えた。
「…今日は、実質的な合宿の“大事な大事な初日”になります!私たちは今、とても厳しい状況に置かれています。ともすれば不安に呑まれ、慌ててしまいそうになる……そんな状況ではありますが──」
一語一語を丁寧に紡ぎながら、ヒフミは全員の顔を順に見渡した。
その表情には、緊張と責任感、そしてそれ以上に強い決意が宿っていた。
──その声を聞きながら、シオリは手元のノートに視線を落とし、シャープペンシルの先で、ページの端を何度もなぞっていた。
(……ヒフミちゃん、すごいなぁ……)
そう思いながらも、心の奥には重たい石のような感覚が残っていた。
昨夜、廊下で聞いてしまった“退学”の一言。
それは今も、彼女の思考の隅でじわじわと熱を持ち続けていた。
(……あれ…寝ぼけていたからなのか…本当に言っていたのか…う…ん…)
けれど、ヒフミの真剣な眼差しを前にして、その言葉を投げかけることはできなかった。
今は黙って、この場に集中すること──それがシオリの出した答えだった。
「難しく考える必要はありません! 一週間後の二次試験で合格する、それだけです!!」
ヒフミの声に、空気がわずかに動く。
「そうだね」
「ですね」
「まぁ…」
「うん! 頑張ろう!」
「そこで…」
ヒフミがごそごそとカバンを探り、何かを取り出す。
「今から、模擬試験をしましょう!」
「……模擬……試験……?」
コハルが絶望を背負ったような声を漏らす。
「なるほど…」
アズサが静かに頷く。
「まっ、まって……! 試験って……まだ心の準備が……!」
「コハル落ち着いて、模擬だから」
シオリが横目で見やると、コハルはまるで処刑台に連れて行かれるような顔をしていた。
心配を和らげるように、ふわりと頭を撫でる。
手を動かすたび、良い匂いが香る…そのおかげでシオリ自身も心を落ち着かせる事ができた。
直接妹の頭頂部に鼻を付けたい…そんな欲が沸いたが流石に自制する。
状況的にも人間的にもダメな気がした。
「ただやみくもに勉強する……それも、まぁ悪くはないのですが、時間が限られている私たちにとっては効率が悪いです」
ヒフミの声には、教師顔負けの説得力があった。
「ですので、一度試験を通して、苦手な部分をあぶり出して把握するのが良いかと思いました!」
彼女は紙の束を机にそっと置いた。
その重みが、どこか頼もしく感じられる。
「これは昨年、学園で実施された試験問題とその解答です。集められた分だけなので、完璧ではありませんが……あるだけでも、価値はあると思います」
ヒフミの努力の跡がにじむ紙束に、皆が自然と視線を集める。
「先生にも手伝っていただいて、二次試験を想定した形式にまとめました。ちょっとした実戦形式です……挑戦しましょう!」
その目には不安も見えるが、それ以上に“皆で乗り越える”という信念が光っていた。
シオリは、そっと紙束の一枚を取った。
目の前の問題よりも、今は──この空気に、希望を見出していた。
(……頑張ろう、ちゃんと。まだ何も決まったわけじゃないもんね)
「じゃあ、みんな準備してね。決まりは本番と同じだよ」
「はぁ……」
溜息が漏れた。
ぼんやりと天井を見つめながら、シオリは机に頬杖をついたまま、シャーペンをくるくると回している。何気に大技を決めているが、成功に喜ぶ様子は見られない。
「……あら、シオリちゃん。今のはなかなか立派な音量でしたね?」
不意に、すぐ隣からハナコの柔らかな声が飛んでくる。
シオリは一瞬きょとんとして、意味を察してから、顔を赤くした。
「あっ……え? あぁ……その、なんか今日はね、多くて……大きいのが、つい……」
照れたように笑ってごまかしつつ、手のひらで頬をぱたぱたとあおぐ。
「今日のシオリからは、いつもの明るい雰囲気が感じられない気がする」
アズサが机越しにちらりとシオリを見る。その目は鋭いというより、じっと様子をうかがっているようだった。
「え? そうかな……うーん、まぁ、寝起きにお腹壊して、暗い廊下に一人で佇んで、あげくに蒸し風呂みたいなトイレで朝を迎えたら……テンション下がるよね、流石に」
苦笑混じりに肩をすくめるが、どこか無理して笑っているような気もする。
「……そうか。お大事にね、無理はしないで。一応、衛生兵の訓練も受けたことあるからもしもの時は言って」
「ありがとね~。アズサちゃんは優しいなぁ」
シオリは、心からなのか冗談なのか分からない調子でそう言いながら、目を細めてみせた。
「お姉ちゃん…」
「そんな顔しないでよコハル~」
その時だった。
静かに開いた扉の向こうから、紙の束を抱えた先生が教室に戻ってきた。
「お待たせ~模擬試験の採点、終わったよ」
先生の声が教室に響くと、空気がぱたっと張りつめた。
「えっ!?もう…!?」
コハルが思わず机から身を乗り出す。
「まぁね、一応先生?だし」
「一応って…」
「では、さっそく結果の方をお願いします先生!」
「うん…じゃあいくよ」
第1次補習授業部模擬試験 結果
ハナコ 4点
アズサ 36点
コハル 20点
ヒフミ 68点
シオリ 85点
「むぅ」 アズサが唸る。
「あら」ハナコが小さく呟く。
「……え」コハルが自分の点数を二度見し、放心する。
「……」ヒフミは表情を引き締め、黙って結果を受け止めていた。
「あぁ、下がっちゃったか…」シオリは困ったように頭をかいた。
ヒフミが真剣な表情で言葉を紡ぐ。
「これが現実です!悔しいですが…このままだと私たちの先に明るい未来はありません」
教室の空気が、ずん、と重くなったように感じた。
誰もが目を伏せ、何かを考えている。沈黙が広がる。
そのなかで、シオリはゆっくりと唾を飲み込んだ。
ヒフミの言葉に一番動揺しているように見える。
(……確か合格点は60…下がったとは言え私は全然合格ライン…でもみんなで超えないとだめなんだよね………やっぱり、おかしい気がするんだよなぁ……皆が悪いってのは全然ない。うーんこのルールがなぁ…)
「ここで、一週間……みんなで60点を超えるためには、効率的に時間を使う必要があります!」
ヒフミの声が、教室にしっかりと響いた。誰もがその真剣な口調に、背筋を正すような感覚を覚える。
「そこでまず…アズサちゃんとコハルちゃん!」
「?」
「……なに?」
名前を呼ばれ、二人は同時に顔を上げた。アズサは不思議そうに眉をひそめ、コハルはすでに一抹の不安をにじませている。
「お二人は一年生用の試験を受けていたので、私とハナコちゃんが勉強をお手伝いします! ハナコちゃん、一年生の時は試験で高得点だったんですよね?」
「え? まぁ……そうですね、昔の話ですが」
「実は試験問題をまとめていたときに、ハナコちゃんの答案を偶然見つけまして……えっとそれを見つつにして、どうして今の点数になってしまったのか、後々ハナコちゃんと私、先生で確認しましょう!」
ヒフミが指をすっと伸ばし、ある人物を指名する。
「シオリちゃん!」
「うぇ……えっと、な、なに?」
突然名前を呼ばれたシオリは、わずかに肩をすくめて目を丸くする。咄嗟に反応できず、椅子に姿勢を正し直す。
「シオリちゃんは、なんでこの場にいるのか逆にわからない高得点者です!ですので、ぜひ全体のサポート役をお願いしたいと思います!」
「ざっくりしてるけど責任重大だぁ!? ……ま、まぁ、頑張ってみるね」
冗談めかしながらも、シオリは少しだけ嬉しそうに微笑んでみせた。
だがプレッシャーが物凄い。
「お願いします!」
「シオリちゃ~ん、いっぱい教えてくださいね?」
にこりと笑って近寄るハナコに、シオリは小さくのけぞる。
「は、ハナコちゃん……目が、なんかこわいよぉ?」
ヒフミは再び姿勢を正して、きりっと表情を引き締めた。
「他の模試も現在作成中です。追って対応していきましょう。これが今、私たちにできるベストです──頑張りましょう!絶対に、みんなで合格するんです!」
力強く、そしてどこか祈るように言い切ったヒフミの言葉に、一瞬の静寂が訪れる。
──その中で。
「ヒフミちゃん……」
ふいに、シオリがぽつりと呟いた。
「? シオリちゃん、何か質問ですか?」
「あのね……ヒフミちゃん。私は──あなたのことを尊敬しています」
「えぇえええええっ!?!?」
突然のストレートすぎる言葉に、ヒフミはまるで打撃を受けたかのように跳ね上がった。顔が一気に赤く染まり、耳まで真っ赤だ。
アズサは無言のまま、ただひとつ瞬きを挟んでヒフミへと視線を向けた。
コハルは目を大きく見開き、まるで魚のように口をぱくぱくと動かしている。
ハナコは「まぁ……」とだけ呟き、口元を手でそっと押さえていた。
「えっ、えっ!? なんでこのタイミングで!? 尊敬!? あ、ありがとうございます……?」
ヒフミは動揺しながらも、戸惑いが混じった笑顔を浮かべて応じる。
その中で、シオリはぽつりと呟いた。
「……人の上に立てる人間って、ヒフミちゃんみたいな人のことを言うんだね……」
言葉を噛みしめるようにして目を閉じると、シオリの長いまつ毛の隙間から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
なんか情緒不安定っす(仲正感)